2020年3月2日月曜日

ポリヴェーガル、推敲の推敲 1

何度書いてもどうもまとまらない。

トラウマ ― ポリヴェーガル理論と感情

本稿では「トラウマ ― ポリヴェーガル理論と感情」というテーマについて論じる。

最近のトラウマに関連する欧米の書籍で、「ボリヴェーガル理論 Polyvagal theory」に言及しないものを見ないことはあまりない。それほどにこの理論は、トラウマ関連のみならず、解離関連、愛着関連など、様々な分野に関わり、また強い影響を及ぼしているという印象を受ける。スティーブン・ポージスStephen Porges という米国の生理学者が1990年代から提唱しているこの理論は一体どのようなものであり、どのようにトラウマや感情の問題に関連しているのであろうか。それを論じることは簡単ではないが、輪郭だけでも示すことで、この理論が私たちに感情についての新たな見地を提供してくれる可能性を示すことが出来るのではないかと考える。

P
orges, S.W. (2003). The Polyvagal Theory: phylogenetic contributions to social behavior. Physiology and Behavior, 79, 503-513.
Porges, S.W. (2007). The Polyvagal Perspective. Biological Psychology, 74, 116-143.
Porges, Stephen W. (2011). The polyvagal theory Neurophysiological foundations of emotions, attachment, communication, and self-regulation (1st ed.). New York: W. W. Norton.

Porges の業績は、従来は交感神経系と副交感神経(迷走神経)系のバランスによるホメオスタシスの維持という文脈で語られていた自律神経系に関して、そこに新たな「腹側迷走神経複合体」の概念の導入を行い、神経系の包括的かつ系統発生的な理解を推し進めたことにある。この腹側迷走神経複合体は自律神経系の中でこれまで認知されずにいたもう一つの自律神経系として彼が命名し、記述し、注意を喚起したものである。自律神経系でありながら、なぜこれを「社会神経系」と呼ぶかと言えば、他者との交流は身体感覚や感情と不可分と考えられるからだ。つまり自己と他者が互いの気持ちを汲み、癒しを与え合う際に重要な働きを行うのが、この腹側迷走神経というわけである。そしてこの腹側迷走神経複合体を、従来から知られている交感神経系や背側迷走神経系との複雑な関わり合いを含め包括的に論じるのが、このポリヴェーガル理論なのである。

このポリヴェーガル理論の解説に入る前に、近年の身体と感情についての一連の知見について概観しておく。

身体、感情、脳科学

  私たちの認知的な活動と感情、知覚及び身体感覚は、体験に際して分離しがたい形で関与している。臨床的な立場からは、一方ではうつ病などの感情障害が様々な身体症状を呈し、他方では認知的なアプローチがうつ症状や強迫症状に影響を及ぼすことが経験される。またストレスやトラウマが様々な身体症状を生むことも臨床例を通して体験している。いわゆる心身症や身体表現性障害は身体科によっても精神科によっても十分に対処しきれない多くの問題を私たちに問いかけ続けている。心身相関の詳細な機序は現代の医学においてもほとんど解明されていないといっても過言ではないであろう。

その中で近年、心身相関の問題に関して一つの仮説を提唱したのが、脳生理学者Antonio Damasioである。彼は私たち感情や身体感覚が、何らかの決断を行う際に選択対象の価値を示すマーカー(指標)として働くという説を提唱した。これが本特集でも取り上げられているソマティック・マーカー仮説である。そしてそれを生み出す脳生理学的な基盤として、Damasio は脳と身体感覚の ループ body loopを想定する。そこでは体験に際して知性と感情との相関の中で情報処理をおこなわれ、またそれが将来再び予測される際には「かのような」ループ("as if" loop)によるシミュレーションが行われるという。Damasioによればこのループは扁桃核、VMPFC腹内側前頭前野(以下vmPFC)、体性感覚野などと身体感覚を結ぶループであり、それらが注意とワーキングメモリの機能を担う背外側前頭前野を介して連合するとされる(図1)。

Damasioが特に注目したのは、前頭葉にダメージを受けた人がしばしば適切な決断を下す能力を失うという所見である。彼は前頭眼窩皮質のなかでも特にvmPFC が損なわれた際、知能テストには影響を及ぼさないものの、アイオワ・ギャンブリング課題等において決断を下す際に困難さが生じることを見出した。これは人間が判断を行う際に、それが一見認知的なものと見なされても、そこには感情や身体感覚に基づく「虫の知らせ」が大きく関与していることの傍証とされた。
 ちなみに最近の脳研究では、このボディループにおける島皮質が果たしているという報告もある(梅田, 2016))。梅田は「感情状態と身体状態の両方の課題で、共通して活動がみられる部位が島皮質であり、感情を体験するときは、身体状態も『込み』である」と述べる。
梅田聡 (2016) 常同を生みだす「脳・心・身体」のダイナミクス:脳画像研究と神経心理学研究からの統合的理解 高次脳機能研究 36 : 265-270.
 
トラウマ理論の貢献

トラウマやPTSDについての研究は、それがいかに愛着のプロセスに深く関連した生理学的(右脳的、Schore)な基盤を有するかについての知見を深めている。トラウマ体験は一種の身体的な嗜癖のような性質を有するが、これについてvan der Kolkは、バンジージャンプ、サワナ浴、マラソンなどで当初はむしろ不快な行為を継続することが快感につながるという研究(p32)を引用している。近年の解離に関する知見もまたトラウマと感情についての示唆を与える。解離においては特に背側迷走神経系が賦活され、いわゆるfreezingが生じ、感情や記憶はむしろ身体レベルで保存されることになる。以上のような事情について、van der Kolkは「身体がトラウマを記録する」といみじくも表現している。

van der Kolk, B. (2015) The Body Keeps the Score: Brain, Mind, and Body in the Healing of Trauma. Penguin Books. (柴田 裕之訳 身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法.紀伊国屋書店2016年)