自己開示と「自分を用いる」こと
さて現代の精神分析においては、自己開示の問題はタブー視されるテーマではなくなってきている。自己開示についての論文は1960年代あたりから多くなってきている。そして自己開示の問題は、より広い文脈で、すなわち治療者が「自己を用いること use of self」(T. ジェイコブス) という観点からとらえ直されるべきであると考える。「自己を用いる」というジェイコブスの著作にみられるように、治療において治療者の側が自分をいかに用いて治療を行うべきかというテーマは、受け身性や匿名性という原則を考えるうえで必然的に浮かび上がるテーマといえるであろう。たとえ治療者は受け身的にではあっても、確かに自分自身の感受性と、自分自身の人生経験を通して患者を見、その介入を行うのである。患者の自由連想に見られる無意識内容を把握するという治療者の作業は、決して自動的、機械的ないしは技法的なものとは言えない。そこには治療者の人間としての在り方が深くかかわっているのである。積極的であれ、受け身的であれ、治療が治療者自身を用いるという形で起きている以上、自己開示を特別視する必要も無くなってくる。それに、のちに述べるように自己開示はあるものは自然に、不可避的に、無意識的に治療場面で生じてしまっているものもあるのだ。
治療者の自己愛問題??
以上は自己開示についての分析理論の中での留意点であるが、実際に臨床を行っていると、しばしば聞かれることがある。それは治療者の「過剰な自己開示」がしばしば問題となっているということだ。これはある意味では「目か鱗」というところがある。「治療者が自己開示をしない」、ということが問題になっていると思っていたところ、実は「し過ぎ」が問題になっているという、冗談のような話である。
私は最初これはごく一部の治療者に起きることかと思っていたが、大学院生がトレーニング中に過剰な自己開示に走ったり、ベテランの療法家や精神科医が自分の話ばかりするという話を聞くうちに、これは比較的普遍的な問題を反映しているのではないかと思うようになった。その問題とは、治療者の自己愛の問題である。
私は最初これはごく一部の治療者に起きることかと思っていたが、大学院生がトレーニング中に過剰な自己開示に走ったり、ベテランの療法家や精神科医が自分の話ばかりするという話を聞くうちに、これは比較的普遍的な問題を反映しているのではないかと思うようになった。その問題とは、治療者の自己愛の問題である。
考えてみれば、治療者の職業選択そのものが自己表現や自己実現の願望に根差している可能性があるのはむしろ異論のないところだろう。一般に臨床活動に携わる人々は、他人を助けたい、人の喜ぶ姿を見たい、という希望を持つ人が多い。外科のように匿名性や受け身性の概念が希薄な科で活躍している先生方の中には、「患者さんからの『ありがとう』の言葉に支えられて毎日の激務に耐えている」などという事情を公言なさる方が少なからずいる。精神分析の文脈ではたちまち逆転移扱いされてしまうようなこれらの心性は、しかし治療者一般に広くみられる可能性がある。「他人のために尽くす」という志自体は高潔であり少しも責められるところはないであろうが、それはしばしばその純粋な目的を逸脱して「患者とのかかわりに自己愛的な満足を見出す」というレベルにまで堕する可能性がある。そこでしばしば生じるのが「患者さんを話し相手にする」あるいは「患者さんを聴衆にして自分のことを語る」ということではないだろうか。
私の今回の自己開示では、以下にそのような傾向を抑制するかという具体的な問題について語る代わりに、治療がいかに治療者の自己愛の問題と深くかかわっているか、という問題の提起にとどめたい。