2026年10月3日土曜日

成田先生のこと 推敲 3

  このように考えつつ成田の著作を読むと、その基本的な考えはいくつかの項目に集約されるという思いが強くなる。しかし彼が漠然とそれを信条にして治療をしているというよりは、彼の中では一つのメソッドとして出来上がっているという印象を受ける。それが彼の「精神療法」を主たるテーマとした数多くの著作に表れている。それ等は(省略)。
 失礼ながらそれらの文章には繰り返しが多いので、どれが必読というよりは、どれを読んでも切り口には同じような主張が見られる。(その意味ではコフート的、という印象も持つ。)
 御存じの方も多いと思うが、成田は囲碁の達人であり、文学をこよなく愛したが本質的に理系人間である。彼の中では成田理論とでもいうべき体系が流れていたように感じる。
 しかし成田のこれらの理論的な書を読んでも不思議と難解さはない。それはこれらがほぼエッセイ風に、experience-near にどちらかと言えば軽いタッチで語られているからである。そして大事なのは、そしてその根底に率直さ、正直さが流れているのだ。だから読者は常に我が身に引きつけて彼の文章を読むことができる。
 この正直さのゆえに、成田には自分の弱さや足りなさを率直に開示した逸話が多い。自分は昔孤独で人と交われなかったこと。運動が苦手だったこと。分析学会誌に原著論文を掲載していないのに会長になったこと、教育分析は受けていないこと、などなどである。そしてそれに関連して彼には肩書や名誉などへの拘りが薄いように感じる。つまり通俗的な意味での自己愛を感じることがほとんどない。
 だから成田には自分の理論を死守するために強弁するというところがない。しかしその臨床的な感性はかなり早くから既にあり、臨床経験を積み重ねる途上で出会う理論を場合によっては取り込み、あるいは取り込まれ、最終的に蒸留されていったのが成田理論なのだ。そしてそこには難しい四字熟語的な概念によっては語られない。「こころの井戸」、「その場の雰囲気さん」、「白状する」など、いずれも優しい和語で語られるものである。
 成田の臨床的な感性についてもう少し触れようか。彼にはそもそも患者と出会うことそのものについての限りない興味があった。その最大の理由は、彼自身が患者の気持ちを良く感じることが出来たからであろう。そして特に患者の「わかってほしい」という気持ちにどのように応えるかに腐心した。成田が名大の先輩である伊藤克彦氏から教わった「患者というぬいぐるみに入れ」はその表れであった。しかしそれは患者に共感し一体化するといったロマンティシズムとは異なる。成田には患者を助けようとする殊勝な考え方はなかったというが、そこで何がどのように患者に作用するかということは恐らく成田の
最大の関心事であったようだ。