2020年9月29日火曜日

他者性 推敲 1

 解離における他者とは何か

本日の発表では、「解離性障害における他者性の問題」というテーマでお話をする。私がなぜこのテーマを取り上げたかと言えば、解離性同一性障害(以下、DID)の患者さんの多くが「自分は自分であり、ほかの人格とは一緒にしないで欲しい。」と主張するにもかかわらず、一般人や臨床家の一部は、この点を理解しないということが起きているからだ。そのために患者さんは「わかってもらえていない」と失望することが多いのである。つまり「解離性障害における他者性の問題」とは、具体的に言えば一人の交代人格にとって、別の人格は他者として扱わているのか、というテーマである。

私はこのテーマには重大な問題が潜んでいることを最近ますます感じるようになっている。この問題がどうして自分の中で今頃になって大きくなってきたのかが不思議だ。もっと早くこの問題に気がつくべきだと思うのだが、それは私の勉強不足である。最近になってようやく、1994年のDSM-IVでいわゆる多重人格障害(MPD)という呼び名がDIDに変更になった理由について考え直す機会があったのだ。DSM-IVの作成に携わった解離委員会委員長のDavid Spiegel 先生は言ったという。

「誤解してはならないのは、DIDの患者さんはいくつかの人格を持っていることが特徴なのではない。(満足な)人格を一つも持てないことが問題なのだ。」

実際MPDDIDに関する先駆者たちの記述には、交代人格が断片 fragment であり、彼らは「自分たちが別個である妄想を持つ delusional separatedness」とまで言っている。果たしてDIDの人格たちは人格未満の断片なのだろうか? この問題を問いただしたい。率直に言えば、別人格同士が他者として存在しているという臨床的な実感は、私にとってはかなり確かなものである。別人格の「他者性」が伺われる状況をいくつか挙げてみよう。人格同士がライバル関係にある場合や、別人格に対して(自傷とは異なる意味での)攻撃が行われる場合や別人格に対して恋愛感情が向けられる場合など、傍証として挙げられるものはたくさんある。

別人格の「他者性」が伺われる簡単な例をひとつ挙げてみよう。

あるDIDを有するAさんが言った。
「この間車で信号待ちをしていて、青になったのに、前の車がなかなか発車しませんでした。すると後ろから突然『何をぐずぐずしてんだよ!』というBの声がしました。ずいぶんイライラしているんだなあ、と私は驚きました。(BはAの別人格だった。)

このような例を考えるとき、BAさんにとって他者だろうか。もしそのBさんがしばしば登場し、Aさんに成り代わって活動をするとき、Bは事実上の他者ではないだろうか。これとの対比で、Bさんが別人格ではなく、同乗していた口の悪い友人だとしたらどうだろうか?もちろんれっきとした他者の声に用に聞こえるだろう。ところがBさんがAさんの別人格だとすると、とたんに主人格とは独立した個別の人格として扱うことに私たちはためらうようになる。しかしこれはおかしいのではないだろうか。そもそも別人格という意味でよく使われた alter (ラテン語の「他者」)という表現はますます使われなくなって来ているのである。

しかしいつも解離の方と会っている私としては納得がいかない。例えばAさんと会ったとする。たとえAさんにはBさん、Cさん…という交代人格がいたとしても、私とAさんの関係は基本的には変わらない。Aさんが「人格未満」であるようには少しも思えないのである。
 ここには解離は防衛として意図的になされるという理解(誤解?)が通説となっているからであるかもしれない。例えばAに代わってBさんが出現し、彼はAさんとは違って怒りをあまり抵抗なく表現できるとするならば、「怒りを表現する人格は、あなた自身が抑圧している部分を表している」という治療者の理解は、現在でもごく常識的に(臨床経験の多寡にかかわらず)なされる傾向にある。すると自分が本来体験するであろう怒りを自分から解離させるという行動が、その人の不完全性を表しているという考えが自然と導かれてしまうのである。私にはこれは深刻な問題のように思われた。第一怒りを外に表現できない人はたくさんいるが、それを理由にそれらの人々は不完全だと主張する権利は誰もないであろう。