2013年9月13日金曜日

トラウマ記憶の科学(10)

ところで皆さんは、ある勘違いをなさっているかもしれない。つまり「記憶ドロドロ」(つまり過去の記憶を再現する際にそれが不安定化し、書き換えが可能になる状態)は、ある特殊な治療状況でないと生じないのではないか、という風に思っているのかもしれない。しかしそういうわけでは決してない。日常生活でも起きている可能性があるだけでなく、私たちはその原理を用いているはずだ。
 ある苦痛な体験をした後、私たちはたいていはそれを誰かに話したくなることがある。胸の内を誰かに話して、すっきりしたいと思う。その時は、「この話をあの人に聞いてもらえれば、きっとすっきりするに違いない」という予想を立てている。おそらく過去にも似た体験があり、その人に話すことで苦しみがある程度は解消するということが学習されているのだろう。時にはその話し相手は唯一の信頼できる人であろうし、別の場合には、とりあえず手っ取り早く話を聞いてくれる誰でもいいのかもしれない。しかしとりあえずは誰かの前で自分の体験を話す。そのことが、機序はよくわからないまでも記憶をドロドロに溶かすことを知っているのだ。そしてその話をした後に再固定される。私たちにとってこれほどまでに普遍的な行動である「悩みを聞いてもらう」は、記憶の再固定化を求めての行動という風に考えざるを得ない。
 ではその場合の「ミスマッチ」はどのように体験されるのだろうか?これにはいろいろな可能性があるが、その一つは、そのことを話した時に、目の前の人が自分の気持ちに同一化してくれるという体験ではないだろうか?
 トラウマ的な体験をした後、私たちの心は奇妙な状態に置かれることがある。それはそれを恐怖を持って体験した自分が異常であり、自分がされたことは当たり前であるという心境である。あるいはこれを恐ろしいと感じているのは自分ひとりであり、その意味で自分は徹底して孤独である、という心境かもしれない。その場合はおそらく一人で壁に向かってその体験を語ったところで、そこにミスマッチは起きない。ところが目の前に、自分を理解してくれる人が存在し、自分に共感してくれるという体験が生じると、それがミスマッチとなり、記憶を不安定化し、再固定を促す。あるいは、自分は一人ではない、ということだけでもミスマッチを起こし、再固定を促すかもしれない。
 でもどうだろう。自分のトラウマ的な体験を話しても、誰もわかってくれず、自分はその体験に関しては徹底して孤独なのだという気持ちを悪化させるにすぎなかったとしたら。それは再固定をもたらさないか、あるいはよりトラウマが深刻化するという形で再固定を促すかもしれない。


 性的外傷体験を持った人がそれを警察で話すことにより、再外傷体験を生むという場合がある。(いわゆる「セカンドレイプ」という表現もある。)その場合に相当するかもしれない。あるいは私がいつかどこかに書いた、あるプロ棋士の話を思い出していただきたい。その棋士は将棋の試合に負けるとまっすぐ帰って一人で布団をかぶって号泣して乗り切るという。その場合には人に話すことがいい意味での再固定化につながらないという体験を持っているのであろう。その場合「この体験を分かってもらえていないだろうな」あるいは「いい気味と思っているのかもしれないな」と感じることでむしろトラウマが深刻になるということが起きるのであろう。