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2010年9月15日水曜日

怒らないこと その9.それでも人はなぜ怒るか?

怒りの問題も奥が深い。最近少し考えが進んだ気がする。私はいいオトナが怒ることといったら、ほとんどが何らかの形でプライドを傷つけられたことによる、いわゆる「自己愛憤怒」であるということを述べた。子供なら転んで膝をすりむけば泣くだろう。でもオトナはそんなことでなくわけはない、体にうけた傷など全然たいしたことはない。もっとつらいこと、それは自分のプライドにつく傷である。その時人は涙を流すし、その苦痛を怒りに置き換えるわけだ。
これは怒りを恥と自己愛の文脈から理解する方針だが、それ以外にも怒りを説明出来るように思える。最近私が繰り返している「強い存在には怒ってもいいのだ」という主張も、実は自己愛だけでは説明がつかないのでは、と考えるようになった。強い存在(こちらにハラスメントをしおおせる存在)は、ビクともしないと思えるからこそ、手ひどく批判をしたり攻撃したりできるわけだ。つまり後ろめたさを感じることがないからこそ怒りを表現できるというのであれば、人は攻撃性を本能の一部として持っているということになり、それではフロイトに戻ってしまう。これでは困る。
私は自分でも怒らない方だと思っているが、朝、夕の通勤時には、腹を立ててぶつぶつ言いながら歩いている。駅の通路の真ん中で通行人の流れを邪魔していることも忘れてケータイの画面を見つめながら歩いているおじさんを見ると、「バッカモーン!ケータイなんかしまって前を見てあるけ!!」などとつぶやいている。(もちろん相手には聞こえない程度に抑えている。)通行人は私とは何の個人的な関わりもないから、言わば「モノ」のような存在である。だからこうやって怒れる。やはり人は理由を見つけては怒りたいのか?
私はこの種の怒りを、攻撃性そのものよりは、いわゆるエフェクタンス動機づけ (effectance motivation, White, 1959)と結び付けたい.人は自分の意思や行動が世界に変化を与えるという
体験を無条件に求めるところがある。それがもっとも手っ取り早く得られるのが、人を傷つけ、苦痛を与えるという行為であろう。でもそれ自身が最終的な目的ではない。効果器動機付けが攻撃という形で生じるのは、相手がとてつもなく兄弟で、傷つくとは思えない時、相手がモノのように見えている時、ゲームなどのフィクションの世界の中で発揮される時である。でもこれは同様に人に幸せをもたらしたり、破壊する代わりに想像したり、傷つける代わりに癒したりすることでもこの効果器動機づけは働くのである。
もちろんサディスティックな人間の場合は話が別だ。その場合には怒りと攻撃により相手を傷つける行為は、それ自身が快楽的になってしまう。そうなると怒ること、相手を攻撃することは、もうその人の人生そのものになるだろう。
結局何を言いたいか。怒ることには、それがeffectance motivationの満足につながり、それ自体に快楽的な要素があるために、私たちはなかなかそれから逃れることが出来ない。快楽を伴う行動は、それを行う人をいくらでも自己正当化に向かわせる。こうして「汝怒る事なかれ」は非現実的で非人間的なスローガンと思われてしまうのだ。

2010年9月14日火曜日

怒らないこと その8. 怒らないで人を導くことは出来るのか?(続き)

この話、大事なところで終わっていた。「汝怒るなかれ」は教師として、親として機能する際にも妥当なのか。そんなテーマである。
皆さんは考えるだろう。「大体親が全然怒らない子育てなんてあるだろうか? 昔からいたカミナリ親父は、まったく無駄なことをしていたのだろうか?」
弟子を叱責する師匠、先生の逆鱗に触れるのを恐れて自粛する生徒。どれも当たり前の姿という気がする。怒りにもそれなりの意味がある。ある私の知り合いはこんなことを言っていた。「私が思春期にグレなかったただひとつの理由は、父親の機嫌を損ねてぶん殴られるのが怖かったからよ。」
動物界を見てもそうだ。この間(9月12日)NHKの「ダーウィンが来た」で、ヒメチョウゲンボウ(ハヤブサの仲間)という鳥の子育ての様子を紹介していたが、これがすごいのだ。ひな鳥が生まれて母親は一心に雛鳥に餌の虫を運び続ける。一月ほどで雛鳥は巣を飛び立つのだが、ある雛などは羽を広げて飛び立とうとした瞬間、母鳥が飛んできて、ものすごい勢いでドつくのである。「アンタ、何やってんのよ!!」という感じか。ところが母鳥は、まだ巣立つのがほんの少し早い雛には、飛び立つことを止めているというのだ。まさに母鳥の剣幕で雛は天敵の餌食にならずにすむのである。
そこで再び問う。「怒らないで人を導くことは出来るのか?」

ただこれについて私はこんな答えを用意する。「もともと『汝怒るなかれ』、は無理な相談なんですよ。人は怒りがどれほど非生産的であっても、人は怒りに駆られることをやめることはない。人間は怒って普通なのです。それをどの程度コントロールできるかということです。『汝怒るなかれ』は努力目標、スローガンのようなものです。」
「怒らない」は基本的には大脳皮質の抑制系がうまく働いているから可能なのだ。どんなに穏やかで思慮深く、怒りとは程遠い人でも、事故やくも膜下出血などで前頭葉に損傷があった場合は、やたらと苛立ったり衝動的に振舞ったりするものである。つまり「怒らない」は人間の心が高いレベルで獲得する能力であり、本来の人間にとっては怒りは日常生活の一部なのである。
だからといって、怒らない人、穏やかな人は一生懸命ムリして怒りを抑えているだけだとは言っていない。そのかわり普通なら怒りが生じるような状況を、認知機能を働かせて回避出来ているのだ。人はある感情を抱くときも、「もともと自分はこんな気持になるいわれはないのだ」と考えなおすことで、その感情から解放されることがある。これは「我慢」ではない。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」というが、前頭葉の認知機能は、「俺の怒りは、枯れ尾花を見てそれを幽霊のように感じて怖がっていたのと似ていたんだ」と理解して、怒りがおさまってしまうようなものだ。
私が何を言いたいのかといえば、怒りは私たちが日常生活を送る上で、次々と起こってもおかしくなく、放っておきてもどんどんおきてくるものであり、それが思考や認知の操作により回避できるのであれば、それに越したことはないということだ。怒りは存在しない方がいい。(唯一の例外は、シャイな人間が怒りにより自分を勇気づけ、励ますという場合であるが、このことについては既に何回か、このブログで述べている。)
ではなぜ怒りは回避したほうがいいのか?
それはやはり怒りは進入的で外傷的だからだ。刃物のようなものである。先ほどのヒメチョウゲンボウの雛だって、せっかく飛び立とうと思っていたのに、オカンにドつかれて、「なにしよるんやー。もうこわくてとべなくなってしもたやないか。」(なぜか大阪弁)と萎縮してしまいPTSDになって飛べなくなってしまう雛がいないとも限らない。
それに動物界では、おそらく親の子育てで生じる怒りは、感情が混じっているようでかなり本能に根ざした、ビジネスライクな行動なのかもしれない。先程の母ヒメチョウゲンボウだって、雛をドついていても表情は優しかった(嘘である。)

2010年9月11日土曜日

怒らないこと その7. 怒らないで人を導くことは出来るのか?

「汝怒るなかれ」の原則を守ったとしたら、人は自分の誤りを正してもらう機会もなく、道を誤り続けるのではないか?」「自分の子を叱りつけることも出来ないで、親の役割をはたすことなど出来るのであろうか?」うーん、分かる、もっともらしい。「汝怒るなかれ」は人工的で、いかにも人間の本性に逆らい、無理をしているという感じが伴う。
私はこれについてはなんとなく答えを持っている。たとえばバイジーのAさんがかなり不味い過ちを起こしてしまったとする。例えば寝坊して、学生相談室であっている患者さんとの面接を、スッポカしてしまったとする。学生自体に悪気はなかっとはいえ、面接者としての覚悟が不十分であり、患者さんはすっかり怒ってしまい、もう治療にはきたくない、とまで言っている。多くのバイザーは、Aさんに対してかなり厳しい叱責をしたり、怒りをあわらにしたりするはずだ。

私はこれは怒るようなところだな、と思えば思うほど怒らないと思うが、大いに困惑し、それをAさんに伝えるだろうと思う。実際最近あるバイジーーさんがかなりよろしくないことをしてしまった時、私の反応といえば、「いやー・・・・・・・・。これは困った。どうしようか。何かあなたには考えはあるの?そうか・・・・・。あなたがそんなことをするのを予想できなかった私にも問題があったよね。」ここらへんでバイジーさんは、ただならぬ気配を察して、まだ十分に理由がつかめながらも謝罪を求め始めるだろう。

実はこのようなとき、心のどこかで私はAさんにムカついている。そしてそれが外に出ないようにかなり警戒している。その全体をAさんは察知している。それで十分なのだ。「汝怒るなかれ」の「怒り」は、外にact out されたそれ、というニュアンスがある。

汝怒るなかれ、とか言いながら、昔今とは別の病院に務めていたときに、そこのある女性の患者Bさんにすごく腹がたったことを思い出した。本人に直接はぶつけていないが、実は「なんてことを!アイツ!」とつぶやいてその患者さんを責めた。

そのBさんのしたことは、正確には言えないので、脚色をしてみると、こうなる。診察を終えたあと、気がつかないうちに、Bさんは自分のカルテを持ち出してしまったのだ。そしていまどのページを読んでいるところだ、ということを電話してきたのである。

ただその時のことを思い出すと、私は自分の当惑や失望についてはいくらでもBさんに伝えたが、彼女への怒りの部分は何の意味もなさないと考えていたのだ。なぜなら、Bさんは患者さんだし、そのような衝動的な行動を説明するに足るような傾向をかなり以前からしめしていたのである。ある意味ではBさんはそのような行動や、その他諸々の事情で仕事を続けられず、友達も持てずに私のところに来たのであり、言わば私はBさんのそんなところの改善の手助けをする役回りだったのだ。これは考えて見れば、骨折を扱う整形外科医が、その治療の途中で再び骨にヒビを入らしてしまい、それに怒るようなものである。ヘンでしょ?当惑や失望はあってもおかしくないが、怒るような問題ではそもそもない。とすればそれでも生じてきてしまったBさんへの怒りは、もう身から出た錆として自分で処理するしかないと感じられたのである。ここらへん、「失敗学」とも関連。

それに・・・・・治療者の怒りは患者の側にとってはあまりに破壊的なものになりかねない。大体精神科医やカウンセラーに怒られた体験を思い出し、「あの時先生に怒られていなかったら今の私はありません」というような話を私たちはどれほど聞くだろうか?ゼロとは言わないが、実際にはそれで医者や治療者嫌いになったり、それを一種のトラウマ体験としてしまったケースのほうが圧倒的に多いだろう。

2010年9月1日水曜日

怒らないこと その6    怒りが人を動かし、歴史を作る

最近小沢さんワッチングをしていると飽きない。

私は基本的には内向的であるが、思考の材料は常に外側の世界に実際に生きている人たちにある。人間観察は非常に面白い。人が何に突き動かされているかを見る。既存の理論はいったん頭からはずす。(というより、あまり勉強していないから知らないのが実情。)ただし身近な人はそれだけ細かく観察することが出来るが、書くことは出来ない。ところが著名人はいくらでも批判して、料理してかまわないので気が楽である。材料はマスコミがいくらでも提供してくれるし、守秘義務については私に責任はない。それに著名人は「強者」であることが多く、そのために私も心置きなく批判ができるのである。

その中でも現在は小沢一郎さんが実に面白い。色々な要素を備え、また私が関心を持つ「恥ずかしがり屋のナルシシスト」のプロフィールにしっかり合致している。

これまで「汝怒るなかれ」、などと書いてきたが、はっきり言って怒りほどその人を突き動かし、夢中にさせるものはない。あの引っ込み思案で何を考えているのか分からなかった小沢さんが、人前で堂々と論戦を交えようとしているではないか。菅さんの言葉(「しばらくおとなしくしていただきたい。」)が小沢さんに火をつけたのである。
昨日も書いたが、怒りは対人恐怖傾向を帳消しにする。私にも体験があるが、米国でも相手に馬鹿にされた、挑発された、と感じたときは、なれない英語を操りながら、いつもの気弱な性質はどこへやら、いくらでも相手に挑戦的になれたのを思い出す。その意味で理不尽な人に囲まれ、馬鹿にされる、という体験はむしろ対人恐怖的な殻から抜け出る上で大切であったりするのだ。
ただしその怒りは、基本的にはtoxic (毒のある)で傍迷惑な怒りである。それは他人を害し、貶めることでしか治まらない。その人個人には勇気を与えてくれるが、社会の人々のためになるとはとても思えない。小沢さんはその怒りの刃で噛み付き、破壊することでしか止まることはないのである。
しかしそれを見ているものは、興味津々である。「恥と自己愛の精神分析」の一つのテーマは、「引っ込み思案の目立ちたがり屋ほど複雑で、また面白い存在はいない」というのであった。それはまたとんでもない人騒がせな人たちでもある。小沢さんは、いくつの党を壊してきたのだろうか?
1993年に自民党を離れた小沢氏は、新生党、新進党、自由党などさまざまな政党を結党しては消滅させてきた。小沢氏の党運営をめぐって党内対立が激化する中で行われた97年の新進党党首選では、後に公明党代表となった神崎武法氏や岡田現外相らが推した鹿野道彦氏(現民主党衆院議員)を破ったものの、直後に同党を解党し、政界を驚かせた。(以上はネットの記事からの無断引用。)

 ここに怒りというものの持つパラドックスも明らかになっている。怒りは精神を蝕み、他人のみならず自分を不幸にすることが多い。しかし怒りはまた本人が自分の殻を抜け出し、自分の思いを表現するための媒体でもある。怒りの表現は他者の憎悪を掻き立てる。丁度菅さんの「小沢、すっこんでろ」がとてつもないエネルギーを小沢さんに与えたように。それは望むと望まざるとに関わらず、私たちの精神生活の一部に複雑さと彩を与えるのである。

2010年8月29日日曜日

怒らないこと その5.  恩返し? 鳩山さん、そりゃないよ。

例によってインターネットで拾ったニュース記事だ。

YOMIURI ONLINE (2010年8月28日) 党内に「鳩山氏は出しゃばりすぎ」との声も
「ロシア訪問中の鳩山氏は27日、代表選で小沢氏を支持すると表明した理由について、モスクワ市内で記者団に『小沢氏は政権交代を導き、私を首相へと導いた。その恩には恩返しするべきだ』と説明した。」
ハッキリ言って、鳩山さん、バッカじゃないの? (`×´)
先ごろ強者には怒っていいのだ、ということを書いてから、強者に対しての怒りを色々と書きたくなってきた。それにしてもネット上とはいえ、「バッカじゃないの?」とは品のない言葉だ。職業柄、患者さんにも、院生にも、特にカミさんにはそんなことを言ったら大変なことになるし、そもそもそんな言葉など頭に浮かばない。でも著名人には結構辛らつな言葉が出る。特に政治家。それほど私は鳩山さんや小沢さんを強者と思っているし、サンドバッグのように扱っていいと思っているのだ。(強者、弱者という言い方は、イヤらしい言い方だが、その背景はすでに説明したとおりだ。強者側が弱者側を搾取し、ハラスメントをしおおせるような関係をこう呼んでいるのである。虐待者、被虐待者といってもいい。いつもの例で申し訳ないが、もし鳩山さんが不眠症で私のもとを訪れたら、私は二度と鳩山さんのことを「馬鹿みたい」とは言えなくなる。彼は私のクライエントになるからだ。すると今度は、鳩山さん、あなたが不眠症だというスキャンダルを私は握っていますよ。と彼の弱味に漬け込んだり脅したり出来ることになってしまう。ちなみに私は不眠症が弱味になるとは思っていないので・・・・念のため。)

冒頭の記事に戻る。「恩返しをする」のは、鳩山さん、あなたの個人的な事情でしょ?だったらその人が総理になる資質がなくても、お世話になったらなってもらうの? どうして国民が本来選ぶべき総理を、そんな個人的な事情で決めようという発想がわくのだろう? それでいて他方では「国民の皆様のために」政治をやっているとか言っているのである。この矛盾って小学生でも感じ取ることができるんじゃないか?

ついでに言えば、「鳩山氏は出しゃばりすぎ」という議員も、もし公の席で言っているとしたら、鳩山さんとまったく同じレベル、という気がする。「アイツ、出しゃばり」というのも個人的感情でしょ?つまり「本当は僕も目立ちたいんだけれど、あいつばかり目立っている。クヤシイ!」もちろん心で思うのは自由だ(というより人間はたいていはそのレベルの感情で動いている)が、鳩山さんの発言を批判する理由としては全く的外れだろう。国際感覚欠如、とは言わないまでも、まったく「村社会の論理」に浸りきっている。そこには義理、人情、恩、和などが先行し、理性や個人が従属したり無視されたりする。実際は政治家の社会は閉鎖的だし、そこでは村社会の論理が支配することは分かっている。でもそれがまずいことを知っているから、公的にはそんなセリフが出てきてはいけないんでしょ?

でもこの「村社会の論理」は、日本人のメンタリティの根底にあって、私はそれが好きなのだから皮肉なものだ。私はどこに行ってもおおむね細やかな配慮の行き届いたこの社会にいられて幸せだと思う。でもその日本人のメンタリティのかなりの部分は盲目的な、相互信頼と相互犠牲に基づいていて、それはお互いの自由と自立性を相当に縛ることになる。

青山通りを歩いていて100円玉を落として気がつかずに立ち去ろうとしたとする。それを拾った人は私を追っかけてきて渡してくれるかもしれない。もし拾った人がそうしなかったとしても、私を追いかけるのが、照れくさく、恥ずかしかったからだけだろう。そういう人はそっとその百円玉を間近の歩道の縁石あたりにおいて行ってしまうのだ。「僕はネコババなんてしませんよ。」と自分に言い聞かせて。そういう日本人は私はとても好きだ。ほぼ百パーセント、お金が拾った人のポケットに消える社会に長年いたからだ。

ここでの心の動きは「村社会」的である。人のお金を取ってはいけない。だから追いかけてでもお金を渡すべきだ。なぜなら人はお互いに助け合って「友愛」の精神で生きていかなくてはならないから。そのような友愛の社会においては、人から受けた恩を忘れないということは絶対であり、そこには自己犠牲はあって当然である。ところで・・・・・もちろん私がお金を落としたら、人はそれを拾ったら私のもとに届けてくれてしかるべきである。人もまた私のために、自己犠牲をしてしかるべきだ。そういう社会を築かかなくてはならない。もちろん二酸化炭素の排出量を率先して抑えなくてはならない。自分からそういう姿勢を示すべきだ。25パーセント! え?アメリカは日本を頼りにして、相互平和に向けて精いっぱいの努力をしてほしい?もちろんです。沖縄のことでも力を注いでほしいって? もちろん。 トラストミー! あれ、沖縄村に行ったときは、彼らに「トラストミー」っと言ってしまった。どうしよう。彼らは全く別のことを言っているのに。まあいいか、皆の幸せのために精一杯努力をし続けてくれば、みなその姿勢に感動して許してくれるだろう。・・・・・これじゃアメリカ人じゃなくても「宇宙人」と思うのではないか。

不可知性との関連で。鳩山さんは人は皆「友愛の精神」で結びついていると思っているし、その意味では他人の心は読み取れるはずだ。その精神に従わない人は間違っているのであり、友愛の精神が足りないからだ。これはおそらく他人を不可知とみなすこととは全く逆であろう。さもなくばこう考えるはずだ。「100円玉を拾った人の心になにが起きるのかは本当は分からない。でも最終的に落とし主にお金が返るような社会を作るためには何が必要かを皆で考えよう。」

ちなみに人の心を想定内にとどめようとしている鳩山さんを「宇宙人」(つまりその心が計り知れない)と呼ぶセンスは悪くないのだろう。

うーん。結局、私は別に鳩山さんに対して怒っているわけではないらしい。ただ呆れているだけである。

2010年8月28日土曜日

怒らないこと その4. 怒ることは蜜の味

「今日も暑い」はもう書き飽きた。 NHKを見ていて思うのだが、女性キャスターやアナウンサーは、絶対美人を使っているよね。アタリマエか。従来NHKだけが、「女子アナは美人が好ましい」という命題を認めないような採用の仕方をしていたようだが(そして男性アナに関しては、未だに「人間、見た目ではないよ」を感じさせるような人材を起用しているようである)、最近はお天気お姉さんにいたるまで、”better looking, the better” への方針転換をあからさまにしているようである。
美人女子アナ、美人キャスターの起用はしかし、 決して世の男性のためだけではない。女性にとっても、子どもにとっても、整った、若い女性の顔は、見ていて心地よさを生むのだろう。だからその表紙の雑誌を手に取り、買い物カゴに入れたくなる。それは、どうしてか? それが赤ちゃんにとって一番癒される顔というわけだろう。十分に若く、笑顔が美しいお母さんのもとで、赤ちゃんは健全に育つ可能性がより大きくなるのだ。そして私たちは老若男女を問わず、その赤ちゃんの頃の「好み」を一生持ち続けるのだ。それが雑誌の表紙を飾るというわけである。(アエラのみ例外。)
コンビニの雑誌売り場にならぶ雑誌の数々。どれも表紙は若い美人の笑顔なのは、壮観でもあり、またその画一的なところは、ちょっと不気味ですらある。たまには100歳のおばあちゃんの顔が並んだっていいではないか? でもそうならないのには、私たちの中の赤ちゃんがそれを許さないからだ。(100歳のおばあちゃんは、赤ちゃんを抱っこすると手が●●●てうっかり●●●てしまうかも知れないではないか。)それに比べて若い男性の整った笑顔など、ほとんど価値なし、だ。赤ちゃんは別に若くて整った顔の男性に抱っこして欲しくないのだ。そもそもいつもお父さんに抱っこされている赤ちゃんは胸騒ぎがしてもおかしくない。だってそれはお父さんが働かずにうちにいるということだから。お父ちゃんは抱っこしてくれなくていい(とは、言い過ぎか?)

いつもの小沢さんワッチング(彼は強者だから、批判していいのだ)ニュースにあった。 「古賀氏は菅首相に電話し、「一致結束した体制を築けないか」と要請。首相は「その通りだ」と答えたという。 続いて、連合を訪れた小沢氏にも同じように働きかけたが、小沢氏は「そう思っていたが、(首相に)そういう意思がないということなので」とさらり。」

まったくよく言うよ。小沢さんは、自分への批判を人のせいにするのは、天才的にうまいのだ。ただしここにはほんの少しの真実があるらしい。菅さんが要職は小沢さんや小沢派の人に譲るつもりがなかったのだ。 それにより「友愛の鳩山さん」(やはり宇宙人だ!!)の工作は失敗。でも小沢さんには好機到来だろう。自分が首相に手を上げる口実がより確かなものになるのだから。菅さんにしてみれば、小沢さんに牛耳られる首相職などいらない、ということか。こちらも相当根に持つタイプだ。ただし相手をあらゆる手を使ってねじ伏せる力は、はるかに小沢さんの勝ち。

さて「汝怒るなかれ」のメッセージがなぜ一般受けしないのか、という問題だが、何と言っても怒るという行為はカタルシスになるし、気持ちよい行為であることが少なくないからだ。このタイトルにあるように、怒りは楽しい。人を怒鳴り散らすのは蜜の味だ。スマナサーラさんの本には、「怒りの人生に喜びはない」と書いてあるが、人に対して怒りまくることは、実は快感のもとにもなりうる。ただしそれが同時に激しい後悔や自己嫌悪を生む可能性があるのは、怒りが人を破壊し、傷つけるさまを目にするからだ。そして相手に怒りを向けている自分自身が持っている理不尽さや残虐性などに思いを至らせ、それが後ろめたさを生む。

怒りが苦しみを伴う可能性はもうひとつある。それは自分の怒りの表現が、たちまち相手の怒りをあおり、それがあまりにパワフルなために結局劣勢に回ってしまう場合だ。つまり怒りの表現が、結果的にさらなる憤懣を募らせる場合である。「この怒りたくても怒れないことに怒っている」という怒りは、これほど不快で苦しいものはない。

だから相手を破壊しても少しも後悔や後ろめたさを感じないような人や、自分の怒りが誰にも制止されずに果てしなく相手を破壊しつくす場合には、怒りはさぞかし快感だろう。暴君や専制君主はこの「怒りをいくらでも楽しめる」数少ない人たちだ。反社会的で自己愛的なリーダーにとっては怒りは蜜の味なのである。

そういえば某大国のカリスマでこんなことを言った人がいたな。「わが国は核の一つや二つを落とされても平気だ。人口が多すぎるくらいだから。」

そう、「汝怒るなかれ」は、実はもう少し怒っていいのに怒りを表明できないでいる敏感で優しい人たちにしか理解してもらえないのだ。なんとも皮肉なものである。

2010年8月25日水曜日

怒らないこと その3. 怒らないより大事なこと

今日はぎりぎりの更新であった。相変わらずの暑さ。ただ今日は●●さんが、「今日は月が綺麗」、と教えてくれた。
民主党というコップの中の嵐は相変わらずである。小沢さんて面白いな。「自分に対する立候補の要請については・・・・・」などと言っている。「この政治塾は、下世話な政治の話はしない」だって。この種のレトリックは生理的に受け付けない。

こうして小沢さんに対して批判的なことを書くのはなぜか。彼が強者で、私は弱者だからだ。弱者は強者を批判していい。弱者は強者からの蹂躙に身を守る手段を持たないから(というよりそれが強者、弱者の関係の定義だからだ)批判することが出来る。強者は傷つくのか?トラウマになるのか?私が小沢さんを批判して、その言葉を耳にした小沢さんが心に傷を負う、という関係であれば、既に彼は私(そして国民の大多数)に対して強者という立場にはないということになる。もし小沢さんが何らかの都合で、私の外来にやってきて、眠れないから薬を処方して欲しい、ということになり、患者さんになったとしたら、私は小沢さんに向かっての言動には、細心の注意を払い、傷つけるような言葉など一切言わなくなるだろう。それは私が彼に対して権力を乱用できる立場、すなわち強者になるからだ。
「汝怒るなかれ、ただし権力に対しては別である」って悪くないことだ。いかりや攻撃性は、依然として私たちの人生で、その正当な発露を持っているということだ。ただし・・・・・強者と戦うことは、者すごいむずかしいことでもあるのだ。

怒らないことについて書いているうちに、怒らないことより、戦うこと、の方が大切である気がした。だって怒らないことはそんなに難しくないが(言った、言った!)強い相手に戦いを挑むのは、勇気がいることだからだ。弱者に対して怒らないことと、強者に対して戦いを挑むことのどちらが人に貢献するかというと、恐らく後者ではないか。というのも強者をくじくことで恩恵を被る人は、自分だけではないからだ。というよりは強者と戦うことは、人のためにもなる分、自己犠牲的な行為だからだ。「蟹工船」なら、搾取するボスに戦いを挑むことは同時に、同じ立場にたって苦しむ仲間を解放することになる。
ところが私たちは怒らないで泰然自若をしている人の事を、強者に戦いを挑む人よりも尊敬し、理想化する傾向がある。すこしおかしな話である。何かそんなことを考えるようになってきたのは、とりあえずこのブログでこの問題を追っているからである。

2010年8月24日火曜日

怒らないこと その2. 龍馬の話に戻るまで

昨日の続きである。ちょっと長くなったが。

この世に強者、弱者は常にある。社会的な地位や性別や年齢に大きく左右はされるが、一応はそれとは独立した形で存在し、人の間に序列を生む。どこかに明記されているわけではなくても、社会の中で人はそれを感じ、推し量ろうとしている。時々顕著に表れることがある。エレベーターに乗ったり降りたり、記念写真を撮るときの立ち位置を決めたり、飲み会で座る場所を決めたりする時に必ず出てくる。オフィスの大きさ、窓への近さ、などにも出てくる。これは観察していて面白いくらいだ。

もちろん動物界ではもっとはっきりしている。猿山などを見ているとわかる。こちらの方は力関係が一目瞭然となる。ボス猿以下はっきりとした序列がある。日本の政治家を猿山に入れたらどうなるか? いわゆるαメール(ボス猿)にはだれがなるだろう?時の総理大臣か?それともやはり小沢さんがなるんだろうか?ボズざるの黒幕なんていないからな。いやその後ろに中曽根さんあたりが控えているかもしれない。長老というわけだ。でも長老がぼんやりしていると、若手のサルが雌にちょっかいを出す、ということもあるが、それは人間社会でも同じだろう。

しかし人間の場合は少し複雑だ。能力にはいろいろ種類がある。だから時と場合により誰が強いかは入れ替わる。常に強者、という人はむしろ少ない。

たとえば政治家を集め囲碁の大会をやったら、とたんに与謝野馨さんあたりが大ボスになり、小沢さんは裏工作が効かなくなって与謝野さんに頭が上がらなくなってしまうとか。(まてよ、確か最後の対局では小沢氏が勝ったんだっけ?)強者か弱者かは、ほんのちょっとしたことでも揺れ動く。昨日まで威張っていた派閥の長が、ちょっと週刊誌にたたかれただけで、それまでの「強度」が何ポイントも下がってしまったりする。
夫婦の関係だって、日常生活では奥さんのほうが強者で、ご主人は奥さんの顔色をいつもうかがっていても、実は金の出し入れに関しては主人が完全に支配していて、奥さんは何も言えない、ということもある。
しかし状況や関係性によっては、前提的な強者、弱者が決まってしまうのが問題だ。職場や学校、親子の関係などでは、強者、弱者の関係が絶対的になり、一方が他方を抵抗が出来ないくらいねじ伏せてしまえることがある。するとその関係は最近よくいわれる「対人関係上の外傷」、つまり虐待とかネグレクトとかパワハラ、セクハラなどが起きる素地となるのである。

このように強者と弱者の関係というテーマは、実は外傷の問題、搾取の問題と密接なのだ。そして外傷が人間関係のいたるところで起き、それを生みだすような強者、弱者の関係は、それこそ人間関係の細部にいたるまで網の目のように張り巡らされている。
動物の世界でもそうである。というより、動物ほどシビアに強者弱者の関係で動いているものはない。先ほどはサル社会を例に出したが、強者、弱者の関係性の中で生き残ったのが、いま地球上にいる生物だと考えればいい。(うちの犬のチビだって私のことが怖いくせに、カミさんのほうが私より強者であることを知っていて、私が怖い顔をすると、すぐ彼女の陰に隠れるのである。悔しい。そのくせカミさんが留守のときは急に態度を変えて尻尾を振ってくるのだ。)人間は洗練されているようでいて、実はこの他者との力関係にものすごく敏感であることは変わりない。よく「空気を読む、読まない」というが、読むべき一番のものは、この他者との微妙な力関係であろう。

私が「怒るべからず」、と言う時、それは怒ることが、現実の持つ不可知性を無視し、相手を白か黒かで決めつけるという傾向に基づいているからだ。そしてそれはたいていは、自分が恥をかかされて、自己愛を傷つけられたことの反応として生じるのである。
しかしこの理不尽な怒りは、自分や仲間を理不尽にいじめてくるような強者に対しては、むしろ積極的に向けなくてはならない。それは強者からのいじめやハラスメントから自分や仲間を守るためには、必要なものなのだ。そのときは相手の事情とか、相手への共感はむしろ邪魔になる。相手と戦う際は、不可知論は無意味であり、それに基づく「怒るなかれ」はかえって身を危険にさらしてしまう。強者と戦う際はむしろ善か無か、白か黒かの悉無律的な原則によらなくてはならない。だってそうではないか。自分を襲ってくるライオンにライフルを向けて引き金を引こうとしている瞬間に、「でもライオンも撃たれたら痛いだろう」などと思っている間に、ガブリ、とやられてしまうからだ。

そこで龍馬の話にようやく戻る。限りなくやさしい彼は、しかし自分より強い存在には常に戦いを挑む。あるいは弱者でも、それが自分よりさらに弱いだれかをいじめている場合には彼は黙ってはいないだろう。強い相手に怒るのは、大抵が勇気ある行為だ。それは自分や仲間の身を守る行為であるし、身を挺しても仲間さえも救おうとするその「余剰」の部分だけ、愛他的である、ともいえる。(ただしそれを愛他性と呼ぶなら、人間より下等なはずの動物の世界は、その愛他性に満ち溢れている。子孫や仲間のために親が自分を犠牲にするという行動はむしろスタンダードでさえある。)

強い相手に対する怒りは、わが身や仲間を守ろうとする、おそらく唯一の正当な怒りといっていい。怒りそのものはあいかわらず理不尽なものであるが、それでも正当なものである。正当なる理不尽さ。平和主義者のように描かれている龍馬は、権力には常に牙をむく。その時は彼の平等主義や価値の相対性や不可知論的な世界観は停止し、スプリッティングの権化となって、戦いに命を懸けるというわけだ。
こうして昨日の最初のテーマに戻る。「怒らないことと、戦うことは矛盾しない。」

ちなみに龍馬伝に描かれている人物像を見て面白いのは、限りなく優しい龍馬が、むしろその分だけ、権力と言う名の強者に対して挑戦的であるということだ。あるいは逆かもしれない。戦う相手を知っていると、守るべき相手には優しくなれるということか。
あのわかりやすい素人受けのする龍馬伝を見て、結構ハマってこんなことを書き連ねている私も、かなりミーハーだと思う。でもそれにしてもやはりフクヤマは許せない気がする。

2010年8月23日月曜日

怒らないこと その1

しっかし……。どうしてこうも暑いのだ。私は冬は大嫌いだが、今日昼間に青山近辺を移動していて、ふといけないことを思ってしまった。「寒い方がまだましかも知れない ……。」と思ってしまった。日が短くなっているので、朝夕はすこし凌ぎやすくはなっているが。
30年前に5月の香港(つまり真夏)をウロウロ旅した時の苦しさを思い出す。

最近「怒らないこと」(アルボムッレ・スマナサーラ著、サンガ新書)という本が売れているようだ。最近では続編も売れているようで、お茶の水の丸善に入るたびに、気になっていた。つい最近買って読んでみたが、その感想については後に述べることにする。
「怒らないこと」というテーマについては、ここでも触れたかもしれない。少なくとも授業やゼミでは数回か話した記憶があるが、最近一つ思うことがある。それは「怒らないこと」と「戦わないこと」は別問題だということ。人は怒らない方がいいが、戦わなくてはならない。怒らない、ということは戦うことをやめるということではなく、何と戦うか、という選択に関して、より賢くなるということだろう。私は怒ることは無駄だと思うが、戦わない人生は空しいと思う。これは矛盾しているように感じられるかもしれないが。
いつものように、非常に話が分かりやすく作られている龍馬伝から例をとる。

このドラマの中で、龍馬は怒らない人間の一つの典型として描かれている。しかし彼は同時に戦っている人間としても描かれている。それは司馬遼太郎の「竜馬がゆく」にしても同じである。私の見方からすれば、彼の人生観は極めて不可知論的なのだ。つまり絶対的なものを求めず、信じず、主義や方針や、社会的な価値に対して相対的である。価値に対する相対性がなかったら、脱藩などおいそれと出来ない時代だろう。そしてこの不可知論的な世界観は、彼の寛容さに通じている。「不可知性その11」で論じたように、彼は他人には想像できないような事情や立場があるということをよく知っていたからだろう。だから桂小五郎に会いに下関に来るという約束を反故にした西郷吉之助に対してそれを責めようとなしなかったのだ。実際に西郷が下関で船を降りることができない十分な事情があったことがドラマに描かれている。
しかし龍馬は、戦う相手を常にしっかり定めていた。では怒らない龍馬が戦っていたのは誰だったのか?大義のためだったのだろうか? あるいは国家のためか? 確かに龍馬は日本が外国の手により蹂躪されることに憤りを感じ、薩長連合を成立させて外国と断固戦うことに命をかけていた。しかし彼が戦っていたのは、それほどカッコいいことではなかった。もっと単純なことだったと思う。それは自分や自分の大切な人々を守るためだったのだと私は思う。自分の身が危険にさらされたり、自分が守るべき人間(直接的には家族、そして友人、同僚など)に危害を加えるような存在と戦わないとしたら、それは生きている価値すらなくなってしまうということだ。その意味で、人間存在はというよりは生命のあるものは、基本的に常に戦う存在だということである。
人は自分より強い相手、力でねじ伏せてくる存在とは、常に戦わなくてはならない。もちろん危害を加えてこないような強者に対しては、戦う必要などどこにもないが、基本的には強い存在は同時に理不尽でもあるのだ。
私が「人間、怒るべからず」という時、それは私たちが力でねじ伏せることができるような人々、つまりは私達にとっての弱者である。私達がいざとなれば力でねじ伏せ、虐待することができる人たちに対して怒ってはいけない。それは端的にそれらの人たちは私達が安全に怒りを向けることのできる相手だからである。
私たちは強者に対しては戦うべきであり、他方弱者に対しては怒りは禁物である、というメッセージ。誤解されるだろうなあ。弱者とか強者とかそんな話は聞きたくないと言われそうだ。しかしもう疲れたので、明日以降、気が向いたら続けてみたい。