2019年9月26日木曜日

文化と解離 2


抄録っぽいものを書いてみた

ポリサイキズムは日本において許容されているのか? 
- 文化を超えた「大文字の解離」理論をとなえる

 一つの脳に複数の主体が宿るという解離現象は、現在でも多くの誤解や偏見の対象となっている。解離性同一性障害(DID)を有する患者の体験を聞く側には、彼女たちが医療者側からさえ頻繁に誤解や差別を受けている様子が伝わってくる。法廷においても明らかに解離状態で起きたと思われる行動が、被告に対する情状酌量の根拠となることは極めて例外的であるのが現状である。しかし誤解の対象となりやすいことそのものが解離の本質と言えるのかもしれない。それは人が信じる主体の「唯一性」や、それを奪われることへの恐れに根差しているのかもしれない。そしてこの事情は我が国と諸外国とに違いがないように思われる。
フロイト以来の伝統的な流れに沿った精神分析理論においても、人格の多重化は本来一つであるべき主体が防衛として分裂された状態として理解され、それらが最終的には健全な形で統合されることを治療の目標としていることは疑いない。しかしそれとは別に複数の主体の存在を前提とするポリサイキズム(poly-psychism, Durand de Gros)あるいは「多心主義」の流れはフロイトの協力者であったJ.ブロイアーには支持され、P.ジャネも「解離の第二原則」を掲げて複数の人格が別個に生成される過程を記載している。しかしこの立場は決して一定以上の支持や関心を得ることなく現在に至っている。
私はジャネに基づくポリサイキズムの立場にたった解離理論を「大文字の解離(Dissociation)」と呼び、防衛として一つの心から二次的に生じた解離(小文字の解離 dissociation )とは本質的に異なる理解や治療的なアプローチを要請すると考えている。「大文字の解離」の理論においては、ある人格にとっての別人格が純粋な他者性を有することを前提として、その上での融合や「混線」や、特殊なケースとしての融合などのあらゆる可能性を認める。憑依現象やDIDにしばしばみられる突然の完成形での人格の出現は、それが一つの主体として別個に生成される様態を表している。ポリサイキズムとしての心の在り方は特殊な心にしか生じないというのはおそらく誤りであろう。いわゆる分離脳により右脳と左脳に別々の心が宿ることはよく知られたことであり、また夢におけるいくつかの人格の出現は、それはまさにポリサイキズムの日常的な表現とみることが出来る。
かつて河合隼雄も多重人格におけるいくつかの独立した心の存在を認め、治療者による安易な「統合」の試みを戒めたが、興味深いことに夢の存在が私達の脳に複数の人格を宿す能力を示していると彼自身が述べている。ただし河合が述べたような文化による多重性への許容性の違いには疑問をさしはさまざるを得ない。彼が言う「日本文化は複数の心に許容性があるためにDIDが少ない」という主張もそのまま肯定すべきかは議論が多いであろう。解離が文化の垣根を越えて誤解の対象となるというのが私の印象である。
ちなみに個々の主体の存在を保証することは、その脳科学的な対応物neurological correlateを想定する努力を伴うべきであろう。個別の人格はそれぞれが独自のダイナミックコア(dynamic core, Gerald Edelman, et al)に支えられた独自の意識体系を有し、その意味でも各主体はほぼ十全なる「唯一性」と相互の「他者性」を保証されていると考えるべきであろう。臨床家は解離状態で生じる個々の主体に敬意を払い、時には主体間の生き残りをかけた熾烈な葛藤にも立ち会う覚悟を持つべきであろう。