2024年6月10日月曜日

「トラウマ本」恥とトラウマ 加筆訂正部分 

 地獄は他者か

恥というテーマは、私が1982年に精神科医になって最初に取り組んだ問題であるが、本書の執筆を機会にトラウマの観点から再考を加えたい。
 恥の体験もまた私たちにとって深刻なトラウマとなりうる。恥はまたトラウマを受傷したという事実そのものに対しても向けられる。特に性的なトラウマはそれが生じたこと自体を他人に相談することへの強い抑制が働く傾向があり、その一つの重要なファクターが恥の意識なのである。

まずは恥のテーマとの私の関わりについて簡単に述べる。私はいわゆる対人恐怖症への関心から出発した。つまり精神の病理一般の中でも特に、恥の持つ病理性に着目していたのである。恥は広範な感情体験を包み込むが、その中でも特に「恥辱 shame」と呼ばれる感情は、深刻な自己価値感の低下を伴い、一種のトラウマ的な体験ともなりうる。私たちの多くは、そのような体験をいかに回避し、過去のその様な体験の残滓といかに折り合いをつけるかということを重要なテーマとして人生を送るのだ。
 我が国における対人恐怖症や米国のDSMにより概念化されている「社交不安障害」は主としてこの「恥辱」の問題を扱っていることになる。その一方では「羞恥 shyness」として分類される気恥ずかしさや照れくささの体験は、恥辱のような自己価値感の深刻な低下を伴わず、さほど病理性のないものとされる傾向にある。

例えていうならば、おなじ自分の裸をさらす体験でも、自分の裸体を恥じているかによって恥辱にも羞恥にもなるのだ。しかしこの簡単な例からもわかる通り、場合によっては羞恥体験もまた深刻なトラウマ性を帯びることになる。それにもかかわらず、私はどちらかと言えばこの羞恥に関してはこれまであまり関心を寄せないできたという経緯がある。
 私がこれまでに世に出した恥に関する著述(岡野、1998、2014、2017)は以上を前提としたものであった。しかしそれらの考察が一段落した今、改めて恥について考える際に、私自身が改めて疑問に思うことがある。