2015年11月21日土曜日

ある書評

本誌の書評に日本人が直接書いた英語の著書が取り上げられることはおそらくこれまでになかったであろうし、これからも当分ないかもしれない。私もそのような立場にあることがにわかに信じられないが、それを可能にしてくれたのが、本書である。こうして彼の著書を紹介できることを光栄に思う。
氏と南アフリカの臨床家AK女史との共著である本書は、ハインツ・コフートが晩年になってその思想を深めたことで知られる、twinship selfobject experience (「双子自己対象体験」)の概念を発展させ、臨床への応用の可能性を広げたものである。 コフートはその自己愛に関する考察の中で、この体験を、最初は「他者の中に本質的に自分と同じものessential alikenessを見る」としていたが、晩年には、人が自分を「ほかの人と同じ人間であるhuman being among other human beings」という体験であるという考え方に移っている。両著者の関心はこの概念及びその変遷に向けられ、それをどのように発展させ、臨床への応用可能性を広げるかが、本書の一貫したテーマになっている。
Twinship (彼の著書が英語であることもあり、ここでは英語表記のままにする)の諸相についての論述が第1章であるが、その次の第2章で展開される富樫氏のテーマは、「患者が治療者に持つ、治療者自身を見出してほしいという願望」に向けられる。そしてそこに描かれているケンとリョウコとの治療関係において、治療者が自分自身を患者の中に見出すという体験を彼らがどのように受け取り、それがいかに治療上の転機となったということが述べられている。この章のもととなった論文は、NAAPというニューヨークにある精神分析の団体において氏が2006年にBest Student Articleを受賞し、のちに2009年にInternational Journal of Psychoanalytic Self Psychologyに掲載されたものであるという。氏にとってはこの世界でのキャリアの華々しい出発点となった論文といえる。
本書の第4章も、第2章に続いて氏の単著となる重要な章である。しかしそこではこのtwinshipの概念をかなり深化させたテーマが扱われている。それはコフートの第2の定義である「人が他者に自分と同じものと違うものを体験する」という問題に向けられる。そして自分が他人と同じ人間であるということは、「類似性を見る人との間に違いを見、違いを見る人の間に類似性を見るという弁証法が成立している」(p63)という結論に至っている。簡潔に言えば、結局twinshipは、「自分と非―自分を互いの中に見出す関係delicate balance of mutual findings of oneself and not-oneself in the other」(P67)ということになるが、さらにこれを展開し、結局はコフートの鏡転移、理想化転移についても、同様のことが生じているとする。つまり親は子供に対するまなざしの中で、自分と同じものと同時に、その子供に独自のものをも見出すのだ。
そのほかの幾つかの章も紹介しておこう。第5章では富樫氏とAK女史によりトラウマとtwinshipとの関係が扱われる。彼らの文脈では、トラウマは「ほかの人と同じ人間である」という感覚が失われる体験ということになる。すると患者はファンタジーの中で情緒的な結びつきを成立させるような対象を作り上げるという。これがいかに現実の対象に置き換わるかが、治療プロセスの役割であるという。第6章、第7章では、氏は placeness (場所性)と twinship 体験について論じる。この体験は人が一緒の場所にいるという体験からも生じるとし、日本語の一蓮托生という表現を引いて、それが特に日本人に多く体験されるとする。そしてそれが治療者が患者との類似性や同等性だけでなく、一緒の場所を過ごすということにも注意を向けることを進める。
 
以上本書の内容を概括したが、本書の興味深いことは、随所に著者がアメリカでの異文化体験を背景にし、この twinship という問題を常に考え続けたことが、いくつかのエピソードを通してわかることである。実は同様の問題について、和田秀樹氏が英文で発表している H Wada, H (1998) Chapter 7 The Loss and Restoration of the Sense of Self in an Alien Culture: An Application of the Twinship Selfobject Function- Progress in self psychology, 1998 - Laurence Erlbaum Associates
(以下略)

2015年11月20日金曜日

関係精神分析のゆくえ(5)


 ミルズの批判はますますわからなくなっていくのだが、とりあえず読んでいく。彼はこんなことを言っている。「もし[関係論者が強調するように]言語やそれを成立させる社会的なマトリクスから独立しては、何も存在しないのであれば、主体性は文化により決定されてしまい、主体性そのものが解体されてしまうだろう。」そしてそれはもともとフーコーやデリダの哲学であったが、それをやってしまうとすべてが予測不可能で曖昧になってしまい、当然批判を浴びるであろう、と。フーン、デリダの哲学って、結局そういうことなのか。(ぜんぜんわかっていないし、そもそも読めていない。)ミルズによれば、関係論者はさかんに「客観的な現実」という概念を批判しているが、それなしには何事も成立しないではないか、という。そしてこういう。「もし私の患者が、自殺したいと訴え、それが虚言ではないとしたら、それは『客観的な事実』ではないのだろうか?」そもそも絶対的なものなどない、と言っているストロローは、でもそれを「絶対的な真実」っぽく言っているではないか、と。ほう、そう来たか。そしてその意味での真実を把握することの不可能さについては、フロイト自身が述べている、としてフロイト自身の次のような表現を引用する。「無意識は本来の意味で現実的な心的なものである。無意識はその内的な本性に従い、外界の現実的なものと同様に、われわれには識られない。それは外界が感覚器官からの報告を通じて不完全に与えられるのと同様にわれわれの意識の資料を通じて不完全に与えられるのである。」(岩波、全集、618ページ。) 
つまりミルズの言い分はこうだ。「現実は不可解なり、ということを関係論者は言うが、フロイトだってそんなことは言っていたんだよ、と。」ということは結局例の「フロイトが好きか嫌いか」という議論に行き着いてしまうのだろうか?フロイトのことをあまり批判するな、というのがミルズが結局言いたいことなのだろうか?
ここからミルズの批判は、相対主義に向けられる。彼によればポストモダンの視点は、結局は相対主義なのだという。私(岡野)も結局はそういうことだと思うのであるが、ミルズは言う。「相対主義は結局は矛盾やニヒリズムや不確かさや、そして最後は蒙昧さに行き着く。なぜなら誰の意見も他の人の意見よりも正しいということが言えなくなるからだ。」「そして問題なのは、そうすると精神分析は、それ自体を真正面から批判する立場以上に何も貢献できなくなる。」「相対主義を推し進めると、構成主義は一種の天地創造creationismになり、それ自体が極めて誇大的なファンタジーになる。」そして言う。「関係論者や間主観性論者は、彼らこそが、あらゆる偽りの二分法を作り出している。それは内部と外部、自己と他者、普遍的と具体的、全体的と相対的、真実と虚偽、主体と客体などである。」「彼らは2世紀も前の哲学に、すでに先を越されている。主体―客体の対立は、1800年のシェリングの超越的アイデアリズムのシステムによれば、『純粋な主体性と絶対的な対象性は同一である』という形で超克されている」。あー、わからない、わからない。
そして結局これらはフロイトのメタサイコロジカルな探求を犠牲にすることにつながる、という。
 しかしそれにしても、本当にフロイトはわからない。無意識はわからない、と言いながらそこに様々な法則を仮定しているという矛盾が、私には理解できないのである。
ミルズは、関係論者が一方で関係、関係と言いながら、他方では個を独立した行為主体としてみなすことの矛盾を突く。そしてそれだけでなく「複数の自己」ということまで言い出す人がいる!と言って怒る。これはこのブログでも紹介した、ブロンバーグなどの解離論者のことだな。段々ミルズの舌鋒は鋭くなっていくが、何しろ関係論はある意味では理論の寄せ集めだから無理もないことだろう。関係論は確かに様々な矛盾を抱えているだろう。しかし彼らは一致していることがあり、それはフロイトのメタサイコロジーの批判、ということなのだ。
ミルズの批判は続く。「たとえばSeligmanはこんなことを言う。『分析家と患者は関係性を共同構築するが、そこでは自分が他方と異なる存在であるということが分からなくなる。』これは馬鹿気だ話だ。これではすべての人間が同一ということになるだろう。」確かにそうだろう。その路線で行くと、個体化、自律性、自由、目的を持った行動、ということが意味を失う、とも。

ミルズの批判は色々本音に迫る。「問題なのは、関係論者が繰り返しフロイト理論を誤解していることだ。それはミッチェルが先鞭をつけたことだが、そもそも欲動モデルと関係理論の間違ったに文法を、挑発的に、対決的に行っていることである。」「そもそも関係理論はフロイトの中にあったのだ。」
うーん、わからなくなってきたぞ。今度はフロイトも関係論を持っていた、と言う。ミルズは関係論そのものが反対ではなくて、それを語る人々が挑発的でフロイトに対して恩知らずだ、と言っているようだ。つまり態度を問題としている?
今度はフロイトの擁護に回る。
「フロイトは対人関係の人だった。それはローゼン(1995)、ローサ―、ニュートン(1996)などが言っていることである。
Roazen, P. (1995). How Freud Worked. Hillsdale, NJ: Aronson
Lohser, B., & Newton, P. (1996). Unorthodox Freud: A View From the Couch. New York: Guilford.


2015年11月19日木曜日

関係精神分析のゆくえ(4)


関係論者がこの文脈で目指すのは、いわゆる本質essence の否定であるという。しかしそれは本質がある種のアリストテレス的、つまり静的 static で普遍的なカテゴリーと考えるからだという。しかしすでにヘーゲルは、その弁証法に関する議論の中で、本質は普遍でモノ的なものではなく、過程である、と言っているという。そしてそれは関係論者の大部分が賛成するであろうという。私も賛成だ。ということは関係論者はポストモダニズムと言いながら、古いものを持ち出しているだけではないか、とミルスは問う。この批判はどうかな。まあいいか。
さてミルズは関係論と伝統的な分析の立場が最も鮮明に対立している問題について扱うという。それが「主体と客体の問題」であるという。関係論者は分析家の主観性を持ち出し、それが決して減ずることが出来ないものであるというRenik その他の主張(いわゆる)を中心に据えたことで、客観性に関する議論に決着をつけることが出来たのだろうか、という問題だという。(レニックの1993年のthe irreducible subjectivity of the analystの概念。レニックはこれで名を成したね。)
それからミルズは、関係論者がやたらと哲学の概念を導入する一方で、精神分析的なメソッドを示さず、あいまいな表現を用い続けていると批判する。その中に私が今訳しているホフマンの弁証法についての批判がある。こんなことが書いてある。「この単語(「弁証法」)は西洋哲学の歴史に登場する多くの意味を担っている。ホフマンは単に対立する両項の交流 interplay を意味するのだろうか?それは相違だけを意味するのか、それとも類似性も含まれるのか?対称性、持続性、手段、力、統一、あるいは統合の役割はあるのか?その弁証法に機能はあるのか、たとえばそれは動きなのか、プロセスなのか、創生なのか?もしそうならば、それは何を意味するのか?それはフォーマルな因果律に従うのか、それとも論理的な操作なのか、それとも因果関係がなく、不定形なのか?・・・・」という感じで批判が続いていくのであるが、私にはこの批判自体がチンプンカンプンである。(英語を訳すことぐらいはできるが。) 
 ここで関係論に対する批判のもう一つの傾向が見え隠れする。少なくとも古典的な精神分析は、そのメソドロジーを示してくれた。患者に自由連想を施し、治療者は受け身性と匿名性を守ることにより、転移が展開する、云々。しかしそれにとってかわるという関係論は一体何を提供しているのだろう?弁証法

についてオクデンは言うという。「弁証法では、対立する二項がそれぞれ他方を創造し、情報を与えinform、保持し、否定し、双方が互いに力動的(あるいは常に変化するような)関係を保つことである。」(Odgen, 1986, p. 208) 弁証法の説明としてはまさに的を射ていると思うが、ミルズに言わせると「なんじゃこれは?」というわけだろう。あまりに具体性がないわけだ。

2015年11月18日水曜日

関係精神分析のゆくえ (3)


 ところがストロロー、アトウッドらは、もう少し存在論的な議論であるという。間主観性を一種の場、ないしは第三主体(オグデン)としてとらえるのだ。要するに彼らはより「哲学的」というわけだね。彼らの問題は、それが個を埋没させる傾向にある、と批判されることだという。「体験は常に間主観的な文脈にはめ込まれている」(Stolorow & Atwood, 1992, p. 24, italics added).なんてことを言っちゃうとね。あれ口調が変わってきたぞ。しかしこの間主観背的な体験が結局は「意識の哲学」に与しているという点で、やはり無意識を扱う精神分析とはそりが合わないということである。そうか、やはりそうなるか。哲学で相手にす
るのはもっぱら、というより本来的に意識体験である、というこの点は重要だね。
フロイトは言ったのだ。「[精神分析は] 無意識的な心のプロセスについての科学であるhe science of unconscious mental processesFreud (1925, p. 70) あるいは「無意識こそが真の心的現実であるthe “unconscious is the true psychical reality”
(Freud , 1900. p. 613), ここまで言われちゃうとね。ちょうど創業者が残した家訓を前にして、戸惑っている一族みたいなものだ。こう書いている私も急速に罪悪感がわいてきた。どうしてこんなことになったのだろう。やっぱり究極の批判はここからくるのだ。
そのストロローは言う。「フロイト流の無意識に代わり、私たちは複数の文脈からなる体験的な世界を生きている。それは組織化された生きられたパーソナルな体験であり、それは多かれ少なかれ意識的である。(
ただし岡野の見解では、無意識はいよいよわからなくなってきているからだ。)

  著者はこの間主観性理論について、例えばOgden (1994)の主張を引き合いに出す。「分析過程は三つの主体の間の交流を反映する。一つは分析家、もう一つは日分析者、そしてもう一つは第三主体であるThe analytic process reflects the interplay of three subjectivities: that of the analyst, of the analysand, and of the analytic third” (p. 483)」さてここら辺からがややこしく、そして著者の批判の矛先とも関係する。そもそも関係性が主体に影響するとしたら、一人一人の行為主体性agency はどうなるのだろうか、と問うのだ。ここで少しややこしい随伴現象epiphenomenon という議論が出てくる。ウィリアムジェイムスが使い出した言葉で、要するに心は脳の随伴現象であり、それ自身は何も他に影響を及ぼさない、という説。
Epiphenomenalism随伴現象説:心の哲学において、物質と意識の間の因果関係について述べた形而上学的な立場のひとつで、『意識やクオリアは物質の物理的状態に付随しているだけの現象にすぎず、物質にたいして何の因果的作用ももたらさない』というもの。←ウィキペディアより) 間主観性も随伴現象である。それなのにどうしてそこまで影響力を持たせてしまうのだろうか、という話だ。さてここら辺からこの論文は一気に難しく、ややこしくなる。
「もしシステム、つまりは関係性が個人を支配するのであれば、個人の自由、独立、アイデンティティーはどうなるのだろうか?」これが本質的な問いだ。面白い問いであるし、本質的といえるだろう。私の理解では、ちょうど関係論は、無意識が人間を支配する、というフロイトの考えと似たようなことをしようとしているのではないか、という批判だ。フロイトを批判する人は、彼のリビドー論が、無意識という装置の中で生じていることがその人を支配している、というニュアンスを発していることに反発していると想像する。ところが今度は関係論は、関係性や第三主体 the third にその「装置」的な何かを感じる、というのではないだろうか。単なる随伴現象なのに、ということらしい。  

ジョバチーニGiovacchiniは、間主観性論者によれば、「個というのは関係性の中にいったん入りこむと、陽炎のごとく消え去ってしまうかのようだ」、といういい方すらしている。関係論者は、そんなことはないというが、結局は関係性というものに従属してしまう、といういい方はするのだ。ここで忘れないうちに私の見解をさしはさむ。結局問題は無意識にしても第三主体にしても、それが個人の意識生活を支配することになり、「アソビleeway」がなくなってしまうことが問題なのではないのか。私は個というものは関係性とその人個人の無意識の両方により強い影響を受けていると思う。ただ関係性にしても無意識にして
も、その人にどのような影響を与えるかについてはあまりに恣意的なのである。たとえばクライエントがある夢を報告する場合、それは治療者患者関係を反映している可能性があるし、またそのクライエントの個人的な心的生活を反映していることになるだろう。その意味では関係論者もフロイディアンもどちらも正しいということになりそうだが、無意識と個人、ないしは関係性と個人との関係が恣意的なのである。つまり予想がつかなかったり説明が出来なかったりする部分を含む。それは結局は心を宿す脳が複雑系であるということに尽きるだろう。



2015年11月17日火曜日

関係精神分析のゆくえ (2)

このところ絶対誰も読んでいない(最後まで読まない、読み飛ばす)と確信できる内容である。


私個人はこれについて次のようなスタンスを持つ。意識レベルの問題だけでも計り知れない。その背後にあるのは無意識であるが、それはあまりに複雑すぎて波が絶たないのである。複雑系の見地からみた無意識とは、巨大な神経ネットワークであり、そこで起きていることは計り知れないのである。
私はこの説明を、やはり気象学的にするしかない。心を知ることは、たとえば地球上で起きる地震や台風や火山の噴火の背後に何があるかを知ることだ。ただ多くの場合地球で起きることはあまりに複雑で、それをブラックボックスに入れたうえで、地上で起きていることに注意を向けるしかないだろう。地下で起きている出来事、宇宙全体で、あるいは太陽系で起きていることをことごとく計算に入れることは出来ないのである。そして心にも似たようなところがある。
私の述べていることは、無意識を軽視して意識レベルで起きていることを重要視するという立場とは違う。私は意識とは無意識が作り出した幻想であるという捉え方に賛成する。同様のことはジュリオ・トノーニの統合情報理論(IIT)や、前野隆司氏の受動意識仮説がすでに提唱していることだ。しかし無意識はデタラメに意識活動を生成しているのではなく、それはある種の創造性と反復の弁証法を示している。逆に言えば意識野で起きたことはそれを完全に理由づけすることなど決してできない。
意識の在り方としてより生産的なのは、その動きの持つ対人関係での動きである。こちらの方は関わる対象としての治療者のファクターを動かすことが出来るので、より生産的というわけである。心は一者心理学的であり、二者心理学的である。これは人間は氏か育ちか、という議論とちょうど同じなのだ。
関係論的な旋回としてMills は幾つかの特徴を挙げている。
1に、従来の匿名性、受け身性、禁欲原則への批判である。ある意味ではこれは当り前であろう。たとえば自己開示の戒めなどは、これが治療可能性を含んでいる以上は、RPの範疇に入ることになるだろう。従来の精神分析がある決まりの上に成立している以上、それに例外を設けたり、相対的な立場をとる動きはことごとくRPに属することになる。
2に、RPにおいては臨床家が患者と出会う仕方についての考えを大きく変えた。RPの分析家たちは、互いの学会でも自分自身の心についてより語り、また自分たちをどう感じているかについて患者に尋ねるという傾向にある。つまりよりオープンな雰囲気を醸しているということだろう。そしてそれは患者の洞察を促進するための解釈、という単一のゴールを求めることからは明らかに距離を置くようになっている。
3に、彼らのスタンスは紛れもなく解釈学的なポストモダンなそれであり、そこでは混じり物のない真実に関する知識、客観性、実証主義などに関して明らかにこれまでとは異なる態度をとっている。これらのいずれもある意味では至極もっともなのであるが、これらに対してMills はどのような批判を展開するのだろうか?
それでは批判の目はどうか。こちらが大事だ。カーンバーグの2001年を除いては、ほとんどの批判は外部から来ている(Eagle, 2003; Eagle, Wolitzky, & Wakefield, 2001; Frank, 1998a, 1998b; Josephs, 2001; Lothane, 2003; Masling, 2003; Silverman, 2000)など。
グリーンバーク、ミッチェルが関係性の旋回を初めて提唱した時は、フロイトの欲動モデルを関係性により置き換えたものだった。その後グリーンバーグが「欲動だってまんざら悪くない!」と批判に転じたのはよく知られること。
Mills は関係論で特に問題とされる「間主観性」について論じる。この概念は特にジェシカ・ベンジャミンとロバート・ストロローの二人による精力的な著作により精神分析に導入されたが、200年前にヘーゲルにより考案されている。
スターン、ベンジャミン、ミッチェルの間主観性は、ヘーゲルそっくりだという。つまりそれは発達の一つの達成であり、赤ちゃんは徐々にお母さんにも主体性があるのだ、一個の人間なのだ、ということを認めていく。フォナギーのメンタライゼーションもそういうことだ。そしてこれが愛着理論ととても一致するという。ところが・・・・ちょっと難しくなってくる。


2015年11月16日月曜日

関係精神分析のゆくえ(1)


Mills, John (2005). A Critique of Relational Psychoanalysis. Psychoanalytic Psychology, 22(2), 155-188. 2006 を参考に、最近の関係精神分析の流れを探ってみる。

関係精神分析はそれ自体が明確に定義されることなく常に新しい流れを取り入れた動きの総体ということができる。そこでそれ時代がどのように動いていくかは、それこそdrunker’s walk というニュアンスがある。私は個人的には、ホフマンにより全体像を見せてもらったと思っているので、あとは補足の議論という理解をしている。それがどちらの方向に向かうかは、人々の関心が何に向かうかによる。しかし世界が全体としては平等主義、平和主義にゆっくり向かうのと同様、精神分析の流れる方向も基本的には平等主義であり、その背後には倫理的な配慮が基本的な原動力となっている。これまでの因習や慣習は、それが保持される根拠が示されない限りは疑問符を突き付けられ、必要のないものは排除されるという方向である。
 もちろんこのような流れは一見必然的なようでいて、行く手に障害がないわけではない。欧州の精神分析においては、関係性の旋回を、著しい退行であり、パターなリズムであるという激越な批判もある。(Carmeli,Z, Blass, RB (2010) The relational turn in psychoanalysis: revolution or regression? European Journal of Psychotherapy & Counselling, 12:217-224)関係論的な旋回は伝統への挑戦である。これまでの精神分析における伝統や慣習はどうなるのか?分析家の持つ権威はどこに行くのか?これほど大きな動きが抵抗勢力を伴わないはずはない。
 さて関係精神分析は米国ではその動きを徐々に拡大させているが、Mills はそこにいくつかの要因を見る。ひとつには分析的なトレーニングを積んだ心理士が増え、彼らは伝統的なインスティテュートによる教育ではなくより新しいトレンドを学んでいること。新しい著作の多くは関係性理論に関連するものであること。そして関係性理論になじみ深い分析家が主要な分析関係の雑誌の編集に携わるようになっていることなどである。

しかしその結果として向かう方向は、精神分析の伝統にとってはawkward な方向性と言えるであろう。Mills が指摘するように、最近の精神分析の焦点は意識の心理学といえよう。無意識の心理学としての精神分析ではなく、意識にフォーカスが当たっている。そしてその流れとともに、関係精神分析はますますその影響力を深めているようである。

無意識の探求はある意味ではフロイトの悲願であり、精神分析とは何たるかを定義するようなものであった。意識を重んじる関係性の理論は、分析なのか?という問いに対しては、関係精神分析家たちは依然としてなすすべもないままである。しかし臨床場面で起きていること、そして真に患者の助けになることは、その方向しかない。

2015年11月15日日曜日

最近の転換性障害の動向 投稿目前 (2)

現代における転換性障害の臨床的なあり方

 CD の症状は、ありとあらゆる運動ないし感覚障害の形をとる可能性があるが、ここでは臨床上しばしば接する失声について考えてみる。失声は CD の中でも臨床的にしばしば遭遇するので、それをCD の一つの典型例と考えることも出来よう。失声はその発症にはきっかけとなるような出来事が関係していることが多い。しかしそれは必ずしもトラウマと呼べるような体験とは言えず、たまたま風邪をひいて声がかすれて出にくくなったというような、自分の声に対する過剰な注意がきっかけになった場合もあれば、明白な心因やストレスが見られない場合もある。もちろん人は様々なストレスや悩みを日常的に経験しているのであり、ある症状のきっかけと時系列的に先行して生じていた出来事との因果関係は不明である場合も少なくない。一つ言えるのは、CD の症状の選択のされ方、発症時期などは心因論から説明のできないこともまたも多いということである。上述の「心因の有無は診断的に信頼できず、帰結を予想することは出来ない」Stone ,et al, 2009という主張はおおむね妥当といえよう。
臨床家が失声のような転換症状に接する際は、「なぜ声を出そうとしないのか?」「どうしてこんな簡単なことが出来ないのだろうか?」という一種のもどかしさを感じることも多い。器質的な異常は見当たらず、実際に解離性同一性障害においては失声のある人格とない人格が交互に現れる様子が見られることからも、患者が機能的には発声が可能であることが明らかであるために、そのような気持ちを抱きやすい。しかし同時に臨床家はこの障害おいては、中枢神経の別の部分がある種の自律性を獲得し、当人の意思の及ばぬ機序により声帯を抑制していることを理解しなくてはならない。DSM-5の変更点がいみじくも示しているように、「作為的に見える」「患者本人が診断に無関心である」と感じること自体が、CD の一つの特徴であることを忘れてはならない。
ところで現代的な知識を身に着けた精神科医は、CD に対して従来の「ヒステリー」に対するのとは異なる扱いをするのだろうか? 確かに DSM-5 の診断基準に見られるような同障害への理解の深まりは、臨床家の間にも浸透しつつあるのかもしれない。しかし実際の臨床の現場でのCD 患者は、解離性障害の患者と同様、頻繁に誤診の対象となり、また器質因の探索が集中的に行われた後は、精神療法を中心とした治療的介入がなされないまま、漫然と薬物療法が続けられるケースが多く見られる。臨床家には今後ともCD についての理解や治療に関する更なる進歩が望まれるであろう。

文献)

American Psychiatric Association. (1980) Diagnositc and Statistical Manual. 3rd edition.1980. (高橋三郎、花田耕一、藤縄昭訳 DSM-III精神障害の分類と診断の手引き. 医学書院. 1982.)
American Psychiatric Association (2013) Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders, Fifth Edition (DSM-5). American Psychiatric Publishing. (日本精神神経学会 (監修) : DSM-5 精神疾患の診断・統計マニュアル. 医学書院、2014.)

Van Der Hart,O et al. The Haunted Self: Structural Dissociation and the Treatment of Chronic Traumatization 2006. W. W. Norton & Company; 1 edition.
野間、岡野訳. 構造的解離: 慢性外傷の理解と治療 上巻 基本概念編 / オノ・ヴァンデアハート 星和書店. 2011.
田中究(2014 変換症/転換性障害(機能性神経症状症)in DSM-5を読み解く4(不安症群,強迫症および関連症群,心的外傷およびストレス因関連障害群,解離症群,身体症状症および関連症群  中山書店、2014
van Egmond, J.J. (2005). Beyond Secondary Gain. Am. J. Psychoanal., 65:167-177.
Stone, J. et al. (2010) Editorial: Issues for DSM-5: Conversion Disorder. Am J Psychiatry 167:626-627, 2010. 
Nemiah, JC Dissociation, conversion, and somatization D Spiegel (Ed.), Dissociative disorders: a clinical review, Sidran Press, Lutherville (MD) (1993), pp. 104–116.,
R.J. Brown, RJ., Cardena, E., Nijenhuis, E.R.S., et al (2007) Should conversion disorder be re-classified as a dissociative disorder in DSM–VPsychosomatics, 48; 369–378.
World Health Organization. ICD-10 Classification of Mental and behavioral disorders: clinical Descriptions and Diagnostic Guidelines 1992; WHO, Geneva. 融道雄、中根允文、小見山実 (監訳) ICD-10精神および行動の障害臨床記述と診断ガイドライン. 医学書院. 東京. 1993.

Yayla S, Bakım B, Tankaya O, Ozer OA, KaramustafaliogluHYPERLINK "http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/?term=Karamustafalioglu%20O%5BAuthor%5D&cauthor=true&cauthor_uid=25365395" O, Ertekin H, Tekin A. (2015)  Psychiatric comorbidity in patients with conversion disorder and prevalence of dissociative symptoms. J Trauma Dissociation. 16(1):29-38.