2014年1月17日金曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(33)


その中にアンドリューモリソンという分析家がいた。彼が「恥 ― 自己愛の後ろ側 shame – underside of Narcissism」という本を書いたのだ。精神分析の専門書、カタい本である。おもえば恥と自己愛という、本来は対極的にあるテーマが私の頭の中で結びついたのはこの本がきっかけかもしれないが、彼自身はこれをコフートから引いていた。彼はコフート派だったのだ。そしてそれが少なくとも米国の精神分析学会の一部の人たちに火をつけたのだ。彼らの主張は、フロイトは全然といっていいほど扱っていないけれど、恥の議論ってすごく大事だよね、ということだった。
 モリソン及びその仲間たち(ブルーチェック、ネイサンソン、そのほか)の人たちの論旨を簡単に言えば、恥は自己愛の傷つきである、ということだ。私は「その通りだ!」と思ったし、アメリカの分析家たちにも同じようにアピールしたと思う。しかしどうしてだろう?恥と自己愛は反対の関係なのに。
 ということで今日は朝起きてからこの問題を考えていた。途中で寄ったドトールで思いついた。カギは自己愛の二つの要素にあるのだ。自己愛の風船の大きさと、過敏性と。このことは(30)の風船の絵で初めて出てきた。今回このブログを書きながら思いついたのだ。恥と自己愛の問題は、風船の大きさと過敏さだ(繰り返しているだけ。)風船への侵害による痛み=恥、というのはいい。というかそういう風に定義しよう。少なくともモリソンはそういっているし、コフートもそう言いたかった。そしてギャバード先生も、そのほか薄皮の自己愛を唱えている人たちは皆そう考えている。
 問題は、自己愛の風船が小さく、また侵害されてもそれを怒りに転化することができずにただただ恥じて消え入りそうになっている人は、全然自己愛的に見えない、ということなのだ。いや、それでも彼らは牙をむくことがある。ところが彼らは普段はおとなしくて全然自己愛的には見えないから(彼らの風船は小さいから、偉そうに見えないのだ)、時々怒り出すおかしな人、近寄らないほうがいい人たち、ということになるのだ。
するとカンバーグ的な自己愛か、コフート的な自己愛か、ということについては、前者はもっぱら風船の大きいタイプ、コフートは風船が敏感なタイプ、ということになる。
二元論モデルとは結局何だったんだ?
そこでひるがえって二元論モデル。私は縦軸は自己顕示欲の強さ。横軸は恥に対する敏感さとした。縦軸は大体風船のサイズに一致するか。そして横軸は風船の敏感さということになるぞ。ヤッター。え、自己顕示欲の強さと風船のサイズ? 大体風船が膨らむタイプって、自分を表現したいという欲求があるからそうなっていくのだと考えればいい。ちょっと違うか?でも割といいセン行っているかも。人を支配して、命令をきかせて、自分のやりたい方向に周囲を従わせて、となって「俺はすごいんだ」感が広がっていくのだから。
では両軸の大きさを測る指標としては何を使うか。縦軸は自己愛の中でも敏感さを抜いた指標があればベストだろう。カンバーグ的な自己愛人格の指標。横軸としては対人恐怖傾向というより恥の敏感さか。でも風船の敏感さって、対人恐怖と同じことなんだろうか?それが問題だ。アスペルガー傾向の人の被害的な感じは対人恐怖とは違うだろう。彼らは対人的に鈍感で、つまり相手のことがわからなくても敏感だぞ。そうか、対人恐怖って相手の気持ちがビンビン伝わってくることによる敏感さでもあるんだ。ところがここで問題になってくる風船の敏感さは、相手のことがわからなくても敏感という音がある。そういう人を知っているぞ。
        ということで今朝の2時間で結構考えが進んだな。