まあ、サッチ(仮名)の話はともかく。恥と自己愛の話だ。私の関心はあくまでも恥であった。自己愛の部分は、恥ずかしがり屋の自分をふがいないとする、その部分ではあっても、自己愛の問題としては認識されなかったわけである。
私の中で恥と自己愛のテーマが結びついたのは・・・・。ああここはもう何度かいたか知れない。はっきり言ってスキップしたいところだが、話の経緯としては仕方がないか・・・・。
アメリカで恥に関する精神分析の書籍が目白押しに出たのが1980年代で、私もそれに影響を受けたのである。アンドリュー・モリソンの「恥―自己愛の裏面 Shame – Underside of Narcissism」 という本が特にインパクトが多かった。彼の主張は、そもそも「コフートの自己愛の理論は、恥に関する論考である(コフート自身はそう言っていないが)」「恥とは自己愛の傷つきのことである」という、とても分かりやすいものだった。そのころ私は十分にコフート理論に興味を覚えていたし、それと私がさらに前から関心を抱いていた恥の議論との結びつきについても大いにありうると考えた。このあたりから、私の中で恥の問題と自己愛の問題との結びつきは自然のものとなった。恥についての記述も、自己愛つながりになっていったわけである。
さて私はこの恥と自己愛のテーマの連結については、おおむね問題ではないと思っているが、少しだけ強引なところがあることも認めよう。「恥は自己愛の傷つきか?それだけか?」と問われるとちょっと「うーん」、となる。恥は自己を不甲斐ないと思う気持ちだ。自分は「優れている、エラいんだ」(自己愛)、という気持ちが崩れた時とは限らない。ふつうでいられればそれで満足なのに、普通にできない、それがふがいないというところがある。すると通常の意味での自己愛には必ずしも当てはまらない気もする。
いまここで「ふがいない」と書いたが、このふがいなさの感情の大きさは、おそらく自己愛と何らかの関係はあるだろう。(ちょうど思春期における私のように。)それを自己愛と呼べる気もするが、そうでない気もする。また、では「自己愛的な人ほど恥が大きくなる」かと言えばそうでもないだろう。自己愛的な人は、少しくらいバカにされても一笑に付すか、怒り出すかだろう。必ずしも恥を体験しないかもしれないのだ。
ただし自らが「普通でありたい」「もう恥をかきたくない」という願望が強ければ強いほど、それがうまくいかなかった場合の恥の感覚も強いということは言えるであろう。その意味では恥の感情は、それを克服しようという気持ちに比例するというところがある。というわけで「恥イコール自己愛の損傷」というモリソン(そしてそれ以外の多くの米国における恥の論者)の議論は、もちろんそれを恥の定義としてしまえばいいのだが、必ずしも成立しないという気持ちも私の中にはあるのだ。
いまここで「ふがいない」と書いたが、このふがいなさの感情の大きさは、おそらく自己愛と何らかの関係はあるだろう。(ちょうど思春期における私のように。)それを自己愛と呼べる気もするが、そうでない気もする。また、では「自己愛的な人ほど恥が大きくなる」かと言えばそうでもないだろう。自己愛的な人は、少しくらいバカにされても一笑に付すか、怒り出すかだろう。必ずしも恥を体験しないかもしれないのだ。
ただし自らが「普通でありたい」「もう恥をかきたくない」という願望が強ければ強いほど、それがうまくいかなかった場合の恥の感覚も強いということは言えるであろう。その意味では恥の感情は、それを克服しようという気持ちに比例するというところがある。というわけで「恥イコール自己愛の損傷」というモリソン(そしてそれ以外の多くの米国における恥の論者)の議論は、もちろんそれを恥の定義としてしまえばいいのだが、必ずしも成立しないという気持ちも私の中にはあるのだ。
それに比べて森田正馬が唱えた、対人恐怖に特有の「負けず嫌いの意地っ張り根性」という概念化は、かなりすっきりすると思う。彼や、それを踏襲した内沼幸雄先生の「強力性と無力性の葛藤」という考え(ドイツ精神医学、クレッチマー、カレン・ホーナイなどなど)のとらえ方の方が妥当である気がする。
このように考えて私が最終的に到達したのは、恥を「対人場面における恥の感じやすさ」と「自己表現の願望、自己顕示欲」との関係で論じることにした。それが恥の二次元モデルである。これは次のような理解の仕方だ。
人間の恥の感情は、他方でどれだけ自分を表現したいかという願望が強いかにより修飾を受ける。もちろん両者は共存しうる。(少なくとも私はその例だ)。そこでの葛藤は苦痛を呼ぶ。しかし他方で自己表現をあまり望まない対人恐怖もある。無力型の対人恐怖というべきであろうか。これらの人は社会からどれだけ身を引き、ひそかに生きるかを考えるのである。
では自己表現の願望が強く、恥の感じやすさが低い人たちはどうなのか。何しろ組み合わせが4つなので、これについても考えなくてはならない。するとここで面白いことが起きる。「俺は偉いんだ」タイプの人がその自己表現の機会を阻止されたらどうなるのだろうか?そこに生じるのは恥だろうか?しかし彼らはもともと恥を体験しにくいということが前提となっている。とするとその場合の彼らの反応は・・・・怒りなのだ。彼らは恥をかかされた場面で烈火のごとく怒るのである。
この発想が、コフートの「自己愛憤怒」から来たことはお分かりであろう。彼は自己愛が傷つけられると人は怒りを体験するといった。これは深い洞察である。彼らは恥じる代わりに怒るのだ。ただしここでそこに仮想的な恥の項目を入れることもできるかもしれない。自己愛→それを傷つけるような他者のかかわり → 怒り、ではなくて、
この発想が、コフートの「自己愛憤怒」から来たことはお分かりであろう。彼は自己愛が傷つけられると人は怒りを体験するといった。これは深い洞察である。彼らは恥じる代わりに怒るのだ。ただしここでそこに仮想的な恥の項目を入れることもできるかもしれない。自己愛→それを傷つけるような他者のかかわり → 怒り、ではなくて、
自己愛→それを傷つけるような他者のかかわり( → 恥) → 怒り
というわけだ。彼らは一瞬、ほんのなん分の一秒だけの恥を体験して、「この俺のメンツをつぶしたな!!」と激しく怒るのである。
恥と自己愛トラウマ
大体以上で、私の近著である恥と自己愛トラウマの素地は説明できたかもしれない。私のこの著書は、自己表現の願望が高まった人間が恥の体験と葛藤を起こすような人々についての考察である。この世の中で厄介なのは、自己愛的な人が、他者からの諫めや助言を「恥をかかせる体験」と認識して、烈火のごとく怒り、周囲に様々な最悪をもたらす。それがこの世における最大の不幸の一つであるが、この自己愛は、いったんそれをいさめる人がいなくなると、ほぼ自動的に膨張し、暴走 free run してしまうのだ、という主張である。