2014年10月22日水曜日

脳科学と精神分析(推敲)(11)

    快、不快を感じるシステムである
ここはかなりの部分がコピペ(自己剽窃)だな。推敲の(3),(4)の部分を借りる (青字部分)
 これまで論じた①、②で論じた脳は情報処理だけでなく、情動を感じるシステムでもあった。ルドゥの「速い経路」、「遅い経路」はいずれも扁桃核に情報が至ることにより戦うか逃避するかの選択を促す。しかし心はfight/flight だけでなく、快を体験し、願望するシステムでもある。人の体験はある時は喜びを与え、それが再び生じることを願望する。これにより怖れや恐怖を避け、快楽を求め願望するという人間の心の営みが成立する。フロイトはそのような心の在り方を表したいわゆる「快感原則」を説いたことで知られる。「精神現象の二原則に関する定式」(1911)において、無意識においては願望が幻覚的に充足され、それが快感原則であるとする。そして現実にはその充足が生じないため、現実世界においてそれを成就しようとする原則を「現実原則」としている。この原則がそれほど重要だったのは、それが彼の心のモデルにとって必須のものだったからだ。フロイトは心の中に流れる正体不明のエネルギーを考えていた。それが貯留、鬱滞するのが不快、発散するのが快という理論はこの上なく好都合だったのである。
ただしこの快感原則に深刻な疑問を自ら投げかけたのが、1920年の『快感原則の彼岸」であった。彼はこれを書いた動機として、快原理に反する不快で不安を呼び起こす事柄を人がどうして反復するのかという疑問を持ったのである。その意味でフロイトが当初持っていた願望充足としての無意識的活動や夢についての深刻な再考を迫られていたことは確かであろう。
私はフロイト理論を最初に読んだとき、夢は願望充足であるという定式化の意味がよくわからなかった。夢には満足体験が出てくるものの、不快体験も出てくる。当たり前ではないか。私は幼いころ、目を覚ますと欲しかったものが枕元にある、という夢を何度も見た。もちろん本当の夢から覚めた時には枕元に何もない。その時の深刻な失望をはっきり覚えている。夢で得られた満足は覚醒した時の失望につながる。空想で何かいい出来事を考えても、そこから覚めると現実に引き戻される。このことを幼いころから何度も繰り返しながら私たちは成長していく。だから「快感原則の彼岸」でフロイトが至った結論は、むしろ常識的と言える。
そのようなフロイトの考えのある部分を支持し、別の部分を変えたのが1954年、オールズとミルナーによる快感中枢の発見である。オールズとミルナーによって発見された快感中枢は、実際快感を単に味わうだけの装置ではなかったことが、最近の研究でわかっている。中脳被蓋野から側坐核に至るドーパミン経路は、それがある種の夢が実現した時の快感を正確に査定するための装置としての役割を持つことがわかっている。
フロイトが「快楽原則の彼岸」で至った結論はおそらくとても常識的であり、妥当なものだった。確かに人間の行動や体験には、少しも快感の追及につながるようには思えないものも多い。かつて私はフロイトの「精神現象の二原則に関する定式」の現代的な意義について論じたことがある。現代フロイト読本1(みすず書房、2008)に収められた論文で、私はフロイトの快感原則を「心は真の願望を最終的に満足させるべく働く」と言い換えたうえで、それは現在の心の在り方についても妥当であろうこと、ただしその真偽を確かめる方法はない、ということを論じた。しかしその時の私自身の結論に疑問が生じ、常に考えていたところがある。そして現在至ったのは以下の通りである。
 確かに私達の意図的な行動や、一部の無意識的な行動には方向性がある。それは快を増大させ、不快を軽減するということだ。これを望まない人などいないであろうし、睡眠中であれ、私たちは蚊に刺された部分をポリポリ掻いて、痒みという苦痛を軽減しようとする。それは快感中枢におけるドーパミン経路(いわゆるA-10経路)の役割である。「こうだったらいいな」「これは回避したいな」という具体的な願望を起こさせるのは、この経路の役割だからだ。(先ほどの「正確な査定」の意味)。いわばドーパミン経路は、私たちの生存にとっての合理的な導き手なのだ。しかし私たちの心身には思いがけない出来事が生じ、それらは到底快感原則に導かれたものとは思えない。


人間は快を求め、不快を回避する。将来体験されるべき快、不快はドーパミンシステムによりあらかじめ、検知され、その大きさに従って人は願望をし、将来に向かって行動する。これだけなら人の心は非常にシンプルな原則に従っていることになる。しかしここに大きな問題がある。それは何が快としてその人に体験されるかは、とてつもない個人差がそこにあるという事実である。香水の香りをとっても、ワインの味をとっても、小説一つとっても、それをどのように体験し、それをさらに欲するか、それとも唾棄されるかは、個人の趣味、これまでの人生の経歴、過去の体験その他により大きく規定される。場合によっては生まれつき定まっているとしか思えないような好みや嗜好がある。その理由や根拠を分析し解明し、またその快感中枢の興奮のパターンそのものを変えることは時には非常に困難となる。そしてそれが時には精神分析的な治療にとっての大きな課題となる可能性があるのだ。