2019年9月23日月曜日

フェレンチ再考 7


ということでサバーンとの相互分析について書いているのだが、私がこれまで下敷きにしていた Arnold Rackman の論文が冗長で、いくら読んでも進まない。ということでここで森茂起先生の本からエッセンスをまとめよう。(森茂起(2018)フェレンチの時代-精神分析を駆け抜けた生涯.人文書院)
エリザベス・サバーンは1879年米国中西部に生まれ、フェレンチには44歳の頃出会った。フェレンチは1873年生まれなので、サバーンより6歳年上ということになる。サバーンは幼いころから倦怠感、頭痛、食欲不振などの症状に悩まされ、神経衰弱の診断でサナトリウムに入院したこともある。22歳で結婚して娘をもうけたが、結婚生活は4年で破綻している。それ以降彼女はアメリカで心理療法を受けたが、そのうち自分自身に治療能力があることに気が付いたという。それはいわゆる霊感的なもので、それをもとに臨床活動を始めたという。サバーンの治療手法は様々なものを交えたもので、暗示、教育、あるいは動物磁気なども組み合わせたという。サバーンはそれからロンドンに居を移し、1913年には「心理療法―原理と実践」という著書を発表するまでになった。しかし彼女自身の身体的な問題は続き、そのための治療者を探し、最終的にはオットー・ランクの手引きなどにより、フェレンチに行き着いた。サバーンは、自分は40年前から自分の救世主として現れるフェレンチのことを知っていたといってフェレンチを驚かせた。それから1924年から32年まで、サバーンはロンドンから何度もブタペストを訪れ、そのたびに長期滞在をしてフェレンチから分析治療を受けることになった。(なんとその時サバーンは自分の患者数人を引き連れてブタペストを訪れていたという。つまり治療を受けながら、治療を継続していたのだ。)この時のフェレンチは、最初はサバーンに大きな印象を持たなかったが、そのうち「彼女の醸し出す雰囲気に圧倒され」「強烈な独立心と自信、まるで大理石の石像のように固い雰囲気に伴う恐ろしく強い意志力」「専制君主のような威厳」を感じたという。そう、最初からフェレンチはサバーンに圧倒されていたのだ。
フェレンチがサバーンの治療を始めた時代は、いわゆる弛緩療法に重きを置き、患者の訴えを受け入れ、退行を促進させることに治療の主眼を置いていた。そしてカウチ上でサバーンが訴えた過去の性的な暴力は極めて深刻なものだった。すでに一歳半の頃から過酷な性的虐待を受けていたという。それと共に「お前は役立たずで汚れている」という呪いの言葉も浴びせられていた。このために自殺を試みたことも何度かあり、それらの記憶がトランス状態で次々と語られたという。
さて問題はそのような語りを繰り返したサバーンの症状が依然として改善されなかったことだ。そしてそれについて、サバーンは、自分がよくならない原因はフェレンチにある、と迫ったのだ。つまり彼女が暴力を受けている子供の状態に戻った時、フェレンチがただ聞いているだけで、「助け出してくれない」と不満を言った。さらにこれが解離状態で起きた語りであり、治療の後は彼女自身にもその報告内容に実感を持てなくなることも、フェレンチを責める原因だったようだ。そのうちサバーンはとんでもないことを言いだす。私が直らないのは、フェレンチのコンプレックスによるものであり、それが直らない限り治療は進まない、だからそれを自分に分析させよ、という要求だったのだ。もちろんフェレンチは最初は抵抗した。彼としては分析的なやり方を踏襲し、サバーンの訴えを聞き、それに解釈を加えることが正しいやり方だと考えたわけだ。ところがサバーンの執拗な要求に、フェレンチも折れてしまう。そしてこの、最終的に女性の要求を聞き入れてしまうことが実はフェレンチの持つ問題とさえいるかも知れなかったのだ。