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2010年7月24日土曜日

おタクについて 11 さかなクンについての補足

さかなクンについての話が、ちょっと尻切れのままだった。大学院のわがゼミでこの話をしたところ、M1の岡●君が,かつて彼が読んだというさかなクンの情緒あふれる文章について話した。それをあとでメールでまわしてくれたものが以下のものだ。(無断転用だが、さかなくんが作者であることは明記)


「いじめられてる君へ」


中1のとき、吹奏楽部で一緒だった友人に、だれも口をきかなくなったときがありました。


いばっていた先輩が3年になったとたん、無視されたこともありました。


突然のことで、わけはわかりませんでした。でも、さかなの世界と似ていました。


たとえばメジナは海の中で仲良く群れて泳いでいます。


せまい水槽に一緒に入れたら、1匹を仲間はずれにして攻撃し始めたのです。


けがしてかわいそうで、そのさかなを別の水槽に入れました。


すると残ったメジナは別の1匹をいじめ始めました。


助け出しても、また次のいじめられっ子が出てきます。


いじめっ子を水槽から出しても新たないじめっ子があらわれます。


広い海の中ならこんなことはないのに、小さな世界に閉じこめると、


なぜかいじめが始まるのです。同じ場所にすみ、同じエサを食べる、同じ種類同士です。


中学時代のいじめも、小さな部活動でおきました。


ぼくは、いじめる子たちに「なんで?」ときけませんでした。


でも仲間はずれにされた子と、よくさかなつりに行きました。


学校から離れて、海岸で一緒に糸をたれているだけで、


その子はほっとした表情になっていました。


話をきいてあげたり、励ましたりできなかったけれど、


だれかが隣にいるだけで安心できたのかもしれません。


ぼくは変わりものですが、大自然のなか、さかなに夢中になっていたらいやなことも忘れます。


大切な友だちができる時期、小さなカゴの中でだれかをいじめたり、


悩んでいたりしても楽しい思い出は残りません。


外には楽しいことがたくさんあるのにもったいないですよ。


広い空の下、広い海へ出てみましょう。




東京海洋大客員助教授・さかなクン



すばらしいよね。やはりさかなクンはASP●●●●と思う。そういうことになる。そして彼は私の分類に基づけば、おタク(いい意味での)と呼べるのだと思う ・・・・・。

しかしもういい加減にASPとかおタクとかのレッテル貼りについては飽きてきた。私はただただ彼らの時折示す不思議な脳の機能に魅了されるところがある。そしてこれはまさに私にとってないものねだりというところがある。私は「かも」おタクになり、コレクションをすることに決めたが、つくづくおタクの才能がないことがわかる。まだ3つしかアイテムが集まっていないし・・・・・。

2010年7月23日金曜日

オタクについて 10 ダニエル・タメット氏の例

実はもう一人私が期待しているASPさんがいる。こちらはかなり有名な人で,私は彼の本を読み,ユーチューブでその実際の表情や物腰を見て気に入った人だ。彼は実に優しく穏やかな印象をあたえるが,その持つサヴァンとしての能力はとてつもない。超能力といった感じがする。ダニエル・タメット31歳。彼の自叙伝“Born on a Blue Day” は日本語で訳されている。(「ぼくには数字が風景に見える」 講談社2007年)
彼は例えば数桁同士の掛け算を、いくつかの色を伴った図形同士の結合のように捉え,二つの図形が混じり合った図形の色と形がそのまま積を示しているという。実際に彼の「計算」の様子を見ていると、紙の上で指先を動かしながら図形をイメージするだけで、決して数字を扱う計算はしていない。

彼には著しいこだわりもあり,例えば毎朝食べるシリアルは,厳密に重さを計量して同じ量を食べるという。その意味で彼は立派なアスペルガー症候群なのだが,でもとても温かく繊細という印象を受ける。しかしもちろん彼の実際の人柄は知らないから、私は「期待」するのである。
実は彼の温かさと彼のホモセクシュアリティーとは関係しているように思える。米国に滞在中常に思っていたことがあるが、細やかな気遣いをする、「日本人的」な白人男性はその多くが男性のパートナーを持っていた。私は彼らの多くが好きで、親交もあった。後にタメット氏の同性愛傾向を知ったとき,彼を映像で見た時の細やかさは,それと関係していたのか,と納得がいったのである。

2010年7月21日水曜日

オタクについて 9 さかなクンはASPクンか?

きのうNHKのお天気情報で、「猛暑になるので、昼間の外出はなるべく控えるようにしてください。」と言っていた。これを平日に言われてもねぇ・・・・・。会社で営業が「今日は暑いので、外回りはやりません」とはとても上司にはいえないだろう。
今日はオタクのホープ「さかなクン」の話である。彼を話題にして申し訳ないが、マスメディアにあれだけ露出している以上、「公人」扱いさせていただいてもいいだろう。
私にとって「さかなクン」は希望の星である。私は彼がテレビチャンピオンに出てきたころから追っかけている(たぶん8~9年くらい前か?)が、彼がASPさんではないか、と思い始めたのはずいぶん後になってからである。彼がもしASPさんだとしたら、ASPさんたちは誇りに思うべきではないか?最近テレビで見ると、「ヒェー」、とか「ピャー」とかいう奇声を発することが目立つが、テレビチャンピオン当時は、それはとくに目立たず、ごく普通の青年だった。
テレビチャンピオンで彼が見せた動作の中でよく覚えているシーンがある。彼が他の競技者と戦っている場面で、確か器に入っている魚の種類を、時間内に数え上げるとかいったシーンだった。他の競技者(つまり彼にとっては競争相手の一人)が器を運ぶ途中でひっくり返してしまい、拾って入れなおすといった場面になったのだが、さかなくんは、「大変だ!」とか言いながら自分の競技をほっぽり出してそのライバルを助けていたのである。これはチャンピオンになるべく戦っている人にはなかなか出来ないことである。ましてや他の何人かの競技者は自分たちの作業を着々と続けてゴールに近づいていたのだから。
この動作からもわかるとおり、さかなクンは「いい人」なのである。他の競技者の痛みを感じて、犠牲になってでも助けてしまうところがある。バロン=コーエンの言うところのE的な部分が旺盛ということだろうか。
だからどこかでさかなくんみたいなASPさんもいる、という話を聞くと、それは違うだろう、と思ったものである。ものすごい凝り性であるところは認めるが、あまりに優しいからだ。しかし最近考えを変えた。彼をASPさんとすることで、ASPさんにも様々な人がいる、という風に考えた方がいいではないか?私は小児精神医学の専門ではないから、ここら辺はご都合主事で行こうと思う。(続く)

2010年7月19日月曜日

オタクについて 8 オタクのふりをする

今日も外は暑いらしいが、何日かぶりに一歩も外出しないという日を送った。
私は実はオタクの素質がなく、たとえば自慢できるコレクションなどは何も無い。楽器のミニチュアには「おっ!」となる程度だ。だから万年筆や刀などのコレクションをしている人に出会うと、ちょっと羨ましくなる。コレクションは、確実に旅を楽しくする。誰だったか、有名人でトイレットペーパーの収集癖がある人は? その人など、確実に地方の鄙びた旅館に行くことの楽しいが増すであろう。

ということで私もコレクションをすることにした。たまたまM病院のナースが精神科のオフィスの鍵につけてくれた不思議なキャラをネットで調べてみて、「カモノハシかも」というゆるキャラであることを知り、それでも集めてみようか、と思った。そう、今日から私は「カモノハシかも」オタクになったのだ・・・・。

発売元のサンエックス株式会社のサイトから、特別の許可を得て紹介しよう。
しかしもともと特別に興味を持っているわけでもないのでそれ以上に進めないでいたら、ある患者さんが、そんな私に、近所のガチャガチャで仕留めてきたという「カモノハシかものマスコットのぬいぐるみ」をくれたのである。再び「おっ」となり、ほんの少し興味の針が動いた。調べてみると、このキャラ自体はいつもひよこと間違われそうで、自分に自信のない性格で、語尾に「かも」をつけるキャラで、いつも首をかしげ、ご丁寧に頭の上に「?マーク」を付けているという。このキャラを院生の豊●さんが持っていたのも、少しは刺激になったカモ。

ところでこのカモノハシかもに、くろい「お友達」がいることを最近発見した。その名も「かものはしダス」。こちらは本物のカモノハシで秋田出身、口癖は「~だす」。性格も自信家で断言する傾向にあるという。面白いキャラ設定を考えるものだ。


さて、先日ほっておいた「萌え」、というテーマの続きである。

萌え、とは要するに「心がトキめく」という風に私は理解している。Wikiによれば、「萌え(もえ)とは本来の日本語では、草木の芽が出る(伸びる)様を言う。」というが、そんなことはわかっている。そうやって私たちは子供の頃から使ってきたからだ。そして「萌え」が「燃え」に移行することなく(ここは本田氏の表記を借用している)、そのままでとどまるならば、要するにプラトニック・ラブのままで進行するのであれば、これはオタクが持つ一つの美徳とさえ言えるのである。人知れず相手を思い、理想化し、その存在に恥ずかしくないように自らを高めるなんて、美しいではないか? 一見ストーカーに間違えられるかもしれないが、実は人畜無害で悪気のないものであることがすぐ分かるだろう。でただし・・・・・・。オタクにおける「萌え」にはどこか未発達で倒錯的なニュアンスがつきまとうのも確かだ。彼らは本来はモノに、秩序に、形式に心を奪われる。モノや形式は外部から与えられ、オタクはそれを受身的に味わい、楽しむ。「萌え」はそれが恋愛対象に置き換わっただけ、というニュアンスがある。本来モノに対する私たちの情熱と、愛情対象に対する情熱には、全く異質の心の働きが関与しているはずだろう。後者には相手との同一化や情緒的な交流を伴う、両方向性の関係で、先日紹介したバロン=コーエンの理論では、E的な能力が絡む。オタクがS的な感受性と情熱をたまたま異性(または同性)に向けたら、それは一方的で受身的で、本来交流を前提としないような恋愛感情(らしきもの)を意味するだろう。それが「萌え」の本体だとしたら?うーん、やはり「萌え」は一種の異常(性)愛なのだろうか? 私もせいぜい「萌え」はゆるキャラに留めることにする。

2010年7月18日日曜日

おたくについて 7. 続き

今日は大変な暑さだった。梅雨が終われば終わったで先が思いやられそうだ・・・・。

昨日の話の続きである。私たちが他人と関係するということは、そこに「相手を利する」部分を自然と含むものだ。相手が喜ぶ言葉をかけ、相手を心地よくする。何も特別なことではない。相手の痛みや心地よさは、少なくともある程度は自然に感じ取ることが出来る。私たちはこれを自然にやっているのだ。エレベーターに駆け込んでくる人を見たら、「開」をしばらくの間押してあげる。両手に荷物を抱えている人を見たら、かわりに扉を開けてあげる、などである。この部分が欠如している人間関係はきつい。そしてそれは治療者患者関係でも同じなのだ。
昔アメリカで私のあるASPの患者さん(男性、20歳代)が父親をなくした。私が関係していた病院でなくなったために、私もある程度事情を知っていたし、そのASPさんの反応を心配した。しかし母親と一緒に外来に現れた彼は、むしろ父親の死をどのように感じたらいいのかに当惑していた。「普通こういうときは悲しい、というのはわかるんです。ただ・・・・」と彼は言った。彼は特別父親と関係が悪いというわけでもなかった。よく一緒に趣味のカードの蒐集をやっていた。父親を亡くして、恨みが晴れた、うれしかったという事情はなかったはずである。しかし特別の悲しさもなかった。というより実感が持てずにいた。彼に親を亡くしたことによるショックを気遣う必要がなさそうだということを知ってホッとはしたが、彼の感情の欠如が印象的だった。
もちろんこれはアスペルガー障害一般に当てはまるとは言わない。肉親や友人をなくして深刻な悲嘆にかられる人も多い。しかし「心の理論」の希薄さが、思いやりの希薄さに直結しているようなケースでは、そのようなASPとの生活に深刻な寂しさやむなしさを体験する人が多い。
私がかかわっているASPの患者さんのごく一部に、残念ながらこれが当てはまる。私は常に何か利用されている、という感じを持ってしまう。そうだとすれば、彼らにとってもかなり不幸な話といえるだろう。

2010年7月17日土曜日

おタクについて 7.  時々ASPさんたちに共感できなくなる

「ASP(アスプ)さん」とは、アスペルガー症候群と言われている人たちの総称として私が勝手に使う用語だ。しかし決して差別的な呼び方と思わないで欲しい。私は実はアスペルガー症候群は病気ではないのではないかと思うほどだ。なにしろ「男性的」な人たちは、みなアスペルガー的だからだ。(ただし「男性的」、という場合には、女性でもありうるし、もちろん「男性的」でない男性諸君の存在も想定している。またここで言う「男性的」とは、マッチョのイメージとは程遠い.要するに心の働き方のことだ。)おそらくこのASPさんたちとおタクと呼ばれる人たちは一致はしていないが、共通集合が大きいだろう。だからこのおタクについてのエッセイで、ASPさんたちに登場してもらう。

ちなみにASPさんではないおタクとはどのような人たちか? ASPさんたちはアスペルガー症候群の特徴を、程度の差こそあれ備えているのであるから、空気の読めなさ(「心の理論」の希薄さ)と物事への特殊なこだわりを持つ人達ということになる。だからこだわりがあってもそこそこ対人関係が保てたら、ASPではないオタク、ということになる。そしてその中には美的センスが高く、こだわりにも品があって多くのファンに支持される人もいるだろう。創造的で、芸術もたしなみ、目利き、などと呼ばれて重宝がられるかもしれない。北大路魯山人などもそのような人だったのではないか? 彼などは華麗で、創造的なおタクではあっても、ASPさんではなかっただろう。

ともかく、ASPさんたちについての話を続けよう。実はASPさんたちの中には、どうも共感の糸を保ちにくい人がいるということを時々感じるのだ。もちろん愛すべきASPの人たちはたくさんある。私たち臨床家は、たいてい自分の担当するクライエントの立場にある人たちに特別の共感を示す傾向にある。私たちが自分たちの共感能力や愛他性を一定の量しか持てない以上、その対象を限らざるを得ないからだ。すると第一に家族、そして次がクライエントに対してということになる。これは何も治療者として逸脱したことではない。「お客さんは大事にする」、ということに過ぎないのである。クライエントさんについては物事を出来るだけ好意的に解釈することは、臨床家が自分の仕事にモチベーションを持ち続けるためにも、そして自分の自己愛のためにも大事なことなのだ。

ASPさんたちがクライエントとして持っても、それは同じなのだが、それでもとても難しいことがある。そしてそれは、おそらく彼らの心の理論の希薄さ、と関係している。臨床家としての患者に向かうポジティブな気持ちは、実はクライエント側からのほんの少しでも伝わってくる「思いやり」に依存しているということがわかるのだ。そしてそれをなかなか向けてもらえないのである。そしてそれを彼らはなかなかわからない・・・。(続く)

2010年7月15日木曜日

オタクについて 6 「萌え」がよくわからなかった

オタクと「萌え」がどう繋がるのか、私はこれまでよくわからなかった。それもあり、私自身はオタクの世界とは遠いのではないかと思っていた。オタクに恵まれているのはやはり記憶力だろう。「物覚えは悪いが、~に関してはオタクである」、という人はあまりいない気がする。オタクが成立するためには、システムを比較的苦労なく頭に入れる、というより頭に自然と入ってくることができるという条件が成立していなければならないだろう。ちょうど言語を自然に習得する幼児のように。

アスペルガーの人々と会っていて少なくとも彼らが恵まれていると思うのは、物を覚えることに関してあまり苦労していないということで、これってとても幸運なことなのである。MR(精神遅滞)の方と会っていて彼らの苦労、つまり頭にものが容易に定着しない、という悩みに比べれば。(問題は覚えたことを使いこなす能力というのはそれとは別、ということではあるのだが・・・・。)

ということで私はオタクがよくわからないのは、やはり記憶の質の問題だと思っているが、少しその理解に近づいたと思ったのが、「萌え」についてであった。「萌え」について少し読んでもわからず、一種の「ヘンタイ」ではないか、くらいにしか思っていなかったのだ。しかし最近ある患者さんの父兄に教えてもらった本を読み、少しわかったような気がした。本田透氏の「萌える男」(筑摩書房、2005年)という本を通して、である。

私は以前こんな話を聞いて、オタクを馬鹿にしていたところがある。いわく、彼らは秋葉原のメイド喫茶でも、メイドさんの姿をまともに見ることが出来ない。ケータイか何かをいじりながら、チラチラ、とその姿を見るだけである、など。どうも尋常でない気がした。少なくとも、男らしさ、たくましさという点では実に情けない人種である、と。

ところが本田氏によれば、そこには一種の美学があり、彼らなりに完結した(というか、人に迷惑をかけない)セクシュアリティのあり方があるということになり、こうなると話がずいぶん違ってくる。
(続く)

2010年7月14日水曜日

オタクについて 5 言語の能力その他との関連

オタク系の能力の特徴、すなわち受身的に外部から形式を取り入れることに快感を得るという特徴は、実は私たちが幼少時に発揮する様々な能力、例えば言語能力の獲得と似ていることがわかる。言語の獲得に関して、子供は天才的である。少しでも外国語の習得に苦労した人には、このことは容易に理解できるはずである。30才を過ぎて海外に出ると、そこで学び始めた外国語の単語一つを覚えるのでさえ大変である。その国の言葉の発音についても、類似の子音や母音を母国語に持たない場合は至難である。(圧倒的に、母音、子音の少ない日本語の場合、それを母国語に持つ私たちが外国語のマスターに手間取るのは、もはや必然的といわざるを得ない。)ところが一緒に外国にわたった四,五歳の子供は、現地校に入ってほんの数カ月で、すでに会話程度に不自由を覚えないほどにその外国語をマスターしているのである。
一般に私たちは幼少時に、特に苦労すること泣く、極く自然に言葉をマスターする。おそらく言葉は容易に脳に入ってきて、緩やかな快感を伴って脳に定着する。だから子供は親や兄弟の話し言葉に食い入るように注意を受け、それを取り入れる。これ自体は非常にアスペルガー的なプロセスである。
結局私は何が言いたいのかといえば、アスペルガー的な脳の働きは、実は私たちの幼少児にはごく自然に起きていることだということである。子供がモノに凝る、ということはある意味で自然だ。遊戯王カードや機関車トーマスの数多くの登場人物の名前をあっという間に覚えてしまうあの集中の度合いは「サバン的」とも言えるだろう。その勢いで虫に懲り、切手に懲り、カードゲームに懲り、ということを大人になっても続けていると、オタクと呼ばれてしまうわけだ。

2010年7月13日火曜日

オタクについて 4 オタクか、創造者か

やはり院生には悪いが、此処にキミたちのことを書く事は難しい。あえて書くとしたら、「●●さん、少しは●●●したまえ。」となってしまい、何のことだかわからなくなるだろう。結局登場するのは、カミさん(私のブログに興味がないから決して読まない)、両親(PCを持っていない)、そして私がアメリカで出会った人々(日本語が読めない)、うちの犬(チビ:ブログを読めない)に限られてしまうのだ。

オタク vs 創造する人、という図式で今度は創造する人を描写してみよう。創造する人はまず本や物語を読むのが苦手だ。面白さは多少はわかるが、「しょせん物語り,現実のほうがもっとすごいことが起きるだろう。」と思っている。学術書を読んでも、それが自分の専門だと、三分の一ページ読んだところで、「自分だったらこのように論旨を展開する」と書き直したくなり始め、先に進めない。彼はものを書くときも、それがかつて誰も言わなかったことであるほど、それに価値を置く。昔の人がすでに言ったことはあまり意味がないと思うし、そのために文献を渉猟することも面倒くさくなってしまう。物集めに凝る蒐集する、分類する、という事へのエネルギーは相対的に少なくなる ・・・・・。
この人物像は、実はイギリスの精神分析家D.W.ウィニコットのプロフィールに私が脚色を加えたものである。精神分析の歴史の中で、彼ほど創造的な仕事をした人はないであろう。そして彼は読書が上に書いた意味で苦手だったと言う。引用文献も少なく、エッセイのような論文の書き方をしている。それでいてその独創性から、後世に与えた影響は大きい。
では普通の人間はどうかと言えば、両方を少しずつ併せ持っていると言うことであろう。そしてIQ的な意味での知的水準が高いと言うことは、オタク的な、システムを吸収する力がそれだけ高いし、またそれが広い範囲に及ぶと言うことだろう。オタクの場合は、どのようなシステムに関心を持つかが限定されていることが多いが、IQの高い人間は、それが広い範囲に及ぶ。どの分野にも、そこに存在するシステムを取り入れ、その面白さを理解することが出来る。本が好きで、映画が好きで、いろいろ博識である。器用に物事を吸収していくが、そこに創造性は保障されはしない。

2010年7月12日月曜日

オタクについて 3 モノづくりではない

オタク現象は極めて興味深いし、ここのオタクは極めてユニークな人間であることが多いのだが、オタク現象と創造性とはかなりの距離があるといっていい。それどころか、オタクであることは創造的ではないこと、といってもいいように思う。想像がこれまでにない何らかの体系や形式を生むことに興味があるならば、オタクはすでにそこにある構造に魅了されて、さらに取り込んでいこうとする営みなのだ。たとえば昔ポケモンカードというのが流行った。子供たちは新しいポケモンが一挙に発表されたら、夢中になってキャラクターの違いを覚え、その個々の機能についても覚えこむ。「このプクリンって名前変だな。別のものにしよう」、などとは決して考えない。子供たちはその名前の奇妙さも含めて覚えこむのである。それは徹底した受身性の表れとみてよいだろう。
彼らが受身的に受け取るのは、ポケモンのキャラクターのような人工的なものばかりではない。自然もまたその対象となる。自然界に存在するものは独自のパターンとその変化の多様性を持つ。それがこたえられないのだ。すると例えば自分の集めているゾウムシの背中のしわの数が一つ多いだけで感動し、夢中になる。ここにもまた徹底した受身性がある。
このように考えると、オタクの興味の対象は創造性とは真逆の性質を有するということの意味が今一つわかるような気がする。彼らは自分でそれを作れてはいけないのだ。ミヤマカミキリには胸部に横皺があるという。<突然だが。>ミミヤマカミキリを一頭(と呼ぶそうだ)追い求めている虫屋は、しかし決して他のカミキリにサインペンで横ジワを書き入れて喜びはしない。それは自然から与えられなくてはならず、それをとるまではボルネオの原始林の中で、捕虫網を構えて何日も待つ覚悟があるのだ。
<なんか真面目になってきたなあ。集めてエッセイ集にしよう、などと思うからだ。>

2010年7月11日日曜日

オタクについて2

ところでもしマメさや几帳面さがS的な脳の働きの一つの表れだとしたら、女性はどうなのだろう?女性にもかなり几帳面な人がいる。私には、身近で仔細に観察できる女性は妻しかいないが(家庭円満の秘訣である)、かなりのマメさである。私は過去に妻と息子が家を空けて私だけが暮らす、という状況を何回か体験したが、そのたびに不思議に思うことがあった。しばらく私が普通に暮らしていると、リビングやトイレにほこりや細かいごみが溜まってくるのである。私は悪いことは何もしていない、ただ自然に普通に生活しているだけである。それなのに部屋が汚れるとはどういうことか?そして気がついたのだ。妻が毎日掃除をしていたのである!(気がつくのが遅い!)不思議なことはまだあった。風呂場の脱衣場にいつも積んである、奇麗にたたんだタオルが、使うごとに減っていくのだ!どうやら妻が毎日補給していたらしい。(気がつくのが遅かった!!)あとは汚れた皿が自然ときれいになっていない、脱ぎ捨てた衣服が自然とたたまれていない、などの発見を通じて、彼女が相当の仕事を毎日きちんとこなしていることを知ったのだ。これは相当のマメさだ!


妻はこんなエピソードも紹介してくれた。中学の頃、数学の試験の前の日に、三角定規を試験に持参するよう言われていたことを思い出した。そこで彼女は余った布で三角定規を入れる袋を作りだした。そして結局それに時間がかかって試験勉強ができなかったという。なんという几帳面さだ!!

しかし彼女に見られるマメさは,やはりオタク系のマメさとは明確に異なると考える。私はそれを「巣作り系の几帳面さ」と呼びたい。それは過程というすを整えるためのマメさなのだ。他方オタク系のマメさは実際の生活とはおよそ無関係なそれなのである。