2020年3月5日木曜日

揺らぎ 推敲 6


生物の揺らぎ対無生物の揺らぎ

ところでここまでランダム性の話を読んで読者の皆さんは疑問を持たないだろうか? それは生命体の揺らぎと無生物の揺らぎとはどこか違うのではないか、ということである。たとえば大地は揺らいでいる。アインシュタインが揺らぎを見出したブラウン運動では、水の分子のそれであった。しかしこれらは無生物である。他方生命体が自分から揺らいでいるという場合もある。たとえば一分間の心臓の脈拍の数は揺らいでいるし心だって揺らいでいる。両者は関係あるのだろうか? 
これは極めて深遠な問題であり、その問いに対する答えは容易ではない。それは本書が追い求めるひとつのテーマでもあるが、とりあえず揺らぎにはこの二種類があることだけはここで確認しておく。ここで生命体の揺らぎの性質を考える上で私が挙げたいのは心臓の脈拍数の問題だ。すでに述べたことだが、拍動はいろいろな影響を受けて揺らいでいる。早くなったり、遅くなったりを繰り返しているのだ。これは心拍数を長時間にわたって測定するような機器の発達に伴って明らかになってきたことだという。ところが興味深いことに、心不全の状態をきたすと、逆にこの心臓の拍動が揺らぎを失い、かなり規則的になってしまうという。つまり正確な時計のような脈の打ち方になるほど、その心臓は病的である可能性があるのだ。これまで揺らぎとはゴミのようなもの、いらないものとして扱われてきたという話を前章でしたが、まさにそれとは逆の話、つまり揺らぎとはゴミではなく、お宝だったという事情がここにも表れるのだ。
(参照記事:日本心臓財団のhpに「耳寄りな心臓の話」(66話)『揺らぎなき末期の心臓』(川田志明(慶應義塾大学名誉教授、山中湖クリニック理事長)
さてここで振り返って、生命体の揺らぎ、無生物の揺らぎというテーマを考えたい。心拍数に見られる揺らぎはある種の必然性を伴ったものということが出来るだろう。つまり目的を持った揺らぎ、ということが出来る。ただし、ではどこかに誰かの意図が働いてそうなっているのかといえば、そうではない。むしろ様々なシステム(おそらくそれら自身も揺らいでいる)が機能した結果として導かれる揺らぎというべきだろうか。ここでのシステムといえば、人体の場合には自律神経のシステム、心臓という臓器のシステム、血圧を維持する血管系システムなどである。それぞれが自然な形で揺らぐことで心拍数が揺らぐ。逆にこれらの間のつながりが途切れると、脈拍は揺らぎを失ってしまうのだ。
このことを考える上で、風に揺らぐ旗を想像していただきたい。一日のうちには風が強い時も弱い時もある。普通の旗ならその風の向きや強さに応じた揺らぎを見せるだろう。それは風という外的な力に対してそれを受け流す余裕をそれだけ持っていることを示す。あるいは人の表情筋の動きはどうだろう? 私たちは日常生活で感じるいろいろなものに応じて表情を変えるし、あまり極端な振れ幅でなければ、その揺らぎの大きさはむしろ健康度を表すだろう。鬱病だったりパーキンソン病だったりしたら、ほとんど表情は揺らがないはずだからだ。
その意味で生命体における揺らぎは、むしろその健全さの指標とも言えるだろう。脈拍数の場合も、それは自律神経系の影響でそよいでいるのだ。つまり脈拍は常に一定のリズムで正確に打つことが最初から意図されていないのだ。むしろ旗が風を受けて揺れるように体で起きていることを反映している。という事は揺らぎは、ただ意味もなく揺らいでいるのではなく、実はその環境で生じているさまざまな影響を敏感に受け、その影響を受けつつその動きを緩和しているのではないか。旗が大きく揺れることで風の勢いを消すように。
つまりここで発想の転換が必要なのだ。揺らぎは他の揺らぎの結果として生じ、しかもほかの揺らぎに影響を与えているという複雑な相互関係が成り立っているらしい。
このように考えると無生物の揺らぎも生命体の揺らぎも本質的な違いはないのではないかということになる。生命体の場合は意図を持った揺らぎ、という考え方があまり成り立たなくなるからだ。結局はたくさんのシステムの内部で起きている揺らぎを反映しているという点では、心拍数も旗の揺らぎも変わりないのである。