2014年10月25日土曜日

脳科学と精神分析(推敲)(13)

提案:離散的な脳の在り方と非力動的精神分析理論

ということで最後の部分。繰り返すが、「これらを通して浮かび上がってくるのが、ネットワーク的かつモジュール的な脳であり、それを通して生まれてくるのが離散的、非力動的な心の在り方である。私たちは患者の言葉をまず信じつつ、深読みをせず、様々な離散的な心の在り方に目を向け、そのトラウマに根差した病理を理解しつつ、主としてサポーティブな姿勢で、治療を行っていかなくてはならない。」ということを書くのであった。うまく書けるかな?
さて今私が話したような内容を踏まえて心≒脳を眺めてみよう。脳とは広大な、それこそ途方もないキャパシティを備えたネットワーク。おそらくそれは生命維持にとって最も必要な部分から強固に備わっているシステムである。そしてそのシステムが生命の維持を至上命令としている以上、環境からのあらゆる情報を収集して、闘争逃避反応を行うシステムである。それはルドゥの描いた視床―皮質―扁桃核のシステムにより支えられている。おそらく生命維持に反する自己破壊本能、フロイトの掲げた死の本能は大胆に無視していいだろう。ただし私たちは1970年代よりトラウマの精神病理を学んでいる以上、闘争―逃避にもう一つの解離的な反応、つまりフリージング反応があることや、トラウマへの反応としてそれの反復的な体験についての知識を有しており、それがフロイトが死の本能と誤解し多心の病理の正体である可能性がある。
さて生命維持の次に必要なのは生殖であり、私たち人間もそれに対する強い欲動を有している。これは人間に備わった宿命、と考えるよりは、生殖活動に対する欲求が強い私たちが自然に選択されて今日の世界があるわけである。私たちはある意味ではこれまでの人類(あるいは生命全体)の中で絶倫中の絶倫の個体であり、生殖競争の最終予選まで残った者たちである。ただしフロイトのように幼少時の性的欲動を想定する根拠も十分にあるとは言えない。その意味では性愛の持つ意味を重視しつつ、フロイトの性欲論を大幅に棄却しなくてはならないであろう。
さて生存のための情報処理システムとしての脳に戻るが、そこでの活動の大半は無意識的に行われるということになる。それは意識化されるということが、脳が行っている予想にとって例外となるような事態しか意識化されない、というより開始期はそれ以外のことに忙殺されることで情報処理ができなくなると考えるべきであろう。いわば意識は中央処理システムで、端末からの異常のみを拾って決断を下しているようなものだ。しかしその決断さえも、かなり無意識レベルで行われているという見方を私は示した。中央処理システムではそれを承認、追認、ないし理由づけしているにすぎないといっていいであろう。その意味では無意識に圧倒的な意味を与えたフロイトの見方に近いことがわかる。
人は意識に、自主性や創造性を付与するかもしれない。しかしそれさえも大半は無意識的に行われることについては、ベンジャミン・リベなどの研究を示したことで納得して頂けるであろう。

それでは無意識的な決断や創造の生成過程をどのように理解するべきか。ここからは私の考え方であるが、おそらく快感中枢の影響が非常に大きく左右している。何を食するのか、だれと会うのか、どの映画を借りるのか、物事にどのような理解を行うのか。これらはすべて快感中枢におけるドーパミンシステムにより判定される。回転寿司屋に入り、どの皿に手を伸ばすかは、それを食べたいか、に影響されるが、それは具体的にはどれを食べた場合により多くのドーパミンが産生されるかによる。この将来の快感の査定を、おそらく人は無意識レベルで、時には意識レベルで行っている。その際何がドーパミンを多く産出するかは、きわめて偶発的で恣意的な部分を含む。もちろん真っ先にマグロを決って注文する人の場合、その意味でドーパミンシステムの決定はゆるぎない。しかし最初に中トロか大トロか、いくつ食べるのか、その間にいつお茶をすするのか、などになってくると、たちまちドーパミンシステムによる決定は恣意的で予測不可能になっていくのである。