2024年6月30日日曜日

「トラウマ本」 トラウマと心身相関 推敲 1

 転換性障害

消えゆく「転換性障害」という診断名 

 MUSに属する疾患の筆頭に挙げられるのは、いわゆる転換性障害であろう。ただし実は以下に述べる事情の為に、最近ではFND(functional neurological disorder 機能性神経症状症)と呼ばれることが多い。しかしここではわかりやすく「転換性障害」という表現を維持したい。
 従来から転換性障害と呼ばれていたものは随意運動、感覚、認知機能の正常な統合が不随意的に断絶することに伴う症状により特徴づけられる。つまり症状からは神経系、ないしは整形外科、眼科、耳鼻科などの疾患を疑わせるが、神経内科(脳神経科)的、ないしはその他の身体科の所見が見られない場合にそのように診断されるのだ。従って通常はこの診断は、他科から精神科に紹介されてきた患者に対して下されることが多い。
 この転換性障害の「転換性」という言葉はかなり以前から存在していた。DSM-Ⅲ以前にも「転換性ヒステリー」ないしは「ヒステリーの転換型」という用い方がなされていたのである。日本の古い精神医学の教科書も大抵はこれらの概念ないしは診断名が記載されていたことを記憶している。
 しかし2013年のDSM-5において、この名称の部分的な変更が行われた。すなわちDSM-5では「変換症/転換性障害(機能性神経症状症)」(原語ではconversion disorder (functional neurological symptom disorder=FND))となった。つまりカッコつきでFNDという名前が登場したのである。
 そしてさらに付け加えるならば、10年後の2023年に発表されたDSM-5のテキスト改訂版(DSM-5-TR)では、この病名がさらに「機能性神経症状症(変換症/転換性障害)」となった。つまりFNDの方が前面に出て「変換症/転換性障害の方が( )内に入るという逆転した立場に追いやられたのである。こうして転換性障害は正式な名称からもう一歩遠ざかったことになる。この調子では、将来発刊されるであろう診断基準(DSM-6?)では転換性障害の名が消えてFNDだけが残されるのはほぼ間違いないであろう。

2024年6月29日土曜日

〇〇 市精神科医会講演の準備

 札幌の学会から戻ったら、今度はこちらの準備だ。こんな感じで始めようか。

○○市精神科医会の皆さん。本日お話するテーマは、「精神科医にとってのトラウマと解離」ということですが、この話題がどの程度皆さんにとってなじみがあるかは私には分かりません。しかし重要なテーマであることは確かです。現在の精神医学では、とにかく発達障害が大きな話題になっていますが、その次に来るのがこのトラウマや解離の問題だと思います。そこで問うべきは以下の問題です。  現代の精神科医はトラウマ関連障害をいかに扱っているか?あるいはもう少し具体的に言えば、患者のトラウマは扱うべきか、否か。そしてもう一つ、いわゆる「反トラウマ論」とどのように対峙していくのか?現代は彼らが言うようにはたして「被害者帝国主義」なのか?という問題があります。  恐らく外傷やトラウマに関して一番密接にその話題の大きさを感じさせたのが、いわゆる複雑性PTSDという概念です。この概念の始まりは1992年のジューディスハーマンの「心的外傷と回復」ですが、それが30年後にようやくICD-11に疾患名として登場することになりました。しかしこの本はかなりの毀誉褒貶を得ることになります。比較的有名なのは、エリザベズ・ロフタスとの論争です。

2024年6月28日金曜日

精神神経学会の準備 

 

6月20日の日本精神神経学会を明日に控えている。(このブログは28日ごろに掲載するが。)

発表の前日になって新たなスライドを作った。読者にはあまり関心はないかも知れないが、精神科と神経内科の間での歩調合わせが起きている。いわゆる転換性障害の名前が変わり、機能性神経症状症となり、そこに心因が問われないことになったが、そこには患者への侮蔑的な診断とならないように、という配慮が米国の精神医学会において行われたという経緯がある。2013年のDSM-5の一文にそれが見られるのでスライドにした。このような機会がないと決して知り得なかったことだ。やはり発表する機会というのは重要である。

2024年6月27日木曜日

PDの臨床教育 推敲 9

  とくにInselはDSMが神経科学や遺伝学の新たなる知見を取り入れていないという主張を行った。そして実際DSMによる診断は何よりも信頼性と妥当性に問題があったと言われるのである。そしてDSMの代わりにNIMHが開発しようとしたのがこのRDoCなのであるが、その一番の特徴が、ディメンショナルなアプローチということなのだ。彼はDSMが客観的な検査所見によらずに、いまだに臨床症状に基づいてなされると批判したのである。

 でもこれは一見して臨床向きではないな、ということが分かる。そしてそれがディメンショナルモデルを目にした時の感想と同じなのだ。

研究領域としてはネガティブ系、ポジティブ系、認知系、社会系、覚醒・制御系と別れる・・・・。これらの問題の組み合わせとして具体的な疾患が表現されるということだろうか。つまりこれらの障害はいくつかの精神疾患に共通してみられるという見方でもある。しかしだいたい脳の機能から疾患を分類するという方向性が私は間違っていると思う。なぜなら脳科学がそこまでは進歩していないからだ。だいたい抗鬱剤がどうやって効くのかについてさえ、はっきりしたことは分かっていないのである。

 ちなみにDSM-5自体が、内部でのカテゴリカル派とディメンショナル派の対立の末の妥協の産物ということが分かる。たとえばよく見るとDSM-5には統合失調症スペクトラムという分類のもとに、統合失調型パーソナリティ症が入り込んでいるが、これは以前ならパーソナリティ障害の項目に分類されていたものである。だからこれも診断横断的な見方の表れといえるだろうか。つまりこれもディメンショナルな方向性を示していたことになる。

ちなみにこの問題の背景には、医師 ⇔ 研究者(主として非医師)の対立がある気がする…



2024年6月26日水曜日

PDの臨床教育 推敲 8

 カテゴリカルモデルの問題が指摘されるにつれて、カテゴリカルモデル派とディメンジョナル派の間の論争が結構以前から起きたらしい。前者は精神医学者主導であり、後者は心理学者主導だった。もとよりパーソナリティについては、その病理を精神医学で扱う一方では、その健康は側面をも含めて一般心理学で扱う動きもあり、基本的には両者の接点はなかったからだ。

 そしてそこに微妙な形でかかわってくるのが、RDoCというやつだ。Research Domain Criteria (研究領域基準)はNIMHのThomas Insel所長が言い出したことだという。RDoCの基本概念は、精神疾患は複雑な遺伝環境要因と発達の段階によって理解される脳の神経回路の異常により起こることであるという仮説をもとにしている。そしてこれをまとめたInselは、それまでもくすぶっていたDSMへの不満を明らかにしたのだ。

 この話はそもそもカテゴリカルモデルとディメンショナルモデルの対立がなぜ生じているかを知るためにも恐らく大事であろう。そこでちょっと寄り道である。
 Insel 氏が所長をしているNIMHとは米国立精神衛生研究所である。アメリカではトップが変わるとかなり力強い(強引な?)方針を打ち出す傾向にあるが、これもその一例であろう。彼は精神科医は対症療法的で行き当たりばったり的であり、脳科学的なエビデンスに基づく研究をしていないとし、精神疾患の根底にある原因を探らずに症状の軽減だけを目指す研究には、今後、資金を提供しない意向を明らかにしたという(Nature ダイジェスト Vo..11 No.6 News 「精神疾患の臨床試験の在り方を見直す動き」から) ちなみにこのNIMHの母体となるNIH(米国立衛生研究所)はもともと生物学的な機序を重視する方向にあるという。

 この問題の背景には、DSMが精神医学の聖典扱いされて、それに従わないと研究の資金も得られないという傾向への不満があるらしい。精神医学の基礎研究のためにはDSM的な用語や概念に縛られない必要があり、もっと研究向きの基準を作るべきだとInsel 氏が考えて作られたのが先ほどのRDoCである。

 そもそもDSMとは統計のために作られたというのが始まりである。DSMとはdiagnostic and statistical Manual つまり「診断と統計のマニュアル」だったのだ。しかしこのDSMは意外なほどに精神科の臨床医に受け入れられたという経緯がある。特にDSM‐Ⅲが大きなヒットだったのだ。そしてそれに従い臨床家向きのものに改定されていったが、他方では統計学的な研究にはますます向かないものとなっていったという。


2024年6月25日火曜日

PDの臨床教育 推敲 7

  ここから先はこれまでのことをドラえもんを例にして書いたものだが、実際は省略してもいいだろう。私自身が理解のために書いたようなものだ。でも面白いかも知れない。

 カテゴリカルな診断の例として、ドラえもんの登場人物を考えよう。ジャイアン,のび太、スネ夫という登場人物が出てくる。それぞれが癖のあるキャラである。と言うか、そのようにして書かれた漫画なわけである。漫画ではそれぞれの性格が誇張されることで理解もしやすくなるのだ。そこでジャイアン型PD,のび太型PD,スネ夫型という明確なカテゴリーを思い描くことが出来るであろう。人間って結局はこの3タイプに分かれるよね、という議論が聞こえてきてもおかしくない。実際に実社会で、例えばある上司のことを「彼は典型的なジャイアンタイプじゃないか!」と思うことはある。しかしでは一癖ある課長さんのことを考えた場合、すぐにはどのタイプか思いつかない。典型的なジャイアン型もなく,かと言ってすね夫タイプものび太のようでもない。それでもこのモデルに従って分類しようとすると、結局はジャイアン30%、のび太30%,スネ夫30%付近の人ばかりになり、結局は「ドラえもん混合型」PDの人ばかりになってしまう。それにそもそもこの3タイプは恣意的ではないか?例えばしずかちゃん型は?肝心のドラえもん型はあるのか?鬼太郎型は?目玉の親父型は?(急に水木しげる登場。)
 ともかくDSMのカテゴリカルモデルで問われていた問題を(まさに)「戯画化」したらこうなるのである。

 一つの解決策は、「ドラえもん混合型」とせずに、それぞれの%で記載するという手段があるだろう。すると例えば「ジ30・ス40・の30」となり、これはまさにディメンショナルモデルということになる。しかしここには問題がある。①「ジ30・ス40・の30」では何のことだかわからない。その人のプロフィールを直感的に思い描けない盧だ。そしてもうひとつ、上に述べたカテゴリー分けの恣意性の問題だ。本当にジャイアン、のび太、スネ夫を抽出するのが一番妥当なのか?漫画家が別のストーリーを描いてそれが売れたら、そこに出てくるキャラを抽出してもいい気がしてくる。現に子・F・不二雄の「キテレツ百科」という漫画にはトンガリと言うキャラが出てくるが、これは一説によればのび太50%+スネ夫50%という組み合わせで表されるという。じゃあ、トンガリじゃダメなのか?


2024年6月24日月曜日

PDの臨床教育 推敲 6

 ところで私はこのパーソナリティ機能として自己機能または対人関係機能の障害がある事という定義は、素晴らしいと思う。DSMのカテゴリカルモデルだと、mad,bad,sad つまり思考、行動、感情のうちのどれかの障害ということになるが、これだとそのどれにもまたがるPDがすぐ思いつき、これでは重複診断を誘っているようなものだ。それに比べて自己機能と対人関係機能の障害にはある種の相関関係がある。どちらか一方、と言いながら大抵は両方にまたがっていることが想像される。自分に自信がないと対象との関係も難しくなるし、また他人とうまく関係が結べないということがその人の機能を奪う程度の問題となるとしたら、自己機能をも削ぐであろう。

ところでこの自己機能のなかでの「志向性」とは何かということを語るためには、Cloningerさんの7次元モデル、ということを言わなくてはならない(と言いながら自分の整理のつもりで書いているわけだが。)

彼は、4つの気質、3つの性格というのを述べた。

気質:心気性、損害回避、報酬依存、固執 (生物学的、神経伝達物質に依存)。

性格:自律、協調、自己超越性  (環境要因に左右される)

面白い分類だが、結局残ったのはCosta,Goldberg などによる5因子モデルの方だ。ドーパミン、セロトニンなどの関連は面白いが、あまりエビデンスがないということで採用されなかったのであろうか。しかし彼の性格のうち自律や自己超越性は、自己機能に関係し、協調は対人関係機能に関係していたという意味では、パーソナリティ機能に関しては、Cloningerさんに大幅に依拠していたということになる。

つまりはディメンショナルモデルは大幅に7因子モデルや5因子モデルに依拠したということになるのだ。

ここら辺も納得できた。


2024年6月23日日曜日

PDの臨床教育 推敲 5

 なおDSM-5代替案とICD-11でPDがあるかないか、という診断は、当然のことながらモノセティックにおこなう。まずPDがある、とは自己のいくつかの側面の機能 functioning of aspects of the self と対人機能 interpersonal function に障害がある事だ。自己機能の障害とは、自分とはだれか、と言うアイデンティティの感覚。自分を肯定している。将来に向かった志向性を持っている、ということだ。また対人機能の障害は、他者と親密な関係を持ち、他者を理解し、対立に首尾よく対処できるということだ。

 さてDSMだと片方だけでもいいことになっている。「自己または対人関係」となっている。ICD-11もどちらか一方でもいいとされる。どちらでもいい、と言うよりはどちらか一方があればすでにPDとする、と言うべきか。そしてその障害がDSMだと中等度以上、ということになる。ICDだとこれが軽度、中等度、重度と3段階になっていて、それ+一つ以上の特性の問題がなくてはならない。またICDだと、軽度以下の場合は「パーソナリティの問題 personality difficulty」と表記し、それを問題とはしない。

ここで気がついたのだが、CPTSDに出てくる自己組織化の障害(DSO)は、結局実質上パーソナリティ障害のことを言っているということだ。なぜならこのCPTSDの 自己組織化の障害(DSOの部分)とは、 情動の調整不全、 否定的な自己イメージ、関係性の障害 であるが、それはパーソナリティ障害のディメンショナルモデル(DSM-5第3部、ICD-11) におけるパーソナリティ機能の障害にほぼ相当する。

上にも述べたように、パーソナリティ機能(DSM-5,ICD-11)とは自己機能(確かなアイデンティティ、自尊心の安定性など)の障害かまたは対人関係機能(他者と親密な関係を持つ力、など)の障害だからである。


2024年6月22日土曜日

PDの臨床教育 4

  昨日のエントリーに書き忘れたが、PDの10のカテゴリーにエビデンスがない、とはどういうことか。私も若い頃はDSMの10のカテゴリーについて、特に疑問を感じないでいた。しかし段々自分なりの考えが固まってきた。

 もっとも筆頭にあげられるべきBPDはいったん置いておこう。従来それと同列に扱われることも多かったスキゾイドPDについては、それと発達障害との区別はますます難しくなってきた。スキゾタイパル、スキゾフレニフォルムなどはDSMでは統合失調症性のものとして改変されている。また自己愛性PDについては、それが置かれた社会環境により大きく変化して、あたかも二次的な障害として生まれてくる点で、従来定義されているPDとは異なるニュアンスがある。

 ということで結論から言えば、DSMの10のカテゴリーの少なくとも一部についてはあまり信憑性もなさそうというのが実感なのである。私は個人的にはカテゴリーモデルを捨てきれないが、その候補として残るのは恐らくBPD,NPD,反社会性、回避性くらいということになり、これはまさしくDSM-5 の代替モデルで最終的に提唱されたカテゴリーに近いということになる。

ただしその中でしぶとく生き残るのがBPDなのだ。


2024年6月21日金曜日

PDの臨床教育 推敲 3

ともかくもカテゴリカルモデルの問題について、文献に沿って論を進めよう。しかしそれにしても面白いのは、書けば書くほど、自分がいかに勘違いしていたか、わかっていなかったが分かるということだ。

Bachの論文によると、カテゴリカルモデルには次の3つが問題であった。曖昧な診断閾値、カテゴリーの間の重複が著しいこと、10のカテゴリーわけのエビデンスがないこと、そして臨床的な有用性がひくいこと、であった。
 これについては、いわゆるポリセティックとモノセティックという議論があり、ポリセティックとは、例えば10の基準のうち6つを満たせばOK,モノセティックとは3つをすべて満たさないとダメという診断法だ。そしてDSMのカテゴリカルモデルでは、ポリセティック方式であった。例えばαパーソナリティ障害(αPD)について、a-jまでの10の基準のうち6つ満たせばいい、となると、ある患者はa,b,c,d,e,f,で、別の患者はe,f,g,h,i,j満たしていた場合、両方は同じαPDでも、二つしか症状が重複せず、かなり違った様子を示すことになる。これは問題であろう。
 あるいはa,b,c,d,eの5つしか満たさなければαPDとは言えないのか、ということにもなる。これが曖昧な診断閾値という意味だ。(もっと言えば、どうして7つでもなく5つでもなく、6つ満たさなくてはならないのか、ということも同じ議論だ。)実際にこの診断基準を使ってみるとそれなりに重宝であるが、以下にもかっちり書かれたテキストに従った診断を下しているようで、不思議な感覚を覚えていたものである。それにこの調子だと、ある人はαPDの基準は4つ、βPDの基準は3つ、γPDを4つ、などと言うことになり、かなり診断が重複する可能性もあれば、「他に分類されないPD」に多くの人が入る事にもなるだろう。

そこでDSM-5代替案では、思い切った対策を考えた。それはPDが「あるか、ないか」を指定するという形にしたのだ。いわばPDを一つにしてしまい、それがあるかないかという形での診断をすると、これは重複の使用がない。しかしいくらなんでもそれは大雑把すぎるということでPDに機能レベルということを考え、要するに重症か、中等度か、軽症か、といった段階に分けることにした。これだとある人は「PDあり、軽症」別の人は「PDあり、中等度」と診断したとしても重複診断と責められることもあまりないだろう。


2024年6月20日木曜日

PDの臨床教育 推敲 2

  ところで学問の世界は最初は非常に大雑把なものであった。直感的に正しそうだったら、あるいはあるその道の権威が言ったら、それが信じられてテキストになった。クレペリンやシュナイダーの理論も、そしてDSM-Ⅲに掲げられたPDもそうであった。しかし学問が細分化され、実証性が追及されるようになると、色々な矛盾が追及されるようになり、定説が覆されて学説がいろいろ変わっていく。統合失調症で言えば、昔言われていた破瓜型、妄想型、緊張型、という分類は随分長い間常識であったが、これらの分類の実証性が問われるようになり、結局DSM-5では消えてしまっている。これなどは一つの典型例ではないか。私が医師になって長い年数を当たり前のように使って来たこれらの概念は一体何処に行ってしまったのだろう?

 話題をPDに戻す。 米国ではDSM-Ⅱ(1968)まではシュナイダーやクレッチマーのモデルに類似したものだったが、DSM-Ⅲでは精神分析におけるBPDや自己愛性格の理論を背景に、これらを含んだ独自の10のひな型が提示されていた。例えばボーダーライン(BPD)や反社会性パーソナリティ障害と聞くと、比較的直ぐに「あ、ああいう人か?」と思い浮かぶようなネーミングが施された。これをピジョンホールモデル、あるいはカテゴリーモデルという。ピジョンホールとは鳩が一羽ずつ入っている穴のことだ。そしてこの10はそのままDSM-IV(1994)にも、DSM-5(2013)にも踏襲されたのだ。
 この10の類型でいいのではないか、ということには、実はならなかった。言われるかもしれないが、実はこの問題がいろいろ指摘されている。というのもどれにも属さない、あるいはいくつかが混じっているという診断が沢山出てきてしまうからである。少なくとも個々の患者についての診断には直感的に役立つものの、PD的な問題が臭うものの診断できない、というケースも沢山出てくるのである。

2024年6月19日水曜日

PDの臨床教育 推敲 1

 本稿のテーマはあくまでも「PDについての教育の仕方」である。つまりPDとは何か、ということではなく、PDとは何かをどのように注意して若手医師に教育すればいいのか、ということである。つまりは教え方のポイントということだ。

PDのエッセンスとは何か
 私達は人に何事かをレクチャーする時、そのテーマの本質についてなるべくわかりやすく、簡潔に伝えることを心がけるものだ。その意味でPDの議論の本質は何か? それはPDとは症状を伴う精神疾患ではなく、何らかの性格上の問題を扱うという点である。その人はうつや幻聴や失神などの症状を呈しているわけではない。だから病気とは言えない。でもどこかに生きにくさを備えている。例えば嘘をつく、怒りっぽい、など。それは性格に属するのだろう。それは誰でもある程度は持っている性質だが、それが極端な形で現れる。そこでそれを性格(人格)障害と呼ぼう、ということになった。しかし人格、と言っても大雑把なので、人が持っている認知パターン、感情パターン、対人関係のパターンのいずれかの偏りと考える。だいたいこれで性格の偏りをカバーすることが出来るわけだ。

この三つのパターンに関しては、DSMのPDでA,B,C群に分かれていたのが象徴的だ。アメリカでは、A群はmad,B群はbad,C群はsadに分かれると教わった。「PDはマッド、バッド、サッドだ」と。A群はスキゾイドPDなどに象徴される思考過程の特異性を伴ったPD、B群はBPDや反社会性などの対人関係に問題を抱えたPD,そしてC群は回避性PDなどの、感情面での問題を抱えたPDということになる。

1800年代にクレペリンなどにより精神医学が整備された際に、彼らは人格障害の分類にも着手した。例えばクレペリンは軽佻者、欲動者、帰郷者、虚言者、反社会者、好争者の7つに分類し、シュナイダーは類似のものを10個提示した。結局これらが代々引き継がれてDSMに至ったと考えればいいだろう。

しかしここで抑えておくべきなのは、こと性格に関しては、一般心理学でも研究の対象とされていたということである。そしてこの精神医学的な人格(障害)と一般心理学的な人格とのある種の融合が行われたのがいわゆるディメンショナルモデルなのだ。

2024年6月18日火曜日

PDの臨床教育 7

 ところでICD-11で5のかわりに採用された制縛性(強迫性)anankastia が入っているのも正直わからない。というより「アナンキャスティック」なんて表現、ムカ~シ医局の先輩が「彼はアナンカストだな」とつぶやいたので意味を調べたという記憶以外に思い出せない。それに「セイバクセイ」という表現もほとんど聞かない。だからせめて「強迫性 obsessive」くらいにしてくれないだろうか。DSMの精神病性 psychotic の代わりにこちらが選ばれた理由についてはある文献に書いてあった。それによるとこの精神病性は他のパーソナリティ障害とは一線を画し、むしろ統合失調症関連としてとらえるべきだから、というのである(Bach, et al, 2018)。それにICD-11では「パーソナリティ障害の深刻さ」のなかに現れるのだ。要するに精神病性は別格、その代わりに強迫性を入れよう、というのは私も賛成である。なぜなら強迫的な性格の人って結構周囲にいるような気がするからだ。

Bach B, First M. Application of the ICD-11 classification of personality disorders. BMC Psychiatry 2018.

しかしDSMの側では、制縛性(強迫性)を入れなかったのにもそれなりの理由があるという。制縛性(強迫性)は二つの要素に分かれ、一つは完璧主義(⇔脱抑制)、もう一つは保続(同じパターンを繰り返すこと)だが、保続は陰性感情の一つだというのだ。だから制縛性は思慮深さと陰性感情ですでに表現されているのだという。だから独立させる必要はないと考えたそうだ。しかし保続が陰性感情という説明は私には今ひとつピンとこないので、これについては意見は述べられない。

 そしてもう一つ、ICDではここにボーダーラインパターンなるものが加わるのだ。つまりボーダーさん的であることは一つの特性だと言いたいようである。これはよく分からない。だってBPDはカテゴリカルの典型ではないか、とも考えられるからだ。ただし確かに10のカテゴリーの中で一番研究され、また診断されることも多いのがこのボーダーラインだったわけで、これはぜひとも入れたいという気持ちもわかる。


2024年6月17日月曜日

PDの臨床教育 6

 ということで私なりにDSM の5つの特性を言い換えたのが以下の通りである。

1.陽性感情⇔陰性感情

2.外向性 ⇔ 内向性

3.同調性⇔反発性

4.衝動性⇔思慮深さ

5.奇矯さ ⇔ 分かりやすさ


かなりわかりやすくなっていないだろうか?要するに人は、どれほど機嫌がいいか、どれほど人に賛成するか、どれほど人に溶け込みやすいか、どれほど衝動的か、どれほど思考が分かりにくいか、という5つのそれぞれ独立した指標でその性格を言い表すことができるというわけだ。

 以上はDSM-5の話だが、ICD-11 がこれとは微妙に異なるから厄介なのだ。いったいどちらを信じていいのやら。どうせだったら統一してほしいのに。

そこでICDの方を見てみよう。ICDは特性として、否定的感情、離隔、脱抑制、非社会性、制縛性の5つだ。DSMの5つと似ているようで似ていないようだ。しかしよく見ると、DSMの5つはだいたいそのうちの3つはICDに引き継がれていることが分かる。


1,情緒安定性 ⇔ 神経症性(否定的感情)  そのまま(否定的感情)

2.外向性 ⇔ 内向性(孤立傾向)そのまま (離隔 detachment )

4.脱抑制 disinhibition ⇔ 誠実性 そのまま(脱抑制)

3.同調性 agreeableness ⇔ 対立 antagonism のかわりに?非社会性dissociality 

5.精神病性 ⇔ 透明性 lucidity のかわりに制縛性(強迫性)anankastia


 問題は同調性⇔対立という軸の代わりに、好社会性⇔非社会性が入っていることだ。これは同一のこととは言えないであろう。前者(DSM-5)は要するに人とどれほど対立するか、という問題だが、後者(ICD‐11)は人にどれほどの悪さをするか、ということである。私としては後者の方が特性として入ってほしいと思う。なぜならこれはいわゆる反社会性パーソナリティやサイコパスに関するものだからだ。そもそもパーソナリティ障害の始まりは、この犯罪者性格をいかに扱うか、というところから出発していたからである。


2024年6月16日日曜日

PDの臨床教育 5

 3.同調性 agreeableness ⇔ 対立 antagonism

人と和するか、それとも対立するか。これも2と同じ議論になりそうだが、次のような疑問が生まれる。「人と同調しやすい人は、外向性も高いということになりはしないか?」「孤立がちな人は、周囲になびかないから、対立的と言えないだろうか?」うーん。そんな気もしてくる。つまり2,3はある程度相関があるのではないだろうか。この同調性⇔対立という言葉は、このままでいいだろう。そして次に行こう。


4.脱抑制 disinhibition ⇔ 誠実性 conscientiousness

実はこれが一番わかりにくい気がする。脱抑制的な人は思い付きで行動し、感情表現をする。衝動的、と言ってもいい。「誠実」な人はルールを守り、周囲に迷惑をかけないというわけだ。これは2とも3とも従属的な関係を持ちそうだ。突飛な考えをする人は、対立傾向が高くなるだろうし、すると結果として孤立してしまうというパターンを考えやすいからだ。逆に周囲に気を使い、ルールを守る人は周囲とうまくやり、孤立することは少ないだろう。ところでこの後者のconscientiousness を「誠実性」と訳しているわけだが、もっとピッタリなのは「思慮深さ」ではないだろうか。あるいは入念さと言ってもいい。そしてこの対は「衝動的⇔思慮深い」という言い方をすると最もよくわかるのだ。


5.精神病性 ⇔ 透明性 lucidity 

これもまたよくわからない。先ほどはこれを「奇妙な思考をするタイプ⇔常識タイプ」と言い換えたが、そもそもlucidity 透明性、というのが分からない。しかしlucid で英和辞典を引くと、1.澄んだ,透明な. 2.頭脳明晰(めいせき)な.3わかりやすい,明快な.とある。つまり明快で誰にでも理屈が分かるという意味だ。lucid explanation というと「透明な説明」とは絶対に訳さない。「明快な説明」だろう。lucid とは明快さ、分かりやすさ、なのである。だからこれを言い換えると、「奇矯さ ⇔ 分かりやすさ」がぴったりくる。


2024年6月15日土曜日

PDの臨床教育 4

 私がこの原稿を書いていて有難いと思うのは、これまでわからないままになっていたbig five に掲げられていた以下のタイプに納得がいったということである。要するに学術用語に惑わされていたのだ。だいたい「精神病性 VS 透明性」などと言われても何のことだかわからないのが普通ではないか。


1,情緒安定性 ⇔ 神経症性(否定的感情) 

2.外向性 ⇔ 内向性(孤立傾向)

3.同調性 agreeableness ⇔ 対立 antagonism

4.脱抑制 disinhibition ⇔ 誠実性

5.精神病性 ⇔ 透明性 lucidity 


でもうんと砕いて言えば次のような事だろう。(あくまでも私の主観による)


1.情緒安定性 ⇔ 神経症性(否定的感情) 

何時も気持ちが安定していて落ち着いているという傾向 ⇔ 気持ちが不安定で、というよりは怒りや悲しみと言った負の感情を体験しやすいという傾向と言い直すことが出来るだろう。これはわかりやすい。

ここで「否定的感情」のかわりに「肯定的感情」を考えたなら、喜び、安心感ということになるが、それらを体験している人は結局は「心が安定している人」ということだ。だから「肯定的感情⇔否定的感情」としなくてもいいのだ。これはわかりやすい特性と言えるが、それを情緒安定性⇔神経症傾向、などと言うからわからなくなるのだ。


2.外向性 ⇔ 内向性(孤立傾向)

人と交わることを好むか、孤立を好むかという対立軸で、これもわかりやすい。そしてこれは1.肯定的、否定的感情の問題とは別の話だ。感情的な人が他人を巻き込む場合には、かなり迷惑な存在になるだろう。他方では人嫌いだが、それに満足する人もいるだろう。
 ただし孤立しがちな人が否定的な感情を持ちやすいのではないかというassumptionを私達は持ちやすいとは言えるのではないか。孤立を好む人は対人接触をストレスに感じ、怒りや憎しみをそれだけ表現しやすいということもあるだろう。だから1と2が完全に相関しないかは疑問ではないか。


2024年6月14日金曜日

「トラウマ本」トラウマと心身相関 加筆部分 5

 本来転換性という用語はFreudの唱えたドイツ語の「転換 Konversion」(英語のconversion)に由来する。 Freudは鬱積したリビドーが身体の方に移されることで身体症状が生まれるという意味で、この転換という言葉を使った。

 ちなみにFreudが実際に用いたのは以下の表現である。「患者は、相容れない強力な表象を弱体化し、消し去るため、そこに「付着している興奮量全体すなわち情動をそこから奪い取る」(GW1: 63)。そしてその表象から切り離された興奮量は別の利用へと回されるが、そこで興奮量の身体的なものへの「転換(Konversion)」が生 じると、ヒステリー症状が生まれるのである。
 さらにFreudは言った。「ヒステリーが、和解しない表象を無害なものにすることは、興奮全量を身体的なものに置き換えた結果としてできる(防衛―神経精神病、1894)」
 しかし問題はこの転換という機序自体が証明されているわけではなく、転換性障害に心理的な要因 psychological factors は存在しない場合もあることである。心的葛藤が身体症状に転換されるというFreudの説明は仮説の一つに過ぎないのだとStone は主張する。
Jon Stone (2010)Issues for DSM-5:Conversion Disorder  Am J Psychiatry 167:626-627.

 このようにFreudの転換の概念を見直すことは、心因ということを考えることについての反省をも意味する。そしてそのような理由でDSM-5においては転換性障害の診断には心因のあるなしを問うていない。これはこの障害の概念そのものの大幅な変更ということになるのだ。  転換性障害の最新のDSMやICDに従った分類を参照すると、それがあまりに網羅的である事に驚く。つまりそれらは視覚症状を伴うもの、聴覚症状を伴うもの、眩暈を伴うもの、その他の特定の感覚障害を伴うもの、非癲癇性痙攣を伴うもの、発話症状を伴うもの、麻痺または筋力低下を伴うもの、歩行障害の症状を伴うもの、運動障害の症状を伴うもの、認知症状を伴うもの ・・・・・・ と数限りない。つまり身体機能に関するあらゆる症状がそこに含まれることになる。これが予断を多く含んだ転換性障害の概念が消えた事と引き換えに生じたことになるのだ。


2024年6月13日木曜日

「トラウマ本」トラウマと心身相関 加筆部分 4

 いわゆる転換性障害 conversion disorderないしはFND

 MUSの筆頭に挙げられるのは転換性障害である。ただし実はこの「転換性」という表現自体がもう過去のものとなりつつあるために、新たにFND(functional neurological disorder 機能性神経症状症)と呼ぶべきものである。しかしここではわかりやすく「転換性障害」という表現を維持したい。
 という点についてもここで述べなくてはならない。その意味でここでの見出しも「いわゆる転換性障害」という表現を取っているのである。そして後に述べるように、この転換性という概念と共に心因性という考えも見直されるようになったのである。
 そもそも従来から転換性障害と呼ばれていたものは随意運動、感覚、認知機能の正常な統合が不随意的に断絶することに伴う症状により特徴づけられる。ひとことで言えば、症状からは神経系の疾患を疑わせるような症状を示すものの、神経内科的な検査に裏付けられない様な病状を示す状態である。
 もともと「転換性」という概念は古くから存在していた。DSM-Ⅲ以前には「転換性ヒステリー」ないしは「ヒステリーの転換型」という用い方がなされていたのである。しかし2013年のDSM-5において、この名称の部分的な変更が行われた。すなわちDSM-5では「変換症/転換性障害(機能性神経症状症)」(原語ではconversion disorder (functional neurological symptom disorder=FND ))となった。つまりカッコつきで「機能性神経症状症」という名前が登場したのである。
 さらに付け加えるならば、2023年に発表されたDSM-5のテキスト改訂版(DSM-5-TR)では、この病名がさらに「機能性神経症状症(変換症/転換性障害)」となった。つまり「機能性神経症状症が前面に出て「変換症/転換性障害の方が( )内にという逆転した立場に追いやられたのである。この調子では、将来発刊されるであろう診断基準(DSM-6?)では転換性障害の名が消えて「機能性神経症状症」だけが残されるのはほぼ間違いないであろう。
 ところで同様の動きは2022年の ICD-11の最終案でも見られた。こちらでは転換性障害という名称は完全に消えて「解離性神経学的症状症 Dissociative neurological symptom disorder」という名称が採用された。これはDSMの機能性functional のかわりに解離性dissociative という形容詞が入れ替わった形となるが、それ以外はほぼ同様の名称と言っていいだろう。
 さてこの「転換性」という表現が消えてFND「機能性神経症状症」になったことは非常に大きな意味を持っていた。まずこの名称はこれまで転換性障害として定義されたものを最も客観的に(そして味気なく)表現したものである。機能性、とは器質的な変化が伴わないものを意味し、また神経症状症とは、症状としては神経由来の(すなわち心、ないしは精神由来の、ではなく)症状をさす。つまり「神経学的な症状を示すが、そこに器質的な変化は見られない状態」を意味するのだ。
 ところでこの神経症状とは、神経症症状との区別が紛らわしいので注意を要する。後者の神経症症状とは神経症の症状という意味であり、不安神経症、強迫神経症などの神経症 neuross の症状という意味である。
 他方ここで問題にしている前者の神経症状、とは神経(内科)学的 neurological な症状をさし、例えば手の震えや意識の混濁、健忘などをさす。簡単に言えば症状からして神経内科を受診するような症状であり、具体的には知覚、感覚、随意運動などに表われる異常であり、病名としてはパーキンソン病やアルツハイマー病、多発性硬化症などが挙げられる。
 そして転換性障害が示す症状はこれらの知覚、感覚、随意運動などに表われる異常であったから、それらは表れ方としては神経症状症と呼ぶことが出来るのだ。
  さて問題は転換性という用語が機能性に置き換わることになった意味である。そしてそれは「転換性」という言葉そのものについて問い直すという動きが切っ掛けとなっていた。その動きについてJ.Stone の論文を参考に振り返ってみる。

2024年6月12日水曜日

「トラウマ本」男性性とトラウマ 2

 男性の性愛性と嗜癖モデル

 改めて問う。男性は不感症だろうか? すでに述べたとおり、私はそうとまでは言えないと思う。男性にとって性的交渉は一定の快楽を与えてくれる体験であることは確かなことだ。

 しかし男性の性的な欲求は、それが楽しさや心地よさを得ることで充足されるとは必ずしも言えない。むしろそれが今この瞬間にまだ満たされていないことの苦痛が、男性を性行動に駆り立てるという性質を有する。つまり男性の性愛欲求の達成には(身も蓋もない言い方であるが)「排泄」に似た性質を有するのだ。
 このような性質をもう少し学問的に表現するならば、男性の性的満足の機序は、嗜癖モデルに似ているのだ。さらに詳しくは、いわゆる incentive sensitization model (ISM)(インセンティブ感作理論、Berridge & Robinson, 2011)に従ったものとして理解をすることが出来る。このモデルは次のように表される。

 嗜癖行動においては、人はliking (心地よく感じること)よりも wanting (渇望すること)に突き動かされる。つまりそれが満たされることで得られる心地よさは僅かでありながら、現在満たされていないことの苦痛ばかりが増す。これが渇望の正体であり、これは一種の強迫に近くなる。
 男性の性愛性もこの嗜癖に近く、ある種の性的な刺激が与えられると、性的ファンタジーが湧き、このwanting だけが過剰に増大する。しかし通常はそれを即座に満たす方便がないために、それを抑制するために過剰なエネルギーを注がなくてはならないのだ。
  また男性が仮にその性的欲求を満たす相手に恵まれても、その相手と共に心地よさを味わうということからはどうしても逸脱するということも問題である。男性は絶頂を迎える瞬間は別の人を想像することさえする。性的な刺激を加速度的に高めるためには、目の前の相手以外の誰か、場合によってはポルノグラフィーで見た女性を空想することもありうる。こうなると相手の個別性や人間性はどうでもいいということになりかねない。これはある意味では相手(多くの場合女性)をモノ扱いすること objectification に繋がるのだ。

 ちなみにこの理論についてはさらに詳しくはリーバーマン(2020)の著書をお読みいただきたい。


本章のまとめ

 以上の本章の議論をまとめよう。男性の性愛性の加害性の一部は、それがパラフィリックな性質を本来的に有する可能性に由来する。男性が他者を害することでしか性的な満足を覚えることが出来ない場合、その男性は理不尽にも「生まれながらに断罪されるべき運命」を背負うことになる。これを私は男性性の持つ悲劇性として捉えた。

 一般的な男性の性的満足の機序は、嗜癖モデル(ISM)に従った理解をすることが出来る。すなわち性的な刺激を受けると抑えが効かないような衝動が生まれる。男性が性的満足を追求する時、目の前の対象と心地よさを追求するということからは逸脱する傾向にある。これは女性をモノ扱いすることに繋がり、男性の性愛性において部分対象関係が優勢になるということを意味する。このような男性の性愛性の性質が、それが「劣情」と呼ばれる根拠であろう。

 もちろんこのような性質について説明することは、性加害を行う男性を免責することにはならない。しかし男性の性犯罪者に対しては、それが嗜癖行動の結末という点を考慮した場合には、刑罰よりは治療に重点を移すべきであろうという議論は成り立つ。また男性による性被害を予防するために、男性の性愛性の性質についての更なる学問的な理解は今後も重要となるである。


2024年6月11日火曜日

「トラウマ本」男性性とトラウマ 1

 男性の性愛性の持つ加害性について、なぜ男性が語らないのか?

  ここで男性の「性愛性」、という言い方をするが、私は実はsexuality を「性愛性」と訳すことには少し疑問がある。むしろ性の性質ということでそこに「愛」が含まれていないのであるから、「性性」と呼びたいところだが、そのような言葉はないので男性の性愛性という表現をこれ以降も用いていく。
 そこでまずは男性の性愛性についてあまり男性が語らないのはなぜかについて、幾つかの可能性を考えたい。
 それは男性自身が持つ恥や罪悪感のせいではないかと考える。そもそも男性の性愛性は恥に満ちていると感じる。それはどういうことか。
  男性は特に罪を犯さなくても、自らの性愛性を暴露されることで社会的信用を失うケースがきわめて多い。最近とある県の知事が女性との不倫の実態を、露骨なラインの文章と共に暴露されたという出来事があった。またある芸人は多目的トイレを用いて女性と性交渉をしたことが報じられて、芸人としての人生を中断したままになっている。これらの問題について男性が正面から扱うという事には様々な難しさが考えられる。
 彼らは違法行為を犯したというわけではないであろうし、そこで明らかな性加害を働いたというわけでもなさそうだ。しかしそれでも社会は彼らに何らかの形で制裁を加えることになるのである。
 このような問題が特に男性の性行動に関して生じやすいことについては、一つの事実が関係している。それはいわゆるパラフィリア(小児性愛、窃視症、露出症、フェティシズムなど)の罹患者が極端に男性に偏っているという事実である。
 パラフィリアはかつては昔倒錯 perversion と呼ばれていたものだが、その差別的なニュアンスの為に1980年代にパラフィリアに変更になったという経緯がある。確かに英語で「He is a pervert!」というと、「あいつはヘンタイ野郎だ!」というかなり否定的で差別的な意味合いが込められるのだ。
 パラフィリアはかつては性倒錯とも異常性欲とも呼ばれていたが、その定義はかなりあいまいである。むしろそれに属するものにより定義されるという所がある。それは盗視障害、露出障害、窃触障害、性的サディズム、性的マゾヒズム障害、フェティシズム障害、異性装障害(トランスベスティズム)、その他である。これらのリストからわかる通り、その性的満足が同意のない他者を巻き込んで達成する形を取る場合には、明らかに病的、ないし異常と言えるだろう。例えばそれは窃視症であり露出症である。相手がそれに臨んで同意している限りはそれは「覗き」とも「露出」とも呼ばれないはずだ。
 しかしこのパラフィリアは複雑な問題をはらんでいる。それは最近あれほど叫ばれている性の多様性に、このパラフィリアの話はほとんど関わっていないからである。もちろん窃視症や露出症が性的な多様性に含まれないことは理解が出来る。しかし例えばフェティシズムの中でも無生命のものに恋する人たち(いわゆる対物性愛 object sexuality, objectophilia)が差別的な扱いを受けるとしたら、それに十分な根拠はないのではないか。男性の性愛性が含み得るこれ等のパラフィア的な傾向が、それだけで病的とされるとしたら、それはそれで問題であろう。そもそも「覗き」や「露出」あるいは小児性愛をファンタジーのレベルにとどめて決して同意していない他者を巻き込まないとしたら、それも病的と言えるのであろうか?
 これらの問題に応える形で、DSM-5の診断基準には、重要な条件が掲げられている。すなわちその行為を「同意していない人に対して実行に移したことがあるか」、または「その行為が臨床的に意味のある苦痛、または社会的、職業的、またはほかの重要な領域における機能の障害を引き起こしているか」の条件を満たすことで初めて障害としてのパラフィリアが診断されるのである。
 しかしフェティシズムの様に生きている対象を含まない場合には、それを最初から精神障害のカテゴリーに入れることに正当な意味はあるのであろうか?
 いずれにせよ男性の性愛性にはそれが加害傾向を必然的に帯びてしまう種類のものが多い一つの理由として、このパラフィリアの問題を示したかったわけである。

ここまで

男性の性愛性の加害性と悲劇性


 ここで男性の性愛性が加害的であるだけでなく、悲劇的であるという私の論点を示したい。一つの悲劇は、サイコパス性や小児性愛の傾向は生得的なものと考えられることである。
 性的な衝動そのものは生理学的なもので、それに善悪の判断を下すべきものではない。というよりはそれが繁殖行動に結びついている限りは、基本的には生命体にとって肯定的なものと判断すべきだろう。
 とすればその人にとって自然な性衝動を満足させる手段が必然的に加害的とならざるを得ないという事は、その人の性愛性が本来的に負のもの、存在が望ましくないものということになり、いわば生まれた時に罪を負っているようなものだ。これは非常に悲劇的な話である。

 さらに深刻とも言えるのは、能動的、積極的な性質は男性の性的ファンタジーや性行動にとって本質の一部であるという可能性である。このテーマはとても大きな問題を示すことになり、ここではその問題の存在を示すだけに留まるが、私自身の立場は男性が性的な関係において積極的であること、ある種の男性の側の能動性と女性の側の受動性が少なくとも男性の側にとって都合がいいと感じるのは、男性の側の脆弱さ、不安、ないしはパフォーマンスフォビアが関係しているという議論を展開したことになる。

 女性の側が男性に性的な関わりを積極的に求めてきた場合を考えよう。男性はそに応じるようチャレンジを受ける立場になり、男性の側に「自分にそのような能力はあるだろうか?」という不安を起こしかねない。そしてそれは一種の去勢不安が生じてもおかしくないのである。彼はその場から逃げ去りたくなるかもしれないし、いざという時にED(勃起不全)を招く可能性もあるだろう。私は男性の性愛性についてかつて、その様な可能性も含めて論じたことがある。(岡野、1998)。
 そこで男性の性愛性を、自分からそれを積極的に相手に求めるという立場の方が、その逆よりも不安を喚起しない、という意味での能動性を有するものと考えると、それは一線を超えて侵入的、破壊的、となる可能性をより多く含むであろう。これは大変大きな問題と言える。 

 男性の性愛性の持つ加害性については、上記の問題を持ち出すまでもなく、以下のような具体的な例を考えを考えるだけでも明らかであるように思われる。ある女性の患者さんは次のように言う。

「今日ここに来るまで我慢して電車に乗ってきましたが、一人の男性が私を上から下までじろっと好奇の目で見たんです。それが実に気持ち悪くてトラウマのようになってしまいました。」

 私は同様の話を多く聞くし、その気持ちに共感する半面、その男性はどのような気持ちでその女性を見たのであろうとも考える。そしてそれは男性としての私自身が女性を見ることへのためらいの気持ちを生む。男性が自分にとって魅力を感じる女性について視線を向けることそれ自体が迷惑であり、加害的であるとしたら、これはもう男性の性愛性そのものが加害的と認めることに近くはないだろうか。

2024年6月10日月曜日

「トラウマ本」恥とトラウマ 加筆訂正部分 

 地獄は他者か

恥というテーマは、私が1982年に精神科医になって最初に取り組んだ問題であるが、本書の執筆を機会にトラウマの観点から再考を加えたい。
 恥の体験もまた私たちにとって深刻なトラウマとなりうる。恥はまたトラウマを受傷したという事実そのものに対しても向けられる。特に性的なトラウマはそれが生じたこと自体を他人に相談することへの強い抑制が働く傾向があり、その一つの重要なファクターが恥の意識なのである。

まずは恥のテーマとの私の関わりについて簡単に述べる。私はいわゆる対人恐怖症への関心から出発した。つまり精神の病理一般の中でも特に、恥の持つ病理性に着目していたのである。恥は広範な感情体験を包み込むが、その中でも特に「恥辱 shame」と呼ばれる感情は、深刻な自己価値感の低下を伴い、一種のトラウマ的な体験ともなりうる。私たちの多くは、そのような体験をいかに回避し、過去のその様な体験の残滓といかに折り合いをつけるかということを重要なテーマとして人生を送るのだ。
 我が国における対人恐怖症や米国のDSMにより概念化されている「社交不安障害」は主としてこの「恥辱」の問題を扱っていることになる。その一方では「羞恥 shyness」として分類される気恥ずかしさや照れくささの体験は、恥辱のような自己価値感の深刻な低下を伴わず、さほど病理性のないものとされる傾向にある。

例えていうならば、おなじ自分の裸をさらす体験でも、自分の裸体を恥じているかによって恥辱にも羞恥にもなるのだ。しかしこの簡単な例からもわかる通り、場合によっては羞恥体験もまた深刻なトラウマ性を帯びることになる。それにもかかわらず、私はどちらかと言えばこの羞恥に関してはこれまであまり関心を寄せないできたという経緯がある。
 私がこれまでに世に出した恥に関する著述(岡野、1998、2014、2017)は以上を前提としたものであった。しかしそれらの考察が一段落した今、改めて恥について考える際に、私自身が改めて疑問に思うことがある。

 


2024年6月9日日曜日

解離・昨今の話題(学会発表用)

 6月末の日本精神神経学会の発表のスライドをまとめている。こういう機会があるたびにすごく勉強させていただいている。

  • 最近欧米の神経内科の立場から機能性障害FNDを精神科に任せずに自分達も積極的に扱おうという機運が生まれた。
    神経内科の外来で一番多いのがこの機能性障害であるという事情があった。癲癇と思ったらPNESだった、という風に。

  • ICD-11では初めて、FNDが精神医学と神経学neurology の両方に同時に掲載されるという画期的な出来事が起きた。

  • ICD-11最終版では神経系疾患の一つとしてDNSD(解離性神経症状性障害)が掲載された。(神経内科では依然としてFNDを使用している様子である。)

  • ついに「世界FND協会」まで設立された!(ただしまだ若い協会らしい。)


ただし神経内科の専門医は、「解離」という言葉を使いたがらない? PNESの論文に「解離」という単語が出てこない。


2024年6月8日土曜日

PDの臨床教育 その3

 取りあえずはアイゼンクの3パターンで行こう。つまり

1.いつもニコニコ安定タイプ(⇔すぐ落ち込むタイプ)

2.友達付き合いのいいタイプ(⇔一人が好きなタイプ)

3.ルールを守るタイプ(⇔ルールを破るタイプ)


 まず一つ分かるのは、これらの3タイプについては、例えばスネ夫タイプ、などのように一人の人間を思い浮かべることが出来ないということだ。なぜならこれらは皆がある程度持っている性質に過ぎないからだ。例えば最初の項目(情緒安定性⇔神経症性)に関しては、「いつもニコニコAさん」タイプか、その反対の「いつも不機嫌Bさん」タイプかの二つを思い浮かべなくてはならないが、これは一つの性質の両極端を表しているので、ややっこしい。そこで「どの程度不機嫌か」という指標で表すしかない。そして、2,3についても、「どの程度孤独傾向があるか」、「どの程度ルールを守らないか」という風に言い表す必要がある。
 そして仮にそれぞれの極端な人を想定して「不機嫌Bさんタイプ」、「孤独なDさんタイプ」、「秩序を乱すFさんタイプ」、というカテゴリーを作ったとしても、すぐにそれをはみ出す人が続出する。なぜなら大抵の人間は、どれかがある程度混じっていることになるからだ。
 例えば一匹狼の印象を与える人は、孤独で秩序を乱す人もいれば、孤独でも順法精神が旺盛で、ただ群れていたくない人もいる。既にここで二手に分かれてしまう。私の思い浮かべるジャイアンなら、仲間を引き連れ、すぐに感情的になり、ルールを守らないタイプ、ということになり、「不機嫌、群れを成す(友達づきあいがいい)、ルールを破る」というディメンショナルな表し方になる。これは実際のジャイアンについてはほとんど直観に訴えない、分かりにくい表現となるが、例えばジャイアンの弟であるプチジャイアン(実際にはそんなキャラは出てこない)は、もしジャイアンに似ていても要領がよく、秩序を乱さずに常識的なら、「遵法タイプのジャイアン」などと言い表すことになり、こうなると色々条件付けされたカテゴリーを作らなくてはならなくなり、訳が分からなくなるだろう。

 以上の考察からこんな風に言えるだろう。カテゴリカルな分け方、つまり「のび太、ジャイアン、スネ夫」的な分け方はその典型例、つまり尖った人を言い表すのには最適であろうし、DSMはそれを10個用意したわけだが、大体はそれほど極端に尖ってはいず、「のび太君の亜種」、「ジャイアン+のび太君」、などの言い方しかできなくなるのだ。

 別の言い方をするならば、たいていの人たちは実に多くの要素を含みこんだ、ひとことで言い表すことが出来ない性格を持ち、それを出来るだけ正確に言い表そうとしたら、結局ディメンショナルな表し方になるのだ。つまりディメンショナルは本当にやむをえすそうするしかない、という苦渋の選択なのである。

 そこで思い出していただきたいのは、プリンターのインクの色だ。大抵の皆さんは高いインクを購入するたびに怒りに近いものを感じているだろうから、マゼンダ(≒赤)、イエロー(黄色)、シアン(≒青)という呼び方を御存じだろう。分かりやすく赤、青、黄色とすると、それがどの程度混ざるかでもって大抵の色を表すことが出来る。そしてそれらの色として、性格に関しては先ほどの「落ち込みやすさ」「孤独傾向」「ルールを守らない」の3色が抽出される。(もう少し微妙な色を表すとしたら5色とか16色とかのアイデアも出た。)ただそれを抽象的な言葉で表すので、陰性感情とか、内向性とか、精神病性などの、聞いた限りでは何のことかわからない用語でその3色を表そうとして理解を得られないことになるのだ。

 昔大学の入試の時に「セピア色の解答用紙に書くように」という言葉が出てきて少し驚いた記憶がある。私はセピア色という言葉を聞いたことがなかったが、大学入試の解答用紙に堂々と、当たり前のように使われているのが印象的だったのだ。それから「セピア色」の感じを知ったわけだが、今ではあの質感、クオリアを知っているつもりだ。でもあればインクの3原色の微妙な調合で出来るはずである。赤みがかった茶色、という感じか。いちいちセピア色という言葉を使わないなら、「赤2+、青1+、黄色2+」などと言い表すしかない。これは直観的ではないが、より正確なのだ。

ただしセピア色の鞄やスカーフが大はやりしたとしたら、「セピア色」が直感的に通じるようになり、それが通称として成立する。するとセピア色はセピア色でいいではないか、それだけ社会でインパクトが大きいからとなる。そして実際に、緑、紫、橙、などは社会や自然の中で尖っているので、カテゴリーとして成立していたわけだ。(そういえば色というのはカテゴリカルだなあ、と改めて思う。絶対に「赤3+、青2+、黄色1+」などと表現されないからだ。でもコンピューターにつないだプリンターはそうやって出力しているのである。