トラウマの現実性と攻撃者の由来
イスコビッチの「トラウマの現実性」についての議論は、もう一つの深刻な問題を提起する。それを私は「攻撃性の由来」という観点から論じたい。
そもそもフロイトの打ち立てた精神分析はトラウマの非現実性ないしはファンタジー性に立脚したものであった。しかるに解離症状が実際のトラウマに由来することは、精神医学的な疫学的調査から明らかにされていることである。従って解離症状を呈する人たちを臨床的に扱うという事は彼らの多くが幼児期に実際にトラウマ的な状況に晒されていたという事を認めることになる。これは分析家であっても変わらない。
このことは精神分析でとらえられていた攻撃性の問題をより多層的な観点からとらえなおすことを促すことになる。フロイトが想定した性的欲動と攻撃性の抑圧という神経症的な症状の成立に関する仮説もまた相対化されなくてはならないことになる。なぜなら彼が本能に由来するととらえた攻撃性は実は攻撃者との同一化という観点からとらえなおすことが出来る可能性が生じたからである。
解離における攻撃性の問題を最も浮き彫りにした論文としては、すでに紹介した「言葉の混乱」が挙げられる。しかしそれをどのように位置づけるかについては諸説がある。
「言葉の混乱」をどのように理解するかについては論者により異なる。というのもこの論文が一筋縄ではないからだ。パッと聞いた感じでは、「解離においては攻撃者と同一化して、自分が攻撃性を発揮する、という事だよね。」となるだろう。そのように理解したならば、攻撃性は実は外から入り込んだものだ、という事になり、フロイトは攻撃性は内部にあり、フェレンチは攻撃性は(虐待などで)外部から入り込んだという全く逆のことを言っているという事になる。これはこれで分かりやすいのだ。しかし「言葉の混乱」にはそれを明言している場所がない。出てくるのは、いわゆるストックホルム症候群に見られるような現象、つまり攻撃者に同一化して自分を攻撃する、という文脈である。他者を攻撃する用意なる、というのはむしろアンナフロイトが後に唱えた「攻撃者との同一化」の概念のほうが近い、という皮肉な事情があるのだ。