2019年9月30日月曜日

日本における母子関係 6


There is another story after this episode. When I saw A’s father more than 20 years later, he told me an interesting story as follows. After this hospitalization, A developed episodes of night terrors he suffered almost every other might, which lasted for 3~4 years afterward. A often woke up quite confused a couple of hours after he went to sleep. He was in big terror and tried hard, trying to utter some words which never made sense to his concerned parents. He needed to be stroked and cuddled until he again went to sleep. A never remembered anything which happened on the previous night, which is typical of this type of night terror. A’s parents thought that it was due to his extended hospitalization and two surgical procedures that he needed to endure as his empyema was very serious and pus accumulated even after the first operation, and exceptionally in his case, the second operation was needed. A’s parents thought that he needed a special care as A was traumatized by these medical procedures. A’s night terror subsided when he reached 7 or 8 years old, but A had a tendency of remaining anxious at night time and he insisted that his mother holds his hand until he falls asleep, and she acceded to it. A’s parents were concerned that their over-protective attitude would make A even more dependent on them. Although they encouraged A to sleep at night in his own bedroom, he never listened to it and remained in his parent’s bedroom. They decided to allow him to stay close to them as much as he wanted. Otherwise A was OK at school and his academic performance was basically acceptable, at least well enough for him to get into the college of his own choice.  
“Think what’s happened afterward” A’s father then asked me. Then this was what he told me about what’s happened to A afterward. “When A turned around 15, his behavior suddenly changed. He started to use his own bedroom at night, began spending a lot of time chatting with his high school friend or hanging around with them until late in the evening. Then he chose a college in a state far away from home, and he would never came back home during spring and summer vacation for more than a couple of days. A’s parents felt that A ended up being kind of fed up with their caring and over-protective attitude and enjoyed living on his own.


2019年9月29日日曜日

日本における母子関係 5


There was one experience which we could never forget during our stay in the US.. One of my Japanese friends who stayed in the same town in the same period as we did, had a son A, 4 years old, who unluckily contracted the pneumonia of a special kind called “empyema”, a condition characterized by a collection of pus in the pleural cavity caused by some bugs. In this condition, the pus which accumulated in the pleural space should be raked out manually, of course in a open-chest surgical procedure, in order to prevent a condition where the pleural cavity is totally stuck by the glue-like pus which would never allow a smooth friction between the chest wall and the lungs. (The smoothness between the inside of the chest wall and the surface of the lungs is necessary for a healthy future growth of these organs as the boy grows up later.) My heart went out to A’s parents who not only were concerned about their son’s grave condition but who needed to deal with everything, from taking their son to the medical service needed, but also getting ready to their son’s surgical operation which costed considerably, communicating with necessary people involved in a language that they are still not accustomed to.
Anyway, what impressed me was that A’s parents stayed (or, actually “lived” in A’s bedroom throughout his stay for two weeks as though leaving A alone in a hospital environment. It was just a miracle that the hospital allowed them to rent a cot for A’s father while allowing A’s mother to sleep next to the boy, which can cause all kinds of problems of sanitary, safety or administrative reasons nowadays). When A’s parents told me about their story, later on, they mentioned an impressive story of a girl, 4 years old who happened to have the same condition, i.e., empyema, who was hospitalized in a same period as A in a room just across the hallway. Her American parents, quite naturally visited their daughter for a couple of hours in the evening and went home, which was rather typical way that the American parents would do. (When I had a chance to do a rotation in the resident program in a pediatric unit, I never saw any American parents of their offspring, “living” in their bed room.)

2019年9月28日土曜日

日本における母子関係 4

Mother-child relationship in Japan

I would like to rely on my own personal experiences in the United States in discussing this topic. It was in the US, a rural town in the Mid-West that we lived in for 17 years and this is where or only son was raised. There could be many Japanese communities in larger cities in the US, but as our town was relatively small with 160 thousand of population, there were only few Japanese families, except for those of psychiatrists visiting temporarily for their study and training at the Menninger Foundation which was a well know psychiatric hospital of psychoanalytic orientation.  These relatively young psychiatrists and a few psychologist spend 2~4 years there for their training while quite often raising their young children in that unfamiliar environment. As my purpose of the stay was a long term one, i.e. to become a trained psychiatrist and fully trained psychoanalyst, our stay was rather extended and therefore our son spent his entire childhood until the beginning of the adolescence in the American environment.
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2019年9月27日金曜日

フェレンチ再考 9


さてさて・・・・
そろそろこのフェレンチシリーズも終わりにしたいが、いろいろ論文を読んでいるうちに、私はやはりフェレンチはクロだ、と思うようになった。クロだ、という言い方は穏やかでないし、フェレンチに対して失礼かもしれない。しかし以前にラックマンの文章を紹介した際に、私は少し甘く見ていたのだ。彼によれば、フェレンチが境界侵犯をしたとされる根拠は二つしかないという。一つは例のトンプソンの「パパフェレンチは好きなだけキスしていいと言ったのよ」という不用意な発言で、もう一つはエルマ・パロスとの関係だ。でもエルマとフェレンチは婚約者となったのだし・・・とフェレンチの境界侵犯のことを私は軽く考えたかったのだ。でもエルマの件はやはり問題にせざるを得ないのは、エルマが後にマイケル・バリントに送った手紙があるからだ。私が訳してみる。
ちなみにこの文章が掲載されているDupont の論文はただでダウンロードできてしまう。
Dupont J. (1995) The story of a transgression. J Am Psychoanal Assoc. 1995;43(3):823-34. 
  
何回かの(カウチによる)セッションの後、サンドール(訳注:フェレンチのこと)は私の後ろの椅子から立ち上がり、カウチの私のそばに座り、明らかに情熱に駆られて私にキスをし、大変興奮しながらどれだけ私を愛しているかを告げ、私に彼を愛すことが出来るかを尋ねてきた。私はそれが本当かどうかは分からなかったが、彼に「はい」と答え、私はそれを本当に信じたいと思った。私はサンドールのことを分析の最中に思っていたほどに愛していないことに気が付くまでに、彼が何度私の婚約者として私達とのランチを共にするために訪れたかはわからない。

考えても見よう。エルマはフェレンチの浮気相手かつ患者であるギゼラの娘である。娘が恋人を亡くして落ち込んでいるというので、ギゼラが治療をお願いしたのだ。そのエルマとこうなってしまっては、やはりイカンだろう・・・・、フェレンチ先生。

2019年9月26日木曜日

文化と解離 2


抄録っぽいものを書いてみた

ポリサイキズムは日本において許容されているのか? 
- 文化を超えた「大文字の解離」理論をとなえる

 一つの脳に複数の主体が宿るという解離現象は、現在でも多くの誤解や偏見の対象となっている。解離性同一性障害(DID)を有する患者の体験を聞く側には、彼女たちが医療者側からさえ頻繁に誤解や差別を受けている様子が伝わってくる。法廷においても明らかに解離状態で起きたと思われる行動が、被告に対する情状酌量の根拠となることは極めて例外的であるのが現状である。しかし誤解の対象となりやすいことそのものが解離の本質と言えるのかもしれない。それは人が信じる主体の「唯一性」や、それを奪われることへの恐れに根差しているのかもしれない。そしてこの事情は我が国と諸外国とに違いがないように思われる。
フロイト以来の伝統的な流れに沿った精神分析理論においても、人格の多重化は本来一つであるべき主体が防衛として分裂された状態として理解され、それらが最終的には健全な形で統合されることを治療の目標としていることは疑いない。しかしそれとは別に複数の主体の存在を前提とするポリサイキズム(poly-psychism, Durand de Gros)あるいは「多心主義」の流れはフロイトの協力者であったJ.ブロイアーには支持され、P.ジャネも「解離の第二原則」を掲げて複数の人格が別個に生成される過程を記載している。しかしこの立場は決して一定以上の支持や関心を得ることなく現在に至っている。
私はジャネに基づくポリサイキズムの立場にたった解離理論を「大文字の解離(Dissociation)」と呼び、防衛として一つの心から二次的に生じた解離(小文字の解離 dissociation )とは本質的に異なる理解や治療的なアプローチを要請すると考えている。「大文字の解離」の理論においては、ある人格にとっての別人格が純粋な他者性を有することを前提として、その上での融合や「混線」や、特殊なケースとしての融合などのあらゆる可能性を認める。憑依現象やDIDにしばしばみられる突然の完成形での人格の出現は、それが一つの主体として別個に生成される様態を表している。ポリサイキズムとしての心の在り方は特殊な心にしか生じないというのはおそらく誤りであろう。いわゆる分離脳により右脳と左脳に別々の心が宿ることはよく知られたことであり、また夢におけるいくつかの人格の出現は、それはまさにポリサイキズムの日常的な表現とみることが出来る。
かつて河合隼雄も多重人格におけるいくつかの独立した心の存在を認め、治療者による安易な「統合」の試みを戒めたが、興味深いことに夢の存在が私達の脳に複数の人格を宿す能力を示していると彼自身が述べている。ただし河合が述べたような文化による多重性への許容性の違いには疑問をさしはさまざるを得ない。彼が言う「日本文化は複数の心に許容性があるためにDIDが少ない」という主張もそのまま肯定すべきかは議論が多いであろう。解離が文化の垣根を越えて誤解の対象となるというのが私の印象である。
ちなみに個々の主体の存在を保証することは、その脳科学的な対応物neurological correlateを想定する努力を伴うべきであろう。個別の人格はそれぞれが独自のダイナミックコア(dynamic core, Gerald Edelman, et al)に支えられた独自の意識体系を有し、その意味でも各主体はほぼ十全なる「唯一性」と相互の「他者性」を保証されていると考えるべきであろう。臨床家は解離状態で生じる個々の主体に敬意を払い、時には主体間の生き残りをかけた熾烈な葛藤にも立ち会う覚悟を持つべきであろう。




2019年9月25日水曜日

文化と解離 1


ここで私が整理しておきたいのは次のことだ。人の心では別の主体が生み出されるという不思議な現象が起きる。人は突然それを観察することになったり、影響を受けるような状態が生じる。それにはおそらく明確な中枢神経系のレベルにおける対応物 correlate があるはずであるが、それが不思議なことに瞬時に生じるのである。あたかも魂、霊魂というものが存在して、それが憑依する、獲りつく、心に侵入するという現象と考えられる傾向にあるのはそのためである。そんなことでもない限り、それほど不思議な現象など起きないはずだ、というわけである。
ところがそれがごく自然に起きているのが夢の状態である。このことに私たちはあまり気が付いていないのではないかと思う。たとえば私たちが意識的な活動をしている時に、誰かある想像上の人Aさんを作り上げ、その人が自発的に動き出すのを待つということをするだろうか。普通はそのAさんの自発的な動きに驚くということは起きない。それは結局は自分が考え出した動きがAさんに反映されているという状態に過ぎないはずだからだ。いわゆる表象現象とはそのような体験である。しかしある作家(村上春樹氏はそのような体験をどこかで語っていた)は常にそれをしながらストーリーの展開の観察者となり、それを書きうつすということが創作活動となっている。そして考えてみればあるアイデアや曲が浮かぶとはまさにそのような現象なのである。それに関して私たちは、特殊な才能でもない限りそんな神がかり的なことは出来ないと考えるだろう。
しかしそのことを実は私たちはみな日常的に、というより毎晩体験しているのであり、それが夢というわけだ。夢にある人物A さんが出てきて、とんでもないことを言ったりしたりする。自分はもっぱら観察者だが、気が付いたら自分もかなり意味不明なことを、そうと気が付いてやっているというのが夢の進行の仕方だ。ということは脳の別の部位で自発的に主体を動かすという作業をしている、という意味では夢の中での私たちの活動は多重人格的、と考えざるを得ないわけである。しかしこの夢の不思議な現象は、あまりにも当たり前すぎて、それを疑問に思う人はあまりいないのだ。その中で先日紹介した河合隼雄氏は例外的だったと言えるだろう。

2019年9月24日火曜日

フェレンチ再考 8


さてそのようにして始まった相互分析では、フェレンチはサバーンに対する怒り、畏れ、嫌悪などの否定的感情を語ることになる。そしてそれを聞いたサバーンの反応も、自分自身がそれまで控えていた感情を伝えるというものだった。そしてそれなりの相互性が成立したかのように見えた。もちろんこのような関係が長続きするわけはないが、このプロセスでフェレンチは自分自身の過去の問題が、サバーンへの嫌悪感の一部を占めていることに気が付いたという。そしてその治療のためにフェレンチを分析する側のサバーンにも苦痛が体験され、またどうしてフェレンチを分析する立場の自分が料金を支払っているのか、という疑問が生じた。こうしてサバーンは自分のほうも料金を受け取る必要があるという要求を行ったという。
しかしともかくもこのサバーンとの関係からフェレンチに見えてきたのが、子供への性的な攻撃、性的外傷がいかに重い意味を持つかということだった。そしてこれがフェレンチが「言葉の混乱」に表されたモチーフに向かう大きなきっかけであったという。
さてそれから相互分析は最終章を迎えることとなる。フェレンチの晩年の、すなわち193210月から翌年2月までは体調がある程度持ち直し、最後の奮闘を行うことになる。フェレンチはサバーンに一度は中止した相互分析の再開を提案したという。そう、フェレンチの方から提案したのだ。しかしここにはマゾキスティックな雰囲気が漂う。そしてフェレンチの衰えにより、サバーンの状態はさらに悪化した、とある。分析を止めてブタペストから去るという可能性について、サバーンの方から持ちかけても、フェレンチの方から話題を逸らしたという。そして森先生が書くには、フェレンチは行き詰ったこの分析について他言しないようにとサバーンに求めたというのだ。ここまででサバーンとの治療は8年間にわたり、いまだ多くの症状を彼女は抱えたままだったという。2月にパリで再会したサバーンの娘は母親のひどい状態に驚き、フェレンチに厳しい手紙を書いたという。その後もトンプソンやミラーなどの分析の患者は残っており、彼自身もがんばったが、とうとう4月からはベッドから起きあがれなくなった。そしてフェレンチはついに522日に、60歳を前にして亡くなったという。(今の世なら、ビタミンB12による治療で回復したのに、と思うと残念だ。)


2019年9月23日月曜日

フェレンチ再考 7


ということでサバーンとの相互分析について書いているのだが、私がこれまで下敷きにしていた Arnold Rackman の論文が冗長で、いくら読んでも進まない。ということでここで森茂起先生の本からエッセンスをまとめよう。(森茂起(2018)フェレンチの時代-精神分析を駆け抜けた生涯.人文書院)
エリザベス・サバーンは1879年米国中西部に生まれ、フェレンチには44歳の頃出会った。フェレンチは1873年生まれなので、サバーンより6歳年上ということになる。サバーンは幼いころから倦怠感、頭痛、食欲不振などの症状に悩まされ、神経衰弱の診断でサナトリウムに入院したこともある。22歳で結婚して娘をもうけたが、結婚生活は4年で破綻している。それ以降彼女はアメリカで心理療法を受けたが、そのうち自分自身に治療能力があることに気が付いたという。それはいわゆる霊感的なもので、それをもとに臨床活動を始めたという。サバーンの治療手法は様々なものを交えたもので、暗示、教育、あるいは動物磁気なども組み合わせたという。サバーンはそれからロンドンに居を移し、1913年には「心理療法―原理と実践」という著書を発表するまでになった。しかし彼女自身の身体的な問題は続き、そのための治療者を探し、最終的にはオットー・ランクの手引きなどにより、フェレンチに行き着いた。サバーンは、自分は40年前から自分の救世主として現れるフェレンチのことを知っていたといってフェレンチを驚かせた。それから1924年から32年まで、サバーンはロンドンから何度もブタペストを訪れ、そのたびに長期滞在をしてフェレンチから分析治療を受けることになった。(なんとその時サバーンは自分の患者数人を引き連れてブタペストを訪れていたという。つまり治療を受けながら、治療を継続していたのだ。)この時のフェレンチは、最初はサバーンに大きな印象を持たなかったが、そのうち「彼女の醸し出す雰囲気に圧倒され」「強烈な独立心と自信、まるで大理石の石像のように固い雰囲気に伴う恐ろしく強い意志力」「専制君主のような威厳」を感じたという。そう、最初からフェレンチはサバーンに圧倒されていたのだ。
フェレンチがサバーンの治療を始めた時代は、いわゆる弛緩療法に重きを置き、患者の訴えを受け入れ、退行を促進させることに治療の主眼を置いていた。そしてカウチ上でサバーンが訴えた過去の性的な暴力は極めて深刻なものだった。すでに一歳半の頃から過酷な性的虐待を受けていたという。それと共に「お前は役立たずで汚れている」という呪いの言葉も浴びせられていた。このために自殺を試みたことも何度かあり、それらの記憶がトランス状態で次々と語られたという。
さて問題はそのような語りを繰り返したサバーンの症状が依然として改善されなかったことだ。そしてそれについて、サバーンは、自分がよくならない原因はフェレンチにある、と迫ったのだ。つまり彼女が暴力を受けている子供の状態に戻った時、フェレンチがただ聞いているだけで、「助け出してくれない」と不満を言った。さらにこれが解離状態で起きた語りであり、治療の後は彼女自身にもその報告内容に実感を持てなくなることも、フェレンチを責める原因だったようだ。そのうちサバーンはとんでもないことを言いだす。私が直らないのは、フェレンチのコンプレックスによるものであり、それが直らない限り治療は進まない、だからそれを自分に分析させよ、という要求だったのだ。もちろんフェレンチは最初は抵抗した。彼としては分析的なやり方を踏襲し、サバーンの訴えを聞き、それに解釈を加えることが正しいやり方だと考えたわけだ。ところがサバーンの執拗な要求に、フェレンチも折れてしまう。そしてこの、最終的に女性の要求を聞き入れてしまうことが実はフェレンチの持つ問題とさえいるかも知れなかったのだ。


2019年9月22日日曜日

発達障害とパーソナリティ障害の微妙な関係 3

こうなると患者さんは、「腹が立つのは、正しいと思っていることを周りの人が分かってくれないんです。」ということになる。もしパーソナリティの問題だけであるなら、ある程度は自分の言動の偏りを自覚する能力は有しているはずだろう。「あの時はつい〇〇してしまったが、××すべきだった」という反省が起きるはずだ。ところが発達障害の影響があり、自分の偏りを認識できないのであれば、「良かれと思ってやったのになぜ…」の思いは続くであろう。するとこれは、少なくともこの部分に関しては、ASD, BA の問題を反映していることが推察されるのだ。
ここで誤解してはならないのは、当事者はそれでも何かがうまく行っていないことは自覚しており、それを直したいという希望を持っているということだ。すると人から発達障害と言われることは相当なショックになりうる。それは発達障害は治しようがない、という理解が様々なところから吹き込まれているからだ。(まあ、それが間違っているというわけではないが 、ある程度は克服可能な場合もある ・・・・) だからもっと詳しく調べ直して欲しいと願う。しかし発達障害はいわばアナログ診断、ないしはスペクトラム診断なのである。そしてもしクライエントさんが白か黒かをはっきりさせないと気が済まない、と主張するならば、これも「発達的」な訴え、ということになる。
最後に一点論じ忘れたことがある。それは発達障害の深刻度は、その障害の重さそのものが関係しているのか、それともどの程代償や防衛が関係しているのか、という議論であり、ひょっとすると発達障害には後者の要素が大きいのではないかという点である。たとえ話として、膝痛を取り上げよう。膝関節の軟骨がすり減って痛みを感じている人たちを考えよう。一方は軟骨のすり減り度合いにより痛みが増す人たちがいる。しかし他方では強い筋肉(大腿四頭筋やハムストリングによりひざに負担がかからずに済んでいる場合には、かなり軟骨がすり減っているにもかかわらず痛みをあまり感じず、軽症扱いされる人たちがいる。つまり軟骨のすり減り度合いという本来の障害の度合いと、症状としての痛みの強さの度合いが一致しないということが起きるのだ。
発達障害の場合も、本来の障害である「他人の感情状態が分からない」という本来の問題がかなり深刻でも、「他人の感情状態を認知的に推測する」という前頭葉による代償機能がそれなりに発達していればその人の人生は存外うまくいくかもしれない。ところがこの代償機能は表面的な社会的付き合いのレベルでは効果を発揮しても、大事な対人関係においては追いつかず、親友や恋人に去られてしまうということが起きるとしたら、やはりそこで問題となっているのは根底にある「他人の感情状態を直感的に感じ取れない」 ということになる。とすると次のような可能性が生じてくる。「Bは、ASD の問題が決して軽い、というわけではなく、たまたま代償機能により表面化していない状態である。」すると代償や防衛が破綻したために露呈する問題はことごとくASD 関連である、という可能性が生じては来ないだろうか。

2019年9月21日土曜日

発達障害とパーソナリティ障害の微妙な関係 2


他方のパーソナリティ障害についてはどうか。これも手短にまとめてみよう。従来DSM ICD は情動、認知、対人関係の持ち方における病理性に基づき十前後のパーソナリティ障害を提示していた。ボーダーライン、反社会性、自己愛、スキゾイド、などなどだ。その後趨勢はいわゆる「ビッグファイブモデル」にシフトし、どの程度病的パーソナリティ特性が反映されているかにより分類するといういわゆるディメンジョナル・モデルへと移行した。否定的感情(不安や敵意の度合い)、離脱(どの程度引きこもりや孤立が見られるか)、対立(どの程度操作的、冷淡、敵意などが見られるか)、脱抑制(どの程度衝動性、無謀さ、完璧主義が見られるか)、精神病性(どの程度風変りさ、異常な信念を持つか)のうちどれが高くてどれが低いかによる分類である。これらのうち高いスコアを示すものは、それだけ正常範囲から偏奇したパーソナリティを有するということになる。
しかしこれらの分類には、そのような自分のパーソナリティの偏奇を自分自身がどれだけ自覚できているかという変数は含まれない。たとえば否定的感情が強いパーソナリティを持つ人は、それにより他者にどのような受け取られ方をしているかについての自覚自体は問われていないことになる。逆に言えば、それらについての自覚がもてない場合には、そこに「他者の情緒を感じ取れない」というファクターが絡んでいることになる。これは先ほどのASDの特徴だが、パーソナリティ障害は、当人が自らのパーソナリティを自覚しない(出来ない)場合に同時にASD、BA の要素を有するということになる。 



ここで誤解を招くことを恐れずにひとつの非常に単純化した図を示す。右側の大きな青の楕円はパーソナリティ障害であり、左側のオレンジの楕円はASD、BA を示す。両者には重複部分がある。まずなぜASD がパーソナリティ障害と重複するかというと、ディメンショナルモデルで考えると、ASD を有する結果として示される見かけ上のパーソナリティの偏奇は、容易にパーソナリティ障害を満たしてしまうからだ。ここでたとえば上記のビッグファイブのファクター、つまり否定的感情、離脱、対立、脱抑制、精神病性のいずれも発達障害の二次的な結果は除く、という断り書きはないからだ。そして当然ながら、「他者の情緒を感じ取れない」ことの結果としておきうる問題はこの5つのうちどの要素もそれを高値に押し上げる可能性を有する。つまりそれは上に述べた他人に対する猜疑心(否定的感情、対立)にもつながり、あるいは知的活動などに没頭して孤立する傾向(離脱)にもつながり、時には奇矯な行動(脱抑制、精神病性)にもつながる可能性がある。だからASD、BA のかなりの部分はこの(見かけ上の)パーソナリティ障害にも属してしまう。(ただしパーソナリティ障害に属することのないASD, BA 者もいることを想定し、オレンジの楕円には、青の楕円にかからない部分を残してあるのである。)

2019年9月20日金曜日

発達障害とパーソナリティ障害の微妙な関係 1

ASD(自閉スペクトラム障害)とパーソナリティ障害の関係は微妙だ。特に軽症のASDがなかなか理解されていない。その現れ方が微妙なためにそうと認識されにくい状態を最近の呼び方にならい「BA(ボーダーラインオーティズム)と呼んで置こう。これはASD(自閉症スペクトラム障害)の継承型、ととりあえず理解することができる。
私が注意を喚起したいのは、このBA の状態が、臨床上大きな混乱を伴いやすいという点だ。なぜなら顕著なレベルでの障害を持たないものとして扱われることで、かえってその問題が際立ってしまうという例が多くあるからだ。それはちょうど知的能力がボーダーライン(IQ7085)にある人が普通級で苦労するのに似ている。「明らかな知的問題はない」となれば、成績が振るわないのは本人の努力不足、甘え、あるいは性格のため、という事になり、叱責や指導の対象にさえなりかねない。同様にBA も意図的に人間関係を難しくしていると「誤解」されたりパーソナリティの問題とされたりして当人への風当たりはそれだけ厳しいものとなる。つまりその問題の存在が明らかなASD に比較して、BA は、それを有することで、それとは真逆の見立てや対処の対象となりうる、という皮肉な現実があるのだ。その意味ではこの報告者の記述に見られるような「発達障害というよりはパーソナリティの問題」という理解には、それを用いる側も聞く側もよくよく注意すべきである。それが用いられたとたん、上の皮肉な現実を生み出してしまう可能性があるからだ。
ここで少し概念の整理が必要だろう。パーソナリティ傾向とASDないしBA とはどこが違うのだろうか? 自閉症スペクトラムの特徴は様々に記されているが、なるべくDSM-5 の言葉を用いるならば、他者との自然な情緒的関係の持ちにくさ、文脈に沿った行動を取れないことなどであり、ようするに「空気を読めない」ということだ。これを「他者の情緒を感じ取れない」という問題としておこう。どうしてこれが対人関係上の問題となるのだろうか? 私の臨床体験からは、それが自然な対人交流を妨げるだけではなく、結果としてASD を有する当人の被害念慮を生むことが大きな原因となっていると考える。彼らは他人との確執が生じた時に、自分の変わった面がどのような感情を起こしているかを実感として持つことが出来ない。その原因を求める努力は「相手は自分に悪意を持っている」という結論に至りやすいらしい。「自分は正しいのに、相手が判ってくれない」となるわけだ。

2019年9月19日木曜日

河合隼雄と多重人格 2

河合隼雄の多重人格に関する言及のもうひとつは、KAWADE 夢ムック「河合隼雄 こころの処方箋を求めて」(2013年、pp64-86)に収められている哲学者鷲田清一氏との対談に出てくる一節である。
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鷲田:昔だったら人間は、人生何かある仕事ひとつで生涯を貫くことが尊いとされた。漁師生涯竹一竿でしたっけ? そういう生き方をすると、会社に行って会社に自分を全部預けて定年を迎える、本当にピッと終わりますね。けど若いときに会社の勤務中にエスケープして映画見に行ったりとか、あるいは五時になって、あとはオートバイの仲間と遊んでたりする、そういう、若いときからいろんなチャンネル持ってる人は、別に定年が来ても一つのチャンネルがなくなるぐらいですむ。僕の友人なんか見ていても、パンと存在感のある人って優等生タイプの人じゃなくて、結構いろんなところを渡り歩いてきた人そういう方が、五十すぎてくると、これは絶対もてるなあという感じの存荘感持ってくるんですね。そういう多様性というのは大事ですけど、多重人絡というと統一性をつなぐもの事体がなくなって、非常に苦しいというのはわかるんですけども、多様性ということを本当にいいだすとすれば、それのほうがいいんだという言い方もできるものなんでしょうか?
河合:それは、これからの、あらゆるところにある、すごく大きな疑問じゃないでしょうか。私にとってもすごく大きな問題で、ずっと考えていることです。まず多重人格の方ですが、実際本当に太変です。多重人格の特徴は、お向いに関係がない、あるいは一方だけ知っている。二重人格の場合はわかりやすいですけど、不思議なことに第一人格はよい人怖で第二人格は悪い人格です。第一は第二を知らないんです。第二人格は第一人格の存在を知っていることが多いんです。第一は第二を知らないんです。悪いやつの方が上手なんですね。すごく興味深いですけどね。それはともかくとして、今おっしゃった多様性のことですが、会社のこともやっているけれど、オートバイもやっている、ぐらいだったらいいけれど、たとえば教室の中では「皆、さぼってはいけません、しっかりやりなさい」と言っておいて、教室から外へ出たら悪いことをする教師。これは多様性があるというのか、離しくなるでしょう。だから、多様な中の統一というか、そういうことは誰でも言うんです。でもいくら早いこと統一しようと思っても、多様はなくならんですよ。そこのところで西洋人は多様をインテグレートすることを考える。
鷲田:統合する。
河合:われわれ日本人はハーモニーだと思うてる。インテグレートはされてなくても、ハーモニーがある。違うんちゃうかと。日本人には調和の感覚は美的感覚としてありますわね。日本人は倫理観という場合、美的感覚がすごく大事になってくるんじゃないか。向こうは一神教でしょう。だからやはりインテグレーションといいたいし、どこかに一なるものがあるんですよ。一なるものまで統合されていく。こちらの場合は一なるものがなくて、いろいろあるんだけど、ハーモニーがある。だから僕はそのハーモニーの感覚を身につけて生きていく、これがいいんじゃないかと思っているんですけどね。
鷲田:おっしゃられるように、まさに人格もユニティ(統合)であり、ユニット(単位)ですからね。統一されて始めて人格が成り立ち、人格が一つ一つのユニットになって、国家を形成していく。そこでもユニティがユニットになって、ヨーロッパの世界国家、世界性を考えたりというふうに統合されていくという秩序。だから一般の社会、共同体というのを考えるときに、何らかの集合体がいるわけですよね。信仰を共有するとか、信念や思想を共有するとか、それは宗派でも政治集団でもそうだし、国家でもそうだし、集団ができるときにはいつも、何かある共通のものを共有するというかたちで共同体が作られる。一番大きくなると人類は神という共通のものを共有し、それぞれが神と繋がるかたちでひとつのまとまりができる。ヨーロッパの現代的思想でも、何かを共有するかたちでないような共同体は、どうしたらできるんだろうか、というのが最近問題になっています。共有しないものは、外部になってしまう。ヨーロッパの人が他者といっているのも、外に排除するんじゃなく.しかも共有できるものがなくて共存できる共同体とはどういうものなのか、と。
河合:面白いね。多重人格というのはアメリカでものすごく出てきたんです。一神教の世界だから。ところがアメリカ社会は突然ああいうふうに急に拡張してきたから、いろんなことが起こる。ところがユニットの中に人らないものはほっぽりだすんです。その、入らないやつが今度は人格を形成する。日本の場合は、放り出さずに曖昧にくっついているから、多重人格にならずに、まあ多重人格的に保たれてる。向こうは完全に多重人格になる。多電人格をどうやって治療するか。アメリカでは治療者が、一人ひとり呼び出すんですよ。今第一だから、第二は引っ込んくれと。次、第二の人出てください、次、第三、と。三と二は一緒にならへんかとか、一人ひとり話し合いをしていく。それでだんだん一人にしていく。僕は絶対それはあかんと。僕の方法は、一が出ようが三が出ようが、ふわーと会っている。あまり区別せえへん。
鷲田:決まりをその人につくらせるんじゃなしに、相手方に。
河合:そう。だんだん繋いでいくから、それは向こうに任せといたらいい。そやけどこっちは一人ひとりとしっかり会うて、真剣に話さないかん。ちょっとおれいいか、と出てきても、はいはいと。アメリカはそんなわけはない、明確にしろと。でもアメリカの方は本当に、今、失敗してきでるんですよ。日本の方で、アメリカ式にやる人がいるんですよ。一と二と三と四と会って、とうとう一つになるんですよ。喜んどったら、一日後に自殺。
鷲田:統合されて。
河合:統合に無理があったんでしょう。統合といってるけど、誰か死ぬわけですよ。その誰かにしたら殺されてる。二も三も四も生かして一人にするって、すこく難しいじゃないですか。一人ひとりを呼ぴ出しているということは、人格も認めているわけやからね。いったん人絡を認めながら、一人になれなんて、それは無茶な話ですよ。僕の方法は、時間はかかるけど、皆が自然に一つになっていくのを待つのです。
(以下略)


2019年9月18日水曜日

河合隼雄と多重人格 1

河合隼雄が多重人格について述べているいくつかの論考がとても参考になる。著書のコピーからOCR認識で文章化してみたが、あちこちに文字化けがありそうだ。しかしあえてこのままで紹介しておく。原典は『精神療法』一巻六号、1995年12月、金剛出版刊 である.


内界の人物像と多重人格     河合隼雄

二重人格より多重人格へ
最近アメリカにおいて多重人格の症例の多発が報告されている。それも十六重人格とか、まったく考えられないほど多くの多重人格が出現する。十九世紀末から二十世紀初頭にかけて、深層心理学が急激な発展を遂げたときに、多くの二重人格の症例が発表された。当時、自分自身も症例を発表しているピュール・ジャネは、百例をこえる程度の発表があったと述べている。
カール・ユングも早くから二重人格の現象に注目していたが、そのような現象を単に「病的」とか「異常」とかの観点から見るのではなく、二重人格として生じるものは、新しい人格の発展の可能性が何らかの特殊な事情によって妨害され、その結果として障害が生じていると見ようとしたところが特徴的である。彼が一九〇二年に発表した博士論文に、つとにこのような考えを指摘しているのは注目に値する。二重人格や夢中遊行のなかに「目的をもった意味」を見出そうとしたのである。
 今世紀はじめに多くの二重人格の症例が発表され、それもだんだん少なくなってきた頃、 一九五七年にセグペンとクレツクレーによって『イヴの三つの顔』という題で劇的な症例が発表された。これはイヴ・ホワイトと名づけられる第一人格に対して、それとまったく逆の性格をもつ第二人格のイヴ・ブラックが存在する症例である。これは治療経過の詳細が報告されている点もあって多くの人によく読まれ、映画化されたりもした。以上のような今世紀前半までによく出現した二重人格は、ユングによる「影」(shadow)の考えによって説明すると、わかりやすいと思われる。ユングはもともと夢分析の実際経験から、この考えをもつようになった。つまり、夢分析をはじめると、夢を見る人と同性で、何らかの意味で本人と性格が反対の傾向をもつ人物が現われ、その人物との関係から得るところがある、という夢を見ることが多いことに気がついた。ユングは、そのような人物像を shadow image と名づけ、各人は夢の分析を通じて、自分の shadow の存在の realization(何らかの実現を通じての体験的認知)に努めることが必要であると考えた。ところが、ある人にとって、このような shadow realization の道がまったく閉ざされ、一面的な堅い人格ができあがってしまうと、shadow も一個の人格として機能しはじめて、時には第一人格と入れ代わるようなことが生じるのではないか、と考えられる。これは自我によるきわめて強い抑圧の結果である。二重人格の症例は今世紀の後半になって少なくなり、きわめて稀なことになった。ところが、最近になって急に多重人格の症例がアメリカで発表されるようになった。これは、しかし、先に述べた二重人格とは異なる心的メカニズムをもつものと考えられる。その一番大きい点は、多重人格のなかに異性が含まれる、ということである。たとえば、十六重人格のシビルの場合、第一人格は女性であるが、その多重人格のなかに、マイクとシドという二人の男性が含まれている。治療者はマイクとシドに向かって、彼らの身体が女性の身体であり、男性とは異なることを一所懸命に説得しようとするが、二人とも承服しない。そのうちに変わってくると主張している。
   このことを報告して著者は、「彼女の例が性差の境界を超えて反対の性の人格を発生させた唯一の多重人格だ」と述べているが、その後の多重人格においては、異性も生じることが報告されている。つまり、これまでの二重人格とは異なる現象が生じたのである。
  現在において多発している多重人格は、抑圧よりも分裂 splitting の機制によるものであると考えられる。アメリカに行ったとき、多重人格の症例を聞く機会があつたが、その生活史を見ると、性的虐待などあまりにも強い心理的プレツシヤーがあり、 一個の人格として存続し続けることが不可能のように感じられた。そんなときに、splitting の機制によって、何とかその重圧を逃れて生きてきたと考えられる、したがつて、二重人格のような、自と黒、善と悪といった類の対比はそれほど鮮明ではなく、それぞれの人格が状況に応じて出現してきている、という印象を受ける。
夢のなかの人物
人間は毎晩夢を見る。そのなかに実に多くの人物が登場する。と言っても、人間は夢をすべて記憶するのではないから、夢を見ないと言う人もあるが、最近の夢に関する研究から考えて、すべての人が夢体験をしていると推論していいだろう。それは人間が生きていく上で必要であるようだ。夢には、時にまったく思いがけない人物が登場する。日常的には忘れ去っている小学校の同級生が登場し、話し合ったりする。あるいは、父親だと思って話し合っているうちに、父親が友人に変わっていたり、極端な場合は、人間ではない事物になったりする。それは椅子なのだが、それが「父親」であることはわかつており、夢のなかでは何ら不思議に思わない。それと、非常に大切なことは、夢のなかの人物は、それぞれの自立性をはっきりと持っていることである。自分が考え出した話であれば、そのなかの人物を自分の考えで動かすことができる。
しかし、夢では一般にそうはいかない。相手が何を考え、何をするかはまったく予想がつかない。しかし、それは自分の夢なのである。
夢のなかで体験するもうひとつの非常に大切なことは、自分自身が他人や他の事物になりながら、それを自分であるとはっきり認識している現象である。夢のなかでは異性になることもある。あるいは、動物や事物になるときもある。つまり、「私」という存在は、通常に考えているよりも、はるかにあやふやなものなのである。あるいは、夢のなかでは、自分が「もう一人の私」に会うこともある。自分が自分に出会うのである。自分は一人ではなく、もう一人いるのだ。
以上のような夢は必ずしも「異常」とは言い難い。稀ではあるが、ともかく健常者の夢に生じてくる。その夢によって「異常」になる、というのではない。つまり、人間の内界においては、いろいろな人物がいろいろと不思議なドラマを演じており、そのなかでは人物や事物の同一性が比較的保たれていないのである。これは、現実生活において、われわれが「同一律」を非常に大切にして生きているのと好対照をなしている。おそらく、このような世界によって支えられないと、われわれの日常生活は成立しないのであろう。
夢のなかの人物と外界の人物はどのように関係するのだろうか。これは時に不思議な一致を見せる。たとえば、夢のなかで人物Aが死ぬと、Aが実際に死んだり、Aの訪間を夢のなかで受けると、それがそのまま翌日の現実になったりする。このようなことは、一般に稀である。とすると、夢のなかの人物は、いったい誰なのか。端的に言えば、夢を見た人の何かである。私が残酷な人物Xについて夢を見るとき、それは私のなかのXを示している。というより、Xは私のなかに生きている、というべきである。「私にも残酷なところがあるなあ」と考えるのではなく、「残酷な人間が生きている、住んでいる」しかもそれは「私の支配に屈しない自律性をもっていると考えるべきである。
このように考えると、一個の人間として同一性を保持し、この世に生きているということの大変さがよく認識できる.
しかし、実はこれは「私」一個の力ではない。そんなことは不可能である。実は他の人々の協力によってそれはできているのだ。他の人々が私に対してもつ期待、信頼、拒否、その他もろもろのものの総和のなかで、ある程度の一貫性をそなえた「私」というのがつくられているのだ。言うなれば、そのような「私」を保持するために、人間は相当な無理をしている。「無理」という表現が気に入らないのなら、「大変な努力」と言ってもいそこで、観点を変えて言うなら、「私」というのを非常に広くとると、夢のなかに出てくる「私」および他の人物すべてが「私」なのだ。それら全体が「私」を構成している。実際に、夢に出てくる人物の一人一人を「私」だとして考えてみることは意味あることだ。しかし、そのように言ってもそれは通常の「自我」(つまり、覚醒時に「私」であると意識し得る存在)から見ると、近いと感じるのと遠いと感じるのがあるのも事実である。
そのときに一般論として、同性よりは異性を遠く感じるものである。この点について、ユングは「影よりもアニマ・アニムスの統合の仕事の方が、はるかに難しい」ことを強調している。アニマ、アニムス像とは異性像のことを指している。
「統合」ということは、確かに困難である。しかし、統合を放棄して各人物像がバラバラに存在しているとすると、これらの内界の人物像が外界に現われて、多重人格になるというのは可能ではなかろうか。たくさんの人物がいるなかで、常に「私」が一貫して出現するのではなく、人が入れ代わって出るとなると多重人格になる。このようなことも考えられるのである。
自我と私
そもそも「私」というのは、いくら考えてもわからない難物である。インドの説話に次のようなのがある。ある旅人が小屋に一人で泊っていると、鬼が死体をかついでやってきた。そこへもう一匹の鬼が来てその死体は自分のものだと言う。そこで二匹の鬼が旅人にどちらが正しいか判断せよという。旅人が最初に来た鬼のものだと言うと、後から来たのが怒って旅人の手をち切って食べてしまう。最初の鬼は死体から手をち切って旅人につけてくれる。ところが怒った鬼は旅人をどんどん解体していくので、最初の鬼はつぎつぎと死体の部分をとってつけてくれる。そして、最後のところでは旅人と死体との「体」はまったく入れ変わってしまった。そこで、旅人は「いったい私は誰だろう」と嘆くのである。
 この話の結果はどうなるのか。旅人は「いったい私は誰だろう」という難問を抱いて、坊さんに会いにいくが、その答えは「そもそも『私』などというのは、いろいろな要素が集まって仮にできているのだから、そんなことを心配しなくともいい」というのであった。ここには仏教の教えが端的に示されている。「私」などというのが絶対にあると思うから、人間はいらぬ苦労をする、というわけである。
このような仏教の考えに立つと、多重人格の治療など簡単なものである。いったいどれがほんとうの私でしょうなどと言っても、本来「私」などというのは寄せ集めの仮のものだから、何の心配もいらないわけである。仏教の考えにまったく対照的なのが、近代自我の考えである。「私」というのは全体として考えはじめると上述したようにきわめてあいまいな存在になってくるのだが、デカルトの「我思う故に我在り」という言葉に示されるように、自分が思考していること、意識していることを根拠として、「自我」の存在を明確にし、それを「私」と規定するのが西洋近代の考えである。こうすると、実に多くのことが明確になってくる。「私」の責任、「他人」との関係など。それに何と言っても、このことによって自然科学やテクノロジーが急激に進歩し、その体系化が進む。このためには、自我は自分自身の能動性、単一性、同一性、外界と他人と区別された存在としての自我、を認識していなくてはならない。これによって人類は実に多くの仕事をするようになったが、これを「自然」の方から見ると、途方もない無理をしていることになる。
十九世紀後半においては、このような白我が単純な道徳律に従って、「善」なる自我をつくりあげると、どうしてもそこに無視された「悪」の方が集まって第二人格をつくりやすいという傾向が生じた。フロイトの精神分析をはじめ深層心理学の諸派は、近代西洋のもっとも大切と考えた「自我」に対して「無意識」も考慮に入れることを提唱した。このことは相当に一般に受け入れられて、単純な二重人格の症例は急に少なくなった。
 二十世紀の後半になると、とくにアメリカにおいて、子どもの体験するストレスが急増した。このことの第一の原因は、各人が「自我」を大切にしつつ、「自我」と他人の「自我」との結びつきをどのようにもつのがいいのかについて、その配慮に欠けるようになったからである。西洋の自我の成立の背景にはキリスト教という宗教があり、その信仰を保ったまま、自我の確立を行うときは、神を介することによって、個々人の自我は深いつながりをもつことができる。しかし、近代自我の在り方そのものに、キリスト教をそのまま信じ難い点を内包しているところがあって、なかなかそれを両立させていくのは難しい。
信仰抜きで「自我」の確立と発展のみを考えることに、大人が熱心になるとまず被害を受けるのは子どもである(子どものみならず、社会の「弱者」が被害を受けるのだが、ここでは、子どものことのみを考える)。子どもに対する心理的ストレスが極端に高まるなかで、子どもが上記したような「自我」をもとうとするならば、その場面、場面によって異なる「自我」を顕在させる方法によってしか、存続することはできないのではなかろうかこれは二重人格の場合とまったく異なる、こま切れになった分裂の状態である。しかし、分裂病のように自我意識にまで大きい障害を受けるのではなく、おそらくそのことを回避するために、個々の自我はある程度健常に機能しているが、それぞれ別個の人格に分裂することによって、ストレスの直撃を受けぬようにしている、と考えられる。その人間の内界に住む人物を総動員して、事に当たっているということができる.
 おそらく日本では、もちろん都市文化のなかで、子どもの虐待や多重人格は発生してくるであろうが、文化差の問題があるので、アメリカほど多発しないのではないか、と筆者は考えている。表層の文化はすぐに変化するが、深層の方は非常にゆっくりと変化していくものである。
新しい「心」の構造
二重人格の現象に対して、ユングはその肯定的な面を見出そうとした。彼がそのときに考えた重要なことは、人間存在の「全体性」ということと「統合」ということであつた。われわれは、彼にならって、多重人格の現象のなかに肯定的な面を見出すことができるであろうか。ユングは単純な道徳観に基づく近代自我のもろさを、二重人格の現象に見出し、その欠点を克服することを現代人の課題と考えた、ということもできるが、われわれが多重人格の現象から学ぶことは、おそらく近代自我からの脱却の必要性ということであろう。すでに述べたこととの関連で言えば、内界に住む多くの人物をすべて「私」と考えるのなら、そのなかで「自我」だけを、あまりに特別扱いするのをやめよう、あるいは、「唯一の自我」に固執するのはやめよう、ということになるのかもしれないと言って、すべての人が「多重人格」をそのまま生きるとなると、社会は混乱し破減するだろう。ユングにしても、すべての人が二重人格者として生きよと言ったのではない。彼は、二重人格として顕現している側面をできる限り第一人格に「統合」することを主張した。このために、彼は常に「悪」の問題について考え続けることになった。
多重人格の場面も、第一人格への「統合」を目指すと考えてよいのだろうか。筆者の考えでは、ここに「統合」ということを持ち出すのは無理がありすぎる。二重人格から多重人格への移行の過程を考えるべきであるし、そもそも、夢のなかで自分は内界の人物たちを「統合」しているかどうかを考えてみて欲しい。内界の人物について考えるのが難しい場合は、外界の人物について考えてみてもいい。誰しも、外界の人すべてを好きとか、すべての人と人生観が同じなどということはないであろう。嫌いな人もいるし、倫理観も相当に異なる人もいる。しかし、人間はうまく共存して生きている。嫌いな人とはなるべくつき合わないようにする、
しかし、必要とあれば慎重につき合う。このように考えると、人間は実にうまく生きている。しかし、そこに「統合」などということはない。うっかり「統合」などを考えはじめたら、争いが起こって仕方がないのではなかろうか。
内界においても同様に考えてはどうであろう。「統合」を考えずに「共存」をはかる。ただ、ここでわかりにくくなるのは、自我が内界のいろいろな人物との共存をはかり、親しくつき合うようになるとき、その人物を外界から見ている人にとって、どれほどの「一貫性」あるいは「アイデンティティ」が感じられるのか、という点である。それは、ほとんど「多重人格」に見えるのではなかろうか。しかし、「多重人格であること」と「ほとんど多重人格に見えること」との間には、重大な差があると言えないだろうか。何だか話が途方もないことになってしまったようだが、もし自分が多重人格の症例に会って治療をするとなると、ここまで考えねばならないように思う。どのようなクライアントにしろ、その人と会うことは自分自身の人生観を揺すぶられることになる。アメリカにおいて多発している多重人格は、われわれが現代に生きる上において、実に重要な問題を提出しているように、筆者には思われる。したがって、文化比較のことにまで筆が及んだりして、話が広がってしまったし、ここに述べたことは、まったくの試論というべきものである。今後この問題をもっと追究していきたいと思っている。