2014年10月31日金曜日

「自己愛と恥について」 (3)

まあ、サッチ(仮名)の話はともかく。恥と自己愛の話だ。私の関心はあくまでも恥であった。自己愛の部分は、恥ずかしがり屋の自分をふがいないとする、その部分ではあっても、自己愛の問題としては認識されなかったわけである。
私の中で恥と自己愛のテーマが結びついたのは・・・・。ああここはもう何度かいたか知れない。はっきり言ってスキップしたいところだが、話の経緯としては仕方がないか・・・・。
アメリカで恥に関する精神分析の書籍が目白押しに出たのが1980年代で、私もそれに影響を受けたのである。アンドリュー・モリソンの「恥―自己愛の裏面 Shame – Underside of Narcissism という本が特にインパクトが多かった。彼の主張は、そもそも「コフートの自己愛の理論は、恥に関する論考である(コフート自身はそう言っていないが)」「恥とは自己愛の傷つきのことである」という、とても分かりやすいものだった。そのころ私は十分にコフート理論に興味を覚えていたし、それと私がさらに前から関心を抱いていた恥の議論との結びつきについても大いにありうると考えた。このあたりから、私の中で恥の問題と自己愛の問題との結びつきは自然のものとなった。恥についての記述も、自己愛つながりになっていったわけである。
さて私はこの恥と自己愛のテーマの連結については、おおむね問題ではないと思っているが、少しだけ強引なところがあることも認めよう。「恥は自己愛の傷つきか?それだけか?」と問われるとちょっと「うーん」、となる。恥は自己を不甲斐ないと思う気持ちだ。自分は「優れている、エラいんだ」(自己愛)、という気持ちが崩れた時とは限らない。ふつうでいられればそれで満足なのに、普通にできない、それがふがいないというところがある。すると通常の意味での自己愛には必ずしも当てはまらない気もする。
 いまここで「ふがいない」と書いたが、このふがいなさの感情の大きさは、おそらく自己愛と何らかの関係はあるだろう。(ちょうど思春期における私のように。)それを自己愛と呼べる気もするが、そうでない気もする。また、では「自己愛的な人ほど恥が大きくなる」かと言えばそうでもないだろう。自己愛的な人は、少しくらいバカにされても一笑に付すか、怒り出すかだろう。必ずしも恥を体験しないかもしれないのだ。
 ただし自らが「普通でありたい」「もう恥をかきたくない」という願望が強ければ強いほど、それがうまくいかなかった場合の恥の感覚も強いということは言えるであろう。その意味では恥の感情は、それを克服しようという気持ちに比例するというところがある。というわけで「恥イコール自己愛の損傷」というモリソン(そしてそれ以外の多くの米国における恥の論者)の議論は、もちろんそれを恥の定義としてしまえばいいのだが、必ずしも成立しないという気持ちも私の中にはあるのだ。
それに比べて森田正馬が唱えた、対人恐怖に特有の「負けず嫌いの意地っ張り根性」という概念化は、かなりすっきりすると思う。彼や、それを踏襲した内沼幸雄先生の「強力性と無力性の葛藤」という考え(ドイツ精神医学、クレッチマー、カレン・ホーナイなどなど)のとらえ方の方が妥当である気がする。
 このように考えて私が最終的に到達したのは、恥を「対人場面における恥の感じやすさ」と「自己表現の願望、自己顕示欲」との関係で論じることにした。それが恥の二次元モデルである。これは次のような理解の仕方だ。
人間の恥の感情は、他方でどれだけ自分を表現したいかという願望が強いかにより修飾を受ける。もちろん両者は共存しうる。(少なくとも私はその例だ)。そこでの葛藤は苦痛を呼ぶ。しかし他方で自己表現をあまり望まない対人恐怖もある。無力型の対人恐怖というべきであろうか。これらの人は社会からどれだけ身を引き、ひそかに生きるかを考えるのである。
では自己表現の願望が強く、恥の感じやすさが低い人たちはどうなのか。何しろ組み合わせが4つなので、これについても考えなくてはならない。するとここで面白いことが起きる。「俺は偉いんだ」タイプの人がその自己表現の機会を阻止されたらどうなるのだろうか?そこに生じるのは恥だろうか?しかし彼らはもともと恥を体験しにくいということが前提となっている。とするとその場合の彼らの反応は・・・・怒りなのだ。彼らは恥をかかされた場面で烈火のごとく怒るのである。
この発想が、コフートの「自己愛憤怒」から来たことはお分かりであろう。彼は自己愛が傷つけられると人は怒りを体験するといった。これは深い洞察である。彼らは恥じる代わりに怒るのだ。ただしここでそこに仮想的な恥の項目を入れることもできるかもしれない。自己愛→それを傷つけるような他者のかかわり → 怒り、ではなくて、
自己愛→それを傷つけるような他者のかかわり( → 恥) → 怒り
というわけだ。彼らは一瞬、ほんのなん分の一秒だけの恥を体験して、「この俺のメンツをつぶしたな!!」と激しく怒るのである。

恥と自己愛トラウマ
大体以上で、私の近著である恥と自己愛トラウマの素地は説明できたかもしれない。私のこの著書は、自己表現の願望が高まった人間が恥の体験と葛藤を起こすような人々についての考察である。この世の中で厄介なのは、自己愛的な人が、他者からの諫めや助言を「恥をかかせる体験」と認識して、烈火のごとく怒り、周囲に様々な最悪をもたらす。それがこの世における最大の不幸の一つであるが、この自己愛は、いったんそれをいさめる人がいなくなると、ほぼ自動的に膨張し、暴走 free run してしまうのだ、という主張である。

2014年10月30日木曜日

「自己愛と恥について」 (2) すべてのシステムを巻き込んだ精神療法の方法論の構築 (2)

明日から精神分析学会。私が唯一最初から最後まで出席する学会である。

「自己愛と恥について」 (2)
でもこの原稿って、結局私が書いたことをまとめて提示すればいいのだろうか?何かそんな気がしてきた。「恥と自己愛トラウマ」は決して多くの人には読まれていないし、このテーマについて追ってきた私としては、これまでの考えをまとめればいいのだろうか?でもそれだと全然面白くないのだが…。仕方がないので、やってみよう。とほほ。
そもそもどうして「恥と自己愛」なのか?
私の二冊目の著書「恥と自己愛の精神分析」は1997年の出版であり、この頃からこのテーマは気になって仕方がなかったわけである。私はフランスやアメリカに渡るとき、「私は日本人である」という名刺代わりに何か伝えられることがあるとしたら、対人恐怖についてであろうと思っていた。ただし決してそのために恥をテーマに選んだのではない。恥と対人恐怖のテーマは思春期以来の私の個人的なテーマであった。「人と会うって、どうしてこんなに恥ずかしいのだろう」というわけだ。ただ同時に確かだったのは、物おじしてしまう自分をものすごくふがいないと思っていたということだ。
高校生のころ、スズキサチオ(仮名)というクラスメートがいた。私はどれだけ彼をうらやましい、と思ったことか・・・・。彼は私が欲しいもののかなりを持っていた。特に物怖じしない態度が素晴らしかった。私はフォークソング部なるものに所属し、サッチ(彼のあだ名、仮名)のボーカルに合わせてギターを弾いたりなどしていた。高校2年の文化祭で何かの催しがあり、司会者が客席からボランティアを募った。ちょっとセリフを言うだけの簡単なものだったと思う。私はそんなところに出ていくようなタイプでは全くないが、ちょっと興味を感じたことを覚えている。するとサッチが後ろの方から「ハーイ!」と声を上げながら、後ろの客席から立ち上がり、ステージの方に走っていくではないか!その姿の無邪気で恐れ知らずな雄姿は、40年以上たっても目に焼き付いている。
どうしたらサッチのようになれるのか? 否、どうして彼のようになれないのか、と思い続けた青春時代だったが、こう書いてみると、恥と自己愛に関する原点は私にとってはまさにこれである。自己主張をしたいという願望と、それが生む羞恥への恐れという葛藤である。この両方がそれなりに高くて、葛藤が大きければ、これが人生の主題のひとつとなる。どちらが勝っていれば「どうしてそんなことが恥ずかしいの?」とか「人前に出るなんて、とんでもない。最初から考えていませんよ」となり、そもそも問題意識として浮かび上がらないわけである。
それにしてもサッチ、どうしているかな。ググッても彼の名前が出てこない。私はサッチが大変な可能性を秘めた人間で、これから人生を順風満帆に歩み、将来絶対名を成すと思っていた。でも案外平凡な生活を送っているのだろうか。世の中積極性だけではないということか。しかし彼は成績も良く、性格も悪くなかった。どこかでしずかに人生を満喫しているのだろう。


すべてのシステムを巻き込んだ精神療法の方法論の構築 (2

 さてこのような私の考え方は、基本的にはレスター・ルボースキーが提唱した「ドードー鳥の原則」に影響を受けている。といっても彼の概念に影響されたというよりは、私が常日頃考えていたことをそれがうまく表現していたからである。ルボースキーのこの原則についてご存じない方のために少し説明すると、彼は1970年代頃より始まった、「どのような精神療法が効果があるか?」という問いに関して、「結局皆優れているのだ、その差異の原因は不明なのだ」という結論を出した。それを彼は「不思議の国のアリス」に登場する謎の鳥の下した裁定になぞらえたのである。(ここで、ドードー鳥の原則は、それ以前に全盛期の前半に誰かに提唱されたものを彼が引き継いだ、という論文を読んだ気がしだした。急いで調べなきゃ。)
この原則は、私が日々実感し続けていることである。それは30年前に精神科の臨床をはじめたときからあまり変わらない。それは私は患者さんと話すとき、どう考えても自分がテクニックらしきものを用いていないと感じるのだ。それは精神分析のトレーニングを終えてもそうだし、認知療法の手ほどきを受けてもそうだった。いや、それは性格ではないかもしれない。「それでは精神分析(あるいは認知療法)のプロセスに入りましょう」ということはあるのだが、そこに行き着くまでに患者さんとの「面談(雑談?)」が続き、残り10分、ということもないわけではないのだ。

この長々とした、本題からずれた面談や雑談はしかし、意味がないわけではない。というより数日振り、ないしは数週間ぶりに患者さんとであったときは自然発生的に起きてくるのである。まずは最初に「ここ数日(数週間)はいかがでしたか?」という話になるが、そこから昨日あった出来事の詳しい話や、それについてのアドバイスなどを求められたりする。すると「いや、もう分析(認知療法)」をはじめなくてはならないので、その話は後で」とも言えない。また本題が始まったとしてもそこから話が脱線することが多くあり、それが決して意味がないわけではなく、現在の患者さんの生活の中で最も切羽詰った出来事であったりするのだ。この時間はとても大事なのだが、いったい何が起きているのかが不明なのだ。無駄なのか?決してそんなことはないだろう。しかし例えば認知療法のプロセスを邪魔しているのか? うーん、微妙。そうでもあるし、そうでもないような。
 昔ある離婚によるトラウマをもった中年の男性のリクエストに応じて、EMDRを行ったことがある。といってもまあ一セッション30分、隔週程度だ。医師としての診察の枠の中だったからである。最初は熱心にやったが、あまりいい結果が得られなかった。そのうちEMDRのセッションの時間が短くなり、各EMDRの間の雑談も多くなり、そのうち緩急を動かしてもらう時間は申し訳程度になってしまった。しかしその間彼はしばらく前に去られてしまった奥さんのことを私と語って涙した。それはそれで重要な時間ではなかったかと思う。私は認知療法はあまり熱心にやったことはないが、私のイーカゲンな性格のせいか、似たようなことが起きるような気がする。テキストどおりの認知療法をやっていて効果が上がれば良いが、うまくいかなくて少しずつ形を変えていくうちに、面談(雑談)になっていってしまう。だめだこりゃ。大野先生に怒られちゃうな。

2014年10月29日水曜日

すべてのシステムを巻き込んだ精神療法の方法論の構築 (1) 「自己愛と恥について」 (1)

解離に戻りたいのであるが、オトナの事情が続いてしまっている。二つ,いや三つ書かなくてはならない。

すべてのシステムを巻き込んだ精神療法の方法論の構築 (1)

 ある心理士さんの話を伝え聞いた。彼の職場は、一人の精神科医と複数の心理療法士を抱えたクリニックである。「私の職場では、誰も認知療法をやれる人がいないので、誰かその勉強をしてくれないか」その心理士さんは分析的なオリエンテーションを持っていたので、スーパーバイザーにお伺いを立てたが、あまりいい顔をしないので困ってしまったという。 おそらく日本の精神療法の世界では、このようなことはいたるところで起きているのかもしれない。
 もう一つは精神医学の世界で起きていること。精神療法や精神分析に関心を示す精神科のレジデントが急速に減っている。はるか30年前、私が新人だった頃には、精神科を志す人は哲学とか心理学、精神分析に興味を持つ人たちが多かった。私にはこの現象が、30年前が異常だったのか、現在が異常なのかのどちらを意味しているかが分からない。でも精神科を志す人が特に減ってはいず、彼らの多くは生物学的な精神医学、薬物療法などに関心が移っているのは、時代の流れかとも思う。でも彼らの脳科学への関心も精神療法的な考え方に組み込む必要があるであろう。さもないと精神科において基本である、医師と患者が言葉と心を交わすこと、という普遍的な部分がますますおろそかになってしまうであろう。

「自己愛と恥について」 (1

私に与えられたのは「自己愛と恥について」であるが、これはとてもありがたいテーマである。というのもこれ以外のテーマでは書きようがないと感じるほどに、私にとっては自己愛のテーマと恥とは不可分なのである。
私は最近「恥と自己愛トラウマ」という著書を上梓したが、このタイトルは私が主張したいことを端的に表しているといっていい。ちなみに自己愛トラウマというのは私がひねり出した新語である。自己愛の傷つきが人間の心的なトラウマのかなりの部分を占め、またそれに対する反応は他者への攻撃や辱めである。とすれば自己愛やその傷付きによるトラウマを知ることは人の心を知る上で決定的と言っていい。
 私は最近日曜の夜は軍師官兵衛にチャンネルを合わせることが多いが、天下統一を果たした秀吉(ちなみに竹中直人の好演が見事である)の行動は、まさに自己愛とその傷付きの連続で埋められているといっていい。全国の制覇に向けて秀吉が各地の大名を制圧していくプロセスは、まさに「自己愛的」である。「俺に歯向かうのか。許せぬ。叩き潰せ!」と言って軍隊を遣って地方の不満分子を滅ぼす。そのうち天下を取ると、自己愛は暴走しだす。いみじくも秀吉の妻が言うように、「天下を取ると人が変わる」のである。
では秀吉が朝鮮出兵を決めた、あの途方もないアクティングアウトのように思える行動は、どのように恥と関係しているのであろうか?無関係なのか?番組では淀が生んだ世継ぎがなくなり、悲嘆にくれたが、ある日マニックディフェンスのように朝鮮出兵を言い出したということになっている。
ところで秀吉の朝鮮出兵がどのように彼の自己愛と関連しているかをひとことコメントしようとして調べていくうちに、実は全く深い事情があったらしいことがわかってきた。小名木 善行という方の本に詳しいのだが、結局は当時のアジアをめぐるスペインとの攻防から、日本が明を支配することなしにはスペインの脅威から我が国を守れなかったという事情があったという。これが本当だとすると、軍師官兵衛に描かれている図とかなり違うことになる。彼の朝鮮出兵の意図は、その勝算において誤っていただけであり、彼の自己愛とはあまり関係なかったのか? うーん、分からない、分からない、ということで、ここら辺は全面書き直しだな。

2014年10月28日火曜日

自己開示 推敲 (3)

「自己開示」の定義
さて遅ればせながら、自己開示の定義である。以下のようにそれを示す。
「自己開示とは,治療状況において治療者自身の感情や個人的な情報などが患者に伝えられるという現象をさす。」「自己開示はそれが自然に起きてしまう場合と、治療者により意図して行われる場合がある。(精神分析事典、岩崎学術出版社)
 これは私の考えであるが、精神分析事典のこの項目を書いたのは私なので、この路線でお話を進めさせていただきたい。

「広義の自己開示」の分類としては、以上の者を考え、これをいかの二つに分ける。それらは A意図的に行われる自己開示  (「狭義の自己開示」)
  B 不可避的に(自然に)生じる自 己開示 である。

そしてA意図的な自己開示の分類をさらに二つに分ける。
A 1 患者からの問いかけに応じた自己開示
A 2 治療者が自発的に行った自己開示

さらに不可避的に生じる自己開示については
B 治療者に意識化された自己開示
B 2  意識化されない自己開示
の二つに分類することが出来るだろう。
これらの分類の意味にはどのようなものがあるのだろうか。私の立場は以下のとおりである。これらの4つに分けた広義の自己開示については、それぞれに治療的な意義とデメリットがある。それぞれを勘案しながら、その自己開示を用いるかどうかを決めるべきであろう。そしてその前提にあるのは、そもそも自己開示が治療的か非治療的かは状況次第である、ということである。
以下にこれらの個々の項目について説明したい。

A1の治療的、非治療的な要素
A1 治療的な要素:治療者が普通の人間であるという認識が患者に生まれ、過度の理想化を抑制する。治療者が治療原則から離れて自分自身を開示したことへの感謝の念が生まれる。治療者の行動や考え方のモデリングが可能となる。治療者からの情報提供を得ることができ、それを用いることができる。
A1の非治療的な要素:患者の要求を満たすことによる退行や過度の期待を誘発しかねない。治療者のことを知りたくないという患者の欲求が無視される可能性がある。更には治療者の「自分のようにせよ」というメッセージとして患者に受け取られかねない。

A2の治療的、非治療的な要素
A2の治療的要素:A1のそれと同様と考えられる
A2の非治療的要素:治療者の自己愛的な自己表現の発露となりかねないこと。患者の自己表現の機会がそれだけ奪われること。治療者のことを知りたくないという患者の欲求が無視される可能性(A1の非治療的な要素と同様)。更には治療者の「自分のようにせよ」というメッセージとして患者に受け取られかねないこと。(自発的な開示のために、A1の非治療的な要素よりも深刻となる)

ここでAに関する簡単な臨床例を挙げておこう。
A1の例
患者:先生はご自身の教育分析の際に、セッションに遅れることはありましたか?
治療者:私自身の体験についてのご質問ですね。はい、私は分析家に失礼にあたるので、決して遅刻したことはありませんでした。
(この伝え方では、治療者から患者への「私との分析の時間に遅れることは失礼ですよ」というメッセージになりかねない。)

A2の例
治療者:(特に患者から質問を受けたというわけではなく)ちなみに私は自分の分析セッションには決して遅れませんでした。遅刻することは私の分析家に対して失礼だからです。

 (この場合、治療者が特に問われることなくこの自己開示を行ったことで、「あなたも遅刻してはいけませんよ」という警告としてのニュアンスを一層強くする可能性がある。)

Bの治療的、非治療的な要素
B1の治療的要素;治療者が防衛的にならずに、自分に関する事情をことごとく治療室から消し去るような態度ではないことが、患者に安心感を与える。
B1の非治療的要素;治療者のことを知りたくないという患者の願望を満たせない可能性がある。
治療空間は過度に露出的な環境であることは治療的ではないが、治療空間が「無菌的」である必要もない。治療者が節度を持ち、かつ柔軟性を維持することが大切であろう。
Bに治療的、非治療的ということを考えることは本来適当でない。Bは結局は自然に起きてしまうことであるからだ。治療者はBが患者に与えたであろう影響について、率直に話す事が出来る環境を作ることが大事であろう。


2014年10月27日月曜日

自己開示 推敲 (2)

自己開示と「自分を用いる」こと
さて現代の精神分析においては、自己開示の問題はタブー視されるテーマではなくなってきている。自己開示についての論文は1960年代あたりから多くなってきている。そして自己開示の問題は、より広い文脈で、すなわち治療者が「自己を用いること use of self(T. ジェイコブス) という観点からとらえ直されるべきであると考える。「自己を用いる」というジェイコブスの著作にみられるように、治療において治療者の側が自分をいかに用いて治療を行うべきかというテーマは、受け身性や匿名性という原則を考えるうえで必然的に浮かび上がるテーマといえるであろう。たとえ治療者は受け身的にではあっても、確かに自分自身の感受性と、自分自身の人生経験を通して患者を見、その介入を行うのである。患者の自由連想に見られる無意識内容を把握するという治療者の作業は、決して自動的、機械的ないしは技法的なものとは言えない。そこには治療者の人間としての在り方が深くかかわっているのである。積極的であれ、受け身的であれ、治療が治療者自身を用いるという形で起きている以上、自己開示を特別視する必要も無くなってくる。それに、のちに述べるように自己開示はあるものは自然に、不可避的に、無意識的に治療場面で生じてしまっているものもあるのだ。
治療者の自己愛問題??
以上は自己開示についての分析理論の中での留意点であるが、実際に臨床を行っていると、しばしば聞かれることがある。それは治療者の「過剰な自己開示」がしばしば問題となっているということだ。これはある意味では「目か鱗」というところがある。「治療者が自己開示をしない」、ということが問題になっていると思っていたところ、実は「し過ぎ」が問題になっているという、冗談のような話である。
私は最初これはごく一部の治療者に起きることかと思っていたが、大学院生がトレーニング中に過剰な自己開示に走ったり、ベテランの療法家や精神科医が自分の話ばかりするという話を聞くうちに、これは比較的普遍的な問題を反映しているのではないかと思うようになった。その問題とは、治療者の自己愛の問題である。
考えてみれば、治療者の職業選択そのものが自己表現や自己実現の願望に根差している可能性があるのはむしろ異論のないところだろう。一般に臨床活動に携わる人々は、他人を助けたい、人の喜ぶ姿を見たい、という希望を持つ人が多い。外科のように匿名性や受け身性の概念が希薄な科で活躍している先生方の中には、「患者さんからの『ありがとう』の言葉に支えられて毎日の激務に耐えている」などという事情を公言なさる方が少なからずいる。精神分析の文脈ではたちまち逆転移扱いされてしまうようなこれらの心性は、しかし治療者一般に広くみられる可能性がある。「他人のために尽くす」という志自体は高潔であり少しも責められるところはないであろうが、それはしばしばその純粋な目的を逸脱して「患者とのかかわりに自己愛的な満足を見出す」というレベルにまで堕する可能性がある。そこでしばしば生じるのが「患者さんを話し相手にする」あるいは「患者さんを聴衆にして自分のことを語る」ということではないだろうか。

私の今回の自己開示では、以下にそのような傾向を抑制するかという具体的な問題について語る代わりに、治療がいかに治療者の自己愛の問題と深くかかわっているか、という問題の提起にとどめたい。

2014年10月26日日曜日

自己開示 推敲(1)


自己愛の観点から見た治療者の自己開示
私にとって自己開示の問題は、精神分析に興味を持ち、論文を発表し始めた最初の頃から常に重要なテーマとして頭にあった。匿名性の原則を有する精神分析は、治療者が多くの抑制をしつつ行う治療である。それは通常の日常会話と大きく異なるばかりか、一般的な心理療法とも異なるといっていい。分析的な臨床家は常に、自分をいかに隠すのか、どのようなときに匿名性の原則を破るのかについて常に考えをめぐらせることになるだろう。
治療者が持ち続ける問題意識はそれにはとどまらない。そもそも匿名性の原則は妥当なものなのか。それを遵守している自分は患者にとってベストな治療を施していることになるのだろうか、など様々な疑問を思い浮かべても不思議ではない。
以上のようなことを思いつつ、私はこの自己開示の問題を考えてきたわけだが、最近かなり異なる発想を持つようにもなってきた。それは治療者が私の予想を超えて、自己開示を行っているらしいという現状であった。治療者が匿名性の原則を守りすぎるのはいかがなものか、と考えていた私が、「しゃべりすぎる治療者をどのようにたしなめたらいいのだろうか?」という問題も重要であることに気が付いたのである。そしてそれがどうやら治療者の側の持っている自己愛や自己顕示欲の問題とかなり結びついているらしいと考えるようになった。
本発表の要旨は、自己開示を広くとらえて、そこにどのような種類があり、どのような問題があるかについての見取り図を提供することである。しかしその背景にあるのはこの私の発想である。つまり治療者という人種は、匿名性を守るという方向にも、それを犯すという方向にも走る可能性を持っているのであり、そのことを理解したうえで、この自己開示の問題を捉えなおさなくてはならないという考えである。
以上を前置きにして私の議論に入っていきたい。

治療者の自己開示をめぐる従来の論点
先ず従来の自己開示についての論点について考えたい。まず基本的な点として理解しなくてはならないのは、自己開示はフロイトによれば「暗示」になってしまうということだ。ここでフロイトが解釈以外のあらゆる介入を「暗示」とみなし、それを非治療的なものとみなしたことを思い出していただきたい。彼にとっては、患者の無意識内容に言及する介入、すなわち「解釈」以外は治療的ではなかったのである。それを彼は一括して「暗示suggestion 」としたのであった。
 伝統的な精神分析理論の中での「自己開示」については、それが中立性禁欲原則に抵触するのではないか?という問題もある。もちろん中立性や禁欲原則が具体的に何を意味するかについては、論者により微妙に異なる可能性がある。しかしいずれにせよ「自己開示」はそれらの原則が示す方向性とは異なる介入であるとみなされることは確かであろう。治療者が自分の考えを伝えることは、その中立的な在り方を損なう可能性はあるであろうし、治療者のことをさらに知りたいという患者の願望を満たしてしまうという意味では禁欲原則にも反するということになる。
更には自己開示が転移自由な発展を抑制してしまうのではないかという懸念も唱えられてきた精神分析には、患者は治療者のことを知らないほどさまざまな想像力を膨らませると考える。例えば治療者の出身地が分からないことで、どこの出身である治療者も想像できることになる。しかしA県出身であることが分かったとしたら、A県出身以外の治療者しか想像できないということになるわけである。
この理屈は本当によく聞くのだが、たとえば次のような例と似ているのではないか。映画やビデオや漫画などは、人の想像力を制限してしまう。ラジオや活字で読む本は、映像がない分だけ人の想像力をかきたて、育てるのだ。だから活字の方が私たちにとって有益なのだ・・・・。このロジックに誤りはないにしても、どうして私たちは時々映像に強いインパクトを感じるのだろうか。読書によりインパクトを受けることもあり、映画に影響を受けることもある。それでいいのではないか。つまり映像は映像で、それが視聴者の想像力を増強させるという作用を及ぼすこともあるのである。


転移の話に戻ると、A県出身であることがわかることで、急に治療者に関するイマジネーションが膨らむこともある。「北海道出身」と聞くことで、北海道に関する様々なイメージが浮かび、それと治療者を結びつけるということがあるだろう。これは何県出身かもわからない段階では生じないことだ。漠然とした情報では、私たちは想像を膨らますことが逆にできないのだ。このように自己開示は転移を促進される場合もあるのである。

2014年10月25日土曜日

脳科学と精神分析(推敲)(13)

提案:離散的な脳の在り方と非力動的精神分析理論

ということで最後の部分。繰り返すが、「これらを通して浮かび上がってくるのが、ネットワーク的かつモジュール的な脳であり、それを通して生まれてくるのが離散的、非力動的な心の在り方である。私たちは患者の言葉をまず信じつつ、深読みをせず、様々な離散的な心の在り方に目を向け、そのトラウマに根差した病理を理解しつつ、主としてサポーティブな姿勢で、治療を行っていかなくてはならない。」ということを書くのであった。うまく書けるかな?
さて今私が話したような内容を踏まえて心≒脳を眺めてみよう。脳とは広大な、それこそ途方もないキャパシティを備えたネットワーク。おそらくそれは生命維持にとって最も必要な部分から強固に備わっているシステムである。そしてそのシステムが生命の維持を至上命令としている以上、環境からのあらゆる情報を収集して、闘争逃避反応を行うシステムである。それはルドゥの描いた視床―皮質―扁桃核のシステムにより支えられている。おそらく生命維持に反する自己破壊本能、フロイトの掲げた死の本能は大胆に無視していいだろう。ただし私たちは1970年代よりトラウマの精神病理を学んでいる以上、闘争―逃避にもう一つの解離的な反応、つまりフリージング反応があることや、トラウマへの反応としてそれの反復的な体験についての知識を有しており、それがフロイトが死の本能と誤解し多心の病理の正体である可能性がある。
さて生命維持の次に必要なのは生殖であり、私たち人間もそれに対する強い欲動を有している。これは人間に備わった宿命、と考えるよりは、生殖活動に対する欲求が強い私たちが自然に選択されて今日の世界があるわけである。私たちはある意味ではこれまでの人類(あるいは生命全体)の中で絶倫中の絶倫の個体であり、生殖競争の最終予選まで残った者たちである。ただしフロイトのように幼少時の性的欲動を想定する根拠も十分にあるとは言えない。その意味では性愛の持つ意味を重視しつつ、フロイトの性欲論を大幅に棄却しなくてはならないであろう。
さて生存のための情報処理システムとしての脳に戻るが、そこでの活動の大半は無意識的に行われるということになる。それは意識化されるということが、脳が行っている予想にとって例外となるような事態しか意識化されない、というより開始期はそれ以外のことに忙殺されることで情報処理ができなくなると考えるべきであろう。いわば意識は中央処理システムで、端末からの異常のみを拾って決断を下しているようなものだ。しかしその決断さえも、かなり無意識レベルで行われているという見方を私は示した。中央処理システムではそれを承認、追認、ないし理由づけしているにすぎないといっていいであろう。その意味では無意識に圧倒的な意味を与えたフロイトの見方に近いことがわかる。
人は意識に、自主性や創造性を付与するかもしれない。しかしそれさえも大半は無意識的に行われることについては、ベンジャミン・リベなどの研究を示したことで納得して頂けるであろう。

それでは無意識的な決断や創造の生成過程をどのように理解するべきか。ここからは私の考え方であるが、おそらく快感中枢の影響が非常に大きく左右している。何を食するのか、だれと会うのか、どの映画を借りるのか、物事にどのような理解を行うのか。これらはすべて快感中枢におけるドーパミンシステムにより判定される。回転寿司屋に入り、どの皿に手を伸ばすかは、それを食べたいか、に影響されるが、それは具体的にはどれを食べた場合により多くのドーパミンが産生されるかによる。この将来の快感の査定を、おそらく人は無意識レベルで、時には意識レベルで行っている。その際何がドーパミンを多く産出するかは、きわめて偶発的で恣意的な部分を含む。もちろん真っ先にマグロを決って注文する人の場合、その意味でドーパミンシステムの決定はゆるぎない。しかし最初に中トロか大トロか、いくつ食べるのか、その間にいつお茶をすするのか、などになってくると、たちまちドーパミンシステムによる決定は恣意的で予測不可能になっていくのである。

2014年10月24日金曜日

治療と創造性について

なぜか、なぜか、治療場面における創造性というテーマで考えてみたくなった。
そもそも私たちは毎日夢という形で創造活動をしているということを思い起こさせてくれる。無意識のレベルでは、私たちは常に創造的な存在なのである。そして治療場面もまた創造的な空間でありうる。そこでの移行空間の提供ということが、その創造性を保障するという意味を持っているのであろう。移行空間とはおそらく治療者と患者が互いの創造性や自由度を許容することで広がっていくのであろう。アリスとの治療で最初に生じていたのは、アリスが治療者の側の創造性を極端に押さえ込んで、自由な言葉の選択を治療者に許さなかったことではないだろうか。
 ここからは私の自由連想であるが、私は治療者の創造性ということは、患者が創造性の発揮に重要な役割を持つであろうと考える。両者の創造性が相乗効果を生むのであろう。ただしひとつ注意しなくてはならないのは、おそらく治療者の創造性は、それが患者のそれに先立って発揮された場合には、患者のそれを置き去りにしたり、それを閉塞状況においたりするのではないかということである。おそらく治療者の創造性は、それが静かに発揮されなくてはならないし、それは例えば臨床的な論文を書くという形で発揮されなくてはならないのであろう。
 私は基本的に精神分析はさまざまな思考をつなげる作業だと考えている。過去の出来事と現在の出来事。仕事場での出来事と治療中に起きたこと。それらの間の結びつきを創造していくのが治療なのであろう。そう考えると、精神分析的な治療そのものがクリエーティブな作業といえるのではないかと思う。
 創造とはまったく何もないところから新たなものを作り上げるのではなく、これまでにできているもの同志に新たな結びつきを与えることである。つまり創造物とは、古いもの、繰り返されるものと新奇なものが程よい割合で表現されていることであろうと思う。脳の特定の部位、海馬と呼ばれる器官は、日中に生じた様々な記憶の断片をつなぎ変え、再構成する場であるとされる。その中でその人の審美性や好奇心に訴える内容を持った組み合わせが、創造物として成立するのではないか。


最後に庭の創造性について先生は言及された。何が創造的な作品かは、おそらく見る人によって違うであろう。西洋人にとっての日本の庭園は斬新なものかもしれない。それはこれまでの庭園という概念を変えるような新規さを持っているかもしれない。しかし日本人にとってはある意味では心のふるさとに通じるような、いろいろなところで見たことのあるような、懐かしい景色でもある。おそらく西洋の人が持つ庭園のイメージに日本の庭園の斬新さを加えた庭園ができることで、さらに創造的な庭が構築されるのではないかともう。

2014年10月23日木曜日

脳科学と精神分析(推敲)(12)

ええっと、どこまで行ったっけ。次は、④だな。
   更にそのような脳は幼少時より数多くの臨界期を重ね、そこで遺伝子の発動と環境との精妙なやり取りを通して形成され、成立していく。
そしてその根拠として、アラン・ショアやルイス・コゾリーノの説を挙げて、最後に「これらを通して浮かび上がってくるのが、ネットワーク的かつモジュール的な脳であり、それを通して生まれてくるのが離散的、非力動的な心の在り方である。私たちは患者の言葉をまず信じつつ、深読みをせず、様々な離散的な心の在り方に目を向け、そのトラウマに根差した病理を理解しつつ、主としてサポーティブな姿勢で、治療を行っていかなくてはならない。という感じで論じていくわけだ。この最後の部分は結論というところだ。そこでこの④であるが、以下のようにはじめようか。
 これまでは情報処理システムとしての脳について述べたが、もちろんそれが生まれた時から成立しているわけではない。
最近読んだ「やわらかな遺伝子」という著書で、マット・リドレーは従来の「氏(うじ)か育ちかnature or nurture」という考え方を批判し、氏も育ちも、あるいは「育ちを通した氏 Nature via Nurture(この本の原書の英語の題名でもある)という考えを提唱する。私たちはともすると、「人は生まれつきどのような存在になるかを遺伝子で規定されている」という考え方か、「いや、育ち、つまり養育環境ですべてが決まる」という主張のどちらかに偏りがちなのだが、まさに両方が人(の心、脳)の成立に関与しているということをわかりやすく説明している。彼はたとえばローレンツの刷り込みの例を挙げ、灰色ガンが生まれてすぐに目にしたものの後を追うという現象を説明した。しかしこれは特定の遺伝子がほんの一時期の臨界期にスイッチオンになった時の環境を取り込む、という現象で説明される。それを過ぎると灰色ガンは何を見てもそのあとを追うことがなくなるのだ。
カモがセスナに「刷り込まれ」て、一緒に飛んでいるというのだが…



これはどういうことかというと、遺伝子は単なる青写真ではなく、それがいつスイッチ・オンになるかまで極めて細かく決められていて、その間にどん欲に環境を取り込むということなのだ。そして人の脳にはこのような臨界期が幾重にもあり、その時々で「育ち」の影響を取り込んでいく。つまりその意味では人の脳は、育ちのコラージュと言ってもいいであろう。ただそのハードウェアの大枠は遺伝子で規定されている。脳のサイズも、どこの部分が本来大きくなるか、なども決められているところがある。IQも半分はその傾向があり、すなわち臨界期に育ちを取り入れる程度や質が、遺伝子により定まっているところもある。いわば遺伝子は育ちを取り入れる受け皿であり、そこにどのような育ちが入ってくるかに個人差があることになる。たとえば言語能力に優れた子供は大きめの受け皿を持っていても、そこにどのような言語の刺激が、どれだけはいるかにより言葉の能力が決まってくるように。

2014年10月22日水曜日

脳科学と精神分析(推敲)(11)

    快、不快を感じるシステムである
ここはかなりの部分がコピペ(自己剽窃)だな。推敲の(3),(4)の部分を借りる (青字部分)
 これまで論じた①、②で論じた脳は情報処理だけでなく、情動を感じるシステムでもあった。ルドゥの「速い経路」、「遅い経路」はいずれも扁桃核に情報が至ることにより戦うか逃避するかの選択を促す。しかし心はfight/flight だけでなく、快を体験し、願望するシステムでもある。人の体験はある時は喜びを与え、それが再び生じることを願望する。これにより怖れや恐怖を避け、快楽を求め願望するという人間の心の営みが成立する。フロイトはそのような心の在り方を表したいわゆる「快感原則」を説いたことで知られる。「精神現象の二原則に関する定式」(1911)において、無意識においては願望が幻覚的に充足され、それが快感原則であるとする。そして現実にはその充足が生じないため、現実世界においてそれを成就しようとする原則を「現実原則」としている。この原則がそれほど重要だったのは、それが彼の心のモデルにとって必須のものだったからだ。フロイトは心の中に流れる正体不明のエネルギーを考えていた。それが貯留、鬱滞するのが不快、発散するのが快という理論はこの上なく好都合だったのである。
ただしこの快感原則に深刻な疑問を自ら投げかけたのが、1920年の『快感原則の彼岸」であった。彼はこれを書いた動機として、快原理に反する不快で不安を呼び起こす事柄を人がどうして反復するのかという疑問を持ったのである。その意味でフロイトが当初持っていた願望充足としての無意識的活動や夢についての深刻な再考を迫られていたことは確かであろう。
私はフロイト理論を最初に読んだとき、夢は願望充足であるという定式化の意味がよくわからなかった。夢には満足体験が出てくるものの、不快体験も出てくる。当たり前ではないか。私は幼いころ、目を覚ますと欲しかったものが枕元にある、という夢を何度も見た。もちろん本当の夢から覚めた時には枕元に何もない。その時の深刻な失望をはっきり覚えている。夢で得られた満足は覚醒した時の失望につながる。空想で何かいい出来事を考えても、そこから覚めると現実に引き戻される。このことを幼いころから何度も繰り返しながら私たちは成長していく。だから「快感原則の彼岸」でフロイトが至った結論は、むしろ常識的と言える。
そのようなフロイトの考えのある部分を支持し、別の部分を変えたのが1954年、オールズとミルナーによる快感中枢の発見である。オールズとミルナーによって発見された快感中枢は、実際快感を単に味わうだけの装置ではなかったことが、最近の研究でわかっている。中脳被蓋野から側坐核に至るドーパミン経路は、それがある種の夢が実現した時の快感を正確に査定するための装置としての役割を持つことがわかっている。
フロイトが「快楽原則の彼岸」で至った結論はおそらくとても常識的であり、妥当なものだった。確かに人間の行動や体験には、少しも快感の追及につながるようには思えないものも多い。かつて私はフロイトの「精神現象の二原則に関する定式」の現代的な意義について論じたことがある。現代フロイト読本1(みすず書房、2008)に収められた論文で、私はフロイトの快感原則を「心は真の願望を最終的に満足させるべく働く」と言い換えたうえで、それは現在の心の在り方についても妥当であろうこと、ただしその真偽を確かめる方法はない、ということを論じた。しかしその時の私自身の結論に疑問が生じ、常に考えていたところがある。そして現在至ったのは以下の通りである。
 確かに私達の意図的な行動や、一部の無意識的な行動には方向性がある。それは快を増大させ、不快を軽減するということだ。これを望まない人などいないであろうし、睡眠中であれ、私たちは蚊に刺された部分をポリポリ掻いて、痒みという苦痛を軽減しようとする。それは快感中枢におけるドーパミン経路(いわゆるA-10経路)の役割である。「こうだったらいいな」「これは回避したいな」という具体的な願望を起こさせるのは、この経路の役割だからだ。(先ほどの「正確な査定」の意味)。いわばドーパミン経路は、私たちの生存にとっての合理的な導き手なのだ。しかし私たちの心身には思いがけない出来事が生じ、それらは到底快感原則に導かれたものとは思えない。


人間は快を求め、不快を回避する。将来体験されるべき快、不快はドーパミンシステムによりあらかじめ、検知され、その大きさに従って人は願望をし、将来に向かって行動する。これだけなら人の心は非常にシンプルな原則に従っていることになる。しかしここに大きな問題がある。それは何が快としてその人に体験されるかは、とてつもない個人差がそこにあるという事実である。香水の香りをとっても、ワインの味をとっても、小説一つとっても、それをどのように体験し、それをさらに欲するか、それとも唾棄されるかは、個人の趣味、これまでの人生の経歴、過去の体験その他により大きく規定される。場合によっては生まれつき定まっているとしか思えないような好みや嗜好がある。その理由や根拠を分析し解明し、またその快感中枢の興奮のパターンそのものを変えることは時には非常に困難となる。そしてそれが時には精神分析的な治療にとっての大きな課題となる可能性があるのだ。