2020年9月30日水曜日

他者性 推敲 2

 「他者性を認めない」という傾向の由来を解離の歴史から紐解く

ここで解離における交代人格を独立した他者としては認めないという傾向について、その由来を考えてみよう。19世紀の半ばには、「意識の splitting (分割)」という概念により様々な精神病理を説明することが試みられた。これは催眠やヒステリーの原因としてのみならず、統合失調症の病理についても論じられる傾向にあった。ヒステリー研究におけるフロイトもブロイラーも、そしてジャネもがそれぞれ異なる意味で「意識の分割」を主張していたのだ。
 ところが問題は、 splitting doubling という言葉自体があいまいで両義的だったことである。O’Neil によれば、それは division (分割、分岐すること) multiplication (増殖すること)の両方を意味していた。(O’Neil (2009)

O'Neil, J. (2009Dissociative Multiplicity and Psychoanalysis. (In) Dell, Paul F. (ed.)  Dissociation and the Dissociative Disorders - DSM-V and beyond., Routledge (Taylor and Francis), pp.287-325.



この図を見ればわかるとおり、スプリッティングには二種類の意味がある。左は分裂、右は増殖である。よく見ると左は一つのものがわかれるが一部はつながっている。しかし右では分割は数が増えることを意味する。解離において「意識のスプリッティングが生じている」とひとことで言っても、多くの人は、両者の区別を曖昧にしていたのではないかと考えるべきであろう。


フロイトとジャネはシャルコーから解離のイニシエーションを受けた

そもそもフロイトとジャネの行き違いはどのように生じたのであろうか。二人は当時の心理学の代表的な人物であり、当時ヒステリーと呼ばれていた解離性障害の患者さんたちに接していた。フロイトとジャネは、別人格の成立に関して、全く異なる理論を持っていた。ジャネは解離性障害の各人格の「他者性」を全面的に認める立場の理論を展開していた。フロイトは別人格の「他者性」を認めないという素地を作り、それは精神分析を超えて一般に広まった。だから前盛期はずっと精神分析の影響下では、複数の人格の存在は認められなかったのである。
 事の始まりはフロイトがブロイアーと書いた「ヒステリー研究」であった。1889までにフロイトは催眠による暗示から、カタルシス療法にシフトし、一連の患者の治療を通じて自らのスタイルを確立していった。フロイトは1892年にブロイアーに共同の執筆を迫り、共著論文「ヒステリー諸現象の心的機制について暫定報告」 を書いた(1893年)。それをもとに1895年「ヒステリー研究」を発刊することになる。これは第1章が「暫定報告」の採録、第2 アンナOの治療、第3 フロイトの4ケース、第4 ブロイアーの理論、第5 フロイトの理論、という構成だった。しかしこの本の中でフロイトはブロイアーと異なる意見をすでに表明している。彼は1889年にベルネームを訪れてから、催眠を離れることについては吹っ切れた。1992年はちょうどルーシーの治療に手ごたえを感じていたころだろう。一方ブロイアーは、10年目に治療を終えていたアンナOについて書くことになる。アンナO.の治療がとても成功したとは言えないと考えていたブロイアーにとっては、このような本にまとめるのは不本意だったのである。だからこの辺からフロイトとブロイアーはすでに精神的な隔たりを持っていたということになる。
 フロイトとブロイアー(ジャネ)は、ヒステリーの理解について異なった考えを持っていたが、それを簡潔に言えばこうなる。

p  ブロイアー(ジャネも同様):トラウマ時に意識のスプリッティングが生じる。

p  フロイト : 私は実は類催眠状態に出会ったことがない。(結局は防衛が起きているのだ。)

他方ジャネは意識のスプリッティング(解離)を意識の増殖 multiplication としてとらえていたと考えられる根拠がある。それはジャネが解離の「第二法則」という提言を行っているからだ。「(解離が生じる際にも)主たるパーソナリティの単一性は変わらない。そこから何もちぎれていかないし、分割もされない。解離の体験は常に、それが生じた瞬間から、第二のシステムに属する。

2020年9月29日火曜日

他者性 推敲 1

 解離における他者とは何か

本日の発表では、「解離性障害における他者性の問題」というテーマでお話をする。私がなぜこのテーマを取り上げたかと言えば、解離性同一性障害(以下、DID)の患者さんの多くが「自分は自分であり、ほかの人格とは一緒にしないで欲しい。」と主張するにもかかわらず、一般人や臨床家の一部は、この点を理解しないということが起きているからだ。そのために患者さんは「わかってもらえていない」と失望することが多いのである。つまり「解離性障害における他者性の問題」とは、具体的に言えば一人の交代人格にとって、別の人格は他者として扱わているのか、というテーマである。

私はこのテーマには重大な問題が潜んでいることを最近ますます感じるようになっている。この問題がどうして自分の中で今頃になって大きくなってきたのかが不思議だ。もっと早くこの問題に気がつくべきだと思うのだが、それは私の勉強不足である。最近になってようやく、1994年のDSM-IVでいわゆる多重人格障害(MPD)という呼び名がDIDに変更になった理由について考え直す機会があったのだ。DSM-IVの作成に携わった解離委員会委員長のDavid Spiegel 先生は言ったという。

「誤解してはならないのは、DIDの患者さんはいくつかの人格を持っていることが特徴なのではない。(満足な)人格を一つも持てないことが問題なのだ。」

実際MPDDIDに関する先駆者たちの記述には、交代人格が断片 fragment であり、彼らは「自分たちが別個である妄想を持つ delusional separatedness」とまで言っている。果たしてDIDの人格たちは人格未満の断片なのだろうか? この問題を問いただしたい。率直に言えば、別人格同士が他者として存在しているという臨床的な実感は、私にとってはかなり確かなものである。別人格の「他者性」が伺われる状況をいくつか挙げてみよう。人格同士がライバル関係にある場合や、別人格に対して(自傷とは異なる意味での)攻撃が行われる場合や別人格に対して恋愛感情が向けられる場合など、傍証として挙げられるものはたくさんある。

別人格の「他者性」が伺われる簡単な例をひとつ挙げてみよう。

あるDIDを有するAさんが言った。
「この間車で信号待ちをしていて、青になったのに、前の車がなかなか発車しませんでした。すると後ろから突然『何をぐずぐずしてんだよ!』というBの声がしました。ずいぶんイライラしているんだなあ、と私は驚きました。(BはAの別人格だった。)

このような例を考えるとき、BAさんにとって他者だろうか。もしそのBさんがしばしば登場し、Aさんに成り代わって活動をするとき、Bは事実上の他者ではないだろうか。これとの対比で、Bさんが別人格ではなく、同乗していた口の悪い友人だとしたらどうだろうか?もちろんれっきとした他者の声に用に聞こえるだろう。ところがBさんがAさんの別人格だとすると、とたんに主人格とは独立した個別の人格として扱うことに私たちはためらうようになる。しかしこれはおかしいのではないだろうか。そもそも別人格という意味でよく使われた alter (ラテン語の「他者」)という表現はますます使われなくなって来ているのである。

しかしいつも解離の方と会っている私としては納得がいかない。例えばAさんと会ったとする。たとえAさんにはBさん、Cさん…という交代人格がいたとしても、私とAさんの関係は基本的には変わらない。Aさんが「人格未満」であるようには少しも思えないのである。
 ここには解離は防衛として意図的になされるという理解(誤解?)が通説となっているからであるかもしれない。例えばAに代わってBさんが出現し、彼はAさんとは違って怒りをあまり抵抗なく表現できるとするならば、「怒りを表現する人格は、あなた自身が抑圧している部分を表している」という治療者の理解は、現在でもごく常識的に(臨床経験の多寡にかかわらず)なされる傾向にある。すると自分が本来体験するであろう怒りを自分から解離させるという行動が、その人の不完全性を表しているという考えが自然と導かれてしまうのである。私にはこれは深刻な問題のように思われた。第一怒りを外に表現できない人はたくさんいるが、それを理由にそれらの人々は不完全だと主張する権利は誰もないであろう。

 

2020年9月28日月曜日

治療論 6

 

●統合か協調かのスペクトラム これについてもblue book Ira Brenner, p.217

治療に関して統合に向かうか、個々の尊重かというテーマもまた転回の大きなテーマと言える。

交代人格をどのように理解し、取り扱うかについては、指揮者によって大きなばらつきがあるという事である。具体的には個々の人格を、これから統一されるべき、それ自身は部分ないしは断片と見なすか、それともその人格が一つのそれ自身が独立した人格としてとらえるか、である。スターンとブロンバーグはその中でもフロイトの抑圧の概念にまでさかのぼってこの問題を考えた。彼らはウィニコットやサリバンの概念をもとにして解離の概念を再生したのである。その基本概念は、解離されていたものがエナクトメントとして現れるという議論で、その立場はブロンバーグもスターンも変わらない。解離されているものは未構成の思考という事になる。しかしそれは別の人格によっては体験されている可能性がある。

かつて Van der Hart (2009) 先生は精神分析外の解離の扱いに二つの方向性があると述べた。

   統合された機能が、ストレスに直面して失われた状態。

   同時進行の個別の、分割された神的な構造、パーソナリティないしは意識の流れ。

問題は精神分析においても①,②の両方の傾向が見られるという事である。歴史的にはこのうち①が主流であり、それは今でも続いている。ところがそこに②の考え方が流れ込み、実は両者が共存状態になっているのである。

2020年9月27日日曜日

治療論 5

 攻撃性の由来と所在

「転回」が意味するものとして重要だと思えるのは、攻撃性のありかをどのように考えるかということである。転回は、クライエントの示す攻撃性をよりトラウマ理論に沿った、外来のものとしてとらえるという視点を促す。そもそもフロイトの精神分析では、性欲動も攻撃性も本能の一部として内在化されたものとみなしているからだ。Howell, Izko先生その他の論者が言うとおり、解離性障害についての分析的理解は、トラウマ理論と手を取り合いながら発展してきた。そしてそれはフロイトがトラウマを軽視したことから生まれた伝統的な精神分析理論とは対をなしている。そしてそれは具体的にはDIDにおける人格が示す攻撃性をどのようにとらえるかという点に比較的典型的に表れるといってよい。

攻撃者との同一化 (IWA, identification with the aggressor) について特に深い理解を示したのはフェレンツィである。彼の攻撃者との同一化は非常に示唆に富んでいる。フェレンチはその中で攻撃者と相対した患者があたかもその攻撃者に同一化する形でその願望を自分の願望のように感じ取る様子が描かれている。ただし彼のいう攻撃者との同一化に関しては、それは攻撃者の模倣ではなく、その意味で攻撃者との同一化とフェレンチが呼んだのかは疑問がある(Frankel2002)これは今回彼の論文、およびHowell さん、Frankelさんのこのテーマに関する記述を読みなおして思ったことだが、フェレンチは本当の意味での攻撃者との同一化のことを書いていない。彼は攻撃者に同一化して自分を傷つける部分について書いているにすぎないのだ。
Frankel, J. (2002).  Exploring Ferenczi's concept of identification with the aggressor: Its role in trauma, everyday life, and the therapeutic relationship. Psychoanalytic Dialogues, 12(1), 101–139.
Howell, E (2014) Ferenczi’s Concept of Identification with The Aggressor: Understanding Dissociative Structure with Interacting Victim and Abuser Self-States.
The American Journal of Psychoanalysis 74(1):48-59.

しばしばこれとの混同への注意が呼びかけられているアンナ・フロイトの「攻撃者との同一化」との比較が論じられる。上に述べたように、こちらこそもう一つの論じられるべき「攻撃者との同一化」、だからである。フェレンチが論じなかった攻撃者との同一化を明確化することが転回に求められる一つの理由は、それが彼女たちが外に対して示す攻撃性をどこに位置付けるかという最大の問題にかかってくるからである。彼女たちは自分に向けて攻撃的になる(自傷行為を行う)だけではもちろんない。他者に対してもそうである。このことにフェレンチは戸惑っていたのではないか。だからこそ彼もこの第二のメカニズムが生じる仕組みについて私は知らない、とまで言っているのである。
 それでは現在の分析家たちはこの問題をどのようにとらえているのだろうか。Howell に注目しよう。彼女の「迫害的な交代人格persecutory alter (以下PA)(p211)は押しなべて防衛としての意味を強調している。「迫害的で虐待的な人格を有するという事は、内的なアルカイダやタリバンがいて、奇妙で古臭いルールを少しでも破るとそれを懲罰してくるようなものである。」「それは内的、外的な迫害者に情緒的なアタッチメントを起こしている」「これらの人格が他者に向かうことはそれほどないが、時には治療者やそのほかの人に対して強迫的だったり危険だったりする。(p211) さてHowell さんの主張で一番気になるくだりが以下の部分で、PAはもともと迫害的なケアテーカーを模して成立するが、それはそもそも防衛的な意味で作られたという。つまり怒りや恐怖はそれが抑えられることが身を守ることにより本人がそれだけ守られるから、という。実はこの「PA=防衛のため」説は分析関係の議論としては根強い。やはりこれが分析における私はしばらく前に「黒幕人格について」の中で、ラッカーによるconcordant の同一化についての議論も加えてある。つまり攻撃者の同一化のプロセスはやはりスペクトラムだという事である。

2020年9月26日土曜日

治療論 4

 

トラウマの現実性と攻撃者の由来

イスコビッチの「トラウマの現実性」についての議論は、もう一つの深刻な問題を提起する。それを私は「攻撃性の由来」という観点から論じたい。

そもそもフロイトの打ち立てた精神分析はトラウマの非現実性ないしはファンタジー性に立脚したものであった。しかるに解離症状が実際のトラウマに由来することは、精神医学的な疫学的調査から明らかにされていることである。従って解離症状を呈する人たちを臨床的に扱うという事は彼らの多くが幼児期に実際にトラウマ的な状況に晒されていたという事を認めることになる。これは分析家であっても変わらない。

このことは精神分析でとらえられていた攻撃性の問題をより多層的な観点からとらえなおすことを促すことになる。フロイトが想定した性的欲動と攻撃性の抑圧という神経症的な症状の成立に関する仮説もまた相対化されなくてはならないことになる。なぜなら彼が本能に由来するととらえた攻撃性は実は攻撃者との同一化という観点からとらえなおすことが出来る可能性が生じたからである。

解離における攻撃性の問題を最も浮き彫りにした論文としては、すでに紹介した「言葉の混乱」が挙げられる。しかしそれをどのように位置づけるかについては諸説がある。

「言葉の混乱」をどのように理解するかについては論者により異なる。というのもこの論文が一筋縄ではないからだ。パッと聞いた感じでは、「解離においては攻撃者と同一化して、自分が攻撃性を発揮する、という事だよね。」となるだろう。そのように理解したならば、攻撃性は実は外から入り込んだものだ、という事になり、フロイトは攻撃性は内部にあり、フェレンチは攻撃性は(虐待などで)外部から入り込んだという全く逆のことを言っているという事になる。これはこれで分かりやすいのだ。しかし「言葉の混乱」にはそれを明言している場所がない。出てくるのは、いわゆるストックホルム症候群に見られるような現象、つまり攻撃者に同一化して自分を攻撃する、という文脈である。他者を攻撃する用意なる、というのはむしろアンナフロイトが後に唱えた「攻撃者との同一化」の概念のほうが近い、という皮肉な事情があるのだ。

2020年9月25日金曜日

治療論 3

  実は複数の心を想定する精神分析家は、実は多かったのだ。その代表としてフェレンチを挙げておこう。彼の論文「大人と子どもの間の言葉の混乱 やさしさの言葉と情熱の言葉(1933年)」の中から特にそのような彼の考えを表している個所を三か所選んでみる(以下、すべて森茂起先生訳)

 「成長途上の人間の人生に外傷が積み重なりますと、分裂が増加しかつ多様になり、それぞれの断片が独立した人格のように振る舞って、たがいにほとんど相手の存在を知らなくなりますので、断片相互の接触を混乱なしに持続するのは不可能になります。ついには断片化のイメージがさらに広がり、原子化と呼んでおかしくない状態にいたるでしょう。このような状態像に直面しても沈み込まない勇気をもつには本当に大きな楽観が必要です。それでも私は、そんな状態でもなおたがいを結びつける方法が見つかると期待します。(148ページ。)

「精神分析のなかで分析家は、幼児的なものへの退行についてあれこれ語りますが、そのうちどれほどが正しいか自分自身はっきりとした確信があるわけではありません。人格の分裂ということを言いますが、その分裂の深さを十分見定めているようには思えません。私たち分析家は、強直性発作を起こしている患者に対してもいつもの教育的で冷静な態度で接しますが、そうして患者とつながる最後の糸を断ち切ってしまいます。気を失っている患者は、トランス状態のなかでまさしく本当の子どもなのです。」(143ページ。)

「次に、分析中のトランス状態において起こる現象をつぶさに見ていくと、衝撃や恐怖があれば必ず人格の分裂の兆候があることがわかります。人格の一部が外傷以前の至福に退行することで外傷が生じないようにすることにはどの分析家も驚かないでしょう。驚くのは、そんなものがあるとは私などもほとんど意識していなかつた第二のメカニズムが同一化にさいして働くのを知ったときです。衝撃を受けることで、それまでなかった能力が、魔術で呼び出されたかのように前触れもなく突然花開くのです。日の前で種から芽を出させ花を咲かせてみせるという魔術師の魔法を思い起こさせるほどです。最悪の苦難というものには、死の恐怖ならなおさらですが、深い眠りのなかで備給されないままいずれ成熟するのを待っていた潜在的素質を突然目覚めさせ、活動を始めさせる力があるようです。」 (147-148ページ。)

2020年9月24日木曜日

治療論 2

 そこで「転回」の論文で提起されていることはいったい何であろう? Itzkowitz 先生はこの有名な論文「解離的な転回」の冒頭(というよりは抄録)でこんな風に書いている。

「解離的なプロセスの出現や、解離的な構造を可能性として持った心、複数の、不連続的な意識の中心により特徴づけられた心の生まれる鍵となる要因は、幼少時に現実に起きたトラウマである。」断片化された患者の分析的な治療到達点は、それらのコミュニケーションを図ることである。
 しかしこれほどさらっと書いている割には、具体的にどのように論じたらいいかがわからない。そこで彼に代わって論じてみたい。
 Itzkowitz の言う「不連続な意識の中心」という考えは、これだけでも従来の意識に関する精神分析的な考え方に対するの持つ意味を大きく変えることになるであろう。この議論に対する一つの有力な考え方が、Stern, Bromberg らにより提出されている。それは彼らの言うMultiple self state 多重的な自己状態という事になる。彼は「治療のゴールは、いくつかの部分の統合を達成するよう努力することではなく、自分の複数の自己状態への反省的な気付きを維持する能力を高めることだ。と言っている。しかしこの考えは、例えば抑圧やスプリッティングにより分けられていた心の部分に対する向かい方とは大きく異なる、というより正反対であるとみることもできる。
 結局は「解離的な転回」を取り入れることは精神分析理論を真っ向から否定することになりかねない。その代わりに考えるべきことは、スペクトラム的な考えを導入することであろう。
 一つには一元的な心 monothetic mind と多元的な心 polythetic mind との間のスペクトラムを考えることである。(後述)

2020年9月23日水曜日

治療論 1

  解離性障害の治療ということで書いてみる。すでに書いたことではあるが、精神分析の文献を検索するときに用いるPepwebで解離dissociationを調べると、すごく上昇傾向にあることが分かる。Search for Words or Phrases in Context (Use Quotes for Phrases): dissociation調べると、確実に増えている。それに伴って解離をどのようにとらえるかということについても一つの大きな転回点を迎えている。Itzkowitz (2015) 先生の「解離的な転回」という論文はそれを表しているのだ。その中では、治療は統合に向かうべきではないという。これは心を一つという信念を超えていることになるが、それでいいのか、という議論はかなり本質的な問題である。でもそれはフェレンチの言ったことを反映しているともいえるのだ。それは精神分析の治療にどのような影響を与えるのだろうか。

Itzkowitz, S (2015) The Dissociative turn in psychoanalysis. The American Journal of Psychoanalysis.75:145–153.

解離について精神分析の内部と、その外側からの視点を少し考えてみるならば、一方では分析の内部における黙殺がある一方では、やはり顕著なのは断片仮説である。断片仮説の端緒はひょっとしたらフェレンチかもしれない。彼が fragment ということを言い出しているからだ。しかし他方ではジャネは第二原則などということを言い出していることはご存じかも知れない。彼は断片化は起きない。新たな生成であるという。

 

 

2020年9月22日火曜日

解離における他者性とは何か? 8

  


 この図が私が示したい最後の図であるが、DIDにおいてDCがどのようにかかわっているかを示したものである。左側は「健常」人ということであるが、この「健常」に付けられた鍵括弧にご注意ください。というのもDIDの状態が健常でない、という保証はなく、ひょっとしたら私たちはDCを複数持っているかもしれないのです。そして右側はDCが複数存在するという、エデルマン自身が予言した事態だ。ここでいくつかのDCを重ねて描いたが、それぞれが上で示したような視床と皮質の間の頻繁なネットワークの行き来と、大脳基底核との関連を有しているのですから、重ねて描くことになる。ただ具体的にどのように重なっているかは誰にもわからない。それらはひょっとしたら本当に解剖学的にずれているのかもしれない。しかし一番考えられるのは、同じ解剖学的なエリアの中に、それぞれ異なったネットワークとして成立しているという可能性もある。あるいは一つの脳波がフーリエ展開するのかもしれない。いずれにせよそれぞれ異なるネットワークからなるDCがそこに存在していると考えることができるのだ。

さてこのように考えて行くと、交代人格のそれぞれがそれぞれ別のDCを備え、したがって互いに他者であるということに異論はないであろう。このような交代人格の個別性は私がいくら強調しても、し過ぎることはない。彼らは異なる味覚を持ち、異なる美的感覚を持ち、異なる性別を有するということが何よりもそれを示している。

2020年9月21日月曜日

解離性障害における他者性とは何か 7

  


まずこの絵であるが、右側はエデルマン・トノーニの本に出てくるダイナミックコアに関するものであり、右側はそれを簡易型に書き直したものである。
これをさらに簡易型に書き換えたものを脳のイメージにオーバーラップさせたいからである。ダイナミックコアは実は大脳皮質、視床、大脳辺縁系を含むかなり複雑なニューラルネットワークであるが、その複数の存在を図示するためには簡単な記号のようなものに置き換える必要があるのだ。

この図で特に強調して示せているのは、視床と大脳皮質の間の両方向性の情報交換である。大脳皮質は個別のバラバラの情報の入力で、視床はそれをまとめて形にする部位である。それらの間の情報の交換がその仕事をより効率よくする。

次の図はそのDCが左右一対存在することを示している。それらは脳梁を介して一つながりになっていることが示されている。

2020年9月20日日曜日

ERの続き 2  解離における他者性とは何か? 6

 ERの続き。

 あとは顛末だけである。どうせオチらしいオチはない。
 私が非常に興味深く思ったことは、当たり前の話ではあるが、「人間、何が起きるかわからない。」である。とくに早朝にERに駆け込んだ、体に何が起きてもおかしくない還暦過ぎの人間が、もうその日の外来もあきらめ、まな板の上に乗ったのに、どうして結局は何事もなかったかのように仕事に戻れた、という不思議さだった。ボルタレン座薬は魔法のように効き、私はJTD医院のERから歩いて帰宅し、診療所に定刻にたどり着いた。もちろんこれ以上ないくらいのハッピーエンドである。その後数日後に結石のかけらが尿と一緒に排出されるまでは、6時間ごとにロキソニンを飲み継いで痛みを散らさなければならなかったという事を除いては。ある意味では「これで済んだの???」と幸運を味わった一日(半日?)だったのである。オシマイ。

ダイナミックコア説とDID

さてここで私はエーデルマン、トノーニの両先生が著した著書に提唱されているダイナミックコア(以降DC)という概念を導入したい。これはエーデルマン先生が人間の意識を成立させる神経ネットワークとして想定したものであり、それは具体的には視床と大脳皮質の間の間の極めて高速の情報の行き来を含む。彼らはこの情報の双方向性の行き来という点を極めて重要視し、それが意識が成立する上での決め手であると考えている。ここで注目するべきなのは、彼らはこのDCが複数存在する可能性を想定していることであり、それが解離性障害や統合失調症と関連しているのではないかという推察も行っている。

 ちなみに近年の研究では、統合失調症における自我機能の障害は、ニューラルネットワークの解体 disintegration に関係していることを示している。

Ebisch,S (2016) The social self in schizophrenia: A neural network perspective on integrative external and internal information processing.
European Psychiatry.Volume 33, Supplement, S45.
 

 統合失調症においては「能動性の意識」「単一性の意識」、 「同一性の意識」「限界性の意識」の障害がすべてそろって障害されている。その意味では自我の分裂という意味でのschizophrenia はまさに単一の意識の分裂の典型といえる。
 例えばAさんが「あいつは敵だ」という幻聴を聞いて、Bさんに攻撃を仕掛けるとする。いわゆる命令性の幻聴である。これを統合失調症のケースと考えるならば、この場合は先ほどのヤスパースの例では1~4が様々な形で制限される。あの人は敵だから攻撃性よ、という声は、そのまま実行される。その意味で「させられ」ですらないだろう。2も問題だ。他者の声(幻聴)が自分の意図になるという意味では、もはや単一の行為主体ではないことになる。同一性は? これはあまり問題とならないだろう。昨日の自分は今日の自分でもある。そして4の境界も怪しくなる。「アイツが敵だ」という声が自分の考えになる、というのは自他の境界があいまいになる、という言い方をされるが、自他の区別の意味がなくなる、という言い方の方が正しいのではないだろうか? その意味ではSにおける行為は「自分が」行ったことであり、それに対して免責が行われるというのは矛盾しているともいえる。
 このようにエーデルマンがダイナミックコアの複数の存在として統合失調症の例を考えたことはあまり理にかなったこととは言えないであろう。しかしDIDの場合はまさにその通りのことが起きていると考えざるを得ない。

2020年9月19日土曜日

ERの続き、解離における他者性とは何か? 5

 ERの続き。

 ええっとどこまでだっけ。ERでの一番ネガティブな体験はそこまでであった。頭の中は外来のことばかり。幸い家人に、私の診療所のパートナーであるN山先生に連絡を取ってもらい、応援に来ていただけることになり、本当に一息つくことが出来た。しかしその間も痛みは治まらない。激痛、というわけでもないが、他のことがあまり考えられない状態。尿管結石の経験者である家人はそれがいかに激痛だったかを強調するので、これとも違うとすると、ただ事じゃないかも知れないな、などといろいろ考えているうちに、医師が登場。小柄な女医さん。いたって普通で気さくな応対。こちらは「尿管結石かと思う」と伝え、医学用語も出てくるので精神科医であることを明かすと、少し話が早くなる。彼女も症状の経緯から言って、そのような見立てらしい。背中を打診してもらうと、腰の下の方を叩かれたときに痛みを持って響く。「とにかくエコーかなんかで診ていただければ、と・・・・・」というと女医さんは「いや、もうCTにしましょう」。そうか、最近はもうルーチンでCTなのだ。エコーより解像度もいいし。という事で階下のCT室まで。終わってベッドに横にならせていただく。あとは結果待ち。ちょっとまどろんだのだろうか。女医さんが「ありましたよ。石が映ってました!」と教えてくれる。「あ、ありがとうございました。ところでこの痛みを何とかしてくれませんか・・・・」「わかりました」という事でボルタレン座薬50㎎。お尻に入れてちょっとまどろむ。30分くらい経ったろうか。痛みはすっかり消えていた。(以後続く。)


解離における他者性とは何か 5

私の理解では、別人格はしばしば他者として突然に出現する。そして表れたときはすでに完成形に近い。ある患者さん(30代女性、男性の性自認)は、別人格Bが最初に現れたときについて次のように回想する。「ある日彼女はピンクのランドセルを背負って、転校生として現れました。それがBだったんです。」ある別の患者さんの交代人格は、覚えている最初の体験について語った。「最初に体験したことははっきり覚えています。中学校の屋上にいて、街全体を見渡していました。」このような人格の出現を、フロイトだったらどのように説明しただろうか。

 ここで自我障害について考えてみよう。これについては精神科医になりたての頃、先輩から講義を受けたヤスパースの自我障害の4つの障害というのがある。これはもっぱら統合失調症において損なわれているものとして4つを挙げている。
「能動性の意識」 自分自身が何か行っていると感じられる
「単一性の意識」 自分が単独の存在であると感じられる
「同一性の意識」 時を経ても自分は変わらないと感じられる
「限界性の意識」 自分は他者や外界と区別されていると感じられる

これらは解離性障害において、具体的にどのように損なわれているだろうか。すでに出した車を運転していたAさんと別人格Bさんを別人格についてはどうであろうか?Aさんは自分がハンドルを握り、自分が自分のタイミングで車を出そうとしているという能動感を持つ。だからBさんの声に意外な思いがしたのだ。AさんはBさんとは異なることを自覚している。(「Bはなんて自分と違ってイライラしているのだ、と驚いた、など。)だからそれぞれが能動的で単一の存在と信じているのだ。また同一性についてはどうか。AさんとBさんは時間が過ぎても自分を自分と感じるだろうか。おそらく。昨日はBさんで活動していたとしても、Aさんは「昨日は奥で休んでいた」という主観的なアリバイを持っているのが普通である。もちろんAさんとBさんが「入り混じる」こともあるだろう。しかしそれはAさんとBさんは通常はしっかり分かれているからこそ、曖昧なときには「混乱」させられることもある。(二色のソフトクリームのような感覚を味わう)。

2020年9月18日金曜日

解離における他者性とは何か? 4

 分析的な心の理解について

ここで精神分析的な心の理解の基本について一言申し上げたいと思う。それはあまりに常識的で、改めて申し上げるまでもないことだが、それは心が一つであるという事である。もちろん心はいくつかの部分に分かれている。それをフロイトは意識、前意識、無意識と呼んだり(局所論モデル)、超自我、自我、エスと呼んだり(構造論モデル)した。しかしそれらは全体として一つなのであり、それらは力動的な連続体として捉えられるのである。そしてその意味では、意識と無意識はつながっているのだ。そしてこれがフロイトが発見したと考えた心の秘密の最大のものなのである。なぜならこれまでは十分に説明がつかなかった人の行動や症状を説明する手段が得られることとなったからである。

例えば地球を考えてみる。地球は一つであり、内部のマントルその他を通して繋がっていると私たちは理解している。すると地球の遠く、例えば裏側で起きた何かが、内部のマントルの動きか何かを介して、表側に何らかの影響を与えるかもしれないではないか。たとえば太平洋岸で地震もないのに大きな津波が押し寄せた。実はチリで大地震が起き、そこで起きた津波が太平洋を渡って太平洋岸に及んだ、という事が分かった。1960年のチリ地震で実際に起きたことである。こうなると地球の全体がつながっているという事が分かる。太古の時代には日本の津波とチリの地震が関係していたことなど知る由もないだろう。でも地球に関する情報が行きかう現代ではその様な動きはすぐにわかる。私たちは「そうか、地球は繋がっているんだ!地球上の各地で起きることはすべて説明がつくんだ」と思うかもしれないが、それにより説明がつくのは地球上の出来事のほんの一部でしかない。

しかし心を一つの全体としてとらえる見方を提唱したフロイトにとっては心がそうでない場合には都合が悪くなってしまうという事だろう。ともかくも解離性障害を受け入れないフロイトにはそのような事情があったものと考えられる。

2020年9月17日木曜日

解離における他者性とはなにか? 3

 フロイトとジャネはシャルコーから解離のイニシエーションを受けた

 そもそもフロイトとジャネの行き違いはどのように生じたのであろうか。二人は同時の心理学の代表的な人物であり、同じようにヒステリーと当時呼ばれていた解離性障害の患者さんたちに接していた。フロイトとジャネは、別人格の成立に関して、全く異なる理論を持っていた。
  このうちジャネは「他者性」を全面的に認める立場の理論を展開していた。フロイトは別人格の「他者性」を認めないという素地を作り、それは精神分析を超えて一般に広まった。だから前盛期はずっと精神分析の影響下では、複数の人格の存在は認められなかったのである。
 事の始まりはフロイトがブロイアーと書いた「ヒステリー研究」であった。1889までにフロイトは催眠による暗示から、カタルシス療法にシフトし、仕事は軌道に乗り、一連の患者の治療を通じて自らのスタイルを確立していった。フロイトはワーカホリックなところがあったから、1892年にブロイアーに共同の執筆を迫り、共著論文「ヒステリー諸現象の心的機制について暫定報告」 を書いた(1893年)。それをもとに1895年「ヒステリー研究」を発刊することになる。これは第1章が「暫定報告」の採録、第2 アンナOの治療、第3 フロイトの4ケース、第4 ブロイアーの理論、第5 フロイトの理論、という構成だった。しかしこの本の中でフロイトはブロイアーと異なる意見をさっさと提出している。何しろベルネームに行ってから、フロイトは吹っ切れた。1992年はちょうどルーシーの治療に手ごたえを感じていたころだろう。一方ブロイアーは、10年目に治療を終えていたアンナOについて書くことになる。アンナO.の治療がとても成功したとは言えないと考えていたブロイアーにとっては、このような本にまとめるのは不本意だったのである。
  フロイトとブロイアーは、ヒステリーの理解について異なった考えを持っていたが、それを簡潔に言えばこうなる。

p  ブロイアー:トラウマ時に意識のスプリッティングが生じる。

p  フロイト : 私は実は類催眠状態に出会ったことがない。(結局は防衛が起きているのだ。)

  もう少し詳しく見ると、ジャネは解離の「第二法則」という提言を行っている。「(解離が生じる際にも)主たるパーソナリティの単一性は変わらない。そこから何もちぎれていかないし、分割もされない。解離の体験は常に、それが生じた瞬間から、第二のシステムに属する。(Revue Philosophique, 23, 449-472)

ジャネは意識のスプリッティング(解離)を意識の増殖 multiplication としてとらえていた。他方のフロイトは意識のスプリッティング(解離)を、せいぜい意識の分岐 division としてとらえていた。
 
さてジャネ派の理論のその後を追うならば、DIDにおける「共意識 co-consciousness」が「共活動 co-active する」という考えはボストンの学者(William James, Boris Sidis, Morton Prince, William McDougall に受け継がれ、その後廃れた。(その末裔がJohn Nemiah, 1979). M. Prince は「同時遂行」の実験をいくつか行った
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 さてそれから精神分析では解離が原則として論じられなかったが、まったくこの概念が用いられなかったというわけでもない。フェアバーンもウィ二コットも時代が下ればサリバンも解離という言葉を使っている。しかしそれらの臨床家が受け入れたのは、解離が防衛的な形で用いられたという事である。自身は解離について語らなかったにもかかわらず、フロイト以外の人の使い方はフロイト的(つまり力動的)なのであった。つまり解離は防衛として生じ、それは抑圧との類似性を持ち、解離された部分どうしはある種の機能的、力動的な連関を持っているとみなされる。それをもう少し推し進めると、臨床的には、ある人格は、別人格の心と連動し、その意味で本当の意味での「他者性」はないと考えられる傾向にある。