2026年10月2日金曜日

成田先生のこと 推敲 2

 ところでなぜこの自由度がそれほど重要なのだろうか? 特殊な事情を除いては、患者は自分の人生においてある悩みや疑問を持ち、それについての援助を求めて来談する。それは基本的には学派と無関係なことなのだ。例えば孤独に苦しむ人の場合、その苦しみは学派には関係はない。各学派はその種の苦しみをどのように捉えるかという違いのみが存在するだけだ。
成田先生の自由さ
 ここまで論じた自由さという見地から成田先生について考えると、彼はとても自由であり、分析的療法家としては他に類を見ないほどであると言える。彼は精神分析学会での活動が長く、学会長まで務めた人物である。しかし分析的であるという縛りは極めて薄いことがわかる。これを表明することは、分析学会としての立ち位置を考えればかなり勇気がいることと言える。それを垣間見せてくれるのが、成田の「深い精神療法と浅い精神療法」の議論である。
(成田(1982)精神療法の深さ—精神科医の立場から 精神療法 8巻4号、1982 

これは1982年の文章で、彼が40代の初めに書いたものだが、かなり旗幟鮮明である。彼は精神療法には深いものと浅いものがあるという。成田先生はこの論文で、深い精神療法と浅いそれを対比的に表で示すが、これはまさに精神分析と支持的療法の対比である。そして言う。「中にはこの表を見せられて、ぜひ『深い』方をという患者もいるかもしれないが、そういう選択をする人にはすでにそこに問題がありそうである。マゾヒスティックな傾向のある人か、精神療法嗜癖者か、あるいは通常医師のもとを訪れる病人として病気の背後に隠れているはずの、自己探求への、人間的接触への、愛への希求がすでにしてあらわになっている人たちであろう」「一方、自分が精神療法を学び始めた新進気鋭の治療者だとしたら、『深い』方をやってみたいと思うであろう。つまり『深い』法は治療者向きなのである。」つまりは昨今の週4回の精神分析に対する引け目などかけらもない。それどころかそして医師の治療的野心に触れ、「それはより根本的に、完全に、徹底的に直したいという治療者の欲である。その背後には、患者の心を切り刻みたいというサディスティックな欲求が時にひそんでいる。こういう治療者の欲が深すぎると、患者の負う傷が深くなる。少なくとも患者の従来の殻や枠が壊されて生身が露呈してしまう。こういう事態を引き起こした治療者は罪の意識を感じるであろう。精神を治療しようなどそもそも罪深いことである。」(成田(2012)精神療法の深さー成田善弘セレクション 金剛出版、P70~71)

どうだろうか。一刀両断である。彼には「週一回では精神分析的な療法は出来ない」という消極的な姿勢はない。実に堂々と精神分析に喧嘩を売っているのである。こうなると読んでいる方もハラハラしてくるほどだ。
 ところでこの議論は笠原のいわゆる「小精神療法」の影響を受けている可能性があるが、(笠原嘉(2007)精神科における予診・初診・初期治療. 星和書店.)時代としてはそれよりは古い。しかし成田先生より10年先輩のこの議論に、同じ名大にいらした成田先生は影響を受けたに違いない。以下は笠原の書から抜粋。
(f)「深層への介入をできるだけ少なくする」件について。初診の項で強調したことだが、再診以後においても同じように「切開」は小さい方がよいと思う。精神科医になった以上、何時かは深層介入をやりたいという色気(?)はあってもよいが、小精神療法の際には禁忌と思っておく。最近いくつか出る外国の小精神療法書も一致して深い切開をいましめている。精神分析解説書が氾濫しているから「一寸」やりたくなる。自分でもやれそうな錯覚をもたされる。世間も精神科医に一種の「魔術師」を期待する。しかし不用意にやると、収拾がつかなくなる。」(2007, p.156~157)つまり笠原と成田は同じフレバ―を持っているのである。