2020年9月27日日曜日

治療論 5

 攻撃性の由来と所在

「転回」が意味するものとして重要だと思えるのは、攻撃性のありかをどのように考えるかということである。転回は、クライエントの示す攻撃性をよりトラウマ理論に沿った、外来のものとしてとらえるという視点を促す。そもそもフロイトの精神分析では、性欲動も攻撃性も本能の一部として内在化されたものとみなしているからだ。Howell, Izko先生その他の論者が言うとおり、解離性障害についての分析的理解は、トラウマ理論と手を取り合いながら発展してきた。そしてそれはフロイトがトラウマを軽視したことから生まれた伝統的な精神分析理論とは対をなしている。そしてそれは具体的にはDIDにおける人格が示す攻撃性をどのようにとらえるかという点に比較的典型的に表れるといってよい。

攻撃者との同一化 (IWA, identification with the aggressor) について特に深い理解を示したのはフェレンツィである。彼の攻撃者との同一化は非常に示唆に富んでいる。フェレンチはその中で攻撃者と相対した患者があたかもその攻撃者に同一化する形でその願望を自分の願望のように感じ取る様子が描かれている。ただし彼のいう攻撃者との同一化に関しては、それは攻撃者の模倣ではなく、その意味で攻撃者との同一化とフェレンチが呼んだのかは疑問がある(Frankel2002)これは今回彼の論文、およびHowell さん、Frankelさんのこのテーマに関する記述を読みなおして思ったことだが、フェレンチは本当の意味での攻撃者との同一化のことを書いていない。彼は攻撃者に同一化して自分を傷つける部分について書いているにすぎないのだ。
Frankel, J. (2002).  Exploring Ferenczi's concept of identification with the aggressor: Its role in trauma, everyday life, and the therapeutic relationship. Psychoanalytic Dialogues, 12(1), 101–139.
Howell, E (2014) Ferenczi’s Concept of Identification with The Aggressor: Understanding Dissociative Structure with Interacting Victim and Abuser Self-States.
The American Journal of Psychoanalysis 74(1):48-59.

しばしばこれとの混同への注意が呼びかけられているアンナ・フロイトの「攻撃者との同一化」との比較が論じられる。上に述べたように、こちらこそもう一つの論じられるべき「攻撃者との同一化」、だからである。フェレンチが論じなかった攻撃者との同一化を明確化することが転回に求められる一つの理由は、それが彼女たちが外に対して示す攻撃性をどこに位置付けるかという最大の問題にかかってくるからである。彼女たちは自分に向けて攻撃的になる(自傷行為を行う)だけではもちろんない。他者に対してもそうである。このことにフェレンチは戸惑っていたのではないか。だからこそ彼もこの第二のメカニズムが生じる仕組みについて私は知らない、とまで言っているのである。
 それでは現在の分析家たちはこの問題をどのようにとらえているのだろうか。Howell に注目しよう。彼女の「迫害的な交代人格persecutory alter (以下PA)(p211)は押しなべて防衛としての意味を強調している。「迫害的で虐待的な人格を有するという事は、内的なアルカイダやタリバンがいて、奇妙で古臭いルールを少しでも破るとそれを懲罰してくるようなものである。」「それは内的、外的な迫害者に情緒的なアタッチメントを起こしている」「これらの人格が他者に向かうことはそれほどないが、時には治療者やそのほかの人に対して強迫的だったり危険だったりする。(p211) さてHowell さんの主張で一番気になるくだりが以下の部分で、PAはもともと迫害的なケアテーカーを模して成立するが、それはそもそも防衛的な意味で作られたという。つまり怒りや恐怖はそれが抑えられることが身を守ることにより本人がそれだけ守られるから、という。実はこの「PA=防衛のため」説は分析関係の議論としては根強い。やはりこれが分析における私はしばらく前に「黒幕人格について」の中で、ラッカーによるconcordant の同一化についての議論も加えてある。つまり攻撃者の同一化のプロセスはやはりスペクトラムだという事である。