第5章 持って生まれた身体と自分そのものである身体
私が特に難解さを感じずに読めた章である。しかしそれは内容に同意したかという事とは別である。記述されたCさんの体験は痛々しく、男性の身体を持って生まれた人がSRS(性適合手術)(の失敗?)を通して感じる苦悩を実に見事に物語っている。私はこの章で改めて、患者の問題が養育関係に帰せられるというレマの理解に違和感を持った。Cさんが男性の身体を持った存在として自分を生んだ親に向ける憎しみをどうとらえるべきであろうか。親からのミラーリングの失敗により「自分の身体は間違っている」という体験を得た場合、「それが処理されないままとどまり、それゆえ身体の中で具体化される」としたら全く救い道がないのであろうか。
本章ではGIDを持たない治療者がいかに患者にとって理想化と羨望の対象になりえるのかについても考えさせられた。しかしそれにしても思うのである。SRSが存在する世の中に生きていることは、GIDの人にとって幸せなことなのか。それを願望として持つことを放棄するという方向性の治療は存在しないのだろうか。
第6章 トラウマと身体
とても読むのがしんどい章。映画のプロットを追うのが必至。でも「象徴等価」の概念はとても大切だと感じた。
第7章 分析家の身体
患者はしばしば分析家の身体に非常に強い関心を払う。その少しの変化が患者に大きな影響をもたらすとしたら、それは分析家を大きく拘束することにもなるだろう。恐らくそこで重要なのは、見かけは変わっても何時もの治療者であるという観念を患者が持つのとであろう。そしてそこで大事なのは、要するに患者が治療者を「象徴化」することだというのだ。猫はどんなに色や大きさが変わっても猫であるように、どんな服装をまとった治療者も同じ治療者である。そのために必要なのは、患者が、対象が同じでかつ異なるという矛盾に耐えることが出来るようになることであるという。愛着期に、愛着対象が同じで違うということは、いわゆるPEM(予測誤差最小化)の能力を高めることにつながる。逆に言えば、愛着がうまくいかないということはこのPEMが育たず、対象が一回ごとに新奇な対象として見える事であろう。すると会うたびにボトムアップからの情報収集を行うしかない。そうではなく、治療者がいかなる服装や装いで現れても、同じ対象だとみなすことが出来ること。それは最初の愛着対象との間で成立した対象恒常性に関わってくるのである。これがにが手なのがASDであり、それは生得的なものか、そしてそれは左脳の邪魔が入るのかのどちらかによるのだろう。(ちなみに「折れ線型」のASDにはやはり左脳の発達が関与しているのであろう。それによりボトムアップの力が右脳機能に擾乱を引き起こしているのではないか。情報収集は右脳による(同一性に基づく)トップダウンと左脳による(差異に基づく)ボトムアップの共同作業なのかもしれない。
第8章 ラプンツェル再考 (グリム童話。呪われて生まれた少女が魔女に幽閉され、21メートルの髪をはしご代わりに使われていたというお話。)
この章にも難渋した。ただしこの機会にいろいろ髪について考えた。確かに「髪はもっとも露出している身体的境界である。このことはほとんどの時間衣服でおおわれているほかの身体部位よりも、情緒的意味がもっと大きく、他者による攻撃に最も晒されやすい部位であると感じられるのであろう。」その通りだ。私たちは体の他の部位と同じように髪を隠そうとしない。むしろ髪が身体を隠そうとしてくれる。米津玄師のように、目を他者の視線から隠すように髪を伸ばすという事が起きうる。それゆえに、男性にとっては髪を失うことはある種無防備な肌(特に頭皮)をさらすことになり、脆弱性や羞恥の念を引き起こす。このように男性の立場としては髪について言いたいことは山ほどあるが、レマの関心はあまりそこにはない。ただしレマの提言(207)「患者が持つ自身の髪との関係や、分析関係において髪が使われる様が、対象から分離することに関しての最想起の葛藤や欠損に接近するための役に立つ入り口を提供できると提言している」という視点は今ひとつピンとこない。私としては髪の自己愛的な意味、つまり自分を装い、プライドや権威を表す最上の手段としての考察をしてもらえればもう少し興味を持てたかもしれないと思う。
第9章 カウチから離れて
この章は分析家のトイレを使用することの心理的な意味について論じられている。トイレを備えたオフィスを構える臨床家にとっては、かなり深刻な問題である。この問題に関するレマの論述もかなり分析的であり、例えばセッションが終わった後患者がトイレを使ったことについて、「そこを怪我したままにする意味を患者に話し始めるのはもっと難しい」(222)という。しかし私としてはむしろ、治療者の自己開示の意味を考えてしまう。治療者がそこを使い、そこをどのように清潔に管理するかは、実は治療者の見えない部分をさらすことになる。そしてそれはホスピタリティの意味も持つ。トイレを使ったことに触れないというのも一つのやさしさではないかとさえ思うのだ。もちろんその分析的な意味や、それに含まれる様々な空想は計り知れないのは確かだ。