ラベル 解離 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 解離 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2011年2月2日水曜日

解離に関する断章 その16. いわゆる「マッピング」の功罪について

マッピングとは、DIDを有する人が、どのような交代人格を何人持っているかを探るという手法である。マッピング、とは変わった呼び方だが、患者さんが最初のセッションで大きな紙を与えられ、主人格の名前を真ん中に書き、他の人格の位置づけを、ちょうど地図を書くようにして書いてもらうという方法をとったことに由来するらしい(Kluft, RP, Fine, CG: Clinical perspectives on multiple personality disorder, 1993)。DIDの治療はすでに100年前にはアメリカのモートン・プリンスなどによりすすめられてきたが、同様の手法もその頃から用いられていたという。
このマッピングという手法は、リチャード・クラフト、フランク・パットナム、コリン・ロッスといったこの世界の偉大な先達のテキストに解説されているところを見ると、かつてはスタンダードな手法とみなされたらしい。確かにDIDの患者さんにその内部の人格をすべて書き出してもらうというプロセスは、治療の最初のステップであるという考え方はそれなりに意味があるのかも知れない。内科を訪れた患者さんは、まず全身をくまなく検査されるであろう。それと同じとも考えられる。
DIDの治療は、その道の先駆者により切り開かれていった。その中でもリチャード・クラフトの名は燦然と輝いている。彼が80年代より、自らの治療者としての力を誇示するかのような論文を発表し始めたとき、周囲の臨床家は畏敬の目でそれを見守った。彼はそこで33人の自験例の治療について触れているが、(Kluft (1984) Treatment of multiple personality disorder. Psychiatric Clinics of North America 7(1): 9-30.)そこに何人の交代人格を有していたかも表されている。それを見ると少ない例で二人、一番多い例で86人とされている。これもそのマッピングの手法でリストアップされたということだろう。
ちなみにクラフトはその表で同時に、自らの治療により人格の統合に至るまでに何ヶ月かかったかを記しているが、そこには4ヶ月以内という例が、なんと10例と記されている。三分の一の患者さんがわずか数ヶ月で人格の統合に至ったと記されているのである・・・・・。治療においてマッピングを行い、正しい治療を用いることで人格の統合を図ることが出来るという方針を彼が示してしまったことで、それ以降の治療者達はある種のプレッシャーを感じたとしてもおかしくない。
しかし最近のDIDの治療は、クラフトの頃に比べてずいぶん慎重になっているようである。その後のロッスの改訂版のテキスト(Ross, C.(1997) Dissociative Identity Disorder. Diagnosis, Clinical features, and treatment for multiple personality. John Wiley & Sons.)にはこんなことが書いてある。「第一版(1989年)以後私はマッピングについては異なる考え方を持つようになっている。私は敢えてそれをするよりは、各交代人格が自然に出現してくるに任せるようにしているのだ。」。そしてそれに対するクラフト氏の反論は聞こえてこない。
かつて私は、3年前にシカゴの学会で出会ったクラフト氏のことを、恰幅のいい「笑うセールスマン」のようだった、とこのブログで書いた。少なくともそれは、私が二十年以上も前にメニンガークリニックで見たときの彼の印象とは異なっていた。その頃は才気走ったカミソリのような印象を与えていた。治療者がその治療的な野心を抑えてゆったりと構えることの重要さを考えさせられたものである。

2011年2月1日火曜日

解離に関する断章 その15. 交代人格の間のコミュニケーションを図る

DIDの治療において、複数の交代人格の間の情報交換を図ることが大切であることは言うまでもない。DIDとは何人かの人が、同一の身体(脳も含めて)を共有しているようなものである。周囲の人はそのような事情は知らないのが普通であるから、交代人格どうしが少なくとも自分たちの中で、何を誰が行ったかを知っておくことは、周囲の人々との混乱を避けるためにもきわめて重要となる。
ここに述べた事情を、私がよく用いるマイクロバスの比喩に当てはめてみる。その時々で異なる運転手が運転台に座っていても、傍目には同じ姿と色をした一台のマイクロバスとしてしか映らないのが普通だろう。周囲は運転手は常に一人で、計画性を持って運転していると考える。だから運転手たちは、少なくとも自分の前に運転していた人が、どこに向かっていたか、どこでどのような荷物を積み下ろししたか、などのことは知っていないと不都合なのだ。
ただしこの異なる人格の間の情報交換を治療者が行うことには、複雑な事情が存在する。そもそも別人格に出会った治療者が、それを主人格に伝えていいのか、という疑問がまず起きるであろう。もちろん治療者がそれを促進するまでもなく、各人格の間の連絡は、自然発生的に、ないしは偶発的に行われているものだ。ある人はふと気がついたら自分の机の上が夜中に写真立てが粉々に割られていたことで、「誰か」がそれをしたことを知る。一人暮らしで、誰も侵入した形跡がないとすれば、そう考える以外にないからだ。あるいは自分が決して喫わないようなタバコを買っているということで、別人格の存在を認識する、という例もある。ノートに別の筆跡でメッセージが書かれていることで同様の理解にいたる、ということもよく聞く。だから治療者がそれを促進しても、なんら問題がないと思う向きもあるだろう。
しかし情報交換を治療者という第三者(?)が人為的に行うことには倫理上の問題が伴う。それぞれの人格には、プライバシーがあるからだ。自分の不注意で秘密が他人に知られることには我慢ができても、それを打ち明けた治療者が別人格に伝えたとなると、治療者との信頼関係に大きな意味を持ってしまうだろう。
この「交代人格の間のコミュニケーション」ということについてある程度結論めいたことを言うならば、以下のようになる。それを促進することは多くの場合、けっして悪くはないし、治療的な意味もたくさんあるに違いない。しかし人格の中には、ほかの人格について知りたく思わないという人はたくさんいる。あるいは無関心、という場合も少なくない。そこがこの問題を複雑にしているのだ。
異なる人格を基本的には別々の人間として理解するべきだということはすでに何度か述べた。再び同じたとえ話に戻るならば、彼らはマイクロバスで共同生活を送っている住人たちのようなものだ。しかし中の構造はきわめて複雑で、お互いがお互いをよく知らない。ある人格はその中の個別のブースに入っていることが多く、なかなかほかの住人に姿を現さない。ある人は責任感が強く、またある人はほとんど積極性を発揮しない。マイクロバス内のルールといえば、運転席がひとつしかなく、一度に誰か一人しかそこに座れないということくらいだ。そのような状況の中で、住人たちは互いの情報の交換に積極的になるだろうか?必ずしもそうではないだろう。
治療者はよく、DIDの方の日記に複数の筆跡を見出して、どうして当人はそれを不思議に思わないのだろうかと思う。しかしマイクロバスのホワイトボードに皆が勝手に予定を書き入れても、互いに関心を持ち合うということはあまりない。よほど自分のプライバシーを侵してきたり、自分のものを勝手に使ったりする同居人については特別の関心を払うであろうが、それ以外は他人にはあまり注意を向けないほうが普通だろう。基本的には「他人事」だからだ。

2011年1月31日月曜日

解離に関する断章 その14. 「暴力的な交代人格」をコントロールする

解離性障害を扱う専門家の間で、あるいはその患者さんにかかわる家族の間で、よく「暴力的な交代人格」の扱いをいかにすべきかが話題となる。確かにそのような交代人格が存在し、患者さんがコントロール不可能な状態になることはあるだろう。しかし私はすべてのDIDの患者さんの中に「暴力的な交代人格」が存在するかは疑わしいのではないかと思う。それはかつて自分に加害的な振る舞いをした誰かのイメージが取り込まれて交代人格としての体裁を獲得したものであり、しばしば畏れの対象となるのだろう。しかしその人格が実際的に外に現れて暴力を振るうということは、少なくともそれが起きる必然性については考えにくいのではないかと思われる。端的に言ってDID(解離性同一性障害)のひとつの特徴は、その人の高い感受性であり、それは人の痛みに対しても発揮される。他人に加害的な行為をした場合に、ほかの人格が自分の振る舞いとのあまりの齟齬に、内的なブレーキがかかることは十分あるだろう。 暴力的でコントロール不可能と思われる人格の非常に多くが、実際はとても苦痛で恐ろしい体験を担っている人格である場合は多い。その苦しみを今まさに味わっている状態で現れている時に、傍目には暴力的に見えるということはあるだろう。そのような人格が急に出てきて目が据わり、いきなりカッターナイフを持ち出して自分の腕を切りつけようとするかもしれない。そのような時に家族やパートナーが動転してカッターを取り上げようとすると、激しい抵抗にあう可能性が高い。その間にカッターがパートナーの体に触れて出血したりすると、「刃物沙汰」ということになり、何かその人格が凶暴な人のようなレッテルを貼られてしまうことは十分にあるだろう。しかしこの人格が本当に「暴力的」かどうかは非常に疑わしいのである。
純粋に加害的な暴力としばしば混同されるのが、「抵抗性の暴力resistive violence 」である。これはある行動を他者に制止されたときに発動するものだ。一般の社会人にもこれは容易に誘発される可能性がある。アルコールが少々入っているときなどはかなりその閾値が低くなる。よく地下鉄などでつまらない口論から小競り合いになり、暴力沙汰へと発展することがあるが、これも発端は他者への暴行というよりは、相手を制止する動作に対して半ば正当防衛的に体が反応したということが少なくないのだ。足を踏まれた男が、立ち去ろうとする相手に「ちょっと待ちたまえ」と肩をつかんだ際に、相手が大げさな動作でそれを振り払おうとする。これ自体は「抵抗性の暴力」の要素が大きいわけだが、相手はこれを純粋に加害的な暴力と理解し、「応戦」するということから殴り合いに発展する可能性もある。
この抵抗性の暴力が興味深いのは、おそらく人から不当な形で制止されたり、体の動きを封じられたとしたら、それが発揮されないほうが不自然だったり、病的だったりすることすらある点である。真の加害的な暴力に比べて、「抵抗性の暴力」はおそらく自己保存本能に根ざしている。どんなに穏やかな人格の人も、道を歩いている最中に乱暴な運転をする自転車に行く手を阻まれたらムッとするだろうし、大きな声を出したくなるだろう。
先ほどのリストカットを止められた人格にしてみれば、気持ちが高ぶった際にいつも自分で行っていたリストカットを制止されることで怒りが高じ、家族やパートナーともみ合いになることも十分にありうる。事情を知らない家族には、家族がいきなり暴力的になった、という印象を与える可能性が高いわけであるが、本人にしてみれば自分の当然の権利を奪われたことに正当な抗議をしたという気持ちが強いだろう。
交代人格が暴力人格に間違われるもうひとつのケースは、その人格が子供人格で、相手に対して力加減を知らない場合である。大柄で筋肉質の男性のDIDの患者さんが、いきなり子供人格にかわり、地団太を踏んで泣き喚いたとしたら、子供にとっては普通のしぐさでも周囲を圧倒するに違いない。交代人格と接触する際に、いざとなったら治療者が身体的な力で圧倒できるかどうかは、治療を安全に行う上での重要なファクターといえる。

2011年1月21日金曜日

解離に関する断章 12. メールを用いる効用

いまやメールやインターネットの社会である。ケータイの普及により人々の通話が増える以上に、おそらくテキストによるメッセージが増加しているはずである。じかにリアルタイムで話すより、時間差を設けてコミュニケーションを行なう。そして若者が友達同士と交わすメールの数は尋常ではないようだ。
ケータイやパソコンによるメール交換がこのように社会現象化している以上、もうその是非を問う時期ではないだろう。それが何を促進して、何に対する弊害になっているかを明らかにすることがむしろ先決である。インターネットやメールは人と人との生きたコミュニケーションを制限するのは確かではあるが、逆にコミュニケーションそのものの成立を容易にし、促進するという側面もある。たとえば囲碁の若手ホープの井山裕太名人は幼少時にテレビゲームで囲碁を覚えた後、師匠とのインターネット対局で腕を磨き、12歳でプロ入りしたという経歴の持ち主だそうだ。私は同様の効用を、解離性の患者さんとのやり取りで体験しているというところがある。
もちろん心理士や精神科医による面接をメールで行うということに関しては、様々な問題があろう。しかしそれは同時に、交通手段の問題や遠隔地に居住するという事情から患者が頻繁に治療に通うことの出来ないという事情があったり、治療者の側の身体的な障害そのほかでオフィスでの面接が不可能な場合に、これまでは不可能であった治療関係を成立させる可能性もあろう。
私は最近は、それ以外にも解離性障害の患者さんとの治療的なかかわりで、時々メールが特異な意味を持つ遠いうことを体験するようになっている。それは端的に、患者さんの交代人格が、メールを通してよりスムーズに連絡をしてくることが考えられるからである。
メールを用いた交代人格との交流がよりスムーズになるようないくつかの根拠をここに挙げてみる。患者の異なるいくつかの人格がひとつのメールアカウントを用いる場合、例えばAさん、Bさん、Cさんがそれを使っている場合を考えよう。そのうちの一人の交代人格Cさんに対してメールを送った場合、Cさんがそれに返答する用意がある場合はそれに答え、それ以外はそのメールを無視することになるだろう。これはセッションにおいてCさんに出会う機会がない場合にその代替手段となりうる。交代人格は多くの場合、臨床の場で治療者と対面することに躊躇することが少なくない。またその人格が活動する時間や状況が限定されいるなどして、オフィスで出会えない場合には場合にも、メールは治療者と交代人格が接触する機会を生むことになる。

2011年1月20日木曜日

解離に関する断章 その11. 火山モデルを用いた治療原則 ― 特に休火山の取り扱いについて

ある火山が、現在死火山の状態なのか休火山なのか、という区別は重要である。死火山ならもう噴火する可能性はないことになる。しかし休火山の場合は、それがどの程度将来噴火する可能性があるのかを見極めることが重要である。休火山は放置しておいても死火山になっていく可能性がある。ところがやがて再び噴火する可能性もある。後者の可能性が高いと考えられる場合は噴火を回避するために、早めに手を打っておく必要があるだろう。例えば軽い地殻変動による刺激を人工的に起こすことで、余計な歪みを解放し、本格的な噴火を防ぐことが出来るかも知れない。しかし場合によってはその刺激により、結果的に本格的な噴火を引き起こしてしまうかも知れない。
この例えを解離に当てはめるならば次のようになる。たとえば時々仕事中に飛び出してきて、職務を妨害するような子供の人格を考える。このところあまり姿を表すことがなく、このままおとなしくなってくれるかも知れない。しかしこれからさらにストレスの大きい仕事にかかわることになった場合、その人格が賦活化されることが十分予想される。そこで治療において早めにその人格を扱っておくということが重要になってくる。
ただしその為にその子供の人格を治療中に呼び出すことは、その人格の出現をある程度習慣化させることにつながりかねない。もちろんそうすることは、その人格がこれまで抑制されていた自己主張をある程度までまとまった形で行うことを保証する意味を持ち、合目的的かも知れない。しかしその間その人の社会適応レベルはある程度低下することを覚悟しなくてはならないのである。

2011年1月8日土曜日

解離に関する断章 その8  投影過剰か、取り入れ過剰か?

今、「続・解離性障害」という本を準備している。出版はまだ先になるだろう。その中で、2008年の「解離性障害」(岩崎学術出版社)で論じたことをまとめている。そこから新に何を考えたか、ということを示すためだ。2008年の同書には、まとめるならばこんなことを書いた。

「DID(解離性同一性障害)の病理をもつ多くの患者が訴えるのは、彼女たちが幼い頃から非常に敏感に母親の意図を感じ取り、それに合わせるようにして振舞ってきたということである。彼女たちは自分独自の感じ方、考え方を持たないわけではないにしても、母親のそれを自分のものとして取り入れることで、不自然にもいくつもの「自分」を心に宿すことになるのだ。そこで彼女たちがなぜ自己主張を行なったり、投影や外在化を用いて、自分の感じ方を押し付けてくる母親に対する反撃を行わないかは不明である。しかし少なくともそれが母親からの精神的な重圧だけでは説明できないことも事実である。」

「しかしどうして母親から示されたメッセージを取り入れることがストレスになるかを考えた場合、当然ながら娘の主観的な思考や感情があり、それが取り入れられたそれと矛盾するという現象が生じるのだろう。その意味ではベイトソンの示したダブルバインド状況そのものが実は解離性障害を生む危険性に関連していたということになる。この問題については、実は安 (1998) が生前指摘していたことでもある。」

うーん。いろいろ考えさせられる。DID出生じていることを、ボーダーラインと対比させることで論じる、ということを私はよくやるが、ここの図式はわれながらわかりやすいと思う。要は、投影projection 過剰か、取り入れ introjection 過剰か、ということになる。前者はボーダーライン。後者はDIDということになる。投影とは簡単に考えれば、人に耳の痛いことを言われて、その通りだと落ち込む代わりに、「あんたこそそうだ!」と言い返すことだ。これは実に大多数の人が行うことだ。精神科の研修医の頃だが、あるボーダーさんと思しき人に診断名を聞かれて、人格障害とはいえずにおずおずと「あなたは人格的な問題があると思います。」と言ってから、「しまった」と思った。案の定その患者さんからすかさず「そんなことを言う先生こそ人格的に問題があります!」といわれてしまった。これなどはいい例である。
ただ人からネガティブなことを言われて「あんたこそ●●だ」と言い返さず(投影せず)に「自分は●●だ」と引き受ける(取り入れる)ことの苦痛は、やはり何らかの形で処理されなくてはならない。自分にネガティブなレッテルを貼られて嬉しい人などいないからだ。そしてDIDの場合は、それは●●という性質を持った人格を内側に作ること、言うならば「自己の内部での投影」という複雑な規制ということになるだろう。うーん、話は複雑になってきた。

2011年1月6日木曜日

快楽の条件 その9  行動の完結そのものに快感がある

もし私が食事を開始したら、よほど途中で満腹になったり食欲を失ったりしない限りはそれを終わらすことに専念するだろう。また映画館に入り始めた映画鑑賞を、残り5分を残して中断して出てきてしまう人も珍しい。また何らかの文脈で自分の名前を書き始めて、途中でやめるということなどあるだろうか? 皿に盛られた食品を全て食べないと必要なカロリーを摂取できないから、映画の最後のシーンに秘密を解く鍵が隠されているから、書きかけの署名は用をなさないから、という理由以上に、私たちはものを完結させたいという欲求から、それらを最後までやり通す。完結それ自体が快楽的だからだ。だから私たちはあまり面白くない仕事でも、やり始めたら最期まで続けるのである。やり始めるまでは散々迷っても、いったん始めたとしたら、それを完結したいという欲求が突然増すとしか言いようがない。 ゲシュタルト心理学は、このような人間の性質に注目した学問であるといえよう。全体としてまとまったものがドイツ語でいうゲシュタルト(Gestalt)だが、それを試行するという人間の脳の性質に注目した心理学がこのゲシュタルト心理学である。
さてこれと深く関係しているのが、解離理論における「離散行動モデル」であると私は考える。人はどうして異なる自己状態を有する傾向にあるのか?どうしてスイッチングを起こすのか。それは行動がひとつの完結を見ることで次に移るような間隙が生まれるからであろう。ということで続きはあす。

2011年1月4日火曜日

(昨日の続き)

昨日の話の続き。私が外傷と解離との関連について考える上で理論的な拠り所とする人のひとりとして、マイケル・バリント(1896~1970)がいるということである。このことは「新・外傷性精神障害」(岩崎学術出版社、2009年)でも触れていることである。バリントは精神分析家であり、系譜としてはフロイトの直系の弟子シャンドール・フェレンチの弟子ということになる。ブタペスト出身の彼は、ナチズムを逃れて後に英国に移住し、そこで中間学派の対象関係論として活躍した。しかしそのアプローチはきわめて外傷理論としての色彩を持つ。本来は精神分析と外傷理論は水と油のところがあるから、彼のような存在は貴重である。



外傷理論を取り込んでいた
マイケル・バリント(1896~1970)

バリントの理論で一番知られているのは、いわゆる「基底欠損basic fault」という概念である。バリントは、これが母子間に生じることにより、後に重大な精神病理をきたすとした。彼はこれがある種の養育上の問題、不十分さ、であるというニュアンスをこめている。が、この「基底欠損」翻訳を宛てた中井久夫先生には申し訳ないが、ニュアンスを正確に伝えていない恐れがあるように思う。
英語の fault は、欠損 deficit というよりは、過ち、すなわち正常とは違ったことが起きた、というニュアンスがある。basic fault も、その意味では、「母子間に生じてしまった根本的な過ち、間違い」というニュアンスがあるのだ。バリントは次のように書いているのを、私自身が訳してみた。ここでfault を不具合などとしているが、そのほうが「欠損」よりはニュアンスを伝えているからだ。
「第一に、彼は何か自分の中に不具合 fault があると感じる。つまり直すべき不具合である。そしてそれは、コンプレックスではなく、葛藤ではなく、状況でもなく、不具合 fault であるというのだ。そして第二に、子供は誰かが、自分を駄目にしたfailed か、あるいはなすべきことを怠った defaulted on という感覚を持つ。(傍線岡野)そして第3に、このことはその領域に関して多大なる不安を起こさせ、それを今度は分析家には決して繰り返してほしくないという要求をして表現される。」 (He feels there is a fault within him, a fault that must be put right. And it is felt to be a fault, not a complex, not a conflict, not a situation. Second, thre is a a feeling that the cause of this fault is that someone has either failed the patient or defaulted on him, and third, a great anxiety invariarbly surrounds this area, usually expressed as a desperate demand that this time the analyst should not – in fact must not fail him. (Basic Fault ,P21.)
これでもまだ basic fault の正体は見えにくいが、一番説得力があるのが、彼が同じページで彼があげている例えである。彼はこのfault という表現は、地質学や結晶学でも使われているという。それは「全体の構造の中に突如見られる不規則性を意味し、その規則性は普段は姿を現さないが、ストレスがかかると全体の構造の崩壊を導くようなものである」という。
彼がこの basic fault を別の箇所で「外傷」と表現していることから、この結晶の不規則性は、ある種のトラウマとして位置づけられるべきものであることがわかる。しかし依然として、それは見えにくい、隠微な形で生じるそれである。バリントはそれを母親からの加害行為、という明確な表現のされ方などはしていないこともわかるだろう。 それは結晶構造の本来の問題かもしれないし、そこに加わった外的な影響、それも傍目にはわからないような微妙な影響かも知れない。恐らくその両者の相互作用で生じたものであり、それは隠微でかつ重大な亀裂がそこから将来生じるかもしれないような問題を残してしまったのだ。それを明確な外傷、対人外傷と表現できるものかといえば違うだろう。それは何らかの環境との行き違いであり、多分に相互的なものであろう。しかし患者にとっては主観的には、養育者が自分を「駄目にした、なすべきことを怠った」という印象を持つ。つまり被害者として自分を意識する可能性が高いのである・・・・。
私が「関係性のストレス」としてあらわしたいような母子間のストレスもまさにそのようなレベルのものなのである。そして関係性のストレスは、それこそ母子間の完成のずれ、ちょっとした言葉のニュアンスの違いから来るミスコミュニケーションという形をとりうる。そこから心の結晶は不規則な配列を生じ始め、それが解離症状の始まりを意味することが考えられるのだ。ところでこれを論じていくと、「親子関係」という途方も無い問題へと踏み込むことになる。(しばらく続く)

2011年1月3日月曜日

解離に関する断章 その7  DIDの成因

最近結構見ている正月二日の箱根駅伝。職業病で変なことを考えてしまう。走者はみな苦しそうな顔で、しかし走りのペースは崩さずに淡々と走ってくる。そして次の走者に襷を渡した途端、コーチらしき人にタオルを掛けられると同時に崩れ落ち、腰が抜けて立てないようになってしまうことが多い。これって鬱の発症に似ている。昨日まで仕事に来ていたのに、今日は朝から起き上がれない。そこで本人や家族が会社の上司に連絡をする。上司は当然「昨日まで平気だったよ。急に欝なんてありえないよ。甘えじゃないの?」

崩れ落ちたランナーに「ほら、しゃんと立て。さっきまで走ってきたじゃないか。甘えるな。しっかりしろ。その気になれば走れるんだ。」という人は、あまりいないだろう。この扱いの差はナンだろう?一種の差別扱いdouble standard と言えないだろうか?
さらに私の職業病がかっているのだが、彼らは襷を渡したときに、あるいは仕事に行けないことを受け入れたとき、スイッチが切り替わるのだと思う。なにも「別人格にかわる」とは言わない。しかし心身の状態が切り替わり、「もうダメ」状態になる。いったん変わったものを意図的に切り替え直すことは、通常の意志の力では無理なのだ。


DIDの成因という問題について考える。一昨日は「対人ストレス interpersonal stress」(最近欧米でのはやりの表現。結局は幼児期の心的、性的、身体的虐待 + ネグレクトの言い換え)との関係で、私の提唱する「関係性のストレス」という概念について述べたが、このようなことは他の人が言っているのか?これをちゃんと調べないといけない。ちょうど今審査のために読んでいる修士論文で、院生の期待の星Nくんが手際よくまとめているので参考にする。
まずはあまりにも有名な、Kluft の4因子説。(Richard Kluft は一昔前の解離の世界ではカリスマだが、最近は威光に影がさしている。この間学会で見かけたら、「笑うせえるすまん」みたいな風貌のただのオジみたいになっていた)第1因子は、本人の持って生まれた解離傾向。これはわかる。第2因子は「対人外傷」の存在。第3因子は「患者の解離性の防衛を決定し病態を形成させるような素質や外部からの影響」という、ある意味では一番掴みどころのない因子だ。しかしこれはその本人の持つ解離性障害の具体的なあり方を決定している要素、例えばアニメのキャラクターが交代人格のあり方に影響を与えるといった状況をさすらしく、解離性障害の形成自体は、第1,2因子で決定しているというところがある。なあーんだ、そういうことか。そして第4因子は、保護的な環境であり、言わばいったん成立しかかっている病理を保護修復する環境の欠如である。アメリカ人らしい、合理的な提案と言える。結局核心部分は、第1,2因子と考えていい。
もう一つ有名な Braun と Sachs の3 P モデル(1985)。彼らは準備因子、促進的因子、持続的因子である。このうち準備因子とは、本人の持つ解離能力や、優れたワーキングメモリーも含むという。そして促進的因子は、ここでもまた親からの虐待等が含まれるという。
解離性障害の発症については、この他にRoss の4経路モデルが有名だ。これは児童虐待経路、ネグレクト経路、虚偽性経路、医原性経路、という経路を考えるが、これもかなり大雑把な話である。要するに母子間の微妙な感情的、言語的なズレから来る亀裂、といったニュアンスはこれらの主要な理論には含まれていないということだ。ただしネグレクトでも解離が起きる、という提言については注目に価すると言えるだろうが。
私としてはやはりマイクル・バリントの「basic fault」の概念が一番「関係性のストレス」のニュアンスを伝えていると考える。(続く)

2010年12月28日火曜日

解離に関する断章 その6. 会津若松の思い出

解離についての本を書き進めているが、昔の思い出話が出た。
そもそも私が精神科医として新人だった1980年の前半は、解離性障害という用語や概念は専門家の間でもほとんど注目されていなかった。もちろんその当時すでにアメリカでDSM-Ⅲは発行されていたが、そこに挙げられている診断としての解離性障害は、日本ではあまり解離性障害は話題になっていなかった。当然私も特に解離というテーマに興味を持つことなどなかったが、なぜか催眠現象には興味があった。その頃慶応大学の小此木助教授が主催する精神分析セミナーに通っていたが、そこでフロイトと催眠の関係などについてすでに聞いていたからであろう。
ちょうど1984年の夏だったと記憶している。当時会津若松に催眠の専門家がいるというのを聞いて、泊りがけで勉強をしに行ったということがあった。TU先生とおっしゃる方で、今でも福島県で臨床を続けていらっしゃる。そこで何度か先生が主として看護師に催眠を導入し、そのなぜか若くて美人ばかりの看護婦さんたちが、コロコロと催眠にかかるのを目の当たりにした。また私自身もかけてもらうという機会を持った。しかし・・・・私はこのとき間はまだ解離に「開眼」しなかったのである。催眠についても深く考えたわけではなかった。このとき看護師さんの一人にかりた50CCのバイクで、日曜日に五色沼を通り過ぎ、野口英世記念館まで行ってきた事を覚えている。それと読破しようと持っていったフランス語の原書 ”Mille Plateau” (Deleuse, Guattari) がまったく歯がたたなかったことくらいしか記憶にない。おそらくその時に私がTU先生によってコロッと催眠にでもかかっていたとしたら、少しは人生観が変わっていたかもしれなかったが、あいにくそうはならなかった。私は「なるべく同僚や友人に頼んで練習台になってもらいなさい。」とアドバイスを受けたが、サボり続けた。私は依然として催眠現象の意味深さや多重人格の存在を疑う側の人間、後に述べる「信じない派」のままであり続けた。

後に私がアメリカで1990年代の半ばから外傷というテーマに本格的にかかわった際に、その流れで再び解離現象に興味を持つことになった。そのアメリカでの体験であるが、ご存じの通り、1980年にDSM-IIIが出現して、いくつかの障害が一挙に世に出て精神医学の世界で市民権を得るということが、ちょうど留学当初に起きていた。それらのいくつかの障害とはPTSDであり、「ボーダーライン」であり、社交不安障害social phobiaであり、解離性障害だったわけである。解離性障害は精神医学的には従来のヒステリーの同義語であったにすぎないわけだが、それが解離という言葉に置き換わることで、ヒステリーという言葉が持っていたスティグマ性が失なわれ(これを私は、「ヒステリーが解毒された」、と称しているわけだが)、さらにはそれが外傷というテーマとの関連で紹介されたこともあり、非常に大きな影響を及ぼしていたわけである ・・・・。

2010年12月27日月曜日

解離に関する断章 その5 内的対象なのか、別人格なのか?

解離をめぐる問題で、臨床家が患者の症状が示唆する別人格の存在にとの程度向き合えるかどうかは、決定的な意味を持つ。私もある時期まではとても信じられなかった。私が留学中にメニンガー・クリニックで実際に解離性障害、特にDIDのケースについての症例検討会に出たときには、まったくそこで話されていることが理解できなかった。しかしDIDの症例に続けて出会ううちに少しずつ見方が変わってきた。
(つまらないから以下消去)


人格の精神分析学 (フェアベーン、山口泰司 講談社学術文庫)より

2010年12月25日土曜日

ある読者からの質問にお答えして

寒いクリスマス。といっても特に変わらない土曜日だが、とりあえず無事に迎えられていることに感謝。息子の帰郷も嬉しい。
今日はこのブログの読者から次のようなメールをいただいた。ここに部分的に公表させていただいても差し支えない内容だと判断した。私が以前書いた内容に非常に敏感に反応していただいた方であり、感謝している。


「・・・ 過去の出来事の記憶は、それを体験した主体を含みこんで存在する」と先生は書いておられますが、「出来る限り生々しい感情を認識すまい」と無意識に防御した時の記憶にも人格は存在するのでしょうか?つまり記憶そのものはあるんだけど、全く実感が湧かないという場合のことです。私の過去は失われてる記憶と、人ごとのように、でも鮮やかに覚えている記憶でいっぱいです。もし人ごとのようにしか感じられない体験にも別人格の存在を疑わねばならないとすると、私は相当数の別人格を持っている人間ということになり、それらすべてを統合することは不可能に近いような気がします。」

ある意味ではその通りだ、と私は思うようになっている。これまでにない心境である。ただしこうなると「別人格」の意味するものもおのずと変わってくることになる。ファジーな記憶を持っている場合、その記憶自体が時とともに風化していく性質のものであれば、それは自然なことだ。その記憶はエビングハウスの忘却曲線に従い、忘れ去られていく運命にあるだろう。しかしファジーでありながら予告もなくよみがえってくる記憶、そしてそれがある種の強い感情をともなっているようなものであれば、それを記憶したときの「自分」の状態も一緒に残っている、と考えられ、その自分はDIDの「別人格」萌芽のような性質を持っているということを言っているのだ。
だからあたかも見ず知らずの他人が自分をのっとっているかのようなイメージをお持ちになる必要はないだろう。「別人格」といっても、やはり自分自身なのだ。ただ催眠などを通してその時の自分に成り代わることで、そのファジーな体験が、感情をともなった生々しい体験となるだろう。ただしそのような体験は一生訪れないかもしれない。そもそも催眠にかかりづらい人も多いだろう。ですから私たちの多くは、過去の情緒的、外傷的でファジーな記憶を有する以上は多重人格的で、しかしそのことを自覚することもなく、また日常生活上支障をきたすことなく日常生活を送っているのだと思う。
ちなみに私は確かマイクロソフトのウィンドウズXPからついている「復元 recovery 」の機能と、この話が結びついてしまう。「復元とはタイムマシンだ」、と誰かが言っていたが、確かにこの機能はすごい。ウイルスにかかって、あるいは何かの理由により不具合が生じるようになって、どこをどういじっても治らないとき、例えば問題が生じていなかった一週間前の状態に戻すように「復元」を設定すると、その時の状態を回復し、またコンピューターが普通に動くようになる。「復元」の機能がつくようになって、ウィンドウズを再インストールする、ということをほとんどしないでも済むようになっている。でもこれってすごいことだ。「復元ポイント」が一定時間ごとに作られ、例えば一ヶ月前のコンピューターの状況が保存されている・・・・・。これってまさに多重人格的だ。復元ポイントが10あれば、10の状態で動くことが出来るポテンシャルをコンピューターは備えていることになる。でもそのためにハードディスクにかなりのスペースを使っているとか。私は人間が過去の事故を多重人格的に備えることがある、と考えるとき、このようなイメージを持っているのである。

2010年12月23日木曜日

解離に関する断章 その4 隠された観察者について

10年以上前に大ヒットした映画「メン・イン・ブラック」は私の大好きな映画で、何度も繰り返してみたが、その中に印象深いシーンがあった。登場人物が常軌を逸した行動を取り始める。それまでのまじめ人間エドガーが、UFOとコンタクトした時から目つきが変わり、やたらと砂糖水を飲みたがり、最後には発狂して殺され、解剖される。まるで何かにとり付かれたようになって死んだエドガーの頭部に蓋がみつかる。それを開けるとその中に小さな宇宙人がいて、操縦桿か握っているというわけだ。つまり小人の宇宙人が彼に取り付き、心と体を支配していた、というわけだが、非常に直感に訴えるわかりやすいシーンだ。ある人がこれまでとまったく異なった行動をとる。そしてその原因は、誰か別の魂が、その人をのっとり、脳を操っていたというわけだ。



 以下、省略)

2010年12月22日水曜日

解離に関する断章 その3  解離の概念の「作図線効果」、「地ならし効果」

昨日は大学院の学生たちに、チビを紹介した。チビはいきなりたくさんの人たちに囲まれて興奮し、そのあと呆然としていた。きっと解離状態だったのだろう。

引き続き解離の話
どの世界にも流行(はや)り廃(すた)れがある。精神医学の概念についても同様である。精神医療に従事して30年足らずの私は、身をもってそれを経験する機会に恵まれた。
その上で改めて問いたいのだが、新しい障害概念が特定の時代に専門家達の支持を集め、マスコミをにぎわし、また臨床にも貢献するのはなぜなのだろうか?例えば最近のアスペルガー談義である。臨床家の間でアスペルガー障害について話題にならない日はないのではないか? これまで少し変わっている、どこかおかしいが診断に困る、という人について考える際、「結局アスペルガーではなかったのか?」という考えが、日に何度か頭をよぎるという臨床かも少なくない。どうしてそのようなことが起きるのか?
私の考えでは、「それはその新しい概念が、すでに複数の異なる障害に少しずつ形を変えて顔をのぞかせていたからである」というのが私の考えである。
たとえば躁うつ病の患者さん、神経症の患者さん、あるいは一見何も問題のない若者が、衝動的に手首を切ったり、すぐ感情的になり他人とうまく関係を結ぶことができない人がいて、臨床家の頭を悩ませていたのですが、そこに境界性パーソナリティ障害(BPD)という考えが与えられたことで、それらの人に共通して存在していた精神障害が急速に注目を浴びるということが1970年代に生じたわけである。そしてBPDという概念がいったんできると、それが患者さんの持つ様々な問題をより見やすく表現することにつながったのである。

(長いので、以下略)

2010年12月21日火曜日

解離に関する断章 その2 今、どうして解離なのか?

解離は静かな流行を見せている。そこで問うてみたい。「なぜ今、解離なのだろうか? 現代の精神医学において解離の持つ意味はいかなるものなのだろうか? 」 これについてとりあえず解答を与えるならば、それは解離が脚光を帯び、また必要とされるような時代的な機が熟したからということになる。ただしその意味を理解していただくためには、解離の歴史にまで若干さかのぼる必要がある。
  (以下略)

2010年12月20日月曜日

解離に関する断章 その1

過去のぼんやりとした記憶の存在が、解離や別人格の決め手となる

私たちは過去の出来事の中で、実際にそれが起きたという実感がなかなか持てなかったり、それ自身がぼんやりと霞がかかったような感じがしてはっきりと想起できないような記憶を持つことがある。実際「中学の3年間が一切思い出せない」、「大学の一年のころ、○○町に下宿していた時のことが思い出せない」というような訴えを患者さんから聞くことがある。
このように過去の明確でない記憶は、それが解離状態にあり、おそらく別の人格、あるいは別の自己の状態により担われている可能性が高い。ただしそのようなファジーな記憶を持っている人たちは少なからずいる。それらの人々すべてが、DIDとしての症状を持っているかといえば、必ずしもそうではないであろう。ただし過去の出来事の記憶は、それを体験した主体を含みこんで存在するという考え方が私にとって徐々にリアリティを持つようになってきているのも確かである。わかりやすくいえば、私たちはあいまいな記憶の数だけの交代人格を持っている可能性があるということである。そこでこの機会に記憶と自己の解離という問題を捉えなおしてみたい。

(以下略)

2010年12月1日水曜日

解離現象と「火山モデル」

私は最近、解離性障害について、火山活動の比喩で患者さんやその家族に説明することが多くなってきている。これは解離という現象が長い目で見た場合のある程度の予測可能性と、日常生活レベルで見られる予測不可能性からなり、それが自然現象、例えば地震や火山活動、気象現象などと非常に似ているところがあるからだ。だから解離の患者さんの治療中にいきなり「火山を思い浮かべていただければわかるとおり・・・・」などと話し出して、とっぴな例を出す医者だ、と思われていないとも限らない。しかしこちらは何とか説明をわかって欲しい一心なので、使える比喩は使わせていただきたいと思っているわけである。
ただ学問的に言っても、自然現象と脳の活動とはある意味で非常に類似している。どちらも複雑系において生じる様々な現象であり、その基本的なあり方はカオスに近い。カオス、とは科学的に用いる場合は、確か「ある決定論的な手続きで生じながらも決して定常状態に至らない現象」とか何とか定義されるはずであるが、わかりやすく言えば、ある種のパターン(≒揺らぎ)はかろうじて見出せても、それが決して確かな規則性を見出すことができない、ということである。ちょうど地震について言えば、火山活動がある地方で頻発することがわかっていても、実際にその地方で、何年おきに地震が生じるかを決して正確には知ることが出来ないということであり、実は自然現象はことごとくこのような性質を持つ。(地球の自転の速さだって、一回ごとに揺らいでいて、しかもしだいに遅くなっている、という風に。何か当たり前のことを言っているようだな。)同様に交代人格の出現だって、あるいは時々生じる激しい人格部分による興奮状態にしても、そこに正確な規則性を見出すことは出来ない。(もちろん、人間の脳を自然と同じように極めて複雑な体系として理解しているわけであるから、脳において生じることは同様の性質を持つことには変わりない。てんかん発作、躁転、欝のエピソード、神さんの気分、みなある程度の周期性は伺われても、性格にはその変化を知りえない。)
さてこんなことがどうして重要になるかというと、解離性障害を持つ人は、普段は十分に適応で来ていても、時々自分を抑えられないような興奮に襲われたり、記憶を失ったり、ということが生じるために、周囲から誤解されたり、職を失いかけたりするからである。そこでそのパターンを知り、予防する手段を一緒に考えるのであるが、それが難しいのだ。
特に難しいのが、興奮する人格をどうするか、という問題である。解離性障害を持った方は日常が安定していてストレスが少ない場合は、平穏に生活を送ることができる場合が多い。この感情の嵐の鍵をしばしば握っているのが、患者さんの過去の特に深刻な外傷体験を担った人格である。その人格、ないしは人格部分は普通は眠っていることが多く、日常生活に支障をきたさないことが多い。しかしその人格は時には静寂を破って姿を現すかもしれない。その人格が果たしていずれは姿を現し、それが担っている記憶の処理を必要とするのかは、時には深刻な臨床的な課題となる。そのあり方が火山に似ているのだ。火山はそこに大きなマグマを貯めている可能性がある。そのマグマの力を無視することは将来の噴火の予防や、それに対する準備を怠ることにつながる。場合によっては、横に穴を開けて「ガス抜き」をする必要も生じるかもしれない。(実際の火山ではあまり考えられないか?・・・・)
しかしその火山は将来にわたって噴火することなく、死火山になる運命なのかもしれない。するとその火山にいたずらに刺激を与えることは避けるべきであろう。
日常の臨床は、その火山の性質を注意深く見据え、それが活火山でも、死火山でもありうる可能性を考えていなくてはならないのである。

2010年11月30日火曜日

ニューラルネットワーク その1. 前野隆司氏の「受動意識仮説」

私のこのブログには、ほとんど引用文献がないことが特徴だろうが、それは私が読書が嫌いで勉強不足だからだ。ただしもちろん注目する理論、参考にすべき学術書などはある。最近の慶応の前野隆司先生による「受動意識仮説」という、名前だけ聞いたら非常にとっつきにくい理論もそのひとつだ。何しろ明快で、私がニューラルネットワークや、創造性、不可知性として考えている内容にそのまま重ねあわすことができる。解離について考える上でもとても有効な考え方だ。
私も「前野理論の専門家」ではないから誤解している部分もあるだろうが、その代表的な著書(脳はなぜ「心」を作ったのか―「私」の謎を解く受動意識仮説 前野 隆司 (著) 筑摩書房、2004年)
で先生は、ひとことで言えば次のような説を披露している。
どうして私が私であって、私でなくないのか、どうして私が意識を持っているのか、などは、哲学の根本的問題であり、いまだに解決しているとはいえない。ただひとつのわかりやすい答えの導き方は、私たちの意識のあり方が極めて受動的なものであり、私が意図的に思考し、決断し、行動していると思っていることも、私たちがある意味で脳の活動を受動的に体験していることが、いわば錯覚によりそのような能動的な体験として感じられているだけである、というのだ。
前野先生の心の理論を一言で言うと、それは「ボトムアップ」のシステムであるということだ。(ここでトップ、ボトムとは何か、というのは難しい問題だが、トップとは意識的な活動、つまり五感での体験や身体運動であり、ボトムとは、それを成立させるような膨大な情報を扱う脳のネットワーク、とでもいえるだろう。)
そもそも脳はニューロンと神経線維からなる膨大なネットワークにより成立している。そこでは無数のタスクが同時並行的に行われている。それらが各瞬間に決断を下している。それを私たちは自分が決めている、と錯覚しているだけ、ということになる。そしてこの考え方は、いわゆる「トップダウン」式の考え方とは大きく異なる。つまり上位にあり、すべての行動を統率している中心的な期間、軍隊でいえば司令部、司令官といった存在はどこにもいないことになる。
さてここからは、私が追加する部分である。このような考え方からは、多重人格の由来やその振る舞いもきわめて合理的に説明される。DIDの人の心は少し特殊で、ニューラルネットワークの中がいくつかに分かれ、それぞれの活動が連絡を取り合わないような仕組みが存在している。するとそのいくつかのグループのどの活動が、トップに到達するかにより、誰が現在活動しているかということが変わってくるのである。これが、どうして現在の人格Aが、突然別人格Bに取って代わられるか、ということを説明しているというわけである。
さらにはそれぞれの人格の持つ自律性、つまりそれぞれが個別の人間として振舞う、という性質についてもこの前野氏の仮説により説明される。そもそもボトムアップモデルの特徴は、自己の持つ自律性とは末端のニューラルネットワークにより生じるさまざまな活動の産物であるとして捉える。するとニューラルネットワークがいくつかに分離されている状態は、そこに異なるいくつかの自立性を持った意識が生じるということを意味するのである。