このテーマをもう少し続けるが、「怒りの芽」がなぜ大切かについては、私の個人的な体験を説明するとわかりやすくなるだろう。(このままだときっと誤解を生んだままである。)私のように「気弱」で優柔不断だと、人から何かを頼まれるとそれに流されやすい。限界を設けること、つまり「ここまでにしましょうね」と言うことはどちらかというと苦手で、普段はある種のきっかけが必要だ。そしてそれはある種の感情的な反応である。手短に言えば、相手に対して怒ってしまえばどんな切り方も出来てしまうのだ。知り合いと縁を切る、などという物騒なことは、若いころはいざ知らず最近では自分から仕掛けたことはほとんどないが、もしそうするきっかけがあるとしたら、相手の不誠実さに腹が立った時である。そうすると優柔不断な自分の人格が別人格に変わってしまう感じである。
でも逆にいえば、相手に不誠実さがないのに縁を切るということは普通は起きないということになる。もし知り合いの誰かが何かをきっかけにして世間から石もて追われる身になったら、むしろできるだけ援助したいという立場である。
私は人はいい方だから、何かを頼まれ、その人がまっすぐな人で、まっすぐな頼み方をしてきたら、私は一肌脱ぎましょう、という気になる。大抵は若干だが安請け合いの傾向すらあり、後で苦労したりする。ところが相手の態度や言動に不誠実さが感じられ、「え、それっておかしくない?」と思えてくると、その人にかかわっていることがむなしくなり、むしろ自分の方が大事、という感じになる。
もちろん相手の不誠実を感じるこちら側の自己欺瞞もあるだろう。だからあくまでも私が主観的にどう感じるかということが問題となっているのだ。そしてその際の怒りの源泉は、自己愛的なもの、セルフィッシュな感情だ。つまり相手に侵害された、時間を無駄にされた、利用されたという感覚である。これらにより生じる感情は、怒りそのものではないにしても、そのバリアントと理解している。
怒りないしは「怒りの芽」により相手を拒絶できると言ったが、実際にはそれらの感情に至る前に相手と距離を取り始めていることがむしろ多いかもしれない。ここで受けてしまうと「怒りの芽」がでてしまうなと感じると、最初から拒絶や限界設定を考えるという風にしている。でもやはり自分の(想像上の)感情を決め手に使っていることには変わりはない。
もちろん限界設定には、私自身のパーソナルスペースを必ずしも脅かさないものもある。しかしある行動や要求を許容することが、ある種の社会のルールや、物事の限度を破ることになると、それによる不快感は私の個人的な不快感とあまり変わらなくなって来る。
ここで改めて強調したいのは、「怒りの芽」は非常に主観的で、それ自身の正当性を客観的には証明できないようなものだということである。しかしそれが相手をフェアに扱う、あるいは相手のアンフェアさに付き合わない、不当な要求は聞かない、というある種普遍的な価値判断に使われるというところが興味ふかいのである。
私は法曹界のことは何も知らないが、おそらく裁判官などの仕事においても、最終的にどのような判決を下す際に頼るのは、おそらくこの個人的な感情なのだと思う。これはロボットにはできないことだ。ロボットは最終的な判決にいたるまでの思考や判断の道筋をアシストしてくれるに過ぎないであろう。感情という羅針盤を持たないからだ。
2011年2月25日金曜日
2011年2月24日木曜日
治療論 その22.治療者は「怒りの芽」を羅針盤に使う(2)
昨日の発言は明らかに説明不足だったと思うので、付け足し。
ある患者さんの治療時間の後に、治療者が待合室を通りがかった際に、その患者さんに呼び止められたとする。彼は治療者に尋ね忘れたことを思い出したので、ほんの1,2分だけ話したいという。治療者はそれにどう応じようかと迷った後に、次の二つの反応をする可能性がある。ひとつはそれに応じる場合。もうひとつは応じない場合。
ただし治療時間以外はいかなる接触も持たないということが規則や前提となっている治療の場合には、治療者が患者さんの呼びかけに応じて立ち止まって話をするということは論外かもしれない。そこで私が想定するのはごく一般的な治療状況であり、患者さんのリクエストに応じるかどうかがその治療者自身によってもバラつきが出てくるような状況であるとしよう。(もちろん1,2分の立ち話、というのでは応じられないという方針は常に決まっているという場合には、その状況を少し動かそう。たとえば30秒だけとか、イエス、ノーで答えられる程度の質問を投げかけられるとか。あるいはその程度の立場話には必ず応じる、という治療者の場合には、その時間を5分とか10分とかに代えて考えればいいかもしれない。とにかく治療者が十分に迷う余地があることを想定したいのだ。)
さてそのような状況で治療者が患者さんからのリクエストに応じずに「いや、この次のセッションでお聞きしましょう」と言い残して去るとしたら、それはどのような状況だろう?何が治療者にそう決めさせているのだろう?
当然治療者の頭には治療構造がある。治療構造を遵守するつもりはあっても、ある程度の柔軟性を持たせたいという気持ちは大方の治療者に共通していることだろう。それに治療者が守るべき治療構造として、その行動が事細かに規定されているわけではない以上(例えば治療室以外に接触をするのはどのような状況において許されるのか、など)、適切な判断をその場で下さなくてはならないことは沢山あるはずだ。
昨日私が言いたかったのは、そのような際に判断の材料になるのは、治療者の感情的な反応である、ということなのだ。昨日は「怒りの芽」、ということを書いたが、それはそのひとつのプロトタイプといえる。1,2分の立ち話を請われたくらいでムカッとする治療者はいないかもしれない。でもそれも状況次第だ。それが治療の後に頻繁におき、そのことについて何度も治療中に話し合われ、「治療時間で扱えなかったことは、次のセッションまで持ち越しましょう」という約束事が出来ているとしたらどうだろう。治療者は「またか!」と思うかもしれない。そのときには患者さんに対して、何かそれまでの話し合いやそれに基づく約束を反故にされた感じ、治療者としての自分の存在を軽んじられた感じ、患者さんに利用されている感じなど、さまざまな気持ちが起きるかもしれない。もちろん実際の状況はそこまで煮詰まってはいないであろうし、その場合は治療者の感じる抵抗や一瞬の不快感はその「怒りの芽」が何倍にも薄まった感情かもしれない。それは面倒くさいという感じ、わずらわしい感じ、程度で済むかもしれない。そしてもちろん治療者はそれを顔には表さないであろう。「面倒くささの芽」「わずらわしさの芽」程度にとどめながら、患者さんのリクエストには応じない方向で対応する可能性が高くなる。
ところでここまでネガティブな「芽」を考えた以上、逆も考えなくてはならない。「うれしさの芽」、もありえるだろう。自分が患者さんから信用されていないのではないか、と疑心暗鬼になっている治療者は、セッションが終わっても話しかけてくる患者さんに喜んで応じたくなるかもしれない。これも感情的な反応であり、確実に何かを伝えていることになる。そしてそれも「芽」にとどめておくべき感情なのだろう。
このように考えると治療構造の順守や揺さぶり、破壊といった問題は、結局は治療者により自分への侵害、挑戦という形で感知され、扱われるということが分かる。治療者の感情的な反応はだから極めて重要な要素ということになる。
ある患者さんの治療時間の後に、治療者が待合室を通りがかった際に、その患者さんに呼び止められたとする。彼は治療者に尋ね忘れたことを思い出したので、ほんの1,2分だけ話したいという。治療者はそれにどう応じようかと迷った後に、次の二つの反応をする可能性がある。ひとつはそれに応じる場合。もうひとつは応じない場合。
ただし治療時間以外はいかなる接触も持たないということが規則や前提となっている治療の場合には、治療者が患者さんの呼びかけに応じて立ち止まって話をするということは論外かもしれない。そこで私が想定するのはごく一般的な治療状況であり、患者さんのリクエストに応じるかどうかがその治療者自身によってもバラつきが出てくるような状況であるとしよう。(もちろん1,2分の立ち話、というのでは応じられないという方針は常に決まっているという場合には、その状況を少し動かそう。たとえば30秒だけとか、イエス、ノーで答えられる程度の質問を投げかけられるとか。あるいはその程度の立場話には必ず応じる、という治療者の場合には、その時間を5分とか10分とかに代えて考えればいいかもしれない。とにかく治療者が十分に迷う余地があることを想定したいのだ。)
さてそのような状況で治療者が患者さんからのリクエストに応じずに「いや、この次のセッションでお聞きしましょう」と言い残して去るとしたら、それはどのような状況だろう?何が治療者にそう決めさせているのだろう?
当然治療者の頭には治療構造がある。治療構造を遵守するつもりはあっても、ある程度の柔軟性を持たせたいという気持ちは大方の治療者に共通していることだろう。それに治療者が守るべき治療構造として、その行動が事細かに規定されているわけではない以上(例えば治療室以外に接触をするのはどのような状況において許されるのか、など)、適切な判断をその場で下さなくてはならないことは沢山あるはずだ。
昨日私が言いたかったのは、そのような際に判断の材料になるのは、治療者の感情的な反応である、ということなのだ。昨日は「怒りの芽」、ということを書いたが、それはそのひとつのプロトタイプといえる。1,2分の立ち話を請われたくらいでムカッとする治療者はいないかもしれない。でもそれも状況次第だ。それが治療の後に頻繁におき、そのことについて何度も治療中に話し合われ、「治療時間で扱えなかったことは、次のセッションまで持ち越しましょう」という約束事が出来ているとしたらどうだろう。治療者は「またか!」と思うかもしれない。そのときには患者さんに対して、何かそれまでの話し合いやそれに基づく約束を反故にされた感じ、治療者としての自分の存在を軽んじられた感じ、患者さんに利用されている感じなど、さまざまな気持ちが起きるかもしれない。もちろん実際の状況はそこまで煮詰まってはいないであろうし、その場合は治療者の感じる抵抗や一瞬の不快感はその「怒りの芽」が何倍にも薄まった感情かもしれない。それは面倒くさいという感じ、わずらわしい感じ、程度で済むかもしれない。そしてもちろん治療者はそれを顔には表さないであろう。「面倒くささの芽」「わずらわしさの芽」程度にとどめながら、患者さんのリクエストには応じない方向で対応する可能性が高くなる。
ところでここまでネガティブな「芽」を考えた以上、逆も考えなくてはならない。「うれしさの芽」、もありえるだろう。自分が患者さんから信用されていないのではないか、と疑心暗鬼になっている治療者は、セッションが終わっても話しかけてくる患者さんに喜んで応じたくなるかもしれない。これも感情的な反応であり、確実に何かを伝えていることになる。そしてそれも「芽」にとどめておくべき感情なのだろう。
このように考えると治療構造の順守や揺さぶり、破壊といった問題は、結局は治療者により自分への侵害、挑戦という形で感知され、扱われるということが分かる。治療者の感情的な反応はだから極めて重要な要素ということになる。
2011年2月23日水曜日
治療論 その22.治療者は「怒りの芽」を羅針盤に使う
怒りの問題は「気弱な精神科医・・・」の「汝怒るなかれ」の章とか、このブログの「怒らないこと」シリーズ(2010年8月後半から9月半ばまで)で扱ったことであるが、治療論にはあまり組み込んでいなかった。
時々聞く言葉。「先生に怒られて目が覚めました」(ある患者さんの言葉)とか「子供を叱らないでどうして教育ができようか?」(ある親のことば)とかを聞くと、思わず心が動かされそうになる。怒りには人を啓発したり導いたりする独特の効用があるのではないかと考えてしまう。が、やはりそれでも、怒りの表現はいらない、と思う。治療者にとっては、である。
いや、怒りがあってはいけないというのではない。怒りの表現は時には不可抗力だ。足を踏まれて「痛い!」というのに似ている。最初の瞬間の怒り、私が「怒りの芽」、と呼ぶ感情は、もうこれがなければ人間ではない、というくらいに自然なものだ。そうでないと痛覚のない人間のようになり、足を踏まれるがまま、人に小突かれるままになってしまい、たちまち痣だらけ、満身創痍になってしまうだろう。ただしその「痛い」を口にしない余裕があるのなら、その方がベターである場合が多いということだ。
人は怒りから逃れることは出来ない。人は否応なしにエゴイストであることを避けられないからだ。それがあまりに当然であるために、人は怒りを表現することを正当化する傾向にある。人が怒りを表現するのは、第一に、それが快楽的であり、第二に、それにより相手に復讐を果たすことができ、第三にその怒りを振り返る余裕がない(あるいは余裕を持とうとしない)からである。そして怒りを表現された側(つまり怒られた人)もそれにある程度免疫になっており、そのままやり過ごしたり、耐えたりして毎日を送っているのだ。
親や先生や指導者が、子供や生徒のために何かをするとき、その「何か」が全体として相手のためのものなら、その途中で腹が立ち、それを表現することも「コミ」というところがある。息子を剣道で鍛えようとする親は、子供の竹刀の持ち方や打ちこみの時の姿勢を怒鳴り付けて直そうとするかもしれない。それは怒っているように聞こえるだろうし、実際に怒ることもあるだろう。その度に父親は「待てよ、この怒りは私の何を表現しているのだろう?」などと考えている暇などないだろう。怒りを振り返ることにはエネルギーが必要だし、そのエネルギーをむしろ子供を鍛え上げることのために使うことはおそらく正当なことだろう。しかし怒りは必ずそこにエゴイズムが入り込むために、トラウマとして働く可能性がある。そこが問題だ。
私は治療者とは、自分の怒りを解毒するだけの精神的、時間的な余裕をもった職業だと規定したい。そこにはトラウマが生じる余地は、可能な限り回避しなくてはならないのだ。親にも、先生にも、スポーツトレーナーにもその余裕はおそらくない。しかし一日のうちの限られた時間を患者のために注ぐ治療者は、みずからの怒りを十分に検討する余裕がなくてはならない。するとその怒りは解毒されて、治療者は怒りの代わりに当惑や困惑を表現することになる。こちらの方は怒りの「正当な分解産物」として表現されてしかるべきであろうし、その事情はすでに「怒らないこと」シリーズのどこかで触れてある。
ただしこの治療論の文脈で強調しなくてはならないのは、怒りはシグナルとして、羅針盤としての意味を持つということである。患者さんがに対して限界設定が必要な場合、それを教えてくれるシグナルは、治療者の側の「怒りの芽」である。治療者が治療構造を引き締めなくてはならない時、「怒りの芽」を感じ取ることで、治療構造の綻びを感知するというわけだ。
たとえば患者さんが何回か連続してセッションに10分ほど遅れてきて、しかもそれについて振り返る様子のない時。治療者が自分を軽んじられた気持ちになり、「怒りの芽」が頭をもたげることが、彼の治療的な介入の引き金になるはずである。もちろんそこには個人差がある。患者の遅れに全然お構いなしで、何も感じない治療者の場合はどうか。それでもいいのだ。その治療者は別の仕方で構造を守ればいいだけの話である。
「治療者は怒るべからず、でも怒りをシグナルとして使え」、とは意味不明と思われるかもしれない。ひょっとしたら明日はもう少し補足をするかもしれない。
時々聞く言葉。「先生に怒られて目が覚めました」(ある患者さんの言葉)とか「子供を叱らないでどうして教育ができようか?」(ある親のことば)とかを聞くと、思わず心が動かされそうになる。怒りには人を啓発したり導いたりする独特の効用があるのではないかと考えてしまう。が、やはりそれでも、怒りの表現はいらない、と思う。治療者にとっては、である。
いや、怒りがあってはいけないというのではない。怒りの表現は時には不可抗力だ。足を踏まれて「痛い!」というのに似ている。最初の瞬間の怒り、私が「怒りの芽」、と呼ぶ感情は、もうこれがなければ人間ではない、というくらいに自然なものだ。そうでないと痛覚のない人間のようになり、足を踏まれるがまま、人に小突かれるままになってしまい、たちまち痣だらけ、満身創痍になってしまうだろう。ただしその「痛い」を口にしない余裕があるのなら、その方がベターである場合が多いということだ。
人は怒りから逃れることは出来ない。人は否応なしにエゴイストであることを避けられないからだ。それがあまりに当然であるために、人は怒りを表現することを正当化する傾向にある。人が怒りを表現するのは、第一に、それが快楽的であり、第二に、それにより相手に復讐を果たすことができ、第三にその怒りを振り返る余裕がない(あるいは余裕を持とうとしない)からである。そして怒りを表現された側(つまり怒られた人)もそれにある程度免疫になっており、そのままやり過ごしたり、耐えたりして毎日を送っているのだ。
親や先生や指導者が、子供や生徒のために何かをするとき、その「何か」が全体として相手のためのものなら、その途中で腹が立ち、それを表現することも「コミ」というところがある。息子を剣道で鍛えようとする親は、子供の竹刀の持ち方や打ちこみの時の姿勢を怒鳴り付けて直そうとするかもしれない。それは怒っているように聞こえるだろうし、実際に怒ることもあるだろう。その度に父親は「待てよ、この怒りは私の何を表現しているのだろう?」などと考えている暇などないだろう。怒りを振り返ることにはエネルギーが必要だし、そのエネルギーをむしろ子供を鍛え上げることのために使うことはおそらく正当なことだろう。しかし怒りは必ずそこにエゴイズムが入り込むために、トラウマとして働く可能性がある。そこが問題だ。
私は治療者とは、自分の怒りを解毒するだけの精神的、時間的な余裕をもった職業だと規定したい。そこにはトラウマが生じる余地は、可能な限り回避しなくてはならないのだ。親にも、先生にも、スポーツトレーナーにもその余裕はおそらくない。しかし一日のうちの限られた時間を患者のために注ぐ治療者は、みずからの怒りを十分に検討する余裕がなくてはならない。するとその怒りは解毒されて、治療者は怒りの代わりに当惑や困惑を表現することになる。こちらの方は怒りの「正当な分解産物」として表現されてしかるべきであろうし、その事情はすでに「怒らないこと」シリーズのどこかで触れてある。
ただしこの治療論の文脈で強調しなくてはならないのは、怒りはシグナルとして、羅針盤としての意味を持つということである。患者さんがに対して限界設定が必要な場合、それを教えてくれるシグナルは、治療者の側の「怒りの芽」である。治療者が治療構造を引き締めなくてはならない時、「怒りの芽」を感じ取ることで、治療構造の綻びを感知するというわけだ。
たとえば患者さんが何回か連続してセッションに10分ほど遅れてきて、しかもそれについて振り返る様子のない時。治療者が自分を軽んじられた気持ちになり、「怒りの芽」が頭をもたげることが、彼の治療的な介入の引き金になるはずである。もちろんそこには個人差がある。患者の遅れに全然お構いなしで、何も感じない治療者の場合はどうか。それでもいいのだ。その治療者は別の仕方で構造を守ればいいだけの話である。
「治療者は怒るべからず、でも怒りをシグナルとして使え」、とは意味不明と思われるかもしれない。ひょっとしたら明日はもう少し補足をするかもしれない。
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