2020年2月24日月曜日

遊びと揺らぎ 推敲 5


揺らぎが作る可能性空間、そして不確定性

この様に考察を進めていくと、ウィニコットが提唱した可能性空間という概念そのものが、揺らぎの問題と密接に結びついていることがわかる。しかもそれは最初は観念的なものではなく、実際の事物、すなわち移行対象を介したものであるということが大事なのだ。フロイトの孫の糸巻の遊びも、積み木遊びも、それが実際のものであり、いわば実在性、物質性を有していて、子供が現実にコントロールできることが大事だ。「毛布であることのポイントは、その象徴的価値よりもその実在性 actuality にある。毛布は乳房(や母親)ではなく、現実であるが、それは毛布が乳房(や母親)を象徴している事実と同じくらいに重要である」(W,p8, 1971
この移行対象の実在性、物質性は二つの意味を持っている。一つはそれを自分で扱うことが出来て、コントロール可能だということだ。ぬいぐるみは自分の布団に持ち込むことが出来る。それは自分の意のままになるというところがある。自分がそれを所有し、だれにも渡さなくていい。突然取り上げられることもない。しかしそれはもう一つの重要な要素を持っている。それはある意味では物質であるがゆえにコントロールの領域外でもあることだ。ウィニコットはこの点にも言及していて、それを不確かさuncertainty と表現する。「遊ぶことについては常に、その個人にとっての心的現実と、実在する対象をコントロールする体験との相互作用の不確かさがある。」
つまり現実の移行対象は思わぬ変化を遂げる。例えば劣化だ。これを書いているとどうしても浮かんでくる絵本がある。「こんとあき」という本だ。子供が小さいころ母親(カミさん)が読み聞かせているのを聞いて衝撃を受けた。あきという女の子が、「こん」というキツネのぬいぐるみをいつも連れて歩く。「こん」は何でもあきの言うことを聞いてくれる。こんとはいつも一緒だった。ところが・・・衝撃の行がカミさんの口から読まれた。「月日は流れ、やがてこんは古くなってしまいました。」えー! 
こうしてこんは修復が必要になってしまうわけだが、私が「古くなる」という言葉に衝撃を受けたのは、こんがファンタジーの世界での生き物であると同時に、モノであることのギャップを、あるいはその揺らぎを衝撃的に味あわされたからだ。そしてあきは何かを確実に学ぶわけである。
「こんとあき」はともかく、このモノの持つ意外性、主体のコントロール外の性質、ウィニコットの言ったuncertainty とは、まさに揺らぎの一つの重要な性質であったことを思い出していただこう。揺らぎはそれ自体が先が読めないという性質を有するのである。

私がむしろ健全で、精神発達にとって促進的である遊びの典型として取り上げたいのは、「イナイイナイ・バァー」である。それは明確に対人関係に根差し、しかもその確立はある発達上の一ステージへの到達とみなすことができるからだ。それに比べてフロイトの例は、自閉的なにおいがする。糸巻遊びに興じる彼の1歳半の孫エルンストは、おそらく健全に育ったのであろうが、もし彼が5歳になっても10歳になってもこの「Fort-Da」の遊びを繰り返していたら、かなり心配になる。それはむしろ回転いすを延々と回し続けたり、砂場の砂を掬って指の間から漏れるのを一心不乱に眺める自閉症児の姿により近いであろう。
ともあれこの種の遊びの決め手になるのは快、スリルであることに間違いない。イナイイナイバァーを子供のころ体験したことを生々しく覚えている人は多くないかもしれないが、子どもを持った人ならほとんどが体験しているだろう。もちろん子供に付き合わされて繰り返す場合もあるだろうが、やっていて実際面白い。スリルが伴う。なぜだろう? 子供はつらい体験を克服するためにやっているとはあまり思えない。フロイトには悪いが、非常にシンプルに、楽しいからやっているように思える。それにエルンストが糸巻遊びをしているとき、彼はおそらく母親のことなど考えていないのだ。ただ楽しいからやっているはずだ。もちろんそれが母親との別れの辛さを克服するという意味を持っていなかったと言い切るつもりはない。案外そんなことが起きているのかもしれない。でもまず楽しくなければ、子供はその遊びには興じない。だからフロイトが「なぜこれが快原則と整合的なのだろう?」と考えたとき、彼は何か遠回りをして考察を加えていたことになるだろう。フロイトはどちらかといえば遊びを知らない人といえないだろうか。あるいはとてつもなく頭がいいといえるのか。だから孫の糸巻遊びを見て深い洞察を得て論文が一本出来てしまうのだ。