2020年3月7日土曜日

揺らぎ 推敲 8


「歴史はべき乗側で動く」

このべき乗則を本格的に理解するために恰好の本がある。「歴史は『べき乗則』でうごく」というのがあるが、英語の現代は “Ubiquitous” (遍在)である。つまりどこにも見られるというわけだ。自然のどこにもかしこにも見える冪法則。世界に偏在していて、それがようやくここ数十年で理解されるようになって来たのは不思議なことだ。
ではもう少し自然界を大きくとらえて、例えば宇宙の天体を考えよう。この天体の大きさにももちろん冪乗則が成り立つ。それを示してみよう。
ここであなたに特別な能力が備わる。ある研究室であなたはこの全宇宙に存在するあらゆる天体を一列に並べて1,2,3・・・と番号を振ってみる。その平均値を取ろうというわけだ。その研究所の広さは無限で、どのようなサイズの天体も持ち込むことが出来る。あなたも永遠の生命を与えられているとしよう。あなたは番号順に順番に一つ一つ登場してもらう。そしてノートに大きさの記録をつけていく。それは手間も時間もかかるだろう。でもあなたには無限の時間が与えられているのだ。
あなたは最初は1番の天体が来る前に、いったいどのような計測装置が必要かわからなかったが、登場する天体がみな余りに小さく、目に見えないくらいなので、主として顕微鏡が必要になることがわかるだろう。なにしろ「天体」の大多数は、目に見えないほどの宇宙のちりだ。そして気が付くだろう。そう、一番小さいレベルの天体は、いわゆる「宇宙塵」と呼ばれるものであり、その大きさは、0.01マイクロメートルから10マイクロメートル程度であることを。そして土星のリングなどに含まれる塵などが数としては圧倒的に多く、それらの行列が延々と続くことになる。仕事の合間にあなたはグラフをつけることを思いつく。横軸に天体の番号、縦軸にその大きさ。するとそれはジグザグを、あるいは揺らぎを記録するはずだ。何の変哲もない揺らぎ。塵の大きさによって上下はするが、特に特徴もない揺らぎが記録されていくだろう。フーン、天体の大きさと言っても、こんなものか、とあなたは楽観視するようになる。計測する機器はいつもの顕微鏡で済む。そのうち目に見える長さの天体を計測する定規類なども使われずにほこりをかぶってしまった。
ところが単調な計測の仕事を延々と続けていると、時々ちょっと大き目の、ひょっとしたら肉眼でもはっきり見えるような砂粒大の「天体」も登場するだろう。たまにはこんな大きさのものが来るのだ、でも大したことがない、とあなたは高を括る。そう、数か月に一度くらいだ。その間は延々と、顕微鏡でしか見えないような塵との格闘である。
そしてさらに延々と仕事を続けていくと、それはものすごくまれに、おそらく数百年に一度の頻度で、米粒大の天体が現れて、あなたをびっくりさせる。顕微鏡に乗せなくても、定規ではかれる大きさだ。

2020年3月6日金曜日

揺らぎ 推敲 7


これまで主として物質に見られる揺らぎについて述べてきたが、揺らぎの問題は結局はランダム性や予測不可能性に通じているということをお伝えできたのではないか? そう、世界が揺らぎで構成されるということは、世界での出来事は、そして人の心は基本的にはランダムウォークであることを意味するのである。
ランダム性とは出来事に規則がなく、将来を予想できないという事である。このことに人類は薄々と気がついてはいたらしいが、最近になり、ようやくそれが明らかになりつつあるというわけだ。そしてそれ以前は、人類はみなことごとく運命論者であったと言えるだろう。「未来は決まっている。ただ人間はそれを知らないだけで、全知全能の神ならそれを知っている」と考えたわけだ。そして精神の高みに至った人のみがその未来を予言する力を得るとも考えられていた。あるいは科学の発展によりそれをより正確に予想できると考えた人もいただろう。
しかしその科学がある程度進んだ段階で、私たちは世界が不確定性に支配されていることを知るに至った。あらゆる出来事の根底にランダム性があり、未来は原理的に予想不可能なのである。たとえば半年後の今日、空が曇っているか快晴かは全くといっていいほど予測が付かない。チンチロリン(どんぶりとサイコロを用いた一種の賭けごと)で小銭を儲けようとしても、一回振るごとに次はサイコロのどの目が出るかはわからない。あるいは今日の夕方東京発650分の新大阪行きの新幹線が、途中で事故もなく目的地に定刻に着けるかは、実際に乗車してみないとわからない。
ただしそのような不確定の世界に生きている私たちは、先のことが見えないのは不安で仕方がない。そこで何らかの規則を持ち込んで、なるべく生活しやすく、混乱が起きないよう工夫をする。会議は定刻に始まり、仕事はほぼ定刻に終わる。バスはほぼ定刻にバス停にやって来る。
およそこの世に起きることは、かなり規則正しく、その予想が確実にあたる事柄から、全く予測が出来ないことまでのスペクトルを形成している。100%確かなことは、人はいずれは死ぬことであろう。99.9999999999999999999999999…… %確かなことは、明日陽が東から出て西に沈むこととなどが例として挙げられるかもしれない。それより確実さの度合いが下がるものとしては、一分以内にこの場所で震度7クラスの大地震が起きない確率や、自分が一分以内に心臓発作で死んでしまうことがない確率などだろうか。これは99.9999%というところだろうか。反対側のスペクトルには、サイコロを振った時に出る目が偶数である確率、25時間後のある銘柄の株価の上昇する確率、次の一分以内に起きる震度1の地震の回数などが相当するかもしれない。そして私たちが日常生活で非常に多く体験している事柄は、「おそらく~となる」という類のものであり、この両極の間をびっしり埋めているのだ。

2020年3月5日木曜日

揺らぎ 推敲 6


生物の揺らぎ対無生物の揺らぎ

ところでここまでランダム性の話を読んで読者の皆さんは疑問を持たないだろうか? それは生命体の揺らぎと無生物の揺らぎとはどこか違うのではないか、ということである。たとえば大地は揺らいでいる。アインシュタインが揺らぎを見出したブラウン運動では、水の分子のそれであった。しかしこれらは無生物である。他方生命体が自分から揺らいでいるという場合もある。たとえば一分間の心臓の脈拍の数は揺らいでいるし心だって揺らいでいる。両者は関係あるのだろうか? 
これは極めて深遠な問題であり、その問いに対する答えは容易ではない。それは本書が追い求めるひとつのテーマでもあるが、とりあえず揺らぎにはこの二種類があることだけはここで確認しておく。ここで生命体の揺らぎの性質を考える上で私が挙げたいのは心臓の脈拍数の問題だ。すでに述べたことだが、拍動はいろいろな影響を受けて揺らいでいる。早くなったり、遅くなったりを繰り返しているのだ。これは心拍数を長時間にわたって測定するような機器の発達に伴って明らかになってきたことだという。ところが興味深いことに、心不全の状態をきたすと、逆にこの心臓の拍動が揺らぎを失い、かなり規則的になってしまうという。つまり正確な時計のような脈の打ち方になるほど、その心臓は病的である可能性があるのだ。これまで揺らぎとはゴミのようなもの、いらないものとして扱われてきたという話を前章でしたが、まさにそれとは逆の話、つまり揺らぎとはゴミではなく、お宝だったという事情がここにも表れるのだ。
(参照記事:日本心臓財団のhpに「耳寄りな心臓の話」(66話)『揺らぎなき末期の心臓』(川田志明(慶應義塾大学名誉教授、山中湖クリニック理事長)
さてここで振り返って、生命体の揺らぎ、無生物の揺らぎというテーマを考えたい。心拍数に見られる揺らぎはある種の必然性を伴ったものということが出来るだろう。つまり目的を持った揺らぎ、ということが出来る。ただし、ではどこかに誰かの意図が働いてそうなっているのかといえば、そうではない。むしろ様々なシステム(おそらくそれら自身も揺らいでいる)が機能した結果として導かれる揺らぎというべきだろうか。ここでのシステムといえば、人体の場合には自律神経のシステム、心臓という臓器のシステム、血圧を維持する血管系システムなどである。それぞれが自然な形で揺らぐことで心拍数が揺らぐ。逆にこれらの間のつながりが途切れると、脈拍は揺らぎを失ってしまうのだ。
このことを考える上で、風に揺らぐ旗を想像していただきたい。一日のうちには風が強い時も弱い時もある。普通の旗ならその風の向きや強さに応じた揺らぎを見せるだろう。それは風という外的な力に対してそれを受け流す余裕をそれだけ持っていることを示す。あるいは人の表情筋の動きはどうだろう? 私たちは日常生活で感じるいろいろなものに応じて表情を変えるし、あまり極端な振れ幅でなければ、その揺らぎの大きさはむしろ健康度を表すだろう。鬱病だったりパーキンソン病だったりしたら、ほとんど表情は揺らがないはずだからだ。
その意味で生命体における揺らぎは、むしろその健全さの指標とも言えるだろう。脈拍数の場合も、それは自律神経系の影響でそよいでいるのだ。つまり脈拍は常に一定のリズムで正確に打つことが最初から意図されていないのだ。むしろ旗が風を受けて揺れるように体で起きていることを反映している。という事は揺らぎは、ただ意味もなく揺らいでいるのではなく、実はその環境で生じているさまざまな影響を敏感に受け、その影響を受けつつその動きを緩和しているのではないか。旗が大きく揺れることで風の勢いを消すように。
つまりここで発想の転換が必要なのだ。揺らぎは他の揺らぎの結果として生じ、しかもほかの揺らぎに影響を与えているという複雑な相互関係が成り立っているらしい。
このように考えると無生物の揺らぎも生命体の揺らぎも本質的な違いはないのではないかということになる。生命体の場合は意図を持った揺らぎ、という考え方があまり成り立たなくなるからだ。結局はたくさんのシステムの内部で起きている揺らぎを反映しているという点では、心拍数も旗の揺らぎも変わりないのである。

2020年3月4日水曜日

揺らぎ 推敲 5


例えばこんなことを考えていただきたい。タンパク質が体内の細胞内で合成される。一つのたんぱく質の分子は幾つかアミノ酸の結合により出来る。細胞の中のリボソームという器官で、一つ一つアミノ酸がつながっていくわけだ。そのプロセスは途方もなく複雑だが、しばしば出てくる表現として、○○の部位に××が結合する、という言い方だ。たとえば次のような解説(生物学入門 石川、大森、島田編 東京化学同人 第9章より)。
DNA から mRNA への転写は、酵素である RNA ポリメラーゼによって触媒される。RNA ポリメラーゼは、DNA の二重ラセンをほどきながら、二本鎖のうち鋳型となる鎖の塩基の 配列を読んで、これと相補的な塩基をもったヌクレオチドを次々と呼び込んで結合をつくっていく。」(傍線は岡野)などのように。
しかし「相補的な塩基をもったヌクレオチドを次々と呼び込んで結合をつくっていく」とサラッと書いてあるが、いったいどのようにしてそのようなことが起きるのか。一定の塩基配列の周りにウヨウヨしているのは、途轍もない数と種類の分子である。もちろんヌクレオチドの分子だけではないだろう。つまりその「一定の塩基配列」に対しては、途方もない数の分子が揺らぎながらついて離れ、ついては離れを繰り返している。たいていは両者がうまくはまり合わないから、それらの分子は離れていく。そしてたまたまうまい具合にはまったヌクレオチドがそこに収まるというわけだ。そこでは形状がすべてだ。一般に分子は水中では独特の三次元構造をし、ちょうど鍵穴にハマる鍵のようにして、お目当ての分子と結合するのだ。繰り返すが、ある塩基配列の裏返しになっている塩基が、最初からそこを狙ってやってくるわけでは決してない。すべては偶然の産物だ。ヌクレオチド同士が揺らぎながら途方もない頻度でお見合いを繰り返し、その中からぴったり合ったもの同士が結ばれていく。タンパク合成はこうして水の中での数多くの分子の揺らぎを前提にしないと少しもことは進んでいかない。
もちろん話はタンパク合成だけに限ることではないことは確かである。薬の例でもいい。私たちが春先になり、花粉症に苦しんで抗ヒスタミン剤を服用するとする。ヒスタミンとは抗原抗体反応が起きたときに体の中で分泌される物質で、毛細血管を膨張させるため痒さの原因となる。それを防ぐための抗ヒスタミン物質の分子は、体中をめぐり、ヒスタミン受容体に付着してヒスタミンの作用を抑える。しかしいったいどうやって抗ヒスタミン剤の分子がヒスタミン受容体を探して付着出来るのだろうか。血中に流れる抗ヒスタミン剤の分子はきわめて希釈されているだろうし、身体を構成する細胞の表面に広がる受容体の数はその種類も数も天文学的であろう。そして抗ヒスタミン剤の分子は、どこにヒスタミンの受容体があるかなど知る由もない。ただあてずっぽうに、みずからの振動の力によって数多くの受容体と接していく。そして受容体の方も血中を流れる無数の物質の分子とついては離れ、を途方もなく繰り返し、ようやくお目当ての抗ヒスタミン剤と出会う。それぞれのリセプターがお目当ての分子に巡り合うチャンスはおそらく天文学的に小さいであろう。しかし分子の振動によりリセプターに訪れる分子の数もおそらく天文学的であり、だからこそ分子とリセプターが出会う可能性も高まる。(ここを書いていて私が門外漢であるために、その想像が正確ではないかもしれない。たとえば抗ヒスタミン剤は、ヒスタミンの受容体に優先的に引き寄せられるような仕組みがどこかに存在するのかもしれない。しかしそんなことはおそらく起きないであろうからこの想像のままにしておく。)

2020年3月3日火曜日

ポリヴェーガル 推敲の推敲 2


 ポリヴェーガル理論とトラウマ 
 Porges の唱えたポリヴェーガル理論は、自律神経系の詳細な生理学的研究に基礎を置く極めて包括的な議論である。自律神経は全身に分布し、血管、汗腺、唾液腺、内臓器、一部の感覚器官を支配するとともにしている。自律神経系は交感神経系と副交感(迷走)神経系からなるが、通常は両者の間で微妙なバランスが保たれており、それを意図的にコントロールすることは出来ない。そしてストレスやトラウマなどでこのバランスが崩れた際に、様々な身体症状が表れるのである。その意味で自律神経に関する議論はその全体がトラウマ理論としてとらえることも出来よう。それは生命体が危機的な状況に遭遇した時の生体の反応を生物学的なレベルで記述説明するための有効な手段である。

 Porges の説を概観するならば、系統発達学によれば、神経制御のシステムは三つのステージを経ている。第一段階は無髄神経系による内臓迷走神経で、これは消化や排泄を司るとともに、危機が迫れば体の機能をシャットダウンしてしまうという役割を担う。これが背側迷走神経(dorsal vagal comlex,DVC)の機能である。そして第二の段階はいわゆる闘争・逃避反応に深くかかわる交感神経系である。

Porges の理論の独創性は、哺乳類で発達を遂げた第三の段階の有髄迷走神経である腹側迷走神経(ventral vagal comlex,VVC)についての記述にある。VVCは環境との関係を保ったり絶ったりする際に心臓の拍出量を迅速に統御するだけでなく、顔面の表情や発話による社会的なかかわりを司る頭蓋神経と深く結びついている。私たちは通常の生活の中では、概ね平静にふるまうことが出来るが、それはストレスが許容範囲内に収まっているからだ。そしてその際はVVCを介して心を落ち着かせ和ませてくれる他者の存在などにより呼吸や心拍数が静まり、心が安定する。ところがそれ以上の刺激になると、上述の交感神経系を媒介とする闘争-逃避 fight-flight やDVCによる凍りつき freezing などが生じるのである。このようにPorgesの論じたVVCは、私たちがトラウマに対する反応を回避す際にも自律神経系が重要な働きを行っているという点を示したのである。

腹側迷走神経系が「発見」された経緯

これほど重要な役割を果たすVVCがなぜ Porges の発見を待たなくてはならなかったのかについて疑問を持つ方も多いであろう。本来精神生理学者であったPorges は、早くから彼の言う「迷走神経パラドックス」、すなわち迷走神経の心臓に与える影響が、一方では呼吸性不整脈というそれ自身は生理的で健全な影響を、他方では危険な徐脈をもたらすという二つの矛盾した側面を持っていることに関心を持っていたという。そして迷走神経の心臓への影響への研究が進む中で、彼はは爬虫類に支配的な迷走神経背側運動核に発する植物的な迷走神経と、哺乳類に支配的な疑核に発する機敏な迷走神経(すなわちVVC)とに仕分けすることを提案し、それがその後のポリヴェーガル理論へと結びつく研究となった(津田、P56) 。Porges はVVCを鰓弓由来の神経発達のプロセスから掘り起こし、それが頭蓋神経の三叉神経、舌咽神経、顔面神経、迷走神経、副神経の起始核とも深く連携することを指摘した。そしてそれが横隔膜上の器官、咽頭、喉頭、食道、心臓、顔面などを支配し、これらはいずれも情動の表現に置いて極めて重要となる点を指摘したのである。このVVCはいわば高覚醒状態をつかさどる交感神経系と、低覚醒状態に関与した背側迷走神経の間に存在し、両者の間のバランスを取っている存在としての意味を持つが、その意義をいち早く見出して臨床に応用を試みたのは、トラウマ関係者であるPeter Lavine のソマティックエクスペリエンシング、バンデアコーク Pat Ogden らであったといわれる。これらの人々の理論と合流することで Porges の理論は大きな発展を遂げたのである。

津田真人 (2019)ポリヴェーガル理論を読む からだ・こころ・社会 星和書店

情動とポリヴェーガル理論
  ところでポリヴェーガル理論は、感情についてどのような知見を与えてくれるのだろうか? そのヒントとなるのが、Porges のニューロセプション neuroception という概念である。知覚 perception が意識に登るのに対して、ニューロセプションは意識下のレベルで感知されるリスク評価を伝えるものであり、身に危険が迫った場合に思考を経ずに逃避(ないし闘争)行動のスイッチを押すという役割を果たす。これは感情を含んだ広義の体感としてもとらえることが出来、Damasio のソマティック・マーカーに相当する概念ともいえる。そしてそのトリガーとなるものの一部は、目の前の相手のVVCを介した声の調子、表情、眼差しなどである。このように Porges にとっては自律神経系の働きと感情との関りは明白である(p.72)。
  このような Porges の理論からは、感情と自律神経との関係は明白であるといえる。人間の感情が声のトーンや顔面の表情によって表現され、また胃の痛みや吐き気などの内臓感覚と深く関与することを考えれば、それらを統括するVCCの関与は明らかであるとも言える。VCCは発達早期の母子関係を通して母親のそれの活動との交流を通じてはぐくまれ、発語、表情などに関与する。その中で感情体験は身体感覚や内受容感覚も複雑に絡み合って発達し、その個の自然界における生存にとって重要な意味を持つのである。
このように感情と自律神経との関係は自明であるにもかかわらず、従来はほとんど顧みられなかったとされる。その例外はW. Canonであったが、彼は主として交感神経と情動の関与に着目したのみであった。

2020年3月2日月曜日

ポリヴェーガル、推敲の推敲 1

何度書いてもどうもまとまらない。

トラウマ ― ポリヴェーガル理論と感情

本稿では「トラウマ ― ポリヴェーガル理論と感情」というテーマについて論じる。

最近のトラウマに関連する欧米の書籍で、「ボリヴェーガル理論 Polyvagal theory」に言及しないものを見ないことはあまりない。それほどにこの理論は、トラウマ関連のみならず、解離関連、愛着関連など、様々な分野に関わり、また強い影響を及ぼしているという印象を受ける。スティーブン・ポージスStephen Porges という米国の生理学者が1990年代から提唱しているこの理論は一体どのようなものであり、どのようにトラウマや感情の問題に関連しているのであろうか。それを論じることは簡単ではないが、輪郭だけでも示すことで、この理論が私たちに感情についての新たな見地を提供してくれる可能性を示すことが出来るのではないかと考える。

P
orges, S.W. (2003). The Polyvagal Theory: phylogenetic contributions to social behavior. Physiology and Behavior, 79, 503-513.
Porges, S.W. (2007). The Polyvagal Perspective. Biological Psychology, 74, 116-143.
Porges, Stephen W. (2011). The polyvagal theory Neurophysiological foundations of emotions, attachment, communication, and self-regulation (1st ed.). New York: W. W. Norton.

Porges の業績は、従来は交感神経系と副交感神経(迷走神経)系のバランスによるホメオスタシスの維持という文脈で語られていた自律神経系に関して、そこに新たな「腹側迷走神経複合体」の概念の導入を行い、神経系の包括的かつ系統発生的な理解を推し進めたことにある。この腹側迷走神経複合体は自律神経系の中でこれまで認知されずにいたもう一つの自律神経系として彼が命名し、記述し、注意を喚起したものである。自律神経系でありながら、なぜこれを「社会神経系」と呼ぶかと言えば、他者との交流は身体感覚や感情と不可分と考えられるからだ。つまり自己と他者が互いの気持ちを汲み、癒しを与え合う際に重要な働きを行うのが、この腹側迷走神経というわけである。そしてこの腹側迷走神経複合体を、従来から知られている交感神経系や背側迷走神経系との複雑な関わり合いを含め包括的に論じるのが、このポリヴェーガル理論なのである。

このポリヴェーガル理論の解説に入る前に、近年の身体と感情についての一連の知見について概観しておく。

身体、感情、脳科学

  私たちの認知的な活動と感情、知覚及び身体感覚は、体験に際して分離しがたい形で関与している。臨床的な立場からは、一方ではうつ病などの感情障害が様々な身体症状を呈し、他方では認知的なアプローチがうつ症状や強迫症状に影響を及ぼすことが経験される。またストレスやトラウマが様々な身体症状を生むことも臨床例を通して体験している。いわゆる心身症や身体表現性障害は身体科によっても精神科によっても十分に対処しきれない多くの問題を私たちに問いかけ続けている。心身相関の詳細な機序は現代の医学においてもほとんど解明されていないといっても過言ではないであろう。

その中で近年、心身相関の問題に関して一つの仮説を提唱したのが、脳生理学者Antonio Damasioである。彼は私たち感情や身体感覚が、何らかの決断を行う際に選択対象の価値を示すマーカー(指標)として働くという説を提唱した。これが本特集でも取り上げられているソマティック・マーカー仮説である。そしてそれを生み出す脳生理学的な基盤として、Damasio は脳と身体感覚の ループ body loopを想定する。そこでは体験に際して知性と感情との相関の中で情報処理をおこなわれ、またそれが将来再び予測される際には「かのような」ループ("as if" loop)によるシミュレーションが行われるという。Damasioによればこのループは扁桃核、VMPFC腹内側前頭前野(以下vmPFC)、体性感覚野などと身体感覚を結ぶループであり、それらが注意とワーキングメモリの機能を担う背外側前頭前野を介して連合するとされる(図1)。

Damasioが特に注目したのは、前頭葉にダメージを受けた人がしばしば適切な決断を下す能力を失うという所見である。彼は前頭眼窩皮質のなかでも特にvmPFC が損なわれた際、知能テストには影響を及ぼさないものの、アイオワ・ギャンブリング課題等において決断を下す際に困難さが生じることを見出した。これは人間が判断を行う際に、それが一見認知的なものと見なされても、そこには感情や身体感覚に基づく「虫の知らせ」が大きく関与していることの傍証とされた。
 ちなみに最近の脳研究では、このボディループにおける島皮質が果たしているという報告もある(梅田, 2016))。梅田は「感情状態と身体状態の両方の課題で、共通して活動がみられる部位が島皮質であり、感情を体験するときは、身体状態も『込み』である」と述べる。
梅田聡 (2016) 常同を生みだす「脳・心・身体」のダイナミクス:脳画像研究と神経心理学研究からの統合的理解 高次脳機能研究 36 : 265-270.
 
トラウマ理論の貢献

トラウマやPTSDについての研究は、それがいかに愛着のプロセスに深く関連した生理学的(右脳的、Schore)な基盤を有するかについての知見を深めている。トラウマ体験は一種の身体的な嗜癖のような性質を有するが、これについてvan der Kolkは、バンジージャンプ、サワナ浴、マラソンなどで当初はむしろ不快な行為を継続することが快感につながるという研究(p32)を引用している。近年の解離に関する知見もまたトラウマと感情についての示唆を与える。解離においては特に背側迷走神経系が賦活され、いわゆるfreezingが生じ、感情や記憶はむしろ身体レベルで保存されることになる。以上のような事情について、van der Kolkは「身体がトラウマを記録する」といみじくも表現している。

van der Kolk, B. (2015) The Body Keeps the Score: Brain, Mind, and Body in the Healing of Trauma. Penguin Books. (柴田 裕之訳 身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法.紀伊国屋書店2016年)

2020年3月1日日曜日

揺らぎ 推敲 4


では株価は予想が出来ない、という根拠を示せば、それが揺らぎの性質を有するということの少なくとも傍証にはなるだろうが、株価が原則的には予想不可能であることは、簡単な思考実験から示すことができる。地面の揺らぎを考えるのと違い、ちなみに大この思考実験には人の意志が絡んでくる分、より頭に思い描きやすいかもしれない。
例えば複数人の投資家(A,B,C,D,E,F・・・・)がいるとしよう。彼らがある品物、たとえば風景画の取引をする。一種の競売のようなことを行われる場面を想像してほしい。ただしこの競売は架空のものであり、そこでの値段は上がることも下がることもあり、永遠に続くものと仮定しよう。あくまでも空想上のものだ。
最初はその絵画にはX万円という値段が付いている。さっそく投資家AさんがX+1万円で買う。するとBさんは「私はそれを+2万円で買う」と言い出す。Aさんは心の中で「しめた!」と思うかもしれない。ここですぐBさんに売れば1万円の利益が出る。でもここで簡単にこの絵画を売るのを躊躇するかもしれない。というのもCさんが「じゃ、私はそれをX3万円で買う」と言い出すかもしれないからだ。そうなるとそれを売ったBさんの方が2万円の儲けになる。Bさんが自分より儲けるのを、Aさんは指をくわえてみているわけには行かない。だからAさんはその絵を売らないで持っていることにする。
このように競売はまだ始まったばかりだが、そこにいる数人の投資家の頭はめまぐるしく動いている。上に書いたのはAさんの心の描写だけだが、彼らはそれぞれその絵の値段がどのように推移するかを一生懸命予想しようとするのだ。そしてCさんは実際には「この絵は素晴らしいから、きっとこのまま値段が上がっていくだろう」と予想したとする。Cさんは自分の第六感を信じることにする。そしてどうしてもその絵画を手に入れたいと思ったとしよう。そして「X4万円、いや+5万円!」と買い値を釣り上げていく。
この場合Cさんはある危険な賭けをしていることになる。たとえばCさんがX20万円で最終的に絵画を手に入れたと仮定する。このCさんにはどのような運命が待っているだろうか? 最悪の場合を考える。突然Cさん以外の投資家がそっぽを向いてしまうのだ。皆はこう言うかもしれない。「でもよく見たらこの絵、安っぽくないか? X万円でさえ高いくらいに思えてきたぞ。」「X10万円くらいが相場じゃないだろうか? X20万なんてやはりどう考えても高すぎるぞ。」こうしてCさんはだれも見向きもしないX20万円の絵画を抱えて途方に暮れるのだ。Cさんの「この絵は値上がりする」という予想自体はもし正しかったとしても、最初のX万円という値段が高すぎるのか、低すぎるのか、ということについてさえ、誰も正確な答えを知らないのである。