2014年1月22日水曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(改訂)(4)

自己愛の風船は膨らみ続けるというテーマは、実は今日の「獲得されるパーソナリティ障害」というテーマにも繋がる。そのテーマに移行する前に、自己愛の風船の敏感さという点についてもう少し触れておきたい。これは自己愛と恥の関係性という今心理の世界でかなり話題になっているテーマでもある。
4.獲得される病理としての自己愛パーソナリティ障害
(ここの記述は、すでに書きためた素材をかなりの量持って来ることが出来る。)
まず最初に私が主張したいのは、自己愛パーソナリティ(以下NPD)は、パーソナリティ障害(以下PD)であってそうでない、というたぐいのものである。そもそもPDの中には小さい頃形成されて、一生続く、という法則に当てはまらないものが多いが、NPDも(一部を除いては)その例外が当てはまるようである。
 PDとはみなさんもよくご存知のとおり若い頃に形成されることになっている。ちょっと極端に言えば、「三つ子の魂」というわけだ。こんどのDSM-Vにも書いてある。「[PDにおける]これらの行動パターンは、典型的には思春期や成人期のはじめに見られ、時には子供の時期に見られる。」でも本当にそうなの? NPDの場合、人生の後に見られるんじゃないの、というのが、まあわかりやすく言えば私の主張なのである。 
そこでこの「パーソナリティイコール三つ子の魂」説について。私はこの考え方にちょっと疑問があるのだ。と言って全面的に反対ではない。
 4,5年前に中学時代の同窓会に出た。結構衝撃的な体験だ。出会った瞬間は、どこのオヤジやオバサンかと思う。どこかの老人クラブに連れて来られた感じ。しかし「何だ、田邉君か!ずいぶん変わったなあ!」などと一人ひとり確認していくうちに、タイムスリップでもしたかのように、昔のクラスメートになっていった。その時であった何人かの友人の立ち居振る舞いが、中学時代とほとんど変わっていないのに驚いた。もちろんすごく変わったと感じる連中もいた。しかし何人かについては、変わったのは体重や皺の数や髪の毛の量だけであり、あとは中学時代とそっくりそのままという印象があった。人柄ってもう中学時代にはかなり出来上がっている部分が大きいのだ、と考える理由である。この点に関してはDSM-Vに賛成だ。
 しかしそうでない場合も少なくない。大人になってすっかり化けてしまうということもある。よく後に政治家や芸能人になった人の母校を尋ねるという企画があるではないか。すると近所の年配の人々から「あの子が政治家になるんて、全然想像もつかなかった」などというリアクションに出会ったりする。そう、人は思春期以降大きく変貌を遂げてしまうことがあるのだ。
 もちろん話し方や仕草などについては思春期以降人はあまり変わらないのかもしれない。でも話のコンテンツや迫力が違ってくるのだ。例えば先ほど述べたクラス会で、中学時代には非常におとなしく、はにかみがちなある女性が大変貌を遂げていたのには驚いた。彼女は結婚して子供を持ち、ご主人との関係でいろいろ悩んでいた。そのうえ子どもの教育のことでもいろいろ考えるところが多かったらしく、自分の人生経験について話すときはとても饒舌で自信に満ち、その意味で別人に変貌していた。でも目線のやり方や優しい感じ、独特の気配りは中学時代と少しも変わらなかった。
 とにかく私はパーソナリティが三つ子の魂の延長だ、という考え方について疑問を唱えているわけである。パーソナリティについてもうひとつ驚くことがある。それは先輩か後輩かにより、あるいは年上か年下かにより、その人の印象は全く違ってしまうということだ。例えば上級生は普通は気安く下級生に接することが日本では少ない。中学に入った途端に、上級生が「さん」づけになって戸惑ったことを皆さんは覚えているかもしれない。学生時代を通して、そして仕事を持っても若手といわれた時代を通して、年上ないしは先輩は決して必要以上に打ち解けないのが日本人の傾向である。
 私はこれをアメリカでの体験との比較で言っている。アメリカでは英語が「究極のタメ語」であるために、年上、年下、ないし先輩、後輩ということで態度が変わるということが少なくとも日本社会ほどではない。一、二年先輩でもファーストネームで呼び合うのが普通なのだ。すると人柄というのは、後輩から見るとより「大人っぽく」見え、先輩からは「子供っぽく」映るということになる。
 例えば私の体験では、30歳代の精神科医は概して「幼く、未熟で、子供っぽい」という印象を持つが、医学部を卒業したての頃の30台の精神科医たちは、自分より10年程度のキャリアーを積んでいて、本当に大人に見え、かつ実際に怖かった。とても彼らが同じような人種とは思えないのである。私のこの印象は大げさかもしれないが、パーソナリティを他人に与える印象という視点から考えると、日本人は誰に接しているかによりその見え方を相当に変えているのだ。そしてそれを如実に表しているのが、そこで用いられる言葉遣いの違いなのである。
それとこの問題、自己愛パーソナリティについて論じる際にも出てくる。というのは自己愛パーソナリティは、誰に対しても出るのではなく、自分に対して後輩、年下に出るのが典型的だ。横暴で独善的な典型的な自己愛的係長は、部長の前では飼い犬のような振る舞いになる、というのが普通なのだ。
コワモテは基本的に照れ屋で恥ずかしがり屋である
私は年齢のせいもあり、あまり上に怖い人は少なくなってきている。つまり怖がられている人々が私と同年代になってきているので、彼らの素顔を知ることになるわけだ。これは面白い体験である。しかしそれ以外にも「怖い人って実は~なんだ」ということが職業柄見えてきて面白いと思っている。私の関心は一貫して恥の感情が人の振る舞いや感じ方にどのような影響を与えるかということであり、これは精神科医として仕事をしていて毎日確認していることだが、コワい人って、案外弱い、ということを痛感するようになった。
 だいたい男性は、年とともに怖い顔になっていく。それは皺が増し、顔の凸凹が増すからだ。大体人間の顔は、幼い頃、若い頃はつるンとしている。これじゃ迫力は出ない。(頬に刀傷などがあればそれでも違うだろうが。)そのうち陰影が増してくる。特に多少ブサイクだと、もっと怖くなる。そのうえ不愛想だと笑顔を作ることが少なく、ますます迫力が増してくる。これは宿命といってもいい。
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台を超えた男性は、だから仏頂面をしているとだいたい怖い存在に見られるのだ。そしてその男性が社会的な経験や地位を持つと、もっと怖くなってくる。年配の大学教授、政治家、上司がにこりともせずにいると、周囲はコワくて敬遠しがちになる。ところが当人は実ははにかみ屋だったりして、にっこり人に話しかけられないという事情があったりする。
自民党の○○代議士が奥さんに次のようなことを言われた、という記事をどこかで読んだ。「あなたは口下手で愛想がないから人から怖がられるのよ。もっと笑顔を見せなさい。」
多少私なりに脚色が加わっているだろうが、だいたいこんな内容だった。面白いのはコワい男性が実は人見知りだ、などの正体は、奥さんには完全にばれているということだ。そしてそれを言われた、実際に非常にコワモテの○○代議士が、何も言い返せないということだ。ということは実際人見知りだったり気弱だったりするということなのだろう。
実はこの事がもっとはっきりしているのが小沢一郎さんなのであろうが、彼のことはこれからたくさん書く予定である。
人見知り、とは対人緊張が強いということだが、この傾向はおそらく幼児期にはかなり決まっている。中には思春期を過ぎてから急速にその傾向が出る人もいるが、その傾向はその後は一生変わらない。その様な人は対人場面がぎこちなくて、出来るだけ一人でいたい。しかし自己主張をしたり、仕事で人と会ったりするときは別のスイッチが入るので結構出来たりする。人見知りの人は、特に取り立てて用事がなく、しかし日常で時々接するような「半見知り」の状態の人に、特にその傾向が現れやすい。仕事で、すなわち課題や目的がはっきりしている時は出来る会話が、課題のない対人状況ではぎこちなくなってしまう。
 それでも若い頃は、あるいは若手の時は先輩や年上や上司に対して愛想がないわけには行かず、結構無理して人に話しかける。気に行った女性には無理して声をかけることすらやってのける。ところがパートナーも決まり、仕事にも慣れて職場での地位も固まり、歳をとり、えらくなってコワい顔になると、目上の人が少なくなる分だけ「平気で恥ずかしがり」でいられるようになる。つまり人見知りが放置された状態になる。自分に「人に不愛想でいちゃだめだよ」と突っ込みを入れてくれる人は、カミさんか故郷の年老いた母親くらいしか居なくなる。(たまたま父親が存命でも、父親もまた不愛想だから、そのようなアドバイスはできない。)
 さてこの「強面イコール人見知り」説は、私の中では既に自己愛と恥の議論に入っているのである。強面人間がその面相を崩さないのは、周囲によってそれが許されるからだ。人に対して傲慢で横柄でいられるのである。これは自己愛、ないしは自己愛の病理、すなわちNPD(自己愛パーソナリティ障害)の状態である。ここで自己愛とNPDを分けたが、これは実は微妙である。DSMではそれが障害disorder であるためには、それが自己や他人を苦しめていることが必要だが、NPDは周囲が困っていても本人が困っていないことが多い。そして周囲も文句を言えない立場にあるとすれば、一見「誰も困っていない」ことになる。部下や生徒はその人の表情や身振りに敏感になり、その非言語的な意図やメッセージを読み取ろうとする。本人の口下手、人見知りが自己愛の病理とうまく会い、本人をますます怖く見せる。これは自己愛の病理と人見知りの相乗り効果である。
 ということで私の頭に浮かぶのが小沢さんだ。あるエピソードについて、何年か前に読んだことがある。(この種のエピソードは私の記憶に多く残っているのだが、もちろん典拠を示すことは無理である。それにかなり私なりの脚色が入っている。)あるとき小沢さんがある後輩の政治家と会っていたが、強面を崩さずに打ち解けず、怖い雰囲気だったという。ところがふとしたことからその政治家の出身も岩手県だと分かると、「なんだ、あんたも岩手出身か!」と小沢さんの表情が急に変わってしまい、すっかり打ち解けた雰囲気になったという。何だこりゃ。小沢さんの方も相手を警戒して、というか対人緊張気味になっていたから堅苦しい雰囲気になっていたということではないか。相手の正体がわかって(あるいは分かった気になって)一気に彼の緊張が溶けたのである。
 しかし考えてみれば相手が同郷の出身と知って打ち解けるって、どういうことだろうか?私も対人緊張は強いが、職業柄人と会い慣れているせいか、そして精神科の場合は特にこちらの打ち解け方が極めて重要なせいか、同郷出身とわかってさらに打ち解けるような延びしろはあまり残っていない。やはり小沢さんは変わっているなあ。
 小沢さんにしても、中川さんも(あ、書いちゃった)強面=人見知りの政治家は困ったものだが、別に政治家に限ったことではない。私の職業上、しばしば出会うがこちらの挨拶を決して返してくれない人がいる。しかし特に腹が立たないのは、その人が対人緊張が強いことを私が感じるからである。対人緊張が強いと、相手と目を合わすことすら億劫になる。挨拶を交わすことはもっと面倒になる。煩わしいのである。その上に年齢や社会的地位が上がると、「同僚と挨拶をろくにしないことでどうなっても構わない」という心境になる。そのまま更に年を重ねると、無理にでも挨拶をして愛想を振りまかなくてはならない人がとうとうゼロになってしまう。ただしそのような人でも一目を置いて気を使う必要があるとすれば・・・・カミさんくらいだろうか。
NPDが獲得されるPDであるという意味

これまでに論じた、「パーソナリティイコール三つ子の魂の延長論」への反論の一種と考えていただきたいし、「シャイな子供が大人になって強面になる」、というここ数日の議論とも関係しているテーマと考えて欲しい。私はパーソナリティ障害(いちいち書くのは大変だから、これからはPDと書こう)の中でNPDはある種の特別な位置を占めると思う。それはそのPDの表れ方が、とても状況依存的だということである。普通PDは三つ子の魂であるとともに、「いつどこでだれといても姿を現すもの」という常識がある。つまりその恒常性がその人の持つパーソナリティの一つの特徴というわけだ。ところがNPDはそれが場所を選んで出てしまうという点で、これらの条件が当てはまらない。だっていかにナルな人間も、上司やかみさんの前で傲慢でいられるだろうか? 以前にも書いたが、自己愛的な人間はかえって上司の前では極端にへりくだったりするのである。NPDは部下や生徒や患者の前でその本領を発揮する。自分より弱い立場にあると思われる人たちの前で威張り散らすのである。あの小沢さんだって、有権者の前では作り笑いを浮かべて非常に愛想良くなるのである。(ビートたけしが小沢さんと面会をした時の様子をネットで書いているが、その時も溢れんばかりの笑みを持って彼を迎えたという。)もちろん彼の師匠であるカナマル先生などの前では忠実な生徒であったのだろう。
 通常はNPDはそれを発揮できない事情のある人の前では封印するというのはとても重要な性質だが、もう一つNPDが恒常的でないと考える根拠がある。それはNPDの極みのごとく思われる人たちの若い頃は、パーソナリティとしてはかなり違っているのが普通なのだ。NPDの若い頃の姿は皆シャイであった、とは言わない。しかし案外普通の感覚を持っていたり、人に優しかったりする。
 もちろん人は子供時代、あるいは若い頃は周りにいる人間は年上ばかりで、NPDを持っていても発揮できないということはあろう。しかし私の考えはむしろ違う。NPDはそれを発揮できるような環境に置かれることで、おそらく誰もがそれを持つようなシロモノなのだ、というのが私の極論である。
 ということはもちろん子供であっても、その環境さえ整えばNPD的になる。2、3年前であるが、ある子役スターについて書かれていたものをネットで読んだ(要典拠)。


S氏が本番前に楽屋を訪れた際、Aちゃんはほかの演歌歌手らをかき分けて、真っ先に『社長、お疲れ様です』と挨拶したんです。その場にいた多くの関係者がビックリしていましたよ」天才子役と言われるAだけあって、8歳ながらすでに芸能界で生き抜くための“常套手段”をも身につけているようだ。将来どこまで大物になるのか、いろいろな意味で今後の活躍が楽しみだ。 (ネットの記事からの引用終わり)

一世を風靡したその「天才子役」は、もはや●●(名)ちゃんではなく、○○(姓)さんと呼ばないと本人がムクれて返事をしないという。年端もいかない子に対して周囲が気を使い、○○さんと呼ぶ。おそらくそれが進むと「○○先生」と呼ばれなければ振り向きもしない、ということになりかねないだろう。この異常な事態がじつは普通になってしまうのは、それを許すような状況が出来上がった場合である。つまりその子役が局の視聴率の上昇に大きく貢献し、その意向や機嫌を気にしなければいけないほどの存在感を持った場合である。
 普通は子供はそんな状況には置かれない。しかし場合によっては置かれてしまうのが、天才子役、若手スター、子供の頃から才能を花開かせた幼少の芸術家、天才棋士などである。そう、NPDは獲得するPDである、ということは、人生の後半になり年をとってからなる、ということには決してならないのだ。不幸にして幼少時に獲得してしまうことがある。
 私はここで不幸にして、と書いたが、そうなるとかわいそうなことになる。どこかで読んだが(要典拠)囲碁の世界などでは、才能を花開かせた子供の棋士が、近所の碁会所などでは相手がいなくなり、並み居る年配の強豪をこてんぱんに破ってしまい、そこでは「先生」になってしまう。しかしこのような栄光を幼少時に体験してしまうと、その後の人生が大変だそうだ。本格的な囲碁の世界、例えば奨励会などに入れば、そのような天才ばかりゴロゴロいて、そこで順調に勝ち星を重ねることはできない。それどころか一定の年齢に達しないうちに四段にならないとそれこそプロにもなれず、学歴も持たない中途半端な「ただの人」になってしまう。これは幼少時にNPDになる機会を持った人にとっては耐え難いらしいのだ。人間の自己愛は、無限に膨らむ風船のようなものだ、ということは既に述べた。膨らむスペースがある限り膨らんでいく。大きくなったらNPDになる。その人がもともとNPDだったわけではない。人は環境によりNPDに化けるのである。

2014年1月21日火曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(改訂)(3)

自己愛の風船の敏感さ

では自己愛の持っているもうひとつの性質である敏感さとはなにか? これはその風船がどの程度外部からの抵抗にあっても安定していられるか、どの程度そこにその風船が割られてしまうような危うさを備えているか、ということだ。いっそのこと風船の「厚み」と言ってもいいかもしれない。同じ直径10センチの風船でも、厚いゴムで余裕のある風船と、薄くてパンパンに張っていて、針でつつくと今にも破裂してしまいそうな風船では全然違うだろう。そして自己愛という名の風船を有する主体の体験としては、つつかれても感じないか、強烈な恥辱や怒りを体験するかという違いになって表される。自己愛の風船の大きさとともに、この敏感さも大切だ。風船は対して大きくないのに、人から馬鹿にされたりおかしな目で見られているのではないかと危惧する人たちは多い。それらの人たちは多くの人に対して偉そうで横柄な態度をとるわけではない。つまり風船は大きいとは限らない。家に帰るとまだ小さい子供に対しては大人として振る舞い、口答えをされたりすると少し腹を立てるかもしれないが、それ以外では職場でもたとえ部下に対しても非常に低姿勢だったりする。でもその小さい風船の表面は非常に敏感で傷つきやすいということになる。ちなみにそのような人は傍目には自己愛的な人とは見えないだろう。でも自己愛にまつわる病理は持っているということだ。
自己愛の風船は膨らみ続ける
さて自己愛の二つの性質を示したところで、ある原則を提示しよう。まずは大きさについての性質。それは人間の自己愛の風船は、無限に膨らむ傾向にあるということだ。膨らむスペースがある限り膨らんでいく。ある程度大きくなったら典型的なNPDになるだろう。その人がもともとNPDだったわけではない。人は環境によりNPDに化けるのである。
ここで「自己愛の風船は無限に膨らむ」の「無限」とは大げさだという印象を与えるかもしれない。もちろんタダで無限に大きくなるわけではない。周囲が許せば許す分だけ、という意味である。そして自己愛の風船は、それが中傷や揶揄のひと針により割れやすいわけだが、大きくなるとそれだけ針につつかれる可能性もますから、どこかで膨張は止まらなくてはならない。通常私達の生きている環境は社会的にも空間的にも制限されている。「俺が一番エライ」といってもうちの中、夫婦の仲だけだったりする。会社では上司にへいこらしている。特に上司には。そのうち職場の地位が上がってくるとどんどん威張りだし、横柄な態度を示すようになる。威張る対象はどんどん増えていくのだ。
 ただし地位に関しては大体は頭打ちである。上にたくさん頭を下げなくてはならない人を残して退職になる。あるいはヒラのままでの退職ということも起きうるだろう。しかし時々上まで上り詰める人が出てくる。するとその人はその組織における天皇とか呼ばれてどうしようもない態度をとるようになるのだ。典型的なNPDはそれで完成することになる。逆に言えばそうならない限りNPDにはなりようがない。「うちの子は強迫的で困っています。」という訴えはあっても「うちの子は自己愛的で困っています」とはなかなかならない。「うちの子はまるで暴君なんです。親のことを家来のように顎で使ってるんです。」という母親がいるとしたら、その親がおかしいことになる。子供にかしずくという構造を作っているのはほかならぬ親だからだ。よって子供の自己愛はあまり見当たらないのである。


2014年1月20日月曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(改訂)(2)

昨日は精神分析協会の講義。受講者である候補生たちは優秀な方たちぞろいで、タジタジであった。

いかようにも定義ができそうな自己愛であるが、ひとつ重要なのは、そこに方向性を持ったエネルギーを考えないことが重要だということである。フロイトのようにそのような議論をしだすと、ナルシシズムとは相手に向かうか自分に向かうか、というおかしな議論になる。それはある心の状態であり、他人との関わりでも変動し、それが損なわれた時に恥辱体験をもたらすようなもの。安定した養育環境や愛着対象との関係で育つようななにか。
 発達論者はそれをメンタライゼーションとか、内省機能とかメタ認知力と結びつけている。心が安定し、自分のことにも他人のことにも柔軟性のある見方ができる状態。軽い失敗体験や、ちょっと馬鹿にされたりからかわれたりしただけでは容易には揺さぶられないような心の安定性、という感じである。ただしこれがうまく形成されていないと他人に肯定されることを必要以上に求めたり、逆に簡単にいじけたりするのだ。
自己愛の風船モデル
ここで自己愛を風船に例えることを提案する。人はみな自己愛という名の風船を持っている。内容はよくわからない。突き詰めていくとメンタライゼーションにまで行き着いてしまうのだから。健全な自負、自分を大事にする気持ち、健康な自信、プライド、自負心、自惚れ・・・・。言い換えることはたくさんできるであろうが、とにかく風船の中身の議論は後回しにしていいのだ。
 それをあえて風船に例えるのは、それが自己愛の持つ二つの性質をうまく表現できるからである。それは風船の大きさと、もう一つは風船の壊れやすさ、敏感さである。
まず風船の大きさとは何か。それは自己愛がどのくらい大きいかということであるが、もちろんそれを計測するのは難しい。そこで簡単に捉えるならば、「自分より弱い立場で、自分が上から目線でいられる人の数」で表される。学生のクラブ活動を思い出してもらおう。一年生としてサッカー部に入る。2、3年の先輩は皆自分より経験も多く、技能も優れているとする。彼はとても自己愛的には振る舞えないだろう。最初は小さくなっているだけだ。かろうじて同じ一年生の新入部員とだったらタメ口はきけるかもしれないが、大部分の人には「下から目線」(そんなのないか?)でなくてはならない。あのイノセさんだって、高校時代にテニス部(適当に想像)に入った日は絶対あんなに偉そうにしていなかっただろう。
 すると風船が小さいということは、大部分の人に対して遠慮をし、頭を低く接することになる。そして大きいというのは上から目線で一日の大半を居られるということだ。
みなさんはここで私が風船の大きさの比喩を用いつつ、自己愛を非常に総体的なものとして扱っていることがわかるだろう。そう、「自己愛的な人」という一般的な人がいるというのではなく、自己愛的に振舞う人がいる、というだけだ。そしてどんなに自己愛的な人でも、自分より「強い」立場の人に対して自己愛的に振舞う人などいない。よほど空気が読めない人間でない限りはね。



2014年1月19日日曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(改訂)(1)

◆メニューづくり

   初めに
  1.    自己愛とは何か。
  2.     自己愛の風船モデル
  3.     恥と自己愛との関係性
  4.     理想自己と現実自己
  5.     NPDの二類型(カンバーグ型、コフート型)
  6.     獲得されるPDとしてのNPD
  7.     NPDにおける怒りの問題
  8.     NPDの二次元モデル
  9.     複雑な人間としての混合型
こんなかんじか。

1.初めに
自己愛の概念は難しい。わかったようでわからない。ナルキッソスが水面に浮かんだ自分の姿に惚れ込んだ、だから自分を愛するのが自己愛だ、というのは一見わかりやすい。あの人は「ナルシストだよね。」という言い方でもだいたい人は同じようなイメージを浮かべるだろう。でも精神分析の概念に親しむ私たちとしては、フロイトの「リビドーが自分に向いた状態」という考え方あたりから既に混乱する。自己愛的な人間はあれだけ他人を巻き込むのに、そのリビドーが内側に向いているってどういうことだ?というのは私たちが持つ素朴な疑問と言えるのではないだろうか?
最初に混乱を避ける意味で一言。自己愛、ナルシストには二種類のニュアンスがある。「うちの子はナルシストです」と母親が言う息子が、一日中鏡に向かってポーズを取り「俺ってなんて美しいんだろう?」とため息をついているとしたら、これはナルシストと呼んでいいだろう。ナルシストの語源としてはこちらが先である。一者関係的な自己完結的な自己愛。一人で満足しているから周囲はあまり困らない。問題は二者関係的な、対人的な自己愛である。自己満足に対象を要求する。人から褒められる、人を支配するという形で快感を味わうタイプである。私たちが現在自己愛について論じる場合には、この後者を中心に考える。
 もともと水面に映った自分の姿に恋焦がれたギリシャ神話のナルキッソスの話に由来するナルシズムの概念。しかしそれが対人的な病理として主として注目されるのはなぜだろうか? それは「自分はすごいんだ、素敵なんだ」という感覚が具体的な問題となるのは、結局は他者との関係においてそれを実現しようとするからだ。「自分はすごいんだ」と思っている人間が現実の世界で「ほかの人に比べて自分は決して特別ではないのだ」という体験を持ち、それに従って謙虚に振る舞うのであれば、全く問題がない。そうではなくて、周囲を「自分はすごい」という感覚を保証したり、増幅させるために用いるようになると、本格的なPDとなるのだ。
自己愛の議論が難しいのは、対象と自分のイメージの同一視という考え方や、対象喪失により、失った対象への攻撃性が自分に向け変えられる(フロイトの「悲哀とメランコリー」)など、自分と対象のあいだに反転現象や同一化といった現象が起きるというところだろう。リビドーという一種のベクトルを持った心の働きを考えたためにそれがあたかもホースの先から出る水のごとく、その方向を反転させたりする。自分に向かったら自己愛、というわけであるが、本当にそんな風に心が働くのかわからない。第一自分を愛する、というのがわからない。「自分が可愛い」、「自分を大事にする」というのは、誰か他人を可愛がり、大事にするというのとは全く別の心の働きだと私は考える。生身の肉体を備え、その痛みや快適さを直接に味わう運命にある私たちは、それこそ自己保存本能として「自分を可愛がる」運命にある。他人を愛することで、自分に向かうリビドーが減ったり、他人への攻撃が自分に向かう、などということが本当に起きるのかはわからない。単なるレトリックという気がする。
この種のレトリックないしは比喩は英国の対象関係論において盛んに用いられるようになるが、他方ではそれがわかりにくく、抽象的であるという立場も、たとえば米国には存在する。
2.自己愛とは何か
その中で一つ分かりやすいコフートの考えを上げておこう。コフートはもともと伝統的な精神分析から出発したこともフロイトによる自己愛理論を全否定はしない。フロイトの理論に加えてもうひとつの自己愛の発達ラインを考えたのだ。フロイトにとっての自己愛は、自体愛から対象愛に向かう途上にある。まずは自分を対象とみなしてリビドーを向ける状態。その次の段階として、それが外に向かっていく。それが対象愛であるが、病的な状態で退行すると、それが再び自分に向かってきて自己愛神経症(統合失調症)が生まれるという考え。この場合の自己愛は病的なものということになる。それをコフートは否定するわけではなく、対象に向かっていかないけれど正常な自己愛のラインがある、と唱えたわけだ。こちらの方は対象(自己対象)との関わり愛の中で育っていかなくてはならない。
このコフート的な意味での自己愛の考え方が、むしろ一般的に論じられている自己愛といっていいだろう。それは言葉にしにくいけれど、自分を自分として受け入れ、自分を自然に好きになれている感覚。そしてそれは他社と無関係に生じるのではなく、むしろ幼少時から養育者により育てられるもの。愛着とか程よい母親により与えられる環境により育まれる自己の感覚。もしこれが十分に育てられないと自己愛的な障害、コフート的に言えば「自己の障害」が生じてくる。これはわかりやすい。これでいいじゃないか、とも思える。



2014年1月18日土曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(改訂)(10)

付録 1. アスペルガー問題と自己愛
付録として論じておきたいのがアスペルガー問題である。しかしここで「アスペルガー障害は自己愛の病理である」などと言い出すつもりはない。両者は私の頭の中だけで根拠なくつながっているだけだ。でも彼らにとって尋常でない怒りの問題が、どうしても「どこから彼らの怒りが来るのか?」という問題へと関心を向かわせ、すると出てくるのが、やはり自己愛憤怒の問題なのである。
 これまでは病的な肥大した自己愛を私はもっぱら問題にしてきた。確かにやたら大きな風船を持つはそれだけ人とぶつかりやすい。自己愛的な人はちょっとした非礼も許さない。部下がチラッと怪訝そうな目で見た、というだけで「反抗的だ!」となるかもしれない。北の寒い国なら処刑ものだろう。でもどうだろう?それほど肥大していなくても敏感な風船はいくらでも考えられるのではないか?
 既に出てきたEさんのように、膨らませようにも膨らませることができず、小さいままで燻っている人の場合はどうか。彼は家庭内で、小さな部署内で、小さいけれどものすごく敏感な風船を保つことになる。周囲はすごくピリピリするだろう。ここで風船が小さい、というのは、一歩外に出てしまうとそれをふくらませようがなく、小さくなっている以外にないからであり、要するにその風船を侵害する人の「人数」が少ないというだけだが、その人の数少ない部下にとってはあまり風船の大きさなど関係ないかもしれない。
 さてもう一つ問題なのが、小さい風船の敏感さが、ある種の被害妄想的な色付けを伴っている場合である。私の中で確信に近くなりつつあるのは、「アスペルガー傾向が被害妄想傾向(恨み)を持ちやすい」ということだ。もちろん心優しいアスペさんもいる。でもその中核にある病理は恨みがましさである。中核症状=他人の心の分かりにくさだからだ。人は他人の心が見えない分だけ猜疑的になるだろう。ただし見えない分だけ楽観的になる人もいる。ということは「アスペルガー+Eさん傾向」というのが最悪の組み合わせということか。こうなると厄介なことになる。アスペルガー傾向の人たちは大きい自己愛の風船を持っているだろうか?必ずしも。というより周囲にあまり関心がないかも知れない。しかし彼らが関心がないのは周囲の人々の気持ちであって、自分自身は人恋しさや羨望を人一倍持つ。そう、彼らもまた小さいけれど敏感な風船を持つ人々の中に数えられてよく、周囲はそれなりの覚悟が必要だろう。
ここでも自己愛の風船について二つのファクターが重要になってくる。つまり風船の大きさと過敏さと。そしてこれが自己愛の問題でいつも行き着く問題、すなわち過敏性の自己愛の問題なのだ。この問題についておさらいしておこう。自己愛の病理には二つあるらしい。それは無関心型と過敏型である、ということだ。無関心型は、一般的なナルシシズム、つまり人に対して横柄で、他人を自分の満足の為に利用する傾向。それに比べて過敏型とは、人に自分の自己愛を傷つけられることを常に恐れているタイプ。私はこちらの過敏性自己愛のことを、対人恐怖傾向と自己顕示傾向の混合であると論じたのだ。ここらへんはほとんど自分の体験だな。私は両方の傾向を持っている。人前で自分のことを滔々と喋る、というタイプでは決してない。だからそのようなタイプに出会うと、すぐさま観察する側に回ってしまう。人と対面していて自分が喋りだすと、その分目の前の人の時間が奪われていく様子がカウントダウン形式で心に表示される。
まあそれはいいとして、私はこの問題を対人恐怖と自己愛はどのように「打ち合うのか」(二つの波が「打ち合う」というニュアンスで)が常に興味があったのである。

付録2 自己愛とセロトニントランスポーター、ドーパミンD4遺伝子との関係

最近の遺伝子の研究と恥の関係は興味深い。脳の神経伝達物質に関する二つの研究がある。ひとつはドーパミンD4に関するもの。もう一つはセロトニントランスポーターについて。これと恥の関係は無視できない気がする。
 ドーパミン受容体の遺伝子には、核酸の一定の繰り返しがあり、それが7回ある人、4回ある人、2回ある人がいるそうな。そして繰り返しが多いほど、「新奇性追求」が高いという。新奇性追求 Novelty Seekingとは、新しい体験に飛びつく傾向、みんなの前で旗を降る傾向などが見られる。これはクロニンジャートいう学者が提唱した理論、すなわち (1) 行動の触発Novelty Seeking (NS:「新奇性追求」)、(2)抑制Harm Avoidance (HA:「損害回避」)、(3) 維持 Reward Dependence (RD:「報酬依存」)、(4)固着Persistence (P:「固執」)については気質と呼ばれ、生まれながらにある程度定められているという理論に由来する。クロニンジャーは実はもっと過激なことを言っている。それぞれの傾向は別々の神経伝達物質に関係しているというのだ。それぞれ、中枢神経内の「ドーパミンdopamine」、「セロトニンserotonin」、「ノルエピネフリンnorepinephrine」の神経伝達物質の分泌と代謝に依存しているものと想定されている(Cloninger, 1987)ヒャー、ホントかな。
この新奇性追求、スリルシーキングとの関係を考えるとわかりやすい。バンジージャンプを喜んでする人と、そうでない人の違いなどがよく例として出される。快感を得るために、より多くの刺激を必要とする人と、とんでもないという人の違いか。ある解説(「遺伝子が明かす脳と心のからくり」石浦章一、だいわ文庫を読んでいる)を読んでいると、日本人などでは、このD4遺伝子の核酸の反復数が、日本人は7回を持つ人はゼロパーセントだそうな。ということはアメリカ人などと違って、無茶なことをする人は全然少ないということか。
他方セロトニンの方はどうか。こちらの方も研究が盛んだ。セロトニンに関係する遺伝子は、長い「L遺伝子」と短い「S遺伝子」の2つのタイプがあるという。遺伝子は両親から来るから、両方ともS、両方ともL、SとLを一本ずつ、という3つのタイプに分かれる。人はそれぞれどれかに属しているというわけだ。そして簡単に言えばS遺伝子の人は神経質な傾向が強いという。SS>SL>LLというわけだ。そして日本人は98%の人がS遺伝子をもつ(つまりSS、か、SLか、ということだろう)一方では、アメリカ人はLLが32%だという。ナニー! またも同じ結果だ。結論としては、「アメリカ人に比べ、日本人が「神経質で慎重かつ不安や心配を抱きやすい」人種であるということは、平和を重んじる反面、精神的な悩みが多く、未来を予測する占いなどに依存する傾向があることからもわかります。」(この部分、あるサイトからコピペした。)
私は昔から神経質で慎重な面が強いと思い、他方ではスリルシーカーとしての傾向は何とも言えないと思っている。遺伝子検査をしてみればわかるのだが。しかしこのセロトニン遺伝子に関しては、対人恐怖と関係しているとみている。しかし問題は、日本人のほとんどがSSだとしたら、差が出ないじゃないか、ということになる。まあ1%の人たちに関してはかなり違った性格とみていいということだろうが。
ということで結論から言えば、ドーパミンD4の受容体の遺伝子に関しては、自己愛傾向(自己顕示傾向?)に関与している可能性がある一方では、セロトニントランスポーターの方は、対人恐怖傾向と関係している可能性がある(但し後者の場合には上記の問題あり)くらいのことは言えるのだろうか。


恥から見た自己愛パーソナリティ障害(34)

明日から「改訂版」である。ということはこれまでの書き直し、編集のし直しである。ということはコピペである。どこかで読んだことのある部分が大半を占めることになるだろう。



自己愛とセロトニントランスポーター、ドーパミンD4遺伝子との関係

やはりこれは書いとかなくては。難しい話はともかく、最近遺伝子の研究と恥の関係が気になる。脳の神経伝達物質に関する二つの研究がある。ひとつはドーパミンD4に関するもの。もう一つはセロトニントランスポーターについて。これと恥の関係は無視できない気がする。
 ドーパミン受容体の遺伝子には、核酸の一定の繰り返しがあり、それが7回ある人、4回ある人、2回ある人がいるそうな。そして繰り返しが多いほど、「新奇性追求」が高いという。新奇性追求 Novelty Seekingとは、新しい体験に飛びつく傾向、みんなの前で旗を降る傾向などが見られる。これはクロニンジャートいう学者が提唱した理論、すなわち (1)行動の触発Novelty Seeking (NS:「新奇性追求」)、(2)抑制Harm Avoidance(HA:「損害回避」)、(3)維持Reward Dependence(RD:「報酬依存」)、(4)固着Persistence(P:「固執」) については気質と呼ばれ、生まれながらにある程度定められているという理論に由来する。クロニンジャーは実はもっと過激なことを言っている。それぞれの傾向は別々の神経伝達物質に関係しているというのだ。それぞれ、中枢神経内の「ドーパミンdopamine」、「セロトニンserotonin」、「ノルエピネフリンnorepinephrine」の神経伝達物質の分泌と代謝に依存しているものと想定されている(Cloninger, 1987)ヒャー、ホントかな。
この新奇性追求、スリルシーキングとの関係を考えるとわかりやすい。バンジージャンプを喜んでする人と、そうでない人の違いなどがよく例として出される。快感を得るために、より多くの刺激を必要とする人と、とんでもないという人の違いか。ある解説(「遺伝子が明かす脳と心のからくり」石浦章一、だいわ文庫を読んでいる)を読んでいると、日本人などでは、このD4遺伝子の核酸の反復数が、日本人は7回を持つ人はゼロパーセントだそうな。ということはアメリカ人などと違って、無茶なことをする人は全然少ないということか。
他方セロトニンの方はどうか。こちらの方も研究が盛んだ。セロトニンに関係する遺伝子は、長い「L遺伝子」と短い「S遺伝子」の2つのタイプがあるという。遺伝子は両親から来るから、両方ともS、両方ともL、SとLを一本ずつ、という3つのタイプに分かれる。人はそれぞれどれかに属しているというわけだ。そして簡単に言えばS遺伝子の人は神経質な傾向が強いという。SS>SL>LLというわけだ。そして日本人は98%の人がS遺伝子をもつ(つまりSS、か、SLか、ということだろう)一方では、アメリカ人はLLが32%だという。ナニー! またも同じ結果だ。結論としては、「アメリカ人に比べ、日本人が「神経質で慎重かつ不安や心配を抱きやすい」人種であるということは、平和を重んじる反面、精神的な悩みが多く、未来を予測する占いなどに依存する傾向があることからもわかります。」(この部分、あるサイトからコピペした。)
私は昔から神経質で慎重な面が強いと思い、他方ではスリルシーカーとしての傾向は何とも言えないと思っている。遺伝子検査をしてみればわかるのだが。しかしこのセロトニン遺伝子に関しては、対人恐怖と関係しているとみている。しかし問題は、日本人のほとんどがSSだとしたら、差が出ないじゃないか、ということになる。まあ1%の人たちに関してはかなり違った性格とみていいということだろうが。
ということで結論から言えば、ドーパミンD4の受容体の遺伝子に関しては、自己愛傾向(自己顕示傾向?)に関与している可能性がある一方では、セロトニントランスポーターの方は、対人恐怖傾向と関係している可能性がある(但し後者の場合には上記の問題あり)くらいのことは言えるのだろうか。


2014年1月17日金曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(33)


その中にアンドリューモリソンという分析家がいた。彼が「恥 ― 自己愛の後ろ側 shame – underside of Narcissism」という本を書いたのだ。精神分析の専門書、カタい本である。おもえば恥と自己愛という、本来は対極的にあるテーマが私の頭の中で結びついたのはこの本がきっかけかもしれないが、彼自身はこれをコフートから引いていた。彼はコフート派だったのだ。そしてそれが少なくとも米国の精神分析学会の一部の人たちに火をつけたのだ。彼らの主張は、フロイトは全然といっていいほど扱っていないけれど、恥の議論ってすごく大事だよね、ということだった。
 モリソン及びその仲間たち(ブルーチェック、ネイサンソン、そのほか)の人たちの論旨を簡単に言えば、恥は自己愛の傷つきである、ということだ。私は「その通りだ!」と思ったし、アメリカの分析家たちにも同じようにアピールしたと思う。しかしどうしてだろう?恥と自己愛は反対の関係なのに。
 ということで今日は朝起きてからこの問題を考えていた。途中で寄ったドトールで思いついた。カギは自己愛の二つの要素にあるのだ。自己愛の風船の大きさと、過敏性と。このことは(30)の風船の絵で初めて出てきた。今回このブログを書きながら思いついたのだ。恥と自己愛の問題は、風船の大きさと過敏さだ(繰り返しているだけ。)風船への侵害による痛み=恥、というのはいい。というかそういう風に定義しよう。少なくともモリソンはそういっているし、コフートもそう言いたかった。そしてギャバード先生も、そのほか薄皮の自己愛を唱えている人たちは皆そう考えている。
 問題は、自己愛の風船が小さく、また侵害されてもそれを怒りに転化することができずにただただ恥じて消え入りそうになっている人は、全然自己愛的に見えない、ということなのだ。いや、それでも彼らは牙をむくことがある。ところが彼らは普段はおとなしくて全然自己愛的には見えないから(彼らの風船は小さいから、偉そうに見えないのだ)、時々怒り出すおかしな人、近寄らないほうがいい人たち、ということになるのだ。
するとカンバーグ的な自己愛か、コフート的な自己愛か、ということについては、前者はもっぱら風船の大きいタイプ、コフートは風船が敏感なタイプ、ということになる。
二元論モデルとは結局何だったんだ?
そこでひるがえって二元論モデル。私は縦軸は自己顕示欲の強さ。横軸は恥に対する敏感さとした。縦軸は大体風船のサイズに一致するか。そして横軸は風船の敏感さということになるぞ。ヤッター。え、自己顕示欲の強さと風船のサイズ? 大体風船が膨らむタイプって、自分を表現したいという欲求があるからそうなっていくのだと考えればいい。ちょっと違うか?でも割といいセン行っているかも。人を支配して、命令をきかせて、自分のやりたい方向に周囲を従わせて、となって「俺はすごいんだ」感が広がっていくのだから。
では両軸の大きさを測る指標としては何を使うか。縦軸は自己愛の中でも敏感さを抜いた指標があればベストだろう。カンバーグ的な自己愛人格の指標。横軸としては対人恐怖傾向というより恥の敏感さか。でも風船の敏感さって、対人恐怖と同じことなんだろうか?それが問題だ。アスペルガー傾向の人の被害的な感じは対人恐怖とは違うだろう。彼らは対人的に鈍感で、つまり相手のことがわからなくても敏感だぞ。そうか、対人恐怖って相手の気持ちがビンビン伝わってくることによる敏感さでもあるんだ。ところがここで問題になってくる風船の敏感さは、相手のことがわからなくても敏感という音がある。そういう人を知っているぞ。
        ということで今朝の2時間で結構考えが進んだな。