2013年9月30日月曜日

解離とトラウマ記憶、そしてTRP(2)

さて子供の人格にTRPを施すとは何を意味するのであろうか?私たちが学んだのは、トラウマ記憶がそこに流れている確信的な考えとともに、それとミスマッチな考えを隣接させることで、再固定化が起こるということだ。そして提示された症例はどれも、ある種の文章化しうるような思考内容を取り出し、それをインデックスカードに書いて宿題として何度も声に出して読んできてもらうという形式をとっていた。私個人の印象としては、かなり認知療法的なニュアンスを感じた。
以下略
 

2013年9月29日日曜日

解離とトラウマ記憶、そしてTRP(1)

しばらく解離とTRPの関係について考えたい。まだ私にとってはTRPは全然未消化だが、この解離シリーズのブログを続けなければならない。ここでは話題を限定して、子供の人格を扱うこととの関連で論じる。TRPという新たな手掛かりが得られた場合、それにより解離における交代人格と関わる際に何か新たなヒントが得られるかが焦点となる。
 交代人格との出会いは、いつでも外傷記憶を扱うことというニュアンスを持つことは確認しておきたい。それはその子供人格がいつもおびえ、泣き叫ぶという形で出てくる際はなおさらである。その際はトラウマのフラッシュバックと似た現象としてとらえることができる。ただし子供人格の出現は、フラッシュバックより一次元、ないし二次元高い現象と理解することが出来る。PTSDにおけるフラッシュバックがある種のトラウマの時のシーンの二次元レベルでの再現とすると、子供人格の出現はそれが継時的であり、またその時の自分が舞い戻っているという、より複合的な現象だからである。またこのことは、PTSDのフラッシュバックも一種の人格交代現象に類似する、という見方を促すことにもなるあろう。このことはいわゆる構造的解離理論の第1次解離という概念が含意していることでもある。(この理論では、PTSDもやはり解離、なのである。)
 以下略

2013年9月28日土曜日

「脳から見える心」?「心から見える脳」?(2)

ということで今は次の話題を狙っている。それは実はこれも今思いついたのだが、「心から見える脳」というタイトルだ。(ちなみに前作は、(「脳から見える心」である。)脳の仕組みから心の在り方が見えてくるという側面と、心の在り方から脳の構造が予想されるという面は、実は両方向性のものなのだ。「心でこんなことが起きているということは、脳に絶対にその原因があるはずだ」という発想は自然だし、そこから脳科学的な研究が進むこともあるだろう。
(以下略)

2013年9月27日金曜日

「脳から見える心」?「心から見える脳」?(1)

 またまた大人の事情で、適当な題をつけて「400×6枚程度で,11月下旬くらいまで」に文章を書く必要が生じた。

「脳から見える心」(岩崎学術出版社、2013)は、私にとっては画期的な本である。それは本書が「ブログから書き上げた」最初の本だからである。
(以下略)

2013年9月26日木曜日

トラウマ記憶の科学(23)

ということでトラウマの記憶の科学は、ひとまずおしまいである。最後に本書Bruce Ecker , Robin Ticic , Laurel Hulley,Unlocking the Emotional Brain: Eliminating Symptoms at Their Roots Using Memory Reconsolidation. Routledge; 2012.)を読んだ私の感想についてであるが、とてもこのままでは使えそうにないということだ。それは私の理解や技量が足りないし、また本書の解説に不明な点も多いという意味でもある。しかしある非常に大きな示唆を与えてもらったのも事実だ。それはTRPのプロセス、記憶の再固定化という考え方だ。
確かに過去の出来事やそれに従った世界観が大きく変わる瞬間が訪れることがある。私自身には残念ながらないが、多くの患者の体験として、あるいはケース報告を通して聞かれることである。そこには脳のレベルでのある種の改変が行われていると考えざるを得ないのである。「再固定化」はそれを説明する一つの重要な概念であり、現象である。
 (以下略)

2013年9月25日水曜日

トラウマ記憶の科学(22)


 引き続きエマの治療についてである。私は正直この話をまとめるのに四苦八苦している。本書の最後の部分だというのに。でもTRPの真骨頂みたいなことが起きる。

セラピストはエマに、「ためしに幻聴に同意してみてはどうでしょう? ちょっとした実験だと考えて。」と提案してみた。つまり幻聴が「お前はどうせ障害があるふりをしているだけなんだろう?」と言ってきた時に、次のように言ってみるのである。「そうよ、私は本当は歩けるわ。ただ歩けないようなふりをしているだけなのよ。あなたの言う通りよ。」といってみるのだ。そして幻聴があらゆる罵詈雑言を言ってきたら、それについてすべて同意する。このことをエマに提案すると、彼女は半信半疑ながら了解した。
 以下略

2013年9月24日火曜日

トラウマ記憶の科学(21)

 私がエマのケースの病者を引き延ばすのは、もうこの本が終わってしまうからだけではない。よくわからないのだ。ということは私の理解の範囲を超えている、ということは慎重に読まなくてはならないということだ。さてこの後に続く分もわからない。
治療者はこう理解したという。「エマは自己非難をすることが自分にとって極めて重要で、深い絶望と見捨てられに対する防衛の役割を果たしていた。自己を責めることで、エマは自分に起きたことをコントロールできるという錯覚が与えられ、それにより自分の障害と戦い続けることを可能にしているのだ。」
 うーん、わからないわからない。助けてくれ。わかったようでわからない。何の事だか実感がわかないのだ。まあ続けるか・・・・。
 エマは次のセッションにやってきて、自己非難についての理解を深めるにつれて、「自分は他人を世話できないから他人から受ける資格がない」という思考がより鮮明になったという。そしてそのことは実は一般の人には当てはまらないのではないかと考えるに至ったという。
そこでセラピストはエマの症状除去の状態を導いてみた。つまり「あなたが自分を責めることなく、抑うつ的でもなくなったらどうなるかを想像してみてください。」するとエマは「そんなことは想像できません。想像することにさえ抵抗があります。」という。そこでセラピストは、ジェンドリンのフェルトセンスを用いて、ではその時どのような体感があるかを説明してください、といった。(中略)
結局セラピストはインデックスカードに次のように書いて、エマに読むように言った。
「私は抑うつを手放したくありません。私は自分を世話することができないし、幸福になれる資格がないからです。」
エマはそれを読んでから笑ったが、それは治療が始まって初めて見た彼女の笑顔だった。
それからインデックスカードに書かれる文章は次のように推移した。「私がもし自分や他人を世話できなかったら、私は自分が人間でない気がし、すると抑うつは避けられない。」
「私は自分にできることはすべてやりたい。しかしすると人は皆私がもっとできると思うだろう。すると助けを求めることなどできないし、そうすることは恐ろしいし鬱になってしまいそうだ。だから私は逃げて何もしなくとも、そのままの方がいい。」
この最後のカードを読んでいるうちにエマは次のことに気が付いたという。「本当は一番問題なのは、他人がどう見ているかではなく、自分が自分をどう見ているかなのだ。自分が自分をどう見ているかが、他人に投影されているだけだったのだ。」このころになるともはや幻聴も消えていて、彼女のうつの状態もだいぶ和らいできたという。
 しかしここまでよくなってきた症状は、父親の健康状態が悪化することでまた再燃し、治療は振り出しに戻る形になったという。(うん、よくあることである。) この二回目の治療の最大の障害と考えられたのは、彼女が幻聴の主が自分であるということをなかなか認められないことであった。

(続く)

2013年9月23日月曜日

トラウマ記憶の科学(20)

今日は祝日なのに授業をしに大学院に出向く。文科省の今年の秋からの試みである。だいたい月曜日にばかり休みが続くのって不都合だということを、どうして最初から考えなかったのだろう。

ところで・・・このシリーズ、もう20回になってしまった。でも私自身は多少なりともわくわくしながら続けている。久し振りに本格的な本に出会えたからだ。しかしだからと言って100%理解出来たり共感できたりしている訳ではない。でもいい刺激を与えてもらっていることは確かだ。
 さて本書の最後のケース、エマの症例(186ページ)で行き詰っている。朝から何度読んでもよくわからない。しかし実際のケースとはもともとよくわからないものだ。
以下略

2013年9月22日日曜日

トラウマ記憶の科学(19)

 デビーという症例(181ページ)。60歳の独身の彼女は、体重が320ポンドあるという。(キロに直すと150キロほどか。アメリカでは病院に行くと通常の体重計では針が振り切れる人のために、業務用の分銅付きの体重計が廊下においてあったなあ。彼女もそれに該当することになる)。彼女はバイパス手術を受ける前に心理士のところにその妥当性のアセスメントに回されてきたという。(ちなみにアメリカではこのバイパス手術は結構多い。内視鏡手術で胃のかなりの部分を大きなホッチキスで閉じてしまうのだ。すると少し食べてもすぐにお腹がいっぱいになってしまい、それ以上は食べられない。非常に苦しいが体重減少には劇的な効果があるために、肥満の人の最後の手段と言われている。ただしこれをしてもまだ肥満状態の人が私の患者さんの中にもいらしたが。)しかしこの手術を受けるためには、デビーは体重を10パーセントほど落とさなくてはならないともいわれていたという。
 デビーの肥満歴は長く、すでに幼少時からそうであったという。彼女はこれまであらゆる治療を行い、結局成功したことがなかった。カウンセラーは尋ねた。「あなたはアセスメントのためにいらしたわけですが、治療もお考えですか?」それに対してデビーはハナで笑う態度を示した。「治療ですって?私が最初のダイエットをしたのはあなたが生まれる前のころよ。それから何度試みては失敗したかわからないわ。どうせあなたも何も出来ないわよ。」それを聞いて、カウンセラーは圧倒される思いだった。
 実際デビーは過去に何度もダイエットを試み、著しい体重減少に成功しても、そのあとそれよりも早くリバウンドを繰り返していた。彼女は脂分を含むもの、甘いものをこの上なく好み、それを始終食べることにこの上ない至福を感じていると言った。
 さてこの先、割と予想がつく展開になる。が、ともかくも本を要約しよう。まずカウンセラーはコヒアレンスセラピーのテクニックの一つであるsymptom deprivation を行なった。つまり症状を取り去ってどうなるかを想像してもらう。するとデビーは「あらどうしよう、私がどんどんやせていくと・・・・目立っちゃうわ」と言った。

少し早送りすると、デビーは幼少時の思い出を話し、ごく小さいころ、彼女はやせていて非常に可愛く、そのために6歳のころおじとその友達に「誤った関心」をもたれてしまい、性的虐待を受けたという。そのころから猛烈に食べ始め、太ると彼らは彼女を彫っておいてくれるということを発見したという。そのころからデビーは常に太っていて、「私が太っている限り、弾性は私のことを相手にしなくて、私は安全だわ」と思うようになったというのだ。
 そこでカウンセラーはインデックスカードに書いてもらった。「私は体重を減らしたくなんかない。私がやせたら、男性たちは私に振り向き、危険だからだ。もし体重を減らしたらひざへの負担や腰の痛みは減るでしょう。でも私は太っているほうが大事です。」
これを一日数回読んでもらって2週間経ち、デビーは再びカウンセラーのもとにやってきた。「不思議です。私は小さいころ性的虐待を受けたことについては、個人療法でもグループでも話していました。でもそれと肥満との関係があることなど一度も考えたことはなかったんです。」そして彼女は、この10日間ほどは、正しいダイエットプランにしたがって、23ポンド体重を落としたという。そのうちデビーはカードを読みながら、違和感を覚えるようになった。「このカードに書かれていたことは、もう60歳の私には当てはまらないんじゃないかしら。私はもう体重を落としても、男性の関心を集めるということはないのではないかしら?」
これがいわばミスマッチの役目を果たすようになった。カードには「私はやせたとしても男性の関心を引くことはあまりない」が付け加えられた。効して彼女は徐々にではあるが体重を減らすことに成功して、バイパス手術を必要としなくなったという。教訓としては、いくら慢性の肥満を抱えている人でも、コヒアレンスセラピーは有効である、と書かれている。

ウ~ン、というケースだ。ありかなあ?こんなにうまく行くのかしら?

2013年9月21日土曜日

トラウマ記憶の科学(18)

本書は終盤に近づいたが、症例がいくつか載っている。このうちクリフ(168ページ)のケースはわかりにくかったが、臨床的には出会うタイプのケースなので、わかった分だけ紹介する。
 40代前半の男性、結婚して二人の幼い娘がいる。奥さんはキャリアーウーマンで、クリフが稼いでいた給料の5倍は稼ぐというので、彼は結婚してからは主夫業に専念している。朝は早起きをし、二人の娘を送り出し、掃除洗濯をし、午後は夕食のための買い出しをし、学校から戻った娘たちの宿題を手伝って、やがて至福の時間が訪れる。夕方6時を過ぎると妻が帰宅し、家事をタッチ交代してくれる。そこで6時からはクリフの「ドリンキングタイム」となる。妻の帰りを待ちながら、彼は一人の世界に入り込み、寝るまでの時間を満喫するのだ。
 自宅に帰った妻はそのようなクリフに距離を置き、話しかけない。というより彼の方で「話すなオーラ」が出ている。そこで妻はそんなクリフの機嫌を伺い、むしろあまりかかわらないようにしている。ともかくも家事全般をしっかりこなしてくれるので、それ以上は要求しないのだ。
 以下略

2013年9月20日金曜日

トラウマ記憶の科学(17)

もう一つ、ジョンというケースを紹介する(p.159)。40代の男性、一娘の父親。数年前にその一人娘が足を失なったことを非常に悔やんでいる毎日であるという。娘はある時髄膜炎になり、その時に出来た血栓が足の血管に詰まったのが原因で、片足の膝の下から壊死状態になり、それを切断しなくてはならなくなったのである。ジョンは、父親として、娘の髄膜炎の最初の微妙な兆候を発見できなかったことを悔やんで、自分を責めてばかりいた。その為に抑うつ的になり、不眠や怒りの爆発も起きるようになっていた。
治療は数回行われたが、最初の頃のセッションで、治療者はジョンが自分を責めることは、それを責めないことからくる苦痛を回避するための手段であることを見出した。治療者はインデックスカードに書いてもらった。「私の娘に対する罪は深く、自分を責めるのは地獄のようだが、自分を責めるのをやめてしまうのは、さらに辛いことである。自分は生きる価値のない人間である。」
更に検討を続けて行くと、ジョンの「少しでも努力を怠ってミスをすると自分は全くダメな人間であることの証明となる」という思考が明らかになる。この思考こそがジョンを人生のあらゆる場面で苦しめていたのだ。そして娘の足を失った記憶を振り返ることを重ねていくと、ある時突然「いくら頑張っても、不幸なことは起きてしまうんだ!」という言葉が生まれた。この「努力をしてもダメなときはダメ」、という考えは、ジョンが心のどこかに以前から持っていた考えであり、それが「努力をすれば必ず過ちを防げる」というメッセージに覆い隠されていたのだのだ。
 治療によりこの「過ちは努力が足りないからだ!」の由来をさかのぼると、それは結局はジョンの父親が幼少時からジョンに何度も言っていたことに関係していることがわかった。(また父親かあ!)ジョンが高校生の頃、フットボールで骨折した際も、「それはタックルの仕方が間違っていたからだ。正しいタックルの仕方をしたら骨折はあり得ない」と父親に叱られたという。しかし彼の心の別のところでは、「頑張っても理不尽なことが起きる」という確信があったのだ。こちらの方を十分体感してもらったうえで、それをインデックスカードに書いてもらう。「努力をしたって自分がコントロールできないことはいくらでもある。」ただし表に「自分は失敗をして娘の足を奪ってしまい、生きる価値がない。」という言葉が書いてあるカードの裏に。それを裏返して交互に読んでもらうことが、TRPの体験になり、宿題として課された。

このジョンのケースはどうだろう? ウーム。

2013年9月19日木曜日

トラウマ記憶の科学(16)

Cというケース(P150)。彼女は人生の中で誰かと親密な関係になろうとすると、すぐ怖くなってしまい、その関係から身を引いてしまうということを何度も繰り返している。イメージ療法を施すと、母親に精神的に威圧されていたという子供時代の記憶がよみがえってきた。しかし母親との記憶をいくら探っても何もCさんの関係性の問題に変化は見られなかった。そのうち両親が相互に相手から距離を置いてしまう一種のダンスを踊っているのがイメージされた。すると、親密さから身を引く衝動が同時にCさんの体に感じられた。そこでそのイメージに集中してもらい、イメージの中の両親に、お互いに距離を遠ざける理由を聞いてみた。するとまず反応を見せたのは父親のほうだった。Cがイメージの中で父親に、「自分たちはそばにずっと居続けるよ」と伝えると、やがて彼女は父親が自分の抑うつ的な母親を失うことの恐ろしさを体感した。ここからは引用。「私たちは理解と勇気づけと継続的なつながりを与えた。それらは彼[父親]の幼児期には欠如していたものであり、それゆえに確信を揺るがす体験discomfirming experiences となった。Cさんの体の中で、彼の感情のテンションが和らぐことが体験された。」
次に母親についても同様の試みを行ったという。しかしこちらの方は心の傷つきははるかに複雑で、父親の緊張が和らぐのに比べてはるかにたくさんの準備的な作業が必要であった。ゆっくり注意深く、そして安全な抱える環境を提供し続けると、Cの心の中の父親が、治療者と母親との作業を見つめていることに気が付いた。彼はそこから距離をとることなく、その作業を興味深く見つめていた。そのうちCのイメージの中の両親は以前よりはるかに親密に関係を持つことができるようになった。この作業を続けていくことで、Cは自身も親密な関係を持てるようになった。
非常に簡略化したが、以上が治療の流れとなる。もちろんこのプロセスが一日で終わったわけでは決してなく、何セッションも同様の治療が行われたわけである。しかし・・・・

私(岡野)はやはりどこかに、「本当かいな?」という気持ちがる。私は決して懐疑的な人間ではなく、むしろ信じ込みやすい(あるいは信じ込んだふりをしやすい?)タイプであるが、胡散臭いものにも敏感である。この書のCのようなケースが胡散臭いとまでは言わないが、・・・・・・やはり「本当かいな?」なのである。私自身がイメージ療法になれていないからかもしれない。でもそれにしては本書で出てくるケースはどうもパターンが似ている。イメージ偏重、両親との体験偏重、というところか。

2013年9月18日水曜日

トラウマ記憶の科学(15)

本書においては、精神療法のさまざまな形態において、コヒアレント・セラピーの中のTRP(治療的再固定化のプロセスtherapeutic reconsolidation process)に相当するプロセスが事実上組み込まれているという主張が行なわれる。つまり記憶の再固定化がそこに生じており、それが有効に生じる為の記憶の不安定化とミスマッチという現象が起きていると言うわけである。これはある意味では非常に野心的でかつ重要な主張といえるだろう。本書はそのような治療の例として、AEDP(Aaccelerated Experiential Dynamic Psychotherapy), EFT (Emotion-Focused Therapy), EMDR, IPNB (interpersonal neurobiology) などである。
 ということで少しずつ例を読んでみた。でもどうもちょっと違う気がする。たとえばEMDRの例をとると、トラウマ性のある記憶をイメージしてもらいEMDRを施した後、巧みにミスマッチのある記憶や思考の探索に移り、こんどはそれをイメージしてもらってEMDRを行うという形をとる。やはりミスマッチとなる思考やイメージを探し出すというプロセスはこのTRPに独特の部分という気がする。それをEMDRという形をとるという感じだ。EMDRの中にTRPがすでにビルトインされている、というのとは逆という気がする。つまりTRPを用いるコヒアレントセラピーは、独自性があるのではないか、という考えに至ってしまう。私が間違っているのか?
 本書は終わりに近づいているが、そこで例に上がっているものをこれからピックアップしていこう。
その前に、繰り返しになるが、過去の思いを語ってもらうことそのものが実はTRPになりうるのだ、という点は幾度も強調しておきたい。自分の思い出について語った場合、それが自分の外に出てしまい、聞いてもらった人の口から再び語ってもらうことで記憶自体が変わってしまったという気がすることがある。もちろんそうならない場合もあるし、誰に聞いてもらうかが決定的だったりするのであるが、それがTRPが成立する条件がそれだけ微妙で偶発的である可能性があるということだ。私がいろいろなところで書いている原則、すなわち治療中に語ってもらったトラウマが、再外傷体験になるか除反応になるかは、「後になってみなければわからない」とはまさにそのことなのである。

2013年9月17日火曜日

トラウマ記憶の科学(14)

さて例の本に戻ろう。Bruce Ecker , Robin Ticic , Laurel Hulley,Unlocking the Emotional Brain: Eliminating Symptoms at Their Roots Using Memory Reconsolidation. Routledge; 2012.

私にとってはこの本は「特別」な本になりつつある。最後の特別な本は、アメリカにいた時に呼んだHoffmanだった。10年以上前の話である。Ecker達の本は精神療法(「コヒアレント・セラピー」」の本であるが、この治療法の根拠が明確である。それは精神的な病を記憶の病理としてとらえ、それを改変する事に特化している。そしてその治療アプローチは極めて相対的である。そのひとつが、例えば治療者の共感的な態度に関するものである。精神療法において治療者が共感的で誠実な態度を保つ事は基本中の基本であると言えよう。しかしそれが治療の本質部分を占める場合とそうでない場合がある。なぜ共感が治療において重要なのかについての根拠も、精神分析の世界ではあいまいである。コフートは共感の大切さを説いたが、それは共感の不全が自己愛の病理を生む、という彼自身が持っていた前提以上の説明はないように思う。
本書においては、治療において共感が大切かどうかは、それがミスマッチを形成するかどうかにより異なるという。
例えばトラウマの記憶の科学(8)では、Tさんという症例を紹介した。
Tさん(30歳代前半の男性)は仕事をしても続かず、ガールフレンドを得ても二か月と持たずに愛想をつかされてしまうという。話を聞いて行くうちに、Tさんは自分が失敗することで、父親が子育てを失敗したということをわからせてやりたいということがわかった。しかしTさんのこの思考にはある種の矛盾があった。それは父親が自分の非を認める率直な人間であるという前提であり、それは自分の父親をろくでなし、と思う気持ちと矛盾していた。治療者はTさんに何度も言ってもらう。「私の父は自分の過ちを正直に認めて謝るような人です。(こんちくしょう!)」
さてこの症例Tにおいて、治療者の「共感」は基本的に害はないながらも治療を前に進めるわけではない、というのがこのEcker達のコヒアレント・セラピーの主張なのだ。父親以外の誰かに「良くやっているね」と言われても何も響かない。いや少しは響くとしても、父親が間違っていたことの証明にはならない。Tさんの究極の目標は父親から心からの謝罪を聞くことであろうが、それは治療者の共感とは別の話というわけだ。

どうだろう?このロジックはピンと来るだろうか?実は私は余り来ていない。父親への憎しみから、そして父親に土下座して欲しいというだけの理由から、人はTさんのように自分の人生を台無しにするような行動に出ることがあるだろうか? 「話を聞いて行くうちに、Tさんの心の底にあったのは、父親が子育てを失敗したことを認めさせたいという願望であった・・・」というストーリー自体があまりに単純であるような気がする。父親に心から謝罪を受けることで彼の人生が簡単に立ち直るような気もしない。そんなケースにはであったことがない気がする。しかしそれでもこのケースを通してのEcker 達の主張は傾聴する価値はあると思う。

2013年9月16日月曜日

トラウマ記憶の科学(13)


このPFAに繰り返しでてくるのが、次の表現である。
「詳細な描写を求めることは避けてください。」 
 ただし私たち治療者はこのことをトラウマを受けて1年以上経った患者さんに言うだろうか?それではそもそもエクスポージャー療法が成り立たない。常識的に私たちが知っているのは、時間がたったトラウマは、それを語らせることでそれが深刻な形でよみがえると言うことは普通はない、と言うことだ。ここで「普通は」と断ったのは意味がないことではない。つらい体験を語ることは、その人の気持ちを暗くし、絶望的な気持ちをよみがえらせる。治療場面でそのような状況に遭遇するのは治療者にも胸の痛む体験だ。そのようなセッションのあと何時間かはそのような気持ちを引きずるのではないか、と懸念する。おそらくそのようなことも例外的には起きるだろう。端的に言って、昔の記憶をたずねることで患者さんにフラッシュバックが起きたとしたら、それは治療者としては避けるべき事態であった、不適切な介入だったという可能性もある。
 しかし通常は、その話題から離れることで患者さんの表情も戻っていく。時間が経った記憶は基本的にはその深刻さを悪化させることはないのだ。ただしその記憶が形成された直後は事情が違う。
 ではいつまでがその「直後」と言えるのだろうか?おそらく定説はないのであろう。可能性としてはとりあえず二つある。一つは数日間。この期間は海馬がLTPという状態を経て長期記憶を形成するまでの機関で、それ以降は海馬はそれを大脳皮質の各場所に手渡して自分を消去してしまう。つまりこの器官は記憶はまだ海馬にとどまっている状態である。海馬とは面白い機関で、脳においては例外的に細胞が常に再生している。数日間で記憶を残した鋳型自体が消えていくのだ。以前にレコード盤の比喩を用いたが、トラウマを受けた直後のレコード盤は海馬の歯状核にあると言うわけである。ここのレコード盤は少し変っていて、それがレコード針でなぞられることで(つまり「詳細な描写を求めることで」)その刻印が深くなっていくという構造になるのだろう。そして其れが深ければ深いほど、数日以内に皮質に手渡す際の記憶の鮮明さや強度も高まると言うわけである。

2013年9月15日日曜日

トラウマ記憶の科学(12)


 デブリーフィングの話の続きである。ミッチェルの提唱したいわゆる「CISD」は、もちろんそれが善意のもとに実践されたわけであるが、その有害性が多く指摘されることとなった。そしてその代わりに災害時等にメンタルヘルスの関係者にとっての指針とされているのが、米国の国立PTSDセンターが編集した「Psychological First Aide (PFA)」というガイドラインである。これは「兵庫県こころのケアセンター」のスタッフが日本語に訳していて、ネットでも簡単に入手できる。(すばらしい。加藤先生、有難うございます!)http://www.j-hits.org/psychological/pdf/pfa_complete.pdf

これを読むと随所に「話を聞きすぎてはいけない」という注意事項が記載されている。つまり心の出兄で向いた人たちが行ないがちな「トラウマについて詳しく語ってもらう」というCISD的な発想への警鐘となっている。たとえば3ページ目の「避けるべき態度 Some Behaviors to Avoid」には7つの項目が挙げられているが、第5、第6項目(私が下線を付け加えてある)はそれに相当する。
1.被災者が体験したことや、いま体験していることを、思いこみで決めつけないでください。
2.災害にあった人すべてがトラウマを受けるとは考えないでください。
3.病理化しないでください。災害に遭った人々が経験したことを考慮すれば、ほとんどの急性反応は了解可能で、予想範囲内のものです。反応を「症状」と呼ばないでください。また、「診断」「病気」「病理」「障害」などの観点から話をしないでください。
4.被災者を弱者とみなし、恩着せがましい態度をとらないでください。あるいはかれらの孤立無援や弱さ、失敗、障害に焦点をあてないでください。それよりも、災害の最中に困っている人を助けるのに役立った行動や、現在他の人に貢献している行動に焦点をあててください。
5.すべての被災者が話をしたがっている、あるいは話をする必要があると考えないでください。しばしば、サポーティブで穏やかな態度でただそばにいることが、人々に安心感を与え、自分で対処できるという感覚を高めます。
6.何があったか尋ねて、詳細を語らせないでください。
7.憶測しないでください。あるいは不正確な情報を提供しないでください。被災者の質問に答えられないときには、事実から学ぶ姿勢で最善を尽くしてください。

さらに「情報を集める」(30ページ~)には、次のような二つの注意事項が織り込まれている。これも同様の趣旨と考えていいだろう。ここも注目していただきたい分について私が下線を施してある。
注意事項:災害でのトラウマ体験に関する情報を明確にしていくときに、詳細な描写を求めることは避けてください。さらに苦痛を与えてしまう可能性があります。起こったことについて話しあうときには、被災者のペースで話を進めてください。トラウマや喪失の体験を詳しく話すよう、圧力をかけてはいけません。逆に、被災者が自らの体験について語りたがることもあります。そのようなときには、いまいちばん役に立つのは、あなたの現在のニーズを知り、今後のケアの計画をたてるのに必要な必要最小限の情報を得ることなのだということを、丁寧に、敬意をもって伝えてください。今後、もっと適切な場で体験を語る機会を設けられることを伝えましょう。

注意事項:次の項目で触れることですが、薬物使用に関する既往、過去のトラウマや喪失、精神的な問題を明らかにしていくときには、まず被災者の現在のニーズに敏感でなくてはなりません。必要もないのに過去のことを尋ねたり、詳細な描写を求めたりすることは避けてください。なぜそれを尋ねるのか、理由を明確に述べましょう。たとえば、「こうした出来事は、以前あった嫌なことを思い出させることがあるのですが」とか、「ストレスに対処するためにアルコールを使う人は、こういう出来事のあとには酒量が増えることがあるので」というように前置きしてください。

2013年9月14日土曜日

トラウマ記憶の科学(11)

前表紙漱石の「明暗」頑張って読んで、最後が面白くなってきたのに、いきなり「未完」はないよね。誰か続きを書いた人はいるのかしら? あった!「明暗ある終章」粂川光樹 読むか?


この「記憶ブヨブヨ」のテーマとの関連で考えるべき問題がある。それは記憶の不安定化の状態が、その記憶の形成された時期との関係で大きく異なるであろうということだ。簡単に言えば、「トラウマの直後の記憶は、取扱注意!」ということだ。
 トラウマに関する治療が様々な形で行われる中で一つ浮かび上がったのが、例のデブリーフィングの問題だ。デブリーフィングとは、災害なので多くの人がトラウマを体験した際、被災者がなるべく早期にグループを持ち、トラウマの体験を言葉で分かち合うという試みである。ミッチェルという人により考案され、CISD (critical incident stress debriefing) と名づけられ、一時期盛んに試みられた。しかしそれが必ずしもPTSDの発症を減らすということはなく、かえって逆効果にもなりうることがわかった。現在ではトラウマが生じた際の介入には一定の時間の経過が必要であるということが常識になっている。(詳しくは以下の日本トラウマティックストレス学会のHPからの引用を参照されたい。)
 なぜトラウマはそれが生じた直後にはむしろそれについて話すことが害になるのだろうか? それはおそらく記憶の再固定がその記憶が形成されて直後とそれ以後では大きく異なるからであろう。思い切った仮説を設けるならば、あるトラウマ記憶は、直後にそれが語られることでそれの刻印のされ方をより顕著なものにする。例のレコードの比喩を用いるならば、レコード盤に最初の曲が刻印された際、それをすぐに再生するとそれが、さらに深い凹凸により刻印される傾向にあると考えるべきであろう。それは再固定化の際のブヨブヨとは別の現象が起きると考えなくてはならない。
もちろんこの話が、昨日ここに書いた、いやなことがあったらすぐに話すことにより再固定化する、という話と矛盾するのは当然であろう。そしてこのことがトラウマを扱う際の治療者に非常に大きなジレンマを生んでいるのは確かなことなのだ。なぜつらいことがあった時にすぐに話せばよくなるのに、グループでデブリーフィングをするのはよくないのか?この問題はいまだになぞであるが、そこには私たちがまだ知らない記憶の脳科学があるのかもしれない。
(参考)危機介入としての「デブリーフィング」は果たして有効か?』(日本トラウマティックストレス学会Hpより)
1)デブリーフィングとは?
デブリーフィングdebriefingとは、元来は軍隊用語で、前線からの帰還兵にその任務や戦況について質問し報告させることを指していた。それが、災害や精神的にショックとなる出来事を経験した人々のために行われる危機介入手段として転用されたのが心理的デブリーフィングpsychological debriefing(PD)である。もともと米軍のパラメディックでもあり救急隊員でもあった心理学者ミッチェルがさらに構造化した非常事態ストレス・デブリーフィングcritical incident stress debriefingCISD)として開発し、よく知られるところとなった。それは、災害などの2,3日(少なくとも1週間)後に行われるグループ技法であり、2~3時間をかけて、出来事の再構成、感情の発散(カタルシス)、トラウマ反応の心理教育などがなされるものである。
PDは日本でも阪神・淡路大震災を機によく知られるようになった。災害の生々しい体験を直後に救援者や被災者に語らせるという手法は、関係者にいささか躊躇を与えるものではあったが、当時は米国との文化差という文脈から理解しようとされていたのでなかろうか。日本での実践的な普及は今もまだ聞かれることはないが、「災害直後に体験の内容やその時の感情を救援者や被災者に表現させる」ことで、PTSDを始めとするトラウマ後の心理的後遺症の発症を予防するという考え方は既にかなり浸透しているかもしれない。
 
2) デブリーフィングの有効性
 
しかしながら、特に1990年代後半からPDの有効性の問い直しを迫る論文があいつぎ発表されている。昨年9月、かのランセット誌にこれらの臨床研究論文を収集してメタアナリシスを行った論文1)とその論文に対するコメンタリー2)が掲載された。この論文の目的は、単回セッション制のPDPTSDやその他トラウマ後障害の慢性化に有効な介入であるかどうかを評価することである。著者らが検索したPDの効果を評価する論文29編中、PDがトラウマから1ヶ月以内に施行され、施行前後での心理評価がなされていることなどの条件を満たした7つの無作為化抽出研究が対象論文となっている。
 
これら7研究にメタアナリシスを行い得られた結果は、(1CISDとは異なる介入群(Non-CISD)および介入のない群ではPTSD症状の改善があった、(2Non-CISD群と介入なし群では、PTSD以外の症状の改善がないか、あるいは検討できなかった、(3CISD群ではPTSD症状およびその他症状の改善がなかった、というものである。さらに各研究ごとにエフェクト・サイズを比較し、(1PTSD症状は「自然経過」でも回復が認められる、(2Non-CISDは「自然経過」以上の意味はないが、もう少しデータが集まれば「自然経過」よりも良い結果が出るかもしれないという期待は否定できない、(3CISDを施行すると「自然経過」で見られた回復がなく施行前よりも状態を悪くしているかもしれない、と解釈を加えている。著者らはメタアナリシスに耐え得る研究数が少ないことや条件の統制が難しいことを断った上で、最終的に「CISDNon-CISDは予後を改善しない」と結論づけている。
 
著者らはCISDの有効性への疑義を唱える理由をいくつか考察している。例えば、CISDが侵入症状や回避症状の自然回復のプロセスを阻害するのではないかとか、CISDは正常なトラウマ後反応をかえってより意識させてしまい、トラウマ刺激に感作されやすくしてしまうのではないかといった仮説を紹介している。デブリーフィングには、参加者に満足感と援助してもらえた実感を与えるという報告もあり、実証的研究のみで今後の施行の是非を問えるものではないとしつつも、最終的には「デブリーフィングが慢性的な心理的後遺症への発展を予防するという主張は実証的には保証されていない」という文章で締めくくられている。
 
なお、インターネット上で医学的なエビデンス・データを発信しているThe Cochrane Libraryも数多くの研究論文や研究者との直接連絡から、PDの有効性に関する検討を行っており、こちらでは「PDは心理的苦痛を緩和することも、PTSD発症を予防することもない」とより厳しく結論づけ、「トラウマ犠牲者・被災者への強制的なデブリーフィングはやめるべきである」とまで言及している。 文献3)は4)の抄録であり、無料でアクセスできる。
 
3) これからのトラウマ後危機介入
 
ニューヨークテロ事件の予備調査で、PDを受けない自然経過で予想以上に被害者のPTSD症状の改善が見られることが示されており、個々人やそれを取り巻くサポートの持つ自発的・自助的な回復力が改めて見直されてきている。事実、テロ事件では実際のトラウマ体験を語らせることよりも、安全感の確立や日常生活の再建に重点を置いた危機介入がなされたと聞く。また、PTSD発症のリスクを比較的非侵襲的かつ確実に評価できる有望なアプローチ法が現れてきているという。
 
 (広常秀人、小川朝生)
 
【文献】
1
van Emmerik AAP, Kamphuis JH, Hulsbosch AH, Emmelkamp PMG: Single session debriefing after psychological trauma: a meta-analysis. Lancet 360: 766-771, 2002.
2
Gist R, Devilly GJ: Post-trauma debriefing: the road too frequently traveled. Lancet 360: 741-742, 2002.
3
http://www.update-software.com/abstracts/ab000560.htm
4
Rose S, Bisson J, Wesley S: Psychological debriefing for preventing posttraumatic stress disorder(PTSD)(Cochrane Review). In: The Cochrane Library, Issue 4. Oxford: Updated Software; 2002.

 文責:冨永良喜

2013年9月13日金曜日

トラウマ記憶の科学(10)

ところで皆さんは、ある勘違いをなさっているかもしれない。つまり「記憶ドロドロ」(つまり過去の記憶を再現する際にそれが不安定化し、書き換えが可能になる状態)は、ある特殊な治療状況でないと生じないのではないか、という風に思っているのかもしれない。しかしそういうわけでは決してない。日常生活でも起きている可能性があるだけでなく、私たちはその原理を用いているはずだ。
 ある苦痛な体験をした後、私たちはたいていはそれを誰かに話したくなることがある。胸の内を誰かに話して、すっきりしたいと思う。その時は、「この話をあの人に聞いてもらえれば、きっとすっきりするに違いない」という予想を立てている。おそらく過去にも似た体験があり、その人に話すことで苦しみがある程度は解消するということが学習されているのだろう。時にはその話し相手は唯一の信頼できる人であろうし、別の場合には、とりあえず手っ取り早く話を聞いてくれる誰でもいいのかもしれない。しかしとりあえずは誰かの前で自分の体験を話す。そのことが、機序はよくわからないまでも記憶をドロドロに溶かすことを知っているのだ。そしてその話をした後に再固定される。私たちにとってこれほどまでに普遍的な行動である「悩みを聞いてもらう」は、記憶の再固定化を求めての行動という風に考えざるを得ない。
 ではその場合の「ミスマッチ」はどのように体験されるのだろうか?これにはいろいろな可能性があるが、その一つは、そのことを話した時に、目の前の人が自分の気持ちに同一化してくれるという体験ではないだろうか?
 トラウマ的な体験をした後、私たちの心は奇妙な状態に置かれることがある。それはそれを恐怖を持って体験した自分が異常であり、自分がされたことは当たり前であるという心境である。あるいはこれを恐ろしいと感じているのは自分ひとりであり、その意味で自分は徹底して孤独である、という心境かもしれない。その場合はおそらく一人で壁に向かってその体験を語ったところで、そこにミスマッチは起きない。ところが目の前に、自分を理解してくれる人が存在し、自分に共感してくれるという体験が生じると、それがミスマッチとなり、記憶を不安定化し、再固定を促す。あるいは、自分は一人ではない、ということだけでもミスマッチを起こし、再固定を促すかもしれない。
 でもどうだろう。自分のトラウマ的な体験を話しても、誰もわかってくれず、自分はその体験に関しては徹底して孤独なのだという気持ちを悪化させるにすぎなかったとしたら。それは再固定をもたらさないか、あるいはよりトラウマが深刻化するという形で再固定を促すかもしれない。


 性的外傷体験を持った人がそれを警察で話すことにより、再外傷体験を生むという場合がある。(いわゆる「セカンドレイプ」という表現もある。)その場合に相当するかもしれない。あるいは私がいつかどこかに書いた、あるプロ棋士の話を思い出していただきたい。その棋士は将棋の試合に負けるとまっすぐ帰って一人で布団をかぶって号泣して乗り切るという。その場合には人に話すことがいい意味での再固定化につながらないという体験を持っているのであろう。その場合「この体験を分かってもらえていないだろうな」あるいは「いい気味と思っているのかもしれないな」と感じることでむしろトラウマが深刻になるということが起きるのであろう。

2013年9月12日木曜日

トラウマ記憶の科学(9)

次のケースBは面白い。Bさんは20代後半の女性で、パニック発作を抱えている。特に閉所恐怖が酷い。車に乗っていて渋滞になると捕まると「まずい、自分は今ここから抜けられない!」と思うと、胸のあたりがざわざわしてくる。そして深刻な発作が起きて来て、息が出来ずに気を失いそうになるという。セラピストは話を聞きながら、「なるほど、ではちょっとイメージトレーニングのようなものをやってみましょう。」という。(どうやら本書に出てくるどの症例にも共通しているのがこの部分だ。)
治療者:この間体験したパニック発作を思い出してください。今どこにいますか?
B
さん:高速道路です。渋滞につかまってしまいました。
治療者:状況をもう少し説明してください。
B
さん:隣のA市から帰る途中です。夫が運転していて私は助手席にいます。
治療者:なるほど。いいですよ。それでどうしましたか?
B
さん:私は「外の新鮮な空気が吸いたい。」と夫に言います。夫は「またか」といった感じで私にこう言います。「またキミの病気か。気のせいだってことがわからないのかい?何か楽しいことでも考えろよ」と言います。私は結局夫の理解が得られないで、苦しいままで耐えるしかありません。
治療者:そうですか。では想像を膨らませて、そこから少し強気になり、大胆になったあなたを想像してください。普段なら言わないことも、しないこともしてみます。
B
さん:どうしようかしら…。そうですね、夫にこんな風に言います。「あなたは本当に私の苦しさがわかってくれないのね。いつも気のせい、気のせいって…・」
治療者:ご主人の反応は?
B
さん:何か、きょとんとしています。私がそんな言い方をしたことがないからだと思います。
治療者:その調子です。続けてください。
B
さん:とにかく私は外の空気を吸うから、といいます。すると旦那は少し切れたようで、「そんなバカのことができるわけないだろう。高速道路だぞ。」「高速道路を人が歩くなんて、警察が来るぞ。」
治療者:それでどうしますか?
B
さん:私は死にそうなのよ。この際警察もなにも関係ないわ。
治療者:あれ、大胆ですね。ふんふん、それで?
B
さん:構わずにドアを開けました。車は延々とつながっているのが見えます。高速道路に自分の足で立っているなんて、変な感じです。でも案外いい景色です。
治療者:呼吸の苦しさはどうですか?
B
さん:そうですね。少しいいようです。歩いてみようかしら。
治療者:旦那さんはどうです?
B
さん:なんかうるさく騒いでいます。だからドアを閉めちゃいました。何かギャーギャー言っています。
治療者:どんな気持ちですか?
B
さん:割とすっきりしています。少し歩いてみます。向こうの方で警官の姿が見えました。私に気が付いたようです。でもいいんです。もう少しここら辺を歩き回ってみます。
治療者:どんな気持ちですか?
B
さん:へえ、こんな感じなんだ、と驚きます。旦那の言うことをいつも
く必要はないんだ、と思いました。
この種のセッションを何度か続けることで、Bさんは車の中でパニックに陥ることが劇的に減ったという。


私がずいぶん脚色したので、Unlocking the Emotional Brain に載っている実際の例とはずいぶん違ってしまったが、雰囲気は伝わったかもしれない。つまりこの例では閉じ込められた状態で「まずい、ここから抜け出せない」という状況でパニック発作を起こしていたBさんが頭の中でそれとは逆の体験をすることで、「再固定化」を引き起こすことができたという例である。

2013年9月11日水曜日

トラウマ記憶の科学(8)

本書で次に出てくるTさん(30代前半の男性)の話も紹介しよう。こちらはどれほど説得力があるだろうか? 彼は仕事をしても続かず、ガールフレンドを得ても二か月と持たずに愛想をつかされてしまうという。「自分はどうせ何をやってもダメなんです。」と自暴自棄なことを言う。面接では色々聞いて行くうちにまたもや父親の話が出てきた。彼の父親はTさんを小さい頃から一度も褒めたことがなく、愛情のかけらも注いでくれなかったという。「私が人生で上手く行ってしまえば困るんです。父親が私をちゃんと育てたことになりますからね。」治療者はTさんに言って見る。「目の前にお父さんを思い浮かべて下さい。そして『父さん、僕は仕事がうまく行っていて、今度サラリーをあげてもらうことになりましたよ』って言って御覧なさい。」
それを聞いてTさんは「すごく嫌な感じがします。というより緊張します。そんなことは言えませんよ。彼が父親としてうまく育ててくれたことを示すことになっちゃいます。」という。治療者は「ということは、あなたがいかにダメ人間かを示すことで、自分がいかに育て方を間違っていたかを理解させたいというわけですね。」 Tさん:「ふーん、そういうわけか。」 ここで治療者は大事なことを指摘する。「でもTさん。あなたはお父さんに期待しているというわけだ。あなたがいかにダメ人間になったかを示すことで、お父さんは心から反省し改心して『俺はダメな父親だった。スマまなかった』とあなたに謝るということを、あなたは期待しているんでしょう?」そこでTさんは意外そうな顔をする。
結局セラピストはTに次のようなセンテンスを言ってもらうことになった。「私の父は自分の過ちを正直に認めて謝るような人です。●ァック!!
治療ではこの「父親はろくでなしだ」という言葉と「父は正直ものだ」という言葉のミスマッチが、そしてそれが隣同士に置かれていることjuxtaposition が治療の決め手となる。つまりろくでなしの父親、という頭にしみついた思考がいったんグラグラになり、別のものになって再固定化するというプロセスが可能になるというのだ。うーん。まだ納得していないぞ。

2013年9月10日火曜日

トラウマ記憶の科学(7)


次のセッションでAはこんな経験を報告したという。「昨日会社である企画が浮かんだんですけれど、例により自信がなくて言えませんでした。ところが隣の同僚がその同じ企画を口に出して提案し、結構受け入れられたんです。私はその時ちょっとしたショックを受けました。」治療者はこの体験をDK(学習内容を不確定なものにするような知識)として使うことを決めた。
治療者はAさんに「では次のようなシーンを想像してください。あなたは仕事場の企画会議で一つのアイデアを思いつきますが、口に出さないことにします。そんなことをすると傲慢だと受け取られて嫌われるからです。すると誰かがそのアイデアを口にします。すると驚いたことに、誰もそれを傲慢とは受け入れず、そのアイデアをうけいれたのです!」このイメージトレーニングを治療者はAに何度もやってもらう。そうしてもう一枚のインデックスカードを取り出して、文章を書いてもらう。
「少しでも自信を持てると、それは自己中心的で傲慢であり、父親になってしまう。だから自分は決して自信を持てないと思っていた。ところが実際に口にすると全然そんなことはなかったのだ!」
これを次のセッションまでにAさんは暇さえあれば何度も取り出して読むということになった。

うーん、こんなにうまくいくのかな? ただしこの本の提唱している「コヒアレンス療法Coherence Therapy」には何かありそうだ。もう少しついて行って見よう。

2013年9月9日月曜日

トラウマ記憶の科学(6)


私の考えではすでにエビデンスとして証明されている治療手段、たとえばPTSDにおける暴露療法などはこれを首尾よく起こしていたということになるだろう。

さてここから本格的に、以下の本を読んでいくことになる。Bruce Ecker , Robin Ticic , Laurel Hulley,Unlocking the Emotional Brain: Eliminating Symptoms at Their Roots Using Memory Reconsolidation. Routledge; 2012. すばらしい本だ。


本書には、結局次のような治療の手法が描かれている。全部で6段階からなるという。
1.症状を同定する
2.治療対象となる学習内容を聞き取る
3.学習内容を不確定なものにするような知識(DK)を同定する
4.症状を必要とするようなスキーマの活性化
5.DKの活性化
6.23の反復

ここでこの本で具体例が載せられているので紹介しよう。Aさんという30代の男性。仕事で自己主張をするのが苦手であるという。何か言おうとしても、自分は意味のないことを主張し散るのではないかと思ってしまい、口に出ないという。そこでセッションで、実際に職場で何かいいアイデアを出してみたことを想像してもらう。すると「ああ、自分は嫌われてしまった!」と感じられた。治療者がもう少し聞いてみると、Aさんは「そうだ、自己主張の強いあのろくでなしの父親のように自分は思われてしまっているんだ。」と言った。ということで2の「治療対象となる学習内容」とは、自己主張すると、父親のようにいやな人間に思われる、ということになる。これをもう少しはっきりと言葉に直すならば、「少しでも自信を持てると、それは自己中心的で傲慢であり、父親になってしまう。だから自分は決して自信を持てない。」となる。この分は治療者がAと話し合って決めたもので、Aはこれを口に出して読んだ際に、心から、というよりは体のレベルで「この通りだなあ」と感じられることが大切であるという。治療者はこれをAにインデックスカードに書かせて、次の治療までに何度も読んでみるように指示した。