2014年1月21日火曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(改訂)(3)

自己愛の風船の敏感さ

では自己愛の持っているもうひとつの性質である敏感さとはなにか? これはその風船がどの程度外部からの抵抗にあっても安定していられるか、どの程度そこにその風船が割られてしまうような危うさを備えているか、ということだ。いっそのこと風船の「厚み」と言ってもいいかもしれない。同じ直径10センチの風船でも、厚いゴムで余裕のある風船と、薄くてパンパンに張っていて、針でつつくと今にも破裂してしまいそうな風船では全然違うだろう。そして自己愛という名の風船を有する主体の体験としては、つつかれても感じないか、強烈な恥辱や怒りを体験するかという違いになって表される。自己愛の風船の大きさとともに、この敏感さも大切だ。風船は対して大きくないのに、人から馬鹿にされたりおかしな目で見られているのではないかと危惧する人たちは多い。それらの人たちは多くの人に対して偉そうで横柄な態度をとるわけではない。つまり風船は大きいとは限らない。家に帰るとまだ小さい子供に対しては大人として振る舞い、口答えをされたりすると少し腹を立てるかもしれないが、それ以外では職場でもたとえ部下に対しても非常に低姿勢だったりする。でもその小さい風船の表面は非常に敏感で傷つきやすいということになる。ちなみにそのような人は傍目には自己愛的な人とは見えないだろう。でも自己愛にまつわる病理は持っているということだ。
自己愛の風船は膨らみ続ける
さて自己愛の二つの性質を示したところで、ある原則を提示しよう。まずは大きさについての性質。それは人間の自己愛の風船は、無限に膨らむ傾向にあるということだ。膨らむスペースがある限り膨らんでいく。ある程度大きくなったら典型的なNPDになるだろう。その人がもともとNPDだったわけではない。人は環境によりNPDに化けるのである。
ここで「自己愛の風船は無限に膨らむ」の「無限」とは大げさだという印象を与えるかもしれない。もちろんタダで無限に大きくなるわけではない。周囲が許せば許す分だけ、という意味である。そして自己愛の風船は、それが中傷や揶揄のひと針により割れやすいわけだが、大きくなるとそれだけ針につつかれる可能性もますから、どこかで膨張は止まらなくてはならない。通常私達の生きている環境は社会的にも空間的にも制限されている。「俺が一番エライ」といってもうちの中、夫婦の仲だけだったりする。会社では上司にへいこらしている。特に上司には。そのうち職場の地位が上がってくるとどんどん威張りだし、横柄な態度を示すようになる。威張る対象はどんどん増えていくのだ。
 ただし地位に関しては大体は頭打ちである。上にたくさん頭を下げなくてはならない人を残して退職になる。あるいはヒラのままでの退職ということも起きうるだろう。しかし時々上まで上り詰める人が出てくる。するとその人はその組織における天皇とか呼ばれてどうしようもない態度をとるようになるのだ。典型的なNPDはそれで完成することになる。逆に言えばそうならない限りNPDにはなりようがない。「うちの子は強迫的で困っています。」という訴えはあっても「うちの子は自己愛的で困っています」とはなかなかならない。「うちの子はまるで暴君なんです。親のことを家来のように顎で使ってるんです。」という母親がいるとしたら、その親がおかしいことになる。子供にかしずくという構造を作っているのはほかならぬ親だからだ。よって子供の自己愛はあまり見当たらないのである。