2025年1月10日金曜日

「週1回 分析的サイコセラピー」書評 8

  次に高野晶氏の論考であるが、彼女が長年週一回精神療法について論じていることはよく知られる。それは彼女が精神分析協会の中で、そして彼女のスタンスが、より常識的であることは、たとえば第12章「医療における週一回スピリットと技法」などを読むと明らかだ。「常識的」というのはいい意味で、私も週1回の議論をするのなら、彼女と同じような結論に至ると思うからだ。つまり週1でも精神分析的にやれること、ただしより慎重に、ということだ。この論調はある意味では「身の程を知った」態度といえる。これもひどい言い方であるが、要するに「週1回」がそれなりに生きていくためには、精神分析の大御所から目を付けられないように、「あくまでも『転移分析』『ヒアアンドナウ』などには気を付けますよ、転移はなかなか起きにくいし、難しいヒアアンドナウよりはゼアアンドゼン、いわゆる転移外解釈を専ら行いますよ、それも慎重に。」(p187あたりの記載を私なりに言い換えている)という姿勢だ。これらを読んでいると私自身のスタンスが大体浮かんでくる。週4,5を体験した私として言えることは、「やはり週1でも十分な分析的な出会いの機会が提供されているが、週4,5ではそれがより増すであろうということ。しかし週1でもその機会は訪れるであろうこと」となろうか。  私の方針は、週1には週4以上とは違う独自路線を歩むべきだという考えとも違う。両方とも質的に同じことが起きるが(その意味で高野氏のいうように両者は「近似的」であろうが)、出会いは起きるときにはどちらでも起きる、ということだ。岡田氏の砂金の例を少しもじって、化石の例にしよう。化石を掘るために、採掘場に週4回通うのと週1回ではだいぶ違うだろう。しかしそれでも掘り当てる可能性はあるし、週一度にはそれなりの熱意がある。週4回には実はマンネリ要素があると言えるのだ。週一度だと思うから気合を入れて掘る、ということだってあるのではないか。ただそれ以下の頻度だと表面を掘っておしまい、次回来た時はまた表面にたまったほこりを払って、ということが起きるだろう。フロイトがいみじくも例えた「月曜のかさぶた」である。  その他「無意識の思考をたどること」(第14章 鈴木智美論文)なども私は親近感を感じた。つまり週4でも週1でも無意識に焦点付けるのは変わらないという主張。ただし週1回はより慎重に、という警句も見られる。ここら辺は週1しか事実上扱えない多くの療法家にとっての本音に近いのではないだろうか。ということで1200字の書評を書くための準備がかなり整ってきたが、あと1,2編読んでおきたい論文がある。