ところがストロロー、アトウッドらは、もう少し存在論的な議論であるという。間主観性を一種の場、ないしは第三主体(オグデン)としてとらえるのだ。要するに彼らはより「哲学的」というわけだね。彼らの問題は、それが個を埋没させる傾向にある、と批判されることだという。「体験は常に間主観的な文脈にはめ込まれている」(Stolorow
& Atwood, 1992, p. 24, italics added).なんてことを言っちゃうとね。あれ口調が変わってきたぞ。しかしこの間主観背的な体験が結局は「意識の哲学」に与しているという点で、やはり無意識を扱う精神分析とはそりが合わないということである。そうか、やはりそうなるか。哲学で相手にす
るのはもっぱら、というより本来的に意識体験である、というこの点は重要だね。
フロイトは言ったのだ。「[精神分析は] 無意識的な心のプロセスについての科学であるhe
science of unconscious mental processes」Freud (1925, p. 70) あるいは「無意識こそが真の心的現実であるthe
“unconscious is the true psychical reality” 」
(Freud
, 1900. p. 613), ここまで言われちゃうとね。ちょうど創業者が残した家訓を前にして、戸惑っている一族みたいなものだ。こう書いている私も急速に罪悪感がわいてきた。どうしてこんなことになったのだろう。やっぱり究極の批判はここからくるのだ。
そのストロローは言う。「フロイト流の無意識に代わり、私たちは複数の文脈からなる体験的な世界を生きている。それは組織化された生きられたパーソナルな体験であり、それは多かれ少なかれ意識的である。(
ただし岡野の見解では、無意識はいよいよわからなくなってきているからだ。)
著者はこの間主観性理論について、例えばOgden
(1994)の主張を引き合いに出す。「分析過程は三つの主体の間の交流を反映する。一つは分析家、もう一つは日分析者、そしてもう一つは第三主体であるThe
analytic process reflects the interplay of three subjectivities: that of the
analyst, of the analysand, and of the analytic third” (p. 483)」さてここら辺からがややこしく、そして著者の批判の矛先とも関係する。そもそも関係性が主体に影響するとしたら、一人一人の行為主体性agency
はどうなるのだろうか、と問うのだ。ここで少しややこしい随伴現象epiphenomenon
という議論が出てくる。ウィリアムジェイムスが使い出した言葉で、要するに心は脳の随伴現象であり、それ自身は何も他に影響を及ぼさない、という説。
(Epiphenomenalism随伴現象説:心の哲学において、物質と意識の間の因果関係について述べた形而上学的な立場のひとつで、『意識やクオリアは物質の物理的状態に付随しているだけの現象にすぎず、物質にたいして何の因果的作用ももたらさない』というもの。←ウィキペディアより) 間主観性も随伴現象である。それなのにどうしてそこまで影響力を持たせてしまうのだろうか、という話だ。さてここら辺からこの論文は一気に難しく、ややこしくなる。
「もしシステム、つまりは関係性が個人を支配するのであれば、個人の自由、独立、アイデンティティーはどうなるのだろうか?」これが本質的な問いだ。面白い問いであるし、本質的といえるだろう。私の理解では、ちょうど関係論は、無意識が人間を支配する、というフロイトの考えと似たようなことをしようとしているのではないか、という批判だ。フロイトを批判する人は、彼のリビドー論が、無意識という装置の中で生じていることがその人を支配している、というニュアンスを発していることに反発していると想像する。ところが今度は関係論は、関係性や第三主体 the third にその「装置」的な何かを感じる、というのではないだろうか。単なる随伴現象なのに、ということらしい。
ジョバチーニGiovacchiniは、間主観性論者によれば、「個というのは関係性の中にいったん入りこむと、陽炎のごとく消え去ってしまうかのようだ」、といういい方すらしている。関係論者は、そんなことはないというが、結局は関係性というものに従属してしまう、といういい方はするのだ。ここで忘れないうちに私の見解をさしはさむ。結局問題は無意識にしても第三主体にしても、それが個人の意識生活を支配することになり、「アソビleeway」がなくなってしまうことが問題なのではないのか。私は個というものは関係性とその人個人の無意識の両方により強い影響を受けていると思う。ただ関係性にしても無意識にして
も、その人にどのような影響を与えるかについてはあまりに恣意的なのである。たとえばクライエントがある夢を報告する場合、それは治療者患者関係を反映している可能性があるし、またそのクライエントの個人的な心的生活を反映していることになるだろう。その意味では関係論者もフロイディアンもどちらも正しいということになりそうだが、無意識と個人、ないしは関係性と個人との関係が恣意的なのである。つまり予想がつかなかったり説明が出来なかったりする部分を含む。それは結局は心を宿す脳が複雑系であるということに尽きるだろう。