2024年7月31日水曜日

解離性障害 Q&A 推敲 1

 ①「解離」とは、どのような現象でしょうか?

 「カイリ」という言葉は最近よく耳にするようになっていますが、それを説明することは決して容易ではありません。解離は私たちが特殊な状況で、心や体の状態をスイッチさせることであり、それにより危機を乗り越えることが出来たりします。そこで生じることは実にさまざまで、意識が遠のく、記憶を失う、手足の感覚がなくなる、など、通常の働きが急に抜け落ちるという形をとる場合が多いのですが、時にはどこかから声が聞こえる、自分の口が勝手にしゃべりだす、手足が勝手に動き出す、など心身が勝手に動き出すという形を取ることもあります。解離は意図的に制御することは出来ず、突然始まることが多いため、当人も周囲も戸惑うことも少なくありません。この解離症状には、いわゆる幽体離脱や憑依現象、こっくりさん、多重人格状態、スポーツで見られるイップスなども含まれます。

 解離がどの様な現象かを説明しようとすると、少し抽象的な言い方になりますが、心や体に「自分以外の中心」が現れて心身をコントロールするようになった状態と考えて下さい。なぜそのようなことが起きるかはほとんどわかっていませんが、その中心が手足を麻痺させたり、本人の口を借りて勝手にしゃべったり、幻聴として話しかけてきたりします。
 一時的な解離は催眠や、酒や薬物の使用時に起きることがあります。しかし頻繁に生じ、新たな人格まで形成されるような複合的な解離の場合、しばしば原因として考えられるのが、特に幼少時のトラウマや大きなストレスです。その体験の強烈さが自分の心のキャパシティを超えた時に、このような不思議な現象が起きると考えられています。


2024年7月30日火曜日

解離性障害 Q&A その 4

 多くの場合、当人の持っている解離性障害について知識を持つ友人や同僚が当人に解離性障害の可能性について伝え、最後に当人が自らの体験が解離であることを知るということが生じます。当人は自分の中に起きている不思議な現象を話しても理解されないのではないか、おかしな人と思われるのではないかという懸念から、症状を隠す傾向もあり、そのためこの障害の同定がより難しくなります。
 いったん精神科の外来への受診が開始され、その病状に対する正しい判断がなされたのちには、現在の解離症状が継続したり悪化させている要因が取り除かれる必要があります。現在の居住環境や学校、職場でのストレス因が軽減されることが図られる一方ではカウンセリング等により当人の体験している解離症状についての聞き取りや理解が治療の決め手となることが少なくありません。また解離症状そのものに対して効果を発揮する薬物はありませんが、うつ病や不安障害などの問題を同時に抱えている人にはそれらの症状に対する薬物治療なども行われます。

④家族や友人はどのようなサポートをすることがいいのでしょうか?

 この問いは少し複雑な問題をはらんでいます。もちろん家族や同僚のこの障害への理解は不可欠です。ただし解離性障害が幼少時の家庭環境に根差している場合、家族の存在そのものがストレスとなり、解離性障害を永続化させている可能性があるためです。場合によっては当人を原家族から救い出すための第三者の存在が不可欠であったりします。
 学校や職場では解離症状が起きた時の様子、どのように扱えばいいかについてあらかじめ伝えていた方がいい場合があります。例えば暫く記憶を失ったり、朦朧となったり倒れたりする場合に、すぐに救急車を呼ぶのではなく、しばらく教室や仕事場を離れて様子を見守るなどの対応がもっとも適切であったりします。ただし解離性障害の存在を伝えることで特別扱いを受けてしまう、場合によっては差別的な目で見られてしまうなどのことが生じる可能性もあるため、誰に、どこまで伝えるかは難しい問題もあります。しかし一番親しい友達、職場の上司などには伝えておくことがよい場合が少なくありません。

2024年7月29日月曜日

解離性障害 Q&A その 3

  以上述べたもの以外に、解離性障害の中には離人感・現実感喪失症が掲げられています。これは他の解離性障害と違い、人生のいつかの時点で突然前触れもなく生じ、その後長くその人を苦しめる可能性があります。またこの障害は解離性健忘を伴っていないことも少なくありません。ただ離人感・現実感喪失症は、他の解離性障害の一部の症状としても、あるいはうつ病の症状としても生じることがあります。
 これ以外に従来転換性障害、身体化障害などと呼ばれていたものも、分類によってはこの解離性障害の中に入ってきます。突然足に力が入らなくなったり、耳が聞こえなくなったり、急に言葉が出なくなったり、という症状が比較的多いようです。冒頭で解離の説明として「心や体のスイッチ」が生じる、という言い方をしましたが、それはこのように身体感覚や運動のレベルでも生じることが知られており、それも解離性障害と同類であるという考え方も成り立つからです。これらの症状も、多くはトラウマやストレスをきっかけとして突然生じたり消えたりする傾向にあります。


③解離性障害の治療や対処には、どのようなものがありますか?
解離性障害の対処としては、まず正しい理解と診断を得るということが大切です。解離性障害は決してその診断が難しかったり特別な専門的な知識を必要としているわけではありません。その意味ではほかの精神疾患と同じです。ただし治療者の側に解離性障害という診断を下すことに抵抗があったり、その疾患自体を受け入れがたいということも起きています。その意味では非常に特殊な精神疾患と言えるかもしれません。

2024年7月28日日曜日

解離性障害 Q&A その 2

②解離性障害にはどのような種類がありますか?

 解離性障害のいわば基本形として挙げるべきなのが、解離性健忘です。これは過去の出来事についての記憶(いわゆるエピソード記憶)が思い出せないという状態で、特に精神的なストレスやトラウマが関係した出来事が対象になります。これは特に解離性障害として診断や治療をうけたりしたことのない人でも起き得ます。震災や事故、加害行為の犠牲になった人がそのエピソードの一部を記憶していないということがあります。これらの健忘はいわゆるPTSD(心的外傷後ストレス障害)の症状の一部として生じることもあります。解離性障害にはいくつかありますが、いわゆる離人性障害を除いては、この解離性健忘が複雑な形で生じ、あるいは組み合わされることが一般的です。
 解離性障害の中で最も深刻で、精神科の受診のきっかけとなるのはいわゆるDID(解離性同一性障害、昔の多重人格障害)と解離性遁走です。DIDでは異なる人格が一人の人間の中で形成され、それぞれが自律的に行動を起こし、しばしばお互いの行動を記憶していないということが生じ、自分自身も周囲の人々も混乱します。その背景には幼少時の長期にわたるストレス体験が考えられます。なぜならDIDの患者の多くはすでに幼少時に解離傾向や別人格の萌芽が見られるのが一般的だからです。ただし幼少時の虐待などの経歴が明確に見られない場合もあり、この成立の過程にはまだわかっていないことが少なくありません。DIDの状態は比較的多く生じているようですが、過去にドラマや小説のテーマとして扱われてきました。
 他方の解離性遁走は一定期間の間自分のアイデンティティを失って遠方をさまようという特徴ある症状を示します。我に帰り、あるいは保護されてなんとか帰宅した後も、それまでの自分の来歴を思い出せないということが生じ、時にはその記憶がその後も戻らないということが生じます。

2024年7月27日土曜日

解離性障害 Q&A その1

一般向けのコラムを頼まれたのだが、かなり突っ走った内容になりそうだ。 


①「解離」とは、どのような現象でしょうか?

 解離は私たちが危機的な状況で、心や体の状態をスイッチさせて乗り切るという仕組みです。しかしそれは普通は意図的に起こすことはできません。当人にとっては自然に心や体が切り替わり、痛みを感じなくなったり、意識が遠のいたり、という体験となります。そしてこの解離体験は様々な形をとります。記憶を失う、自分という感覚がなくなる、手足の感覚がなくなる、など、通常の働きが急に抜け落ちるという形をとる場合が多いのですが、時にはどこかから声が聞こえる、自分の口が勝手にしゃべりだす、手足が勝手に動き出す、など心身がコントロールを失ってしまうという形を取ることもあります。いわゆる幽体離脱や憑依現象、多重人格状態などはいずれもこの解離現象と考えることが出来ます。

 解離がどの様な現象かを説明することは非常に難しいのですが、自分の心や体に、「自分以外の自分」が出来て、それが心身を支配するようになる、という現象と考えられています。もう一つの自分が体をコントロールしたり、手足を麻痺させたりして普段の自分はそれに翻弄されてしまいます。時には沢山の自分がそれぞれ人格となって一つの体に共存するということも起きてしまいます。この自分と「自分以外の自分」との切り変わりは実に早いためにそれを最初に「心や体の状態のスイッチ」と表現したのです。

 以上かなり直感的な表現で「解離」について説明しましたが、しばしば原因として考えられるのが、トラウマや大きなストレスです。それが通常の自分の心のキャパを超えた時に、このような不思議な現象が起きると考えられています。しかしそれは催眠にかかったり、酒や特殊な薬物を服用した際にも起きます。


2024年7月26日金曜日

PDの臨床教育 何が「推敲の推敲の推敲」だ!

原稿を仕上げていく中で、次々とわかっていないことが判明してきた。つまり文章を整えるために知らないことが次々と出てくる。こんな文章を付け加えることになりそうだ。いつになったら完成する事やら…・・

 なおICD-11ではこのようなディメンショナルモデルが全面的に展開されているものの、DSM-5の代替案ではカテゴリカルモデルと入り混じって一見込み入った複雑なモデル(いわゆるハイブリッドモデル)となっている。これは両モデルのそれぞれの支持者の間の妥協形成が反映されていて、そこではあたかも10のカテゴリーのうち6つ(すなわち反社会性、回避性、境界性、自己愛性、強迫性、統合失調型PD)が復活したかのようである(※)。これらは虐待やネグレクトとの関連、機能障害の重度ないし持続性、自殺リスクの高さなどの観点から選ばれ、「落選」したのは4つ(猜疑性、シゾイド、演技性、依存性)ということになる。 これらはカテゴリーモデルの復活と見なされかねないが、その診断基準としてはこれまでと一変し、パーソナリティ機能とパーソナリティ特性の両方の障害の基準を満たすことが求められている。そしてこれらを満たさない場合は、「PD,特性が特定されるもの」と診断される。 ではハイブリッドモデルでは、結局カテゴリカルな診断と表面上変わらないのでは、という疑問も呈されるかもしれない。確かに境界PDは境界PDであるが、そこにパーソナリティ機能と特性に関する情報を特定用語として追加できる。例えば「境界性PD,重度のパーソナリティ機能、診断基準に含まれる特性以外に虚偽性、注意喚起を持つもの」となるという。これって複雑すぎはしないだろうか。 (DSM-5を読み解く 5 井上弘寿、加藤敏 p127)
  ※ 2010年のDSM-5ではパーソナリティ機能、パーソナリティ障害タイプ(反社会性/精神病質、回避性、境界性、強迫性、統合失調型)、パーソナリティ特性の3つのディメンションを用いたものだったが、後に自己愛性が加わったという経緯がある。この時点ではジェネリックなPDがあるなし、という診断だったので重複の問題はなかったという。しかしこれが煩雑だという批判があり、2011年にはカテゴリカルな診断基準が復活し、また自己愛性も復活してタイプは6つとなり、ハイブリッドモデルが完成した。

2024年7月25日木曜日

PDの臨床教育 推敲の推敲の推敲 2

 非社会性と制縛性

 ところでICD-11には、非社会性と制縛性というDSM-5にはなかった特性が採用されている。このうち前者はDSM-5の(同調性⇔)対立に類似するものと言えよう。しかしそれらは決して同一ではない。対立とは他者にどれだけ(同調、ないし)反対するか、天邪鬼かという問題だが、非社会性は他者にどれほどの悪意を持っているか、つまり反社会的か、ということである。私は個人的には後者を採用したいが、これはいわゆる反社会性パーソナリティやサイコパスに関するものだからだ。そもそもパーソナリティ障害の始まりは、この犯罪者性格をいかに扱うか、というところから出発していたからである。

 また制縛性anankastia(強迫性 obsessive)は、以前のバージョン(ICD-10)にも収められていた制縛性PDがそのまま特性として登場したものである。「セイバクセイ」とは古めかしい用語だが、強迫性を表すと思えばいい。すなわち完璧主義的で、計画や規則性や順番などに拘る一方では頑固であり、情緒的な表現を抑制するという特徴を持つ。なおこの制縛性はDSM-5の精神病性(⇔透明性)の代わりに採用された形になっている。
 ちなみにDSMの精神病性 psychoticがICDで選ばれなかった理由については、精神病性は他のパーソナリティ障害とは一線を画し、むしろ統合失調症関連としてとらえるべきだからであったとされる(Bach, et al, 2018)。さらには精神病性は、ICD-11では「重度のPD」の特徴の一つとして「しばしば解離状態や精神病様のpsychotic-like 思考や知覚が見られる(例えば極度の被害妄想的な反応extreme paranoid reaction」という記載が見られる。

Bach B, First M. Application of the ICD-11 classification of personality disorders. BMC Psychiatry 2018.

 ただしDSM-5の側では、この制縛性を入れなかったのにもそれなりの理由があるという。制縛性は二つの要素に分かれ、一つは完璧主義(⇔脱抑制)、もう一つは保続(同じパターンを繰り返すこと)だが、だから保続は陰性感情の一つだというのだ(Bach, Sellbom, et al. 2018)。つまり制縛性は思慮深さと陰性感情ですでに表現されているために独立させる必要はないと考えたそうだ。

Bach B, Sellbom M, Skjernov M, Simonsen E. ICD-11 and DSM-5 personality trait domains capture categorical personality disorders: Finding a common ground. Aust N Z J Psychiatry. 2018 May;52(5):425-434.)




 


 最後に表を示す。DSM-5とICD-11 はほぼ一致しているが、異なっている部分は茶色で表示してある。










   DSM-5の特性

  口語的表現(岡野)

      ICD-11の特性

情緒安定性 ⇔ 否定的感情(神経症性) 

プラスの感情 ⇔ 

      マイナスの感情

    (  ⇔)      否定的感情

  外向      ⇔     離脱

                     detachment 

 外向き ⇔ 内向き

     (  ⇔)       離隔 

                                  detachment

同調性          ⇔        対立

 agreeableness                      antagonism

他者に和す ⇔ 他者に          反対する

かわりに?
     (  ⇔)   非社会性 

                        dissociality 

誠実性      ⇔       脱抑制 

conscientiousness            disinhibition 

思慮深い ⇔  衝動的  

      (  ⇔) 脱抑制


透明性       ⇔     精神病性

 lucidity

分かりやすい ⇔ 奇妙 

かわりに? 
       (   ⇔) 制縛性(強迫性)

                      anankastia

  




  ボーダーラインパターンについて

さて特性論に付け加えておかなくてはならないのが、「ボーダーラインパターン」であり、ICDでは5つの特性の次にこれが「特定項目specifier」として、あたかも6番目の特性であるかのように扱かわれている(実際他の特性と同様6D11.  … というコードが与えられている。)

 境界パーソナリティ障害(BPD)はDSM-Ⅲの登場の時から、ある意味ではカテゴリカルな診断基準の代表格として掲げられていた。そして10のカテゴリーの中で一番研究され、また診断されることが多いPDであるために、それを特性に特別に加えた形になっている。それについてICD-11では次のように説明している。「ボーダーラインパターンはこれまで述べた特性、特に陰性情動、非社会性dissociality 脱抑制などとかなりの重複がある。しかしこの特定項目は、特定の精神療法的な治療に反応する患者を同定することに助けとなろう。」

ただしこのボーダーラインパターンはBPD というカテゴリカルな診断の遺物とみなされかねないこと、またこの診断はトラウマにより生じることが多いためにパーソナリティ特性に並べて論じることは適切でないことなどの意見もあったとされる。それでも最終的にICD-11 にこれが加わったことは、異なる識者間の妥協の産物であるという見解もある。
 ちなみにICD-11 で掲げられたボーダーラインパーソナリティの特徴は、DSM-5 におけるBPD の診断基準におおむね準じ、以下のように示されている。

「[ボーダーラインパターンは]それらは以下の9の項目のうち5つを満たす事で示される。現実に、または想像の中で見捨てられることを避けようとするなりふりかまわぬ努力・対人関係の不安定で激しいパターン・顕著で永続的に不安定な自己像や自己感により表されるアイデンティティの障害・非常にネガティブな感情の際に、自己破壊的となる可能性のある行動につながるような唐突な行動を見せる傾向・繰り返される自傷のエピソード・顕著な気分反応性による感情の不安定性・慢性的な空虚感・不適切で激しい怒り,または怒りの制御の困難・情動が⾼まった際の⼀過性のストレス関連性の妄想様観念または重篤な解離症状。」

 ここに示されたとおり、この特定項目だけは、他の特性と異なり、9のうち5つといういわゆるポリセティックモデルを採用している点も特徴的である。しかしICD-11ではこれに加えて、常に存在するわけではないが、と断り以下の特徴をもあげている。

・ 自分を悪く、罪深く、おぞましく、卑劣な存在と感じる。

・ 自分が他の人と底知れぬほどに異質で孤立した存在として体験し、苦痛を伴う疎外感と孤独を感じる。

・ また拒絶に極めて敏感であり、対人関係で一貫した適切な信頼関係を結ぶことが出来ず、しばしば対人に見られる合図の意味を誤読する。


2024年7月24日水曜日

PDの臨床教育 推敲の推敲の推敲 1

    「パーソナリティ症」

 

はじめに

 本稿の主題は「パーソナリティ症(以下PD)の教育の仕方」であり、PDについてのテキスト的な解説でははなく、どのような心構えや配慮のもとに、PDについて若手医師に教育すればいいのかについて述べることが目的である。

 私達は人にあるテーマについて伝える場合、そのテーマの置かれた文脈やそのエッセンスを最初に示すことで、各論の具体的な内容の理解も深まることを知っている。私自身はこのPDというテーマに関するエキスパートを自認することは出来ないが、このテーマにある程度なじみのある先達として、「最初にこの順番で解説してもらえたら、このわかりにくいテーマについての理解が進んだであろう」と思える内容となることを心がけたい。 


PDのエッセンスをどう伝えるか


 まずPDとは精神医学では微妙な立ち位置にあることを示したい。PDはすぐに投薬や入院治療の適応となるような、明白な症状を伴う精神疾患とはいえない。それは通常は正常範囲にあるその人の生き方(考え方、感じ方、人との関係の持ち方)のある種の偏りが、自身や周囲の人に困難をもたらすような状態である。PDはいわば疾患と正常との間に位置するのであるが、しばしば患者自身やその周囲から、あたかも疾患とは対極にあるような扱いを受けることになることも特徴である。

 たとえばAさんについて家族や同僚が「これは彼の持っている病気というよりは、性格ではないでしょうか?」と問う時、それはAさん自身の持つ性質として、治療するというよりは受け入れるべきものではないか、というニュアンスと、Aさん自身がそれを病気のせいにせず、責任を取るべき問題ではないか、という両方のニュアンスを伴うことが多い。 

 PDの研究は精神医学の歴史の中では、気分障害や精神病に付随する形で着手された。1800年代にE.クレペリンは軽佻者、欲動者、奇矯者、虚言者、反社会者、好争者の7つに分類し、K.シュナイダーは類似のものを10提示した。これらがひな型になり代々引き継がれてDSMやICDにおけるPDの分類に引き継がれて行ったのである。

 さて現代的なPDの基礎となったのは1980年のDSM-Ⅲに掲げられた10のカテゴリーであり、いわゆるカテゴリカルモデルの雛型となった。私は米国でのレジデント時代に、「PDはmad, bad, sad」と教わった。つまりそこには患者の思考、対人関係、感情の在り方の三つが反映され、それがA、B、C群に該当する。A群はスキゾイドPDなどの様に思考過程の特異性を伴ったもの、B群は境界性PDや反社会性PDのように対人関係に問題を抱えたもの,そしてC群は回避性PDなどの、感情面での問題を抱えたPDということになり、これらはそのままDSM-5(2013)にも踏襲されたのだ。

 ただしその間にこのカテゴリーモデルについては様々な問題が指摘されるようになっていた。たとえば特定のPDの診断基準を満たす患者は、しばしばほかのPDの基準も満たすという診断の重複の問題(DSM-5,p755)という問題や、上述の10のカテゴリー分けには十分な根拠がない、という批判である(Bach)。実際にシゾイドPDについては、それと発達障害との区別はますます難しくなってきた。また統合失調型 schizotypal PDはDSMでは統合失調症スペクトラム障害へも分類されている。また自己愛性PDについては、その人が置かれた社会環境により、後天的、ないしは二次的な障害としても理解されつつある。ただしその中で境界性PDは着々とその臨床研究が積み重ねられてきている。

 
カテゴリーモデルからディメンショナルモデルへ


 DSM-5ではこれまでの10のPDのカテゴリーを表向きは維持しつつ、同時に掲げられた代替案では大きな方針変換が示された。それはディメンショナル(次元)モデルと呼ばれ、いわばジェネリックな一つのPDを掲げて、それが「あるか、ないか」を指定するという形をとる。こうすれば診断の重複は生じず、その機能レベル(重症、中等度、軽症)の判断に診断者間のばらつきが出る程度である。そしてICD‐11(2022)ではこちらのモデルが正式に採用されたのである。 

 ジェネリックなPDはいくつかの自己の側面の機能と対人機能のいずれかに障害があるものとして定義される。自己機能とは、自分とはだれかというアイデンティティの感覚や自己肯定感、将来への志向性の有無などであり、また対人機能とは、他者と親密な関係を持ち、他者を理解し、対立に首尾よく対処できるということだ。そしてDSM-5では障害の中等度以上がPDと見なされる(軽度以下の場合は「パーソナリティの問題と呼ばれる)。



パーソナリティ特性について


 次にパーソナリティ特性について論じる。ディメンショナルモデルでは、ジェネリックなPDに何らかの特徴を指定することになっている。ちょうどこれまでは10種類のそれぞれ異なるソフトクリームを発売していたが、これからバニラ味に統一した上で、そこに一種類以上のフレバーを指定するようになったようなものである。そしてそのフレバーならぬ特性としてDSM-5では否定的感情、離隔、対立、脱抑制、精神病性。ICD-11では否定的感情、離隔、非社会性、脱抑制、制縛性の5つを提示している。

 ディメンショナルモデルに馴染みなない人は、この5つの特性に多少なりとも戸惑うはずだ。いきなり「脱抑制」と言われても何のことかわからないだろう。とくにDSM-5ではその対立概念が掲げられていて、「脱抑制とは誠実性の反対だ」とされているが、何のことかわかりにくい。つまりこれらの特性はその意味を理解していない限りは、直感的にその人の性格を理解しがたいであろう。それが「あの人は自己愛的だ」「あの人は反社会的だ」という風に直感的に理解できるカテゴリカルモデルとの相違である。

 その理由としては特性についての議論は一般心理学において人の性格を類型化しようと因子分析を行った研究を背景にしているからであり、これらの特性も学問的に洗練されているものの臨床的な直観と解離しているからなのである。

そこでDSM-5に掲げられた5つの特性を取り上げ、以下にかみ砕いて解説しよう。

1.情緒安定性 ⇔ 神経症性(否定的感情) 

 これは普段から気持ちが安定していて落ち着いているという傾向か、その反対に情緒不安定で、怒りや悲しみなどの負の感情を体験しやすいという傾向か、という対立軸である。ここで「否定的感情」のかわりに「肯定的感情」を考えたなら、喜びや安心感ということになるが、それらを体験している人は結局は「物事に動じず、情緒が安定している人」ということだ。そして情緒不安定性を神経症傾向と言い換えているわけであるが、そのような背景を知らなければ分かりにくいであろう。


2.外向性 ⇔ 内向性(孤立傾向)

人と交わることを好むか、孤立を好むかという対立軸で、これは比較的わかりやすいであろう。これは1.肯定的、否定的感情の問題とは別の性質であり、感情的な起伏の大きい人が同時に寂しがり屋で他人を巻き込む場合(外向性+神経症性)などもあり、かなり周囲に影響を及ぼすことになろう。また他方では人とはあまり交わることを好まず、一人での活動で充足するケース(内向性+情緒安定性)もあり、この1,2はその意味では独立変数的に扱えることになる。

3.同調性 agreeableness ⇔ 対立 antagonism

これは言うならば人と和する傾向にあるか、それとも対立するかという対立軸である。ただしこれについては次のような疑問が生じてもおかしくないかも知れない。「人と同調しやすい人は、外向性も高いということになりはしないか?」「孤立がちな人は、人と和する傾向がそれだけ低く、より対立的と言えないだろうか?」すなわち2,3はある程度相関があるとも考えられる。

4.脱抑制 disinhibition ⇔ 誠実性 conscientiousness

 これが一番わかりにくい対立軸かも知れない。脱抑制的な人は思い付きで行動し、自由でかつ唐突な感情表現をする傾向にあり、その意味では衝動性とも深くかかわるであろう。他方「誠実」な人とは周囲に気を遣い、所属集団のルールを守るという傾向を有する。ちなみにこの後者のconscientiousness は「誠実性」と和訳が当てられているが、「思慮深さ」や「入念さ」というニュアンスの方がより近いと考える。

5.精神病性 ⇔ 透明性 lucidity 

 これも用語としては分かりにくいであろう。精神病性とは奇抜さや奇妙な思考を意味する。そしてそれに対立する透明性とは lucidity の訳であるが、これは殆ど誤訳に近いと言えよう。lucid とは英和辞典では「わかりやすい」「明快な」という意味もある。つまりこれは明快で誰にでもその理屈が分かりやすい、という意味では「明快さ」がより適切な訳語と言える。


2024年7月23日火曜日

PDの臨床教育 推敲の推敲 6

  さて特性論で付け加えておかなくてはならないのが、「ボーダーラインパターン」であり、ICDでは5つの特性の次にこれが「特定項目specifier」として、あたかも6番目の特性に準ずる物の様に扱かわれているのだ。(そして他の特性と同様6D11.  … というコードが与えられている。)

 境界パーソナリティ障害(BPD)はDSM-Ⅲの登場の時から記載されており、ある意味ではカテゴリカルな診断基準の筆頭に置かれており、10のカテゴリーの中で一番研究され、また診断されることが多いPDのために、それを特別に加えた形になっている。そしてICD-11では次のように述べている。「ボーダーラインパターンはこれまで述べた特性、特に陰性情動、非社会性dissociality 脱抑制などとかなりの重複がある。しかしこの特定項目は、特定の精神療法的な治療に反応する患者を同定することに助けとなろう。」

ただしこのボーダーラインパターンはBPD というカテゴリカルな診断の遺物とみなされかねないこと、またこの診断はトラウマにより生じることが多いためにパーソナリティ特性に並べて論じることは適切でないことなどの意見もあったとされる。それでも最終的にICD-11 にこれが加わったことは、異なる識者間の妥協の産物であるという見解もある。ちなみにICD-11 で掲げられたボーダーラインパーソナリティの特徴は、DSM-5 におけるBPD の診断基準におおむね準じ、以下のように示されている。

「ボーダーラインパターンが特定されるのは、パーソナリティの障害が対人関係、自己像、感情の全般にわたる不安定なパターンや顕著な衝動性により特徴づけられる場合であり、それらは以下の9の項目のうち5つを満たす事で示される。現実に、または想像の中で見捨てられることを避けようとするなりふりかまわぬ努力・対人関係の不安定で激しいパターン・顕著で永続的に不安定な自己像や自己感により表されるアイデンティティの障害・非常にネガティブな感情の際に、自己破壊的となる可能性のある行動につながるような唐突な行動を見せる傾向・繰り返される自傷のエピソード・顕著な気分反応性による感情の不安定性・慢性的な空虚感・不適切で激しい怒り,または怒りの制御の困難・情動が⾼まった際の⼀過性のストレス関連性の妄想様観念または重篤な解離症状。」

 ここに示されたとおり、この特定項目だけは、他の特性と異なり、9のうち5つというポリセティックモデルを採用している点も特徴的である。しかしICD-11ではこれに加えて、常に存在するわけではないが、と断り以下の特徴をもあげている。

自分を悪く、罪深く、おぞましくdisgusting 卑劣なconptemptible 存在と感じる。

A view of the self as inadequate, bad, guilty, disgusting, and contemptible.

自分が他の人と極めて異なり隔絶された人間のように感じ、苦痛を伴う疎外感と孤独を感じる。An experience of the self as profoundly different and isolated from other people; a painful sense of alienation and pervasive loneliness.

また拒絶に極めて敏感であり、対人関係で一貫した適切な信頼関係を結ぶことが出来ず、しばしば対人間の兆候を誤読する。Proneness to rejection hypersensitivity; problems in establishing and maintaining consistent and appropriate levels of trust in interpersonal relationships; frequent misinterpretation of social signals.


2024年7月22日月曜日

PDの臨床教育 推敲の推敲 5

 DSM-5とICD-11の相違

ところで先ほどDSM-5とICD-11の違いについて触れたが、少し説明が必要であろう。たとえばDSM-5の同調性⇔対立という軸はICD-11では見られず、それと多少なりとも類似したものとして (好社会性⇔)非社会性が入っている。これらは似てはいるものの、同一のこととは言えないであろう。前者(DSM-5)は要するに人とどれほど対立するか、という問題だが、後者(ICD‐11)は人にどれほどの悪意を持っているか、つまり反社会的か、ということである。敢えて言うならば、同調性⇔対立 はどれだけ他者に合わせるか/天邪鬼か、ということの表現であるのに対して、好社会性⇔非社会性は、どれだけ人を喜ばせるのが/苦しませるのが、好きか、ということになる。これらを両方採用するとビッグ5ならぬビッグ6になり、煩雑になる。ただし私は個人的には後者の方が特性としてよりふさわしいように思う。なぜならこれはいわゆる反社会性パーソナリティやサイコパスに関するものだからだ。そもそもパーソナリティ障害の始まりは、この犯罪者性格をいかに扱うか、というところから出発していたからである。

 そしてDSM-5とICD-11のもう一つの相違点で悩ましいのが、前者の精神病性⇔透明性に対して後者で採用された(⇔)制縛性(強迫性)anankastia である。だいたい「アナンキャスティック」なんて表現、ものすごく古い用語なのだ。「セイバクセイ」という表現も、ワープロ変換されないし、日常語としてはほとんど聞かない。だからせめて「強迫性 obsessive」くらいにしてくれないだろうか。
 ちなみにDSMの精神病性 psychotic の代わりにこちらが選ばれた理由についてはある文献に以下のように記されている。それによれば精神病性は他のパーソナリティ障害とは一線を画し、むしろ統合失調症関連としてとらえるべきだから敢えて選択しなかったというのである (Bach, et al, 2018)。さらには精神病性は、ICD-11では「パーソナリティ障害の深刻さ」のなかに現れるのだ。確かにICD-11の最終的なテキストには深刻なPDの例として「しばしば解離状態や精神病様のpsychotic-like 思考や知覚が見られる(例えば極度の被害妄想的な反応extreme paranoid reaction」という記載が見られる。そこで精神病性の代わりに強迫性を入れるということになったらしい。

Bach B, First M. Application of the ICD-11 classification of personality disorders. BMC Psychiatry 2018.

しかしDSMの側では、制縛性(強迫性)を入れなかったのにもそれなりの理由があるという。制縛性(強迫性)は二つの要素に分かれ、一つは完璧主義(⇔脱抑制)、もう一つは保続(同じパターンを繰り返すこと)だが保続は陰性感情の一つだというのだ。制縛性は思慮深さと陰性感情ですでに表現されているのだという。だから独立させる必要はないと考えたそうだ。しかし保続が陰性感情という説明は私には今ひとつピンとこないので、これについては意見は述べられない。


2024年7月21日日曜日

PDの臨床教育 推敲の推敲4

 パーソナリティ特性について

 さてここからはパーソナリティ特性の問題についての解説だ。ディメンショナルモデルでは、まずPDをジェネリックなものとしてまとめ一つにしてしまい、それのあるなし、をまず示すということになったが、これは大胆な発想といえる。しかしそこに何らかの特徴を指定することになっている。ちょうどこれまでは10種類の、それぞれが色々なフレバーを含んだソフトクリームを発売していたが、これからバニラ味に統一して、そこに一種類以上のフレバーを指定するようになったようなものである。そしてその特性として挙げられるのが、DSM-5では否定的感情、離隔、対立、脱抑制、精神病性。ICD-11では否定的感情、離隔、非社会性、脱抑制、制縛性の5つだ。両者は一見同じような5つをしているようだが、よく見ると3つを除いて少し異なっている。しかしここではそれに触れないでおこう。

ディメンショナルモデルに馴染みなない人は、この5つの特性に多少なりとも戸惑うはずだ。いきなり「脱抑制」と言われても何のことかわからないだろう。とくにDSM-5ではその対立概念が掲げられていて、脱抑制⇔誠実性しかもその対立概念が「誠実性」だ、つまり脱抑制とは誠実性の反対だと言われても当惑するばかりであろう。つまりこれらのフレバーはその意味を理解していない限りは、直感的にその人の性格を理解することには役立たないであろう。例えば「あの人は自己愛的だ」「あの人は反社会的だ」「冷たい人だ」というような直感的に分かるフレバーとは言えないであろう。

しかし一般心理学において人の性格を類型化しようと因子分析を行った研究の先駆けとしては、Raymond Cattelはそれよりも多くのものを考え、Hans Eysenck は3つを考えたという。しかし結局は5つに集約され、それらの「因子」として浮かび上がってきたのが、いわゆるビッグファイブと言われるこれらの因子だったのである。


ここでDSM-5の5つの特性を取り上げ、以下にかみ砕いて解説しよう。


1.情緒安定性 ⇔ 神経症性(否定的感情) 

 これは普段から気持ちが安定していて落ち着いているという傾向 ⇔ 情緒不安定で、怒りや悲しみなどの負の感情を体験しやすいという傾向である。ここで「否定的感情」のかわりに「肯定的感情」を考えたなら、喜びや安心感ということになるが、それらを体験している人は結局は「物事に動じず、情緒が安定している人」ということだ。この情緒安定性 ⇔ 神経症性(否定的感情) は比較的わかりやすい特性である。しかし情緒不安定性を神経症傾向と言い換えている点は多少分かりにくいであろう。


2.外向性 ⇔ 内向性(孤立傾向)

人と交わることを好むか、孤立を好むかという対立軸で、これもわかりやすい。そしてこれは1.肯定的、否定的感情の問題とは別の話だ。感情的な起伏の大きい人が他人を巻き込む場合には、かなり迷惑な存在になるだろう。他方では人とはあまり交わることを好まず、一人での活動に満足する人もいるであろう。だから1,2を独立変数的に扱うことに問題はないであろう。

3.同調性 agreeableness ⇔ 対立 antagonism

人と和するか、それとも対立するかという軸であるが、これについては次のような疑問が生まれるであろう。「人と同調しやすい人は、外向性も高いということになりはしないか?」「孤立がちな人は、人と和する傾向がそれだけ低く、より対立的と言えないだろうか?」すなわち2,3はある程度相関があるのではないだろうか。

4.脱抑制 disinhibition ⇔ 誠実性 conscientiousness

実はこれが一番わかりにくい気がする。脱抑制的な人は思い付きで行動し、感情表現をする。衝動的、と言ってもいい。「誠実」な人はルールを守り、周囲に迷惑をかけないという意味であろう。ところでこの後者のconscientiousness を「誠実性」と訳しているわけだが、もっとピッタリなのは「思慮深さ」ではないだろうか。あるいは入念さと言ってもいい。

5.精神病性 ⇔ 透明性 lucidity 

これも用語としては分かりにくいであろう。精神病性とは奇抜さや奇妙な思考を意味する。そしてそれに対立する透明性とはlucidity の訳であるが、これは殆ど誤訳に近いと言える。lucid で英和辞典を引くと、1澄んだ,透明な.の2頭脳明晰な.の次に3わかりやすい,明快な.とある。つまり明快で誰にでも理屈が分かるという意味だ。だから「明快さ」がより適切な訳語と言える。


2024年7月20日土曜日

守秘義務について 4

  守秘の問題で扱わなくてはならないもう一つの問題は、援助者の側の不安である。心理士の場合に特に顕著かも知れないが、面接中に強い自殺念慮を訴えた患者さんを前にした治療者の不安や心細さは計り知れない。特にその施設で他に援助を求めることが出来る同僚がいない時などは孤立無援の気分を味わうだろう。一つ確かなのは、少なくともそのようなケースは一人で抱えるにはあまりに負担であるということだ。出来るだけ上司、スーパーバイザー、同僚、場合によっては患者の家族などとの連携をあらかじめ持っておき、一人で孤立することを避けるべきであろう。その意味でもそのような問題が起きかねないケースではサポート体制を充実させておくことがとても大事であろうと思われる。  外部を交えたサポート体制が必要なもう一つの理由は、一人では患者への同一化が過剰に生じ、客観的な判断が出来ない可能性があるからだ。たとえば「母親の暴力の話をしたら大変なことになる、殺されるから絶対にしないでほしい。」と訴える子供がいたとする。治療者がその子供に共感し、ある種の同一化を起こすと、このことを児相に伝えなどしたら本当にこの子の身に危険が及ぶと思うかもしれない。しかしそれは実は母親が子供に行っている洗脳の一部である可能性が強い。CPTSDなどが生じる過程を考えればわかる通り、子どもが虐待者に囚われの身になっている状態では、その子に正常な判断をする力は低下しており、その子に同一化している治療者にも同様のことが生じている可能性がある。しかし外部の誰かがその子を救い出さなくてはならない。そして治療者はその外部性の一部を失いかけている可能性がある。治療者が患者と一対一の関係でその外部性を保つためには、そのまた外部の人が必要だ。これは「心的現実」とは全く逆の発想である。  

2024年7月19日金曜日

PDの臨床教育 推敲の推敲3

 そこでDSM-5代替案では、大きな方針変換がなされた。それはジェネリックな一つのPDを想定し、それが「あるか、ないか」を指定するという形にしたのだ。こうすれば診断の重複は生じようがない。せいぜいその機能レベル(重症、中等度、軽症)の判断に診断者間のばらつきが出る程度である。

ジェネリックなPDは自己のいくつかの側面の機能 functioning of aspects of the self と対人機能 interpersonal function に障害がある事だ。自己機能の障害とは、自分とはだれか、と言うアイデンティティの感覚であり、自己肯定感、将来への志向性の有無などであり、また対人機能の障害は、他者と親密な関係を持ち、他者を理解し、対立に首尾よく対処できるということだ。ちなみにICD-11 も同様の方針を取り、両者とも自己機能の障害と対人機能の障害のどちらか一方でもあればPDがあるとみなすことになっている。そしてその障害がDSMだと中等度以上、ということになる。ICDだとこれが軽度、中等度、重度と3段階になっていて、それ+一つ以上の特性の問題がなくてはならない。またICDだと、軽度以下の場合は「パーソナリティの問題 personality difficulty」と表記し、それを問題とはしない。

 ところでこのディメンショナルモデルの導入の背景には、いわゆるRDoC(Research Domain Criteria 研究領域基準)の問題が絡んでいたことも付け加えたい。RDoCは NIMHのThomas Insel 所長により導入された。彼は精神疾患は複雑な遺伝環境要因と発達の段階によって理解される脳の神経回路の異常により起こるという仮説のもとに、精神科医は対症療法的で行き当たりばったり的であり、脳科学的なエビデンスに基づく研究をしていないと批判し、精神疾患の根底にある原因を探らずに症状の軽減だけを目指す研究には、資金を提供しない意向を明らかにしたという(Nature ダイジェスト Vo..11 No.6 News 「精神疾患の臨床試験の在り方を見直す動き」から) Insel 氏はまたDSMが精神医学の聖典扱いされて、それに従わないと研究の資金も得られないという傾向への不満があるらしい。精神医学の基礎研究のためにはDSM的な用語や概念に縛られない必要があり、もっと研究向きの基準を作るべきだとInsel 氏が考えて作られたのが先ほどのRDoCである。


2024年7月18日木曜日

守秘義務について 3

 守秘について色々述べたが、私が最終的に至っている考えをお伝えしたい。

先ず自傷他害の恐れがあるため守秘義務を破って通報を行った際、そこで治療関係が崩れるとは必ずしも限らないということだ。昔自殺の計画を持っている患者さんについて地元の警察に連絡をしたことがあり、その方は入院となったが、それから10年以上たつ治療関係の中でその人がそれを恨みに思っているという印象は全くない。その際通報する必要があることを伝えることは誠意をもって伝えたつもりである。
 あるいは患者さんとの話から、通報の義務が生じそうになった時に、自傷他害の切迫した恐れについて知った場合は家族や保護義務者に伝える必要もあることをリマインドしたことが何度かあるが、それで悲劇が起きたことはない。(例えば実際に自傷他害の強い恐れがある場合、私に通報をされることを恐れて言わず、そのあと実行に移されてしまったこと、など。)このような行為は治療者が自分の身を守るためにすることだ、と言われるかもしれないが、治療者として従わなくてはならないルールを告げることは治療者自身を守るうえでも大切である。

あくまでも治療関係がしっかり維持できていればこの問題を両者で克服できることが多いように思うのだ。

 もう一つ思うのは、報告義務は社会と本人を守るもの(ただし後者については本人の自覚はかならずしもない)のに対して守秘は患者のプライバシーや治療関係を守るものであり、しばしば矛盾するという事実を、出来れば患者と共に受け入れる事であろう。報告をすることで治療関係が壊れることを覚悟することもそれに含まれるが、上記の通り、必ずしも報告がすべてを台無しにするわけではないということだ。

このように患者さんが一時的に自傷他害の危機に陥っている場合の介入は、それが一時的な影響で済んでいる場合(例えば暫くの間の入院治療、休職し療養すること、場合によっては退職せざるを得なくなることなど)は、まだ扱いやすいと言える。問題は以下のような場合だ。


 それは加害的な人が同時に保護者でもある場合である。子どもにとっての親、成人にとっての配偶者等は、その存在との関りを絶つこともまた別の意味でトラウマとなる可能性がある。フェアバーンの bad object is better than no object (悪い対象でもいないよりはいい)とは確かにその通りなのだ。だから児相の介入、DVシェルターの活用には大いに意味があると言えよう。しかしそれがどの程度長期的な影響を及ぼすことが出来るか、それが問題なのだ。そしてその場合出来る範囲で少しずつ加害―被害関係を改善していくしかない場合が多い。


2024年7月17日水曜日

PDの臨床教育 推敲の推敲2

  1800年代にクレペリン、シュナイダーなどにより精神医学が整備された際に、彼らは人格障害の分類にも着手した。例えばクレペリンは軽佻者、欲動者、奇矯者、虚言者、反社会者、好争者の7つに分類し、シュナイダーは類似のものを10個提示した。結局これらがひな型になり代々引き継がれてDSMに至ったと考えればいいだろう。

 DSM-Ⅱ(1968)まではシュナイダーやクレッチマーのモデルに類似したものだったが、DSM-Ⅲでは精神分析におけるBPDや自己愛性格の理論を背景に、これらを含んだ独自の10のひな型が提示されていた。例えばボーダーライン(BPD)や反社会性パーソナリティ障害と聞くと、比較的直ぐに「あ、ああいう人か?」と思い浮かぶようなネーミングが施された。そしてこの10のひな型はそのままDSM-5(2013)にも踏襲されたのだ。ただし精神医学の内部でもこのPDの分類には様々な問題が指摘されるようになっていた。 それをDSM-5自身から引用するならば、「特定のPDの診断基準を満たす典型的な患者は、しばしばほかのPDの基準も満たす。同様に患者はただ一つに一致することは少なく、結局特定のPDに分類されてしまう。(p755)」
 これは言葉を変えればジェネリックなPDのようなものがあり、それに該当するか否か、あるいはそれはどの程度深刻なのかについて考える方が理にかなっているということになる。

 さてもう一つ取りざたされるのは、10のカテゴリー分けにエビデンスがない、という批判である(Bach)。 もっとも筆頭にあげられるべきBPDはいったん置いておこう。従来それと同列に扱われることも多かったスキゾイドPDについては、それと発達障害との区別はますます難しくなってきた。スキゾタイパル、スキゾフレニフォルムなどはDSMでは統合失調症性のものとして改変されている。また自己愛性PDについては、それが置かれた社会環境により大きく変化して、あたかも二次的な障害として生まれてくる点で、従来定義されているPDとは異なるニュアンスがある。

 ということで結論から言えば、DSMの10のカテゴリーの少なくとも一部についてはあまり信憑性もなさそうというのが実感なのである。私は個人的にはカテゴリーモデルを捨てきれないが、その候補として残るのは恐らくBPD,NPD,反社会性、回避性くらいということになり、これはまさしくDSM-5 の代替モデルで最終的に提唱されたカテゴリーに近いということになる。

ただしその中でしぶとく生き残るのがBPDなのだ。


2024年7月16日火曜日

守秘義務について 2

 私達臨床家を最も悩ますのは、実はケース報告の件であろうと考える。それは仲間内での勉強会や学術集会、学会などで症例を検討し、また自らの臨床経験を症例を用いつつ論文化することは、私達にとってあまりになじみになっているからだ。おそらくそれなくして多くの私たちの活動は成り立たなくなるとも言えるであろう。精神療法に関するあらゆる学会活動はそのベースに臨床報告があり、その教育的な意味は極めて重要であることは疑いもないことである。  もちろん患者との臨床体験は一言も口外せずに黙々と臨床活動を続けることは不可能ではないであろう。そのような人は臨床報告の場に出席することもよしとしないであろう。自らのケースについて一切口外するべきでないという方針を守っている臨床家が、他の臨床家のケース報告には平気で出席することは明らかに矛盾しているからだ。  しかしそのような人でも研修の段階で多くの症例報告から学び、また実際に臨床を始める際にはスーパービジョンが欠かせなかったはずだ。何らかの形で第三者とケースについてディスカッションをして助言を得ることは、その人が一人前の臨床家となる上で必須であろう。そして患者の側も、自分の前に座るセラピストが、それまで自分の扱ったケースについて誰にも報告せず、したがって誰からの助言を得たことはないと知ったならば(もちろんそのようなことが現実に可能かどうかは別として)それはそれでとても不安ではないだろうか。  私も自分自身が分析を受けた経験から言えることであるが、自分との治療関係について私の分析家が、その治療の質の向上の為にどこかで話していることは恐らくあるであろうと思っていた。そして分析が始まるにあたって、敢えて私との治療内容は一切口外しないで欲しいと約束をして欲しいとも思わなかった。(と言うより分析家も一切そのような話はしなかった。何しろ1990年代、遠い昔のことである。)  もちろん私は分析家に私とのことについて誰にも話して欲しくないという気持ちは心のどこかにあったが、そのようなことはあまり考えないようにしていたという方がより正確であろう。ただ一つ避けて欲しいのは、私との治療の内容が、第三者から見て明らかに私のことであるという形で公表されては困るということである。たとえ私が読めば明らかに私のことだとわかるとしても、第三者には分からないという書き方をして欲しいと考えた。  このように考える私は、症例報告に関する同意を求めるということについてもとても微妙な気持ちを持つ。それが倫理的にベストのこととも思えないからだ。いくらケースが終了した場合でさえ、患者の側からは「それはやめて下さい」とは言いにくいものだ。つまり(元)患者にとってそれは自由な選択ではないのである。  ちょうど新薬の開発などで治験が必要になるように、人はある種の個人的な犠牲を払って社会全体の為に貢献するということは不可避であろう。

2024年7月15日月曜日

守秘義務について 1

クリストファー・ボラス、デイヴィッド・サンデルソン著、筒井亮太、細澤仁訳 心の秘密が脅かされるとき 創元社 2024年」という著書の言わば書評のようなものを用意する必要があり、これを読んでいる。最初はとっつきにくかったが、だんだん見えて来たのは以下の内容である。  まず英国の精神分析家クリストファー・ボラスについてはいいだろう。「対象の影」などの著作で知られるが、筋金入りのフロイディアンという印象がある。そして彼が一貫して述べているのは、精神分析家は徹底して守秘義務を守るべきであり、「犯罪となりうる事態を前にしても沈黙を維持する」(p.56)とまで言う。  私がボラスの論述に感じるのは、精神分析こそが他のどの様な関りにも見られないような特徴を持っていて、分析家―患者の関係は特権的で、特別なもの、聖域に置かれたものであり、あらゆる外的な侵入に制限されることのないものであることというニュアンスである。(これはかなり自己愛的だ。)  そこで追及されることはあくまでも「心的現実」であり、それが実際の現実にどの程度照合されるかということはもとより重要ではないという考え方だ。ボラスは「被分析者の『心的現実』は他の一切に優先される」(p.56)) という。 これはフロイトが性的外傷説から誘惑説に移った時のスタンスをどうしても彷彿させる。すなわち性的外傷が実際に起きたかどうかよりも、それがどの様な心の現実を生んだのかが問題とされる。そこでは患者は絶対的な秘匿性が保証されていなければ、心の奥底にある罪深さや恥の感覚を呼び起こすような空想について話せないであろうというわけです。もし患者が誰かに対する殺害空想を持っていたとしても、それを話すことで通報されてしまうことがわかっていたら、そのようなことは話せないであろうというわけだ。  ボラスの姿勢は決して新しいものではなく、往年の分析家たちが主張してきたことである。そこには精神分析と精神医学の対立、精神分析が医学化されることへの抵抗などといった問題が最近忘れられようとしていることへの懸念が表明されているのだ。  しかし私はいくつかの素朴な疑問を抱く。そしてそれは何よりも私が「精神分析家」らしくないからであろうが。まず自傷他害の恐れがない限り公開されないという条件によりそれほど脆く崩れるのだろうか、という疑問がある。私達の多くは自傷他害の恐れがないであろうし、だから精神分析家に何を言っても通報されることはないと思うだろう。しかしそれなら何でも自由に話せるかといえば、決してそんなことはない。私達が心を開かないのは、それが外部に漏れるからではない。目の前の他者(分析家)に自分のプライベートな部分が知られることへの抵抗なのである。そしてそれは私のプライベートな部分が自傷他害と関係しているからでは決してないのだ。


2024年7月14日日曜日

PDの臨床教育 推敲の推敲1

  本稿のテーマはあくまでも「パーソナリティ症(以下PD)の教育の仕方」であり、概念設定をし、具体的に書くというご要望にお応えするものである。つまりPDとは何か、というテキスト的な解説でははなく、どのような注意や配慮のもとに、PDとは何かを若手医師に教育すればいいのか、ということである。

 私達は人に何事かをレクチャーする時、そのテーマの具体的な内容よりは、まずそのテーマの本質やそれが置かれた歴史的な背景について説明することを心がける。つまり各論よりはまず総論を示すということであるが、さらにそれを学ぶ若手の精神科医におさえて欲しいエッセンスについて書くのが本稿の趣旨ということになる。どこまでそれに沿った内容を書くことが出来るかはわからないが、以下にそれを展開することにする。

 私としては最初はあまり基礎知識がない初学者に対して語るつもりで書いてみることにする。しかしそれは私がこのテーマのエキスパートというわけではないにしても、多少なりとの先達としての私の立場からは、「最初から解説してもらえたら、このわかりにくいPDというカテゴリーに対してもう少し早くから親しみを持つことが出来たであろうという」と思える内容を書き綴ることになる。 


PDのエッセンスとは何か
 まずPDとは精神医学では微妙な立ち位置にある。すぐに投薬や入院治療の適応となるような、明白な症状を伴う精神疾患ではない。それはその人の生き方(考え方、感じ方、人との関係の持ち方)のある種の偏りが、その人の生き方を難しくしたり、周囲の人を困らせたりする傾向である。要するにその人の「性格」の問題というわけだが、これは患者やその家族からも聞かれる言葉でもある。

「これは彼の持っている病気というよりは、性格ではないでしょうか?」

と問われる時、それは本来その人が持つ性質として、治療するというよりは受け入れるべきものではないか、というニュアンスと、その人自身が責任を取るべきではないか、という両方のニュアンスが伴うのである。つまりは治療ではなく、責任が問われ、適切な処遇を受けるべきものという意味である。そしてそれはPDは多くの人にとって正常範囲で見られる生き方の特徴についてその程度がやや行き過ぎたものとしてとらえるという意味も含まれる。

 さて現代的なPDの基礎となったのは1980年のDSM-Ⅲに掲げられたPDであるが、上に「生き方」として考え方、感じ方、対人関係の三つをあげたが、それはそこに上手く反映されていた。そこではA,B,C群に分かれ、私は米国でのレジデント時代に、「PDはマッド、バッド、サッドだ」と教わった。A群はmad,B群はbad,C群はsadに分かれると教わった。と。A群はスキゾイドPDなどに象徴される思考過程の特異性を伴ったPD、B群はBPDや反社会性などの対人関係に問題を抱えたPD,そしてC群は回避性PDなどの、感情面での問題を抱えたPDということになる。