ミルズの批判はますますわからなくなっていくのだが、とりあえず読んでいく。彼はこんなことを言っている。「もし[関係論者が強調するように]言語やそれを成立させる社会的なマトリクスから独立しては、何も存在しないのであれば、主体性は文化により決定されてしまい、主体性そのものが解体されてしまうだろう。」そしてそれはもともとフーコーやデリダの哲学であったが、それをやってしまうとすべてが予測不可能で曖昧になってしまい、当然批判を浴びるであろう、と。フーン、デリダの哲学って、結局そういうことなのか。(ぜんぜんわかっていないし、そもそも読めていない。)ミルズによれば、関係論者はさかんに「客観的な現実」という概念を批判しているが、それなしには何事も成立しないではないか、という。そしてこういう。「もし私の患者が、自殺したいと訴え、それが虚言ではないとしたら、それは『客観的な事実』ではないのだろうか?」そもそも絶対的なものなどない、と言っているストロローは、でもそれを「絶対的な真実」っぽく言っているではないか、と。ほう、そう来たか。そしてその意味での真実を把握することの不可能さについては、フロイト自身が述べている、としてフロイト自身の次のような表現を引用する。「無意識は本来の意味で現実的な心的なものである。無意識はその内的な本性に従い、外界の現実的なものと同様に、われわれには識られない。それは外界が感覚器官からの報告を通じて不完全に与えられるのと同様にわれわれの意識の資料を通じて不完全に与えられるのである。」(岩波、全集、618ページ。)
つまりミルズの言い分はこうだ。「現実は不可解なり、ということを関係論者は言うが、フロイトだってそんなことは言っていたんだよ、と。」ということは結局例の「フロイトが好きか嫌いか」という議論に行き着いてしまうのだろうか?フロイトのことをあまり批判するな、というのがミルズが結局言いたいことなのだろうか?
ここからミルズの批判は、相対主義に向けられる。彼によればポストモダンの視点は、結局は相対主義なのだという。私(岡野)も結局はそういうことだと思うのであるが、ミルズは言う。「相対主義は結局は矛盾やニヒリズムや不確かさや、そして最後は蒙昧さに行き着く。なぜなら誰の意見も他の人の意見よりも正しいということが言えなくなるからだ。」「そして問題なのは、そうすると精神分析は、それ自体を真正面から批判する立場以上に何も貢献できなくなる。」「相対主義を推し進めると、構成主義は一種の天地創造creationismになり、それ自体が極めて誇大的なファンタジーになる。」そして言う。「関係論者や間主観性論者は、彼らこそが、あらゆる偽りの二分法を作り出している。それは内部と外部、自己と他者、普遍的と具体的、全体的と相対的、真実と虚偽、主体と客体などである。」「彼らは2世紀も前の哲学に、すでに先を越されている。主体―客体の対立は、1800年のシェリングの超越的アイデアリズムのシステムによれば、『純粋な主体性と絶対的な対象性は同一である』という形で超克されている」。あー、わからない、わからない。
そして結局これらはフロイトのメタサイコロジカルな探求を犠牲にすることにつながる、という。
しかしそれにしても、本当にフロイトはわからない。無意識はわからない、と言いながらそこに様々な法則を仮定しているという矛盾が、私には理解できないのである。
ミルズは、関係論者が一方で関係、関係と言いながら、他方では個を独立した行為主体としてみなすことの矛盾を突く。そしてそれだけでなく「複数の自己」ということまで言い出す人がいる!と言って怒る。これはこのブログでも紹介した、ブロンバーグなどの解離論者のことだな。段々ミルズの舌鋒は鋭くなっていくが、何しろ関係論はある意味では理論の寄せ集めだから無理もないことだろう。関係論は確かに様々な矛盾を抱えているだろう。しかし彼らは一致していることがあり、それはフロイトのメタサイコロジーの批判、ということなのだ。
ミルズの批判は続く。「たとえばSeligmanはこんなことを言う。『分析家と患者は関係性を共同構築するが、そこでは自分が他方と異なる存在であるということが分からなくなる。』これは馬鹿気だ話だ。これではすべての人間が同一ということになるだろう。」確かにそうだろう。その路線で行くと、個体化、自律性、自由、目的を持った行動、ということが意味を失う、とも。
ミルズの批判は色々本音に迫る。「問題なのは、関係論者が繰り返しフロイト理論を誤解していることだ。それはミッチェルが先鞭をつけたことだが、そもそも欲動モデルと関係理論の間違ったに文法を、挑発的に、対決的に行っていることである。」「そもそも関係理論はフロイトの中にあったのだ。」
うーん、わからなくなってきたぞ。今度はフロイトも関係論を持っていた、と言う。ミルズは関係論そのものが反対ではなくて、それを語る人々が挑発的でフロイトに対して恩知らずだ、と言っているようだ。つまり態度を問題としている?
今度はフロイトの擁護に回る。
「フロイトは対人関係の人だった。それはローゼン(1995)、ローサ―、ニュートン(1996)などが言っていることである。
Roazen,
P. (1995). How Freud Worked. Hillsdale, NJ: Aronson
Lohser,
B., & Newton, P. (1996). Unorthodox Freud: A View From the Couch. New York:
Guilford.