成田先生に関する執筆は一応終わっているのだが、色々な連想がいまだに湧いてくる。結局成田の「正直さ」「白状する」の背後にあるのは、人間はみな同じであるというサリバン流の理解ではないかと考えるようになった。例の「心の井戸」論とも結びつく。下に降りていくと「寂しさ」という点で苦悩を患者と共通するという考え方だ。人と人との理解の背後にあるのは、この同型性 isomorphism の感覚ではないか。動物だって同種の間ではお互いに捕食せずに群れる傾向にある。同様のDNAと本能の共有をしているという感覚が、他者とのつながりへの希求を生む。すると人がなかなかAIとの間に分かり合えたという感覚が成立しないとしたら、それはそれで無理のないことであろう。 しかし成田のこの患者との同型性の問題は博愛主義とはかけ離れたものである。それは自分を理解するということともつながっている。自分という生き物を理解するためには、自分一人ではできない。同型の他者が必要となるわけだ。他者の中に自分を見出し、自分の中に他者を見出すという現象。その意味で他者は自分の心を映す鏡というところがあるわけだ。人は通常、他人は自分とは異なるという前提を持つ。他者とはその視線で自分を突き刺す存在として立ち現れるからだ。その他者は異様で不気味であり、いつ自分に襲いかかってくるかもわからない。増してやその他者が自分のことなど分かってくれないと思うのが自然ではないか。その意味で他者は最初は常に向こう側(「他極」)に存在する。ところが有難いことに乳幼児は「自極」由来の他者を味方につけている。それは最初は自分とつながっていて、徐々に「自分ではない自分」としての他者の様相を呈するようになった他者、すなわち母親である。母親のことをわかると感じられるのは、最初は自分と別れていなかったからだ。だから自分が痛いと思う時、母親はそれを自動的に察知することを前提としていた。このように「自極由来の他者」をプロトタイプとして持つことで、人はようやく正真正銘の他者をも扱うことができるのであろう。もちろんこういう時はその人は程よい母子関係を持てたことが前提となっている。かつては甘え、自分と一心同体のように思えていた人との体験が、正真正銘の他者もひょっとしたら自分と同じかもしれないという発想を抱かせるのであろう。 ところが不幸にしてその様な体験が持てないと、他者は何をしてくるか分からない不気味な存在であり、その他者が仕掛けてくることはみな自分を害することのように感じられる。もちろん生存のためにはこの「人を見たら泥棒と思え」というこの感覚こそがわが身を救ってくれるわけであるが、その場合他者は決して一緒に安らぎを体験できる人にはうつらない。 さて治療関係においては患者は不思議な体験をする。目の前の治療者は自分の味方であるという前提がある。それは当然ながら自分を救ってくれるであろうし、そのためにお金を払って通ってくるのである。しかしその治療者は自分の話を深堀りし、値踏みし、時には馬鹿にし、軽蔑するかもしれない存在でもある。見方の振りをして、実は御金を巻き上げるだけのペテン師かも知れないのだ。そのような治療者を前にして自分の苦悩を語っても、決して親身になって聞いてくれない可能性がある。どうやってそんな治療者を信頼することなどできるだろうか? さて患者の話を聞いている治療者の側はそれを逆の側から考えている。自分は治療代を頂いて患者の話を聞く。しかしその自分に何が出来るのだろうか? 患者は苦しみを話す。しかしそれは治療者自身の苦しみではない。それをわかろうとして傾聴するが、決してその苦しみを同じレベルで感じ取ることは出来ない。そしてそこに最大のジレンマが存在する。治療ってなんだろうか?自分はそのような力や権利をそもそも持っているのだろうか? ここで本文にも引用した成田の言葉を示す。
「治療的野心とは、より根本的に、完全に、徹底的に直したいという治療者の欲である。その背後には、患者の心を切り刻みたいというサディスティックな欲求が時にひそんでいる。こういう治療者の欲が深すぎると、患者の負う傷が深くなる。少なくとも患者の従来の殻や枠が壊されて生身が露呈してしまう。こういう事態を引き起こした治療者は罪の意識を感じるであろう。精神を治療しようなどそもそも罪深いことである。」(p.71) (成田(2012)精神療法の深さー成田善弘セレクション 金剛出版 p.65₋79)
つまり成田が言っているのは、この精神療法にひそむ根源的なジレンマについて語っているのだ。そしてそれに対する唯一の扱い方は、それが否認している一つの事実、すなわち治療者もまた人間であり、その意味では患者と何も変わらない、という事実なのであろう。