2020年2月21日金曜日

揺らぎと遊び 推敲 1


前章では揺らぎの欠如と発達障害傾向のある人々についていろいろ考えたが、発達障害的な心の在り方とは反対側に位置すると考えられるような一群の人々のことが私の心には浮かんでくる。それは私たちがテレビで毎日目にしている「お笑い芸人」と呼ばれる人たちである。
私は個人的には彼らに非常に感謝している。いつもとても笑わせてもらっているからだ。それに彼らは絶好の人間観察の機会を与えてくれる。お笑い芸人がなぜ観察対象として素晴らしいかと言えば、彼らにとっては職業上、内面をさらけ出すことは、半ば必然になるからだ。彼らは笑いを取るためには自分のプライドを捨て、自分にとっての恥部をもギリギリまでさらけ出す。恥ずかしいことをさらけ出すことによる恥辱は、笑いを取れないで立ち尽くす(スベる)恥辱よりは、はるかにましだからだ。その意味で彼らはいつも自分を切り売りする覚悟を持っている。彼らは表舞台でのパフォーマンスの時でさえも、私が日常出会う人々よりも一歩も二歩も内側を見せてくれるのだ。そして私がここで提案したいのは、揺らぎが時には過剰なまでに豊富な状態、私たちが発達障害で見た状態とはちょうど反対に位置する心の状態が彼らに見て取れるということだ。あるいはもう少しストレートに表現するならば、笑いは意味や情緒の揺らぎを前提として、あるいはそれを利用することで成り立つのである。そして自分が意味の揺らぎを体験し、作り上げ、それを聴衆の心の中に送り込むことで、笑いを生み出していくのが彼らお笑い芸人の仕事だと言えるのだ。
笑いが意味の揺らぎを用いて作られる、という点に関しては説明が必要だろう。そのために例を挙げよう。つい先ほど見たTEDトークで、あるブラックジョークを聞いた。こんな感じだった。
「病でもう余命いくばくもない男が、我が家のベッドに臥せっている。ふと隣のキッチンから漂ってくるクッキーの香りに惹かれる。このところしばらくは食欲などというものとは無縁だった彼が死を前にして嗅いだ焼きたてのクッキーの香り。男は最後の力を振り絞ってベッドからはい出し、キッチンにたどり着いた。そして妻がオーブンから出して皿に盛ったばかりのクッキーの一つに手を伸ばす。すると妻は夫の手をピシッと叩く。「あんた、何やってんの! これはあんたのお葬式にくるお客様に出すものよ!

私はこの落ちを聞いた瞬間に、自然に笑うことが出来た。このジョークは少なくとも私にとっては成功したし、実際に会場からも笑いが起きていた。しかし不思議なことに、理屈で考えてもこのジョークがどうしておかしいのかがよく分からないことだ。それはおそらく笑うということの裏にある心のメカニズムがかなり込み入ったものだからだろうか。そこに起きていることを理屈で考えても、つまりそこにバロン=コーエンのいう「システム化的」な、論理的分析的な思考を当てはめても、表層的な分析だけでは笑いのなぞは解明しないのだろう。それでもう少し頑張ってみる。
このジョークの面白さは、奥さんの場違いな振る舞いや言動だろう。夫の手をピシッと叩くのは、子供のいたずらを叱る母親のシーンを思い起こさせるが、妻が夫の子供っぽい仕草をたしなめるシーンも連想させる。これはこれでよくある状況であろうし、自然なことだ。例えば家で誰かのお葬式をあげることになっている場合に、そのために焼いたクッキーを旦那さんが一つ失敬しようとして、奥さんからピシッとたしなめられるとしたら、そこには何の意外性もなく、笑いを誘うことはないだろう。そこにはもう一つの仕掛けがいるのだ。それは何だろうか。
この五行ばかりのジョークを読んだ読者は、死を前にして最後にクッキーを一口味わって、昔のおふくろの顔でも思い出し、穏やかで幸せな気持ちで死に向かっていく男を思い浮かべているはずだ。そしてそのクッキーの皿に手を伸ばす・・・・。そこまではいい。そして最後のどんでん返し、あるいはギャップが笑いを起こすのだ・・・・。
たいていはここで説明は終わるのだ。しかしもう少しその先を探ることは出来ないだろうか。その手がかりとして、このジョークを台無しにしてしまう要素、いわゆる「スポイラー」を考えてみよう。例えばジョークがこんな感じだったらどうだろう。
「妻は夫の手をそっと優しく止めて、言う。『ごめんなさいね。あなたが食欲を取り戻してクッキーを食べてみたくなったのはすごくうれしいわ。ただこれはあなたのお葬式のためにお客様に出すものなの。』」
これではパンチはほとんど失せてしまっている。(ちなみにご存じの通り、英語では、ジョークの最後の一言はpunch line という。)しかしこれがどうしてジョークを殺してしまうのだろうか。この妻の言葉がジョークを聞いた人の心の中で体験するべきギャップを埋めてしまうからだろう、ということくらいは言えるだろう。
スポイラーをもう一つ考えた。ジョークをこう書き換えてみる。
「しかしベッドからはい出してキッチンに向かった男は、妻のキツイ性格も知っていた。そしておずおずとクッキーに手を伸ばした。そしてやっぱり言われてしまったのだ・・・・」これも完膚なきまでにパンチを殺してしまっている。これも男の行動についての説明が先を予想させてしまっているので、実際の妻のセリフは全く効果を発揮しない。
このようなスポイラーはことごとく、どんでん返しにおけるギャップの効力を消す効果を持つ。崖から突き落とされて地面に激突することで生まれる笑いの効果は、スポイラーにより崖からなだらかな坂に作り替えられ、その衝撃を失ってしまうのだ。ではそもそもそのギャップとは何かと考えるならば、それは意味の揺らぎの一種と考えられるというのが私の主張だ。二つの意味とは以下の通りだ。
l  夫の「いたずら」を厳しめにたしなめる妻
l  死を前にした夫に、あり得ないほどの過酷な言葉をかける妻(あるいはその過酷さを体験した夫)

ジョークとは、この二つの状況を心に置くことが出来る場合に、その落差として体験される。つまり異なる立場にある人が心に浮かべることを、同時にないしは時間差で想像し、そこに生まれるギャップを頭の中で感じ取り、あるいはそのようなギャップを作り出すという能力が前提となる。いわば図と地が反転するような衝撃が体験されることで、そのまま笑いのエネルギーとなるわけだ。それにお笑い芸人が優れているとしたら、それは様々な立場にある人々の心を自分の中に置いてみる、あるいはそれらの人々の心に入って共感してみる、ということであろう。そしてこれは、意味の多義性、揺らぎにつながることなのだ。クッキーに手を伸ばすということ、あるいはそれをはねつけるということが持つ意味が、人により全く異なるということの理解を前提として初めてギャップを体験することが出来るから、というわけだ。