2020年2月17日月曜日

揺らぎの欠如と発達障害 推敲 4


A君に不足している「自他の揺らぎ」

このA君(あくまでも架空の人物である)の心の働きに見られる揺らぎの欠如として、もう一つ提案したい。それは「自他の揺らぎ」、とでも言うべきものである。つまり自分自身として感じることのできる主観的な心と、自分を外から見た客観的な自分の心である。これには少し説明がいるだろう。
人はだれかと対面した時に、ある複雑な心の動きをする。それは自分自身として相手を体験すると同時に、そのような自分を外側から、ないしは相手側から体験するというものである。これは実際例を考えていただければすぐに理解できる。
私たちが町中で身を晒されているとき、必ず外から見た自分を感じ取っている。だから私たちはパジャマ姿で外出することはないだろう。若い女性ならスッピンではコンビニにすら行かないという話も聞く。つまり外から見た自分がヤバいことになっている!という警鐘が鳴らされるからだ。
しかしだからと言って私たちは私たちであることをやめない。ある考え事をしながら街を歩いているとき、それに没頭すると私たちは外から見た自分のことを忘れがちになるだろう。そして何かを思いついて「あ、そうか!」などと大きな声で独り言を言って周囲から訝しげな眼で見られてハッとして顔を赤らめたりするのである。しかし大抵は、私たちは人前では自分をモニターする視点を時々織り込むのだ。
あるいは誰の目もないところで一人で行う活動も、実はこの自他の揺らぎを含みうる。例えば私がこの文章を書いているとき、それがどのように読まれるだろうか、ということを同時に考えている。そして「これは意味が通じにくいな」「これはおかしな表現に聞こえるかもしれない」と気が付いて文章を訂正したりしているのである。
私がここで「自他の揺らぎ」と呼んでいるものは、これは哲学でいう即自 en soi と対自 pour soi という体験とほぼ同義である。
フランスの哲学者ジャン=ポール・サルトル(Jean-Paul Sartre 190580)は、即自存在(être en soi)を、それ自体として肯定的に存在する事物のあり方とし、この即自存在に客観的にかかわる意識的存在を、対自存在(être pour soi)として規定した。つまり「自他の揺らぎ」とはこの対自存在と即自存在との間の行ったり来たり、ということなのだ。
そこでA君の場合に戻ってみる。彼がBさんのメールに即座に「ではその次の日曜日はどうですか?」という返事を書いた時、彼はそれがBさんにどのように受け取られるかについておそらくあまり考えていないだろう。あるいはそれについての一方的で的外れの思い込みしか持っていない可能性がある。例えばA君は「Bさんに『この人は何を焦っているのだろう?』とか『このように畳みかけるようにメールを返すことを迷惑に感じるのではないか?』と思われていないだろうか?」という懸念は持っていないはずだ。つまり「自」ばかりで「他」の視点が足りないのである。もちろん先ほど述べたように、メールの文章を書くときは、一人かも知れない。相手は目の前にいないのだ。しかし私たちはそれがどのように相手に読まれるかを考えるものだ。そしておそらくA君は人と直接会っていても、メールのやり取りをしても、結局この「自他の揺らぎ」を十分体験しないために、他人から疎まれる結果となっている可能性があるのだ。