さて例の本に戻ろう。(Bruce Ecker , Robin
Ticic , Laurel Hulley,:Unlocking the Emotional Brain: Eliminating Symptoms at Their
Roots Using Memory Reconsolidation. Routledge; 2012.)
私にとってはこの本は「特別」な本になりつつある。最後の特別な本は、アメリカにいた時に呼んだHoffmanだった。10年以上前の話である。Ecker達の本は精神療法(「コヒアレント・セラピー」」の本であるが、この治療法の根拠が明確である。それは精神的な病を記憶の病理としてとらえ、それを改変する事に特化している。そしてその治療アプローチは極めて相対的である。そのひとつが、例えば治療者の共感的な態度に関するものである。精神療法において治療者が共感的で誠実な態度を保つ事は基本中の基本であると言えよう。しかしそれが治療の本質部分を占める場合とそうでない場合がある。なぜ共感が治療において重要なのかについての根拠も、精神分析の世界ではあいまいである。コフートは共感の大切さを説いたが、それは共感の不全が自己愛の病理を生む、という彼自身が持っていた前提以上の説明はないように思う。
本書においては、治療において共感が大切かどうかは、それがミスマッチを形成するかどうかにより異なるという。
例えばトラウマの記憶の科学(8)では、Tさんという症例を紹介した。
Tさん(30歳代前半の男性)は仕事をしても続かず、ガールフレンドを得ても二か月と持たずに愛想をつかされてしまうという。話を聞いて行くうちに、Tさんは自分が失敗することで、父親が子育てを失敗したということをわからせてやりたいということがわかった。しかしTさんのこの思考にはある種の矛盾があった。それは父親が自分の非を認める率直な人間であるという前提であり、それは自分の父親をろくでなし、と思う気持ちと矛盾していた。治療者はTさんに何度も言ってもらう。「私の父は自分の過ちを正直に認めて謝るような人です。(こんちくしょう!)」
さてこの症例Tにおいて、治療者の「共感」は基本的に害はないながらも治療を前に進めるわけではない、というのがこのEcker達のコヒアレント・セラピーの主張なのだ。父親以外の誰かに「良くやっているね」と言われても何も響かない。いや少しは響くとしても、父親が間違っていたことの証明にはならない。Tさんの究極の目標は父親から心からの謝罪を聞くことであろうが、それは治療者の共感とは別の話というわけだ。
どうだろう?このロジックはピンと来るだろうか?実は私は余り来ていない。父親への憎しみから、そして父親に土下座して欲しいというだけの理由から、人はTさんのように自分の人生を台無しにするような行動に出ることがあるだろうか? 「話を聞いて行くうちに、Tさんの心の底にあったのは、父親が子育てを失敗したことを認めさせたいという願望であった・・・」というストーリー自体があまりに単純であるような気がする。父親に心から謝罪を受けることで彼の人生が簡単に立ち直るような気もしない。そんなケースにはであったことがない気がする。しかしそれでもこのケースを通してのEcker 達の主張は傾聴する価値はあると思う。