2025年1月11日土曜日

「週一回分析的サイコセラピー」書評 ほぼ最終形

結局以下のような形にまとめた。でも字数は大幅にオーバーしている。あと1,2回手を入れる必要アリ。それにしても今回も非常に勉強させていただいた。  

本書は2017年に発刊された「週一回サイコセラピー序説」(北山修、高野晶編)の内容を受けた形で新たに編集され、出版された著書として位置づけられる。本書には高野晶氏、山崎孝明氏の両編者による並々ならぬリーダーシップとエネルギーが結実している。この「週一回」の議論(週4回以上の高頻度の精神分析とは異なり週に一回の精神療法を精神分析的に行うことの意味付けについての議論)はこの間に盛んに論じられているが、本書はその全体を俯瞰するうえで最良の書となっている。本書が時宜を得てまとめられたことで本テーマは確実に前進していくものであると思う。

本書の優れた点は、「週一回」の議論の先駆けとなった高野氏に加えて藤山直樹氏、岡田暁宜氏といった論客の寄稿とともに、この議論を推進した山崎氏、関真粧美氏、山口貴史氏、縄田秀幸氏といった若手の療法家の原著論文の再録を含む論考が掲載され、その議論のすそ野の広がりを感じさせてくれるということである。そしてそれと並行した形で進んだいわゆるPOST(精神分析的サポーティブセラピー)の流れも追うことができる。
 「週一回」は本来の精神分析における力動をそこに再現することができない、いわば精神分析未満の治療ではないか、という懸念を多くの療法家に抱かせる。彼らは精神分析理論から多大なことを学び、それについての教育をもとに臨床やトレーニングを続けてきたが、現実には時間的にも料金的にも週に一度が限界である大多数のクライエントに対峙している。その彼らがそれでも「週一回」をどのように精神分析的に、しかし本来の精神分析との違いを意識しながら行うかについての神療法家の呻吟が実によく伝わってくる。
 ところで本書の論者たちはおおむね一つの合意事項に沿っての議論を展開しているといえる。それはいわば古典的な精神分析観に従ったものであり、それはかつてジェームズ・ストレイチ―が1934年に提唱した「変容惹起的解釈」、すなわちいわゆるヒア・アンド・ナウの転移解釈こそが真に精神分析的であるという考え方である。それに従えば「週4回では成立する力動は週1回では無理である」という藤山氏の議論は非常に説得力があるのだ。しかし広く現代の世界の精神分析の流れを見るのであれば、何が分析的な作用かという議論はストレイチー議論の時代を超えて様々な議論されるようになってきている。しかしその点の言及はあまり見られず、それが本書の特徴でもあり、ある意味での限界かもしれない。

 この問題についての評者自身の読書感も申し添えておこう。評者の立場は「序説」で担当した一章で、「週一回でも精神分析的な作用は生じる」という見解を述べてある。そこでは精神分析的な作用は、どのような出会いがそこで生じるかに大きく依存する。そしてそれがいかに、どのように生じるかはまさにケースバイケースであり、週4回でも進まない治療もあれば、週一回でも進むものもある。そこで起きる「何か」は言葉にするのは難しいが、一種の「出会い」と言ってもいい。その見方からすれば、週一回の議論もおのずと変わってくるであろう。おそらくはそのような方向からの週一回の議論もなされるべきであろうというのが評者の感想である。しかしそのような外野からの感想は、本書の価値をいささかも損なうものではない。


2025年1月10日金曜日

「週1回 分析的サイコセラピー」書評 8

  次に高野晶氏の論考であるが、彼女が長年週一回精神療法について論じていることはよく知られる。それは彼女が精神分析協会の中で、そして彼女のスタンスが、より常識的であることは、たとえば第12章「医療における週一回スピリットと技法」などを読むと明らかだ。「常識的」というのはいい意味で、私も週1回の議論をするのなら、彼女と同じような結論に至ると思うからだ。つまり週1でも精神分析的にやれること、ただしより慎重に、ということだ。この論調はある意味では「身の程を知った」態度といえる。これもひどい言い方であるが、要するに「週1回」がそれなりに生きていくためには、精神分析の大御所から目を付けられないように、「あくまでも『転移分析』『ヒアアンドナウ』などには気を付けますよ、転移はなかなか起きにくいし、難しいヒアアンドナウよりはゼアアンドゼン、いわゆる転移外解釈を専ら行いますよ、それも慎重に。」(p187あたりの記載を私なりに言い換えている)という姿勢だ。これらを読んでいると私自身のスタンスが大体浮かんでくる。週4,5を体験した私として言えることは、「やはり週1でも十分な分析的な出会いの機会が提供されているが、週4,5ではそれがより増すであろうということ。しかし週1でもその機会は訪れるであろうこと」となろうか。  私の方針は、週1には週4以上とは違う独自路線を歩むべきだという考えとも違う。両方とも質的に同じことが起きるが(その意味で高野氏のいうように両者は「近似的」であろうが)、出会いは起きるときにはどちらでも起きる、ということだ。岡田氏の砂金の例を少しもじって、化石の例にしよう。化石を掘るために、採掘場に週4回通うのと週1回ではだいぶ違うだろう。しかしそれでも掘り当てる可能性はあるし、週一度にはそれなりの熱意がある。週4回には実はマンネリ要素があると言えるのだ。週一度だと思うから気合を入れて掘る、ということだってあるのではないか。ただそれ以下の頻度だと表面を掘っておしまい、次回来た時はまた表面にたまったほこりを払って、ということが起きるだろう。フロイトがいみじくも例えた「月曜のかさぶた」である。  その他「無意識の思考をたどること」(第14章 鈴木智美論文)なども私は親近感を感じた。つまり週4でも週1でも無意識に焦点付けるのは変わらないという主張。ただし週1回はより慎重に、という警句も見られる。ここら辺は週1しか事実上扱えない多くの療法家にとっての本音に近いのではないだろうか。ということで1200字の書評を書くための準備がかなり整ってきたが、あと1,2編読んでおきたい論文がある。


2025年1月9日木曜日

週一回分析的サイコセラピー」書評 その7

  そこで手始めに岡田論文を読んでみる。彼は2017年の「週一回サイコセラピー序説」の中で「週一回の精神分析的精神療法におけるリズム性について」について書いている。(ちなみにこの本には、私も一章書かせてもらっている。)そして本書(2024年)では「週一回におけるヒアアンドナウの解釈について」という論文を書いている。

私が彼の論文を最初に読むのは、彼が極めて常識的な臨床センスを備えており、また特定の学派の影響を色濃く受けていないために、その理論を理解しやすいと思ったからだ。そしてこのヒアアンドナウに関しては、やはり藤山理論の影響を強く受けたうえで、なぜ here and now が週に1回のセッションに耐えにくいのか、別言するならば、なぜthere and then にとどめるべきなのか、という議論になる。(ただし、では there and then に浸るべし、ということを言っているわけでもない。)彼の、全体の流れに大きくは関しないものの、彼の独自性(というよりは野心?)が垣間見られるところが面白い。

私がむしろ彼の2017年の論文で面白いと思ったのは、「フロイトは純金に銅を混ぜるな、と言ってゐるが、銅に純金を混ぜるなと言ってはいない」と言ってゐることだ。そして実際に彼は後者提唱しているようだということだ。そしていう。「週一回とは『日常生活や現実に基づく』ということに利点があるのであり、そこでは日常生活や現実という大地の中の砂金を探すような作業であると言う。それを彼は言いなおす。「それは精神分析的に精神療法を行うことだ。」うーん、悩ましいが、少なくとも週1回を、精神分析未満として終わらせることへの抵抗を示しているといえる。しかしそれにしても・・・・と思う。「ストラッキーの変化を及ぼす解釈」が真に分析的である、という何十年も前の説はこうして生きている(生きさせられている)のだ。


2025年1月8日水曜日

「週1回 分析的サイコセラピー」書評 6

  どうやら山崎氏の狙いは、POSTはそれとして、やはり「分析的」の独自の在り方を模索しているようである。そして平行移動仮説の棄却に屈せず、それでも何とか分析的になれないかという点を考えあぐねているようだ。そして改めて見直すと、「分析的」にはそれなりの特徴があり、現実的であること(藤山、高野、岡田)に帰着するらしいのである。つまり分析だと精神内界にかかわることになるが、週一回だとあくまでも現実の生活に密着し、深く無意識の探求を行わないという姿勢になる。この方面を追求すべきではないか、あまり「分析的でない」ことに後ろめたさを感じず、ということらしい。  そこでやはり大事なのは近似仮説的検討だという。山崎論文の最後の方は、患者さんの意識的なニーズにこたえよう、という主張である。これもとてもよくわかる。というよりここに至って、彼の方向性はとてもリーズナブルで全うである。彼は精神分析の軛に悩まされながらも、何が将来必要になるかについて志向しているようにも見えるのだ。 では「分析的」とは精神分析的にやるのかといわば、どうやらそうらしい。しかしそれを「遠慮がちに」「身の程をわきまえつつ」やるのだ。そのことを山口論文はこう書く。「週一回では、転移は扱いづらいとされているが、方向性としては転移を『集め』、治療的に扱いながら内省へと向かう」(p.246)そうだ。結局やるのである。その調子!

ここまで読むと、岡田氏も高野氏もやはり「分析的」に独自性を見出しているようだ。それをもう少し読解してみよう。


2025年1月7日火曜日

「週一回サイコセラピー」書評 5

 ということで山崎論文「週一回とは何か?」について。彼の文章を読むとよい書き手であり、読みやすい文章を書く人であることがわかる。彼のこの論文で、「週一回」の議論の流れがよくわかる。少しまとめるつもりで読もう。もうこうなると書評の上限1200字はどうでもいい。

この週一回の議論、実は歴史は浅いので、いろいろな議論をまとめることは難しくない。この議論の中で山崎が重視するのが、高野の「近似仮説」である。藤山の平行移動仮説は、「週一は週4とは違うよ、分析じゃないよ」と素っ気ないことを述べているが、高野は両者は似たところがある、という主張なので、すこしでも精神分析的なところを模索したい「週1回」よりはまだ希望が持てるようだ。

さて山崎氏の論文は平行移動仮説を否定していることが特徴だ。つまり藤山説を受け入れて、ある意味では白旗をあげているわけである。そして、週一は分析的にはやれないなら、どうやって有益なものにするか、という議論の展開をする。そしてこちらは近似仮説を用いるという。ここら辺を読むと微妙なニュアンスだが、藤山説のように伝統的な精神分析理論はあてはめられないが、精神分析「らしき」ことはできることに望みをつないでいるようである。そう、その調子!そして結局は分析的でないことへの後ろめたさを語っているという。そして導入するのが、

【分析的】心理療法と、分析的【心理療法】との違いだ。少しややこしいので、前者を「分析的」後者を「心理療法」としよう。この後者はあえて分析的なやり方をしない(無意識、転移を扱わない)という意味で、支持療法的であり、これがいわゆるPOSTというわけだ。だったら「分析的」は分析的であることをと捨てない週1ということになり、これはどうなるのか。ややこしいところだ。


2025年1月6日月曜日

「週1回 分析的サイコセラピー」書評 4

 私の実感では、本書の多くの章が、この藤山氏の提言を受け、「それはそうだけれど…でも…」という論調で自説を展開しているように思える。というのもこの藤山説はある意味では難攻不落な説と言えるからだ。それは精神分析的にはあまりに正論だからである。それにしてもどうしてそうなったのだろうか?  一つには私の知る限り著者のすべてが藤山先生の門下生か、あるいは先生から深い影響を受けている人たちである。端的に言えば、本書の編者の一人は、上智大学の飛び切り優秀な藤山門下生である。そしてそれは彼らの理論が精神分析理論から「後方支援」を受けている(山口氏 p.245)というスタンスからもわかる。それは目標としているというより、「師(藤山先生)の説を重んじながら、その先を進む」という姿勢だ。つまり彼らは師の薫陶を受けつつも、週一回の存在意義を模索しているのだ。  このエネルギーがどこから来るかはわからないが、いくつかの現実的な要因が関係していることは間違いない。現実の患者さんたちのことを考えて見よう。彼らは週一回でさえ多くて来れない(あるいは少なくとも支払いができない)という人たちが大多数であろう。彼らの多くは仕事を持っていたり、経済的に十分な支えがなかったり、遠隔地に在住していたり、という事情があり、週4回以上はまず論外である。そして我が国のサイコセラピストはそのような患者さんと向き合っているのだ。

ここで結局至った結論。この本のコア部分に位置する山崎論文「週一回とは何か?」を読解すべし。


2025年1月5日日曜日

「週1回 分析的サイコセラピー」書評 3

 次に第4章、「関係性以前の接触のインパクト」(藤山直樹)を読んでみる。藤山氏はいわばこの「週一回」の議論の火付け役である。彼は2014年に精神分析学会の会長を退く際の「会長講演」で、彼の有名な「平行移動仮説」を提唱した。それは週4回以上の精神分析の実践により意味を持つ「関係性の扱い」、すなわち変容惹起的な転移解釈(ストレイチー)などは、そのまま(平行移動的に)週一回の分析的治療で扱うことはできないという議論だ。

 藤山氏はいう。「よく誤解されるのだが・・・・週一回の価値を軽く考えているわけではない」(p.60)しかし論旨としてはやはり平行移動仮説への批判を展開することになる。彼の説をわかりやすく言うならば、週4回以上ではスムーズに、ないしは精神分析理論に沿って展開する治療が、週一回では大きな困難にぶつかる、というものである。それは端的に言えば週に1度治療者と会っただけで残りの6日間は治療を受けないという構造が非常に外傷的であり、治療においては冒頭部分においてそれを扱うことに多大な労力が割かれてしまうということだ。週に一度のセッションでは患者は情緒的に揺さぶられたまま残りの6日間を過ごすことになる。「抱えは乏しく、患者は剥き出しのはく奪にさらされている可能性がある」(p.67). 治療者としてはこの問題を扱うことが先決であり、それを扱わないことは分離のトラウマを治療者自らが否認していることにある。つまり転移解釈をしているどころではないというわけだ。その意味で「平行移動仮説」は棄却される。

 藤山氏の論文を読むと結局は週一回の治療はできれば避けるべきだと主張しているようである。それは経験を積んだ精神分析家がより注意深く扱うことによってはじめて外傷的とならずに治療的となりうる、と言っているように思える。そして彼の論文は週一回の独自性や存在意義については結局触れることなく終わっている。