2015年7月20日月曜日

自己愛(ナル)な人(38/100)

昨今は日本の政治家の発言に対して中国や韓国が反発して声明を発表するということが頻繁に起きているが、反日であるということはそれらの国民の間の凝集性を高める上でさぞかし大きな意味を持っていることと思う。そして集団がまとまる、凝集力を発揮するという力学は、その中の一部の人々を排除するという方向にも働くということが問題なのだ。そしてメンバーはその集団から外に出て行くことが出来ない。上に述べた二つの条件(①利害の共有、②仮想敵の存在、③グループの閉鎖性)はそのまま、仲間はずれや村八分、いじめの対象を生む素地を提供しているのである。なぜなら集団の共通の利益に反した行動を取ったり、集団の仮想敵とみなせるような集団に与したり、それと敵対することを躊躇しているとみなされたメンバーが排除されることによっても、集団の凝集性が高まるという条件が成立するからだ。そしてここが肝心なのだが、そのようなメンバーが存在しないならば、それは人為的に作られることすらある。これがいじめによるトラウマを負わされるのきっかけとなることも多いのだ。
ここで私たちは次のような疑問を持っても不思議ではない。
人は「どうして仲間外れを作らなくてはならないのか? そうしなくても集団の凝集性を高めることができるのではないか?」
 確かにそうかもしれない。互いを励ましあい、助け合うことで和気あいあいとした平和的な集団となることもあるだろう。しかしそこでリーダーの性格が集団の雰囲気に大きな影響を与えることに注意したい。リーダーが温厚で面倒見のいい性格であれば、いじめも起きにくいだろう。しかしリーダーが若干でもサディスティックな性格を持っている場合は、攻撃の対象をすぐに見つけ出し、そこで上記の二番目の条件(仮想敵の存在)が働くことで強い「排除の力学」が働き、いじめの構造は簡単に作り出されてしまう。
そしてそのような時、仲間外れをされそうになっている人に関して、別のメンバーが「どうして彼を除外するのか。彼も仲間ではないか? みんな仲良くやろう!」と訴えるのは極めてリスキーなことである。なぜならグループを排除されかけている人を援護することは、その人もまた排除されるべき存在とみなされてしまうからだ。「みんなが仲良くやろう」というメッセージは事態を抑制するどころか逆方向に加速させる可能性がある。こうしてグループから一人が排除され始めるという現象は、それ自体がポジティブフィードバック・ループを形成することになり、事態は一気に展開してしまう可能性があるのだ。
この「排除の力学」は実際には排除が行われていない時も、常に作動し続けることになる。メンバーはその集団内で不都合なことや理不尽なことを体験しても、それらを指摘することで自分が排除の対象になるのではないかという危惧から、口をつぐむことになる。私がこの集団における「排除の力学」についてまず論じたのは、結局このような事態が日本社会のあらゆる層に生じることで、いじめによるトラウマを生み出していると思えるからである。
 日本の社会におけるいじめの問題を考える時、その構成メンバーの均一性は非常に大きなファクターとなる。一般に集団においては、お互いが似たもの同士であるほど、少しでも異なった人は異物のように扱われ、「排除の力学」の対象とされかねない。日本は実質上単一民族国家に非常に近いといってよく、メンバーは皆歩調を合わせて行動し、何よりも「ほかの人と違っていないか」に配慮をする傾向にある。
ほかの人と違ってはいけない、という発想は、すでに学校生活が始まる時点で生じている。私が小学校に上がった年、学校に制服はなかったものの、みな判で押したように、男子は黒のランドセル、女性は赤のランドセルだった。その中で一人だけ黄色のランドセルだったU子ちゃんのことは、いまでも鮮明に覚えている。それだけ目立っていたのだ。幸いU子ちゃんはいじめの対象にはならなかったが。なぜU子ちゃんのランドセルのことを私はそれほど鮮明に覚えているのだろう。おそらく6歳の私の中には、既に「みんな同じでなくてはならない」があったのだ。だから黄色のランドセルを背負っているU子ちゃんに対して強烈な違和感を持ったのだろう。「よくみんなと違う色のランドセルで平気なんだな。」
6歳ないしはそれ以前から日本人の心の中にある「皆と同じでないと・・・」という気持ち。このような現象はもともと生物学的、民俗学的に「似た者同士」の集団においてより生じやすいはずではないか? アメリカなどでは、所属する集団の構成員のどこにも目立った共通点が見出せないということは普通に起きる。彼らの皮膚の色も人種も体型も最初から全く異なっているのである。そして小学生達は色も形もまちまちのカバンを背負い、あるいはぶら下げているのである。


2015年7月19日日曜日

自己愛(ナル)な人(37/100)

いじめ型ナルシシスト

 いじめという現象にもナルシシズムの満足が関係する。他人をいじめている時は、「自分や強者なんだ」という満足体験が伴う。それに陥っている人を「いじめ型ナルシシスト」と位置づけよう。
クレイマー型の自己愛者について書いた時、彼らが社会の中である状況で、限定的に自己愛者になってしまうという事情について述べた。彼らは普段は職場や家庭で、周囲とも特に問題なくやれているが、あるサービスを受ける側になると、魔が差したように、自分の権利や特権意識を声高に訴えるようになる、というわけだ。いじめ型ナルシシストにも、多少なりとも類似の事情がある。
 いじめの多くは、厚皮型型や、サイコパス型の自己愛を持った人間がリーダーシップを取ることが多い。しかしその周辺の、いじめに加担する人の多くは、実はそれ以外の場面では普通の人々であることが多い。彼らが体験するのは、「自分がやらなければ、今度は自分が狙われるという」という恐怖心と、いじめに伴う若干の快感の両方であろう。
 いじめる者の自己愛の問題を考える場合には、この種の積極的ないじめと、消極的ないじめを分けて考える必要があろう。しかしいじめを行っている瞬間には、いずれの種類にせよ、そこにある種の「俺は強いんだ!」的な高揚感が体験されていることには変わらない。その瞬間には「いじめ型のナルシシスト」になっているのである。
私はいじめの問題は、以前にも述べた「自己愛の階段」とも結びつく議論ではないかと思う。[この部分、後で追加する必要あり。]「上には媚びて、下には傲慢」という自己愛的な社会における行動原則は、良きにつけ悪しにつけ、社会に生きる私たちの多くが、程度の差こそあれ、従っているものである。そこでは「上から下へ」への権力の誇示や支配はむしろ当たり前のように行われる。
 しかしいじめにおいてはこの「上から下へ」とは別の力、すなわち「集団から個へ」という力が働く。クラスの中で、本来は学年差がなく、自己愛の階段の段差がそこに明白な形では存在しないはずなのに、そこにいじめる集団といじめられるという関係は出来上がってしまうのである。ただしそこに「上から下へ」のベクトルが加わると、いじめはさらに深刻になろう。たとえばいじめる集団のリーダーシップを、年上、目上、学年が上の誰かがとっている場合である。
最近耳目を集めた川崎のいじめ殺人を振り返ってみよう。
この事件は2015年2月に神奈川県川崎市の河川敷で13歳の中学1年生の少年Aが殺害され、遺体を遺棄された事件という悲惨な事件である。事件から1週間後に少年3名が殺人容疑で逮捕されたが、このうちの主犯格が18歳で、Aに直接手を下したとされる。この場合、BとBに命令される形でくわえられた暴行においては、「上から下へ」と「集団から個へ」の両方の力が働いていたことになる。
このいじめはおそらく集団が存在するところには何らかの形で生じる運命にはあるにしても、しかしそれが1980年代ごろよりわが国でもしばしば問題になっているとしたらそれはなぜだろう?これもモンスター現象と同様の社会的な背景が関係しているのだろうか?
いじめが生じるメカニズム
本書はいじめに関する本ではないが、私自身のこの問題についての立場を簡単に示しておきたい。
 まず最初に、私はいじめ自体は決して異常な現象だとは思わない。それは人間の集団の持つ基本的な性質に由来すると見てよいだろう。私たちはある集団に所属し、そこで考えや感情を共有することで心地よさや安心感を体験する。逆に集団から排除され、孤独に生きることは、不安で恐ろしい体験にもなりうる。これは「社会的な動物」としての人間の宿命と言える。
 そこで問題となるのがその集団の有している凝集性だ。それが高いほど、そのメンバーはその集団に強く結び付けられ、その一員であることを保障される。そこには安心感や、時には高揚感が生まれる。ところがある集団の凝集性が増す過程で、そこから外れる人たちをいじめ、排除するという力もしばしば働くようになる。それを「排除の力学」と呼んでおこう。この「排除の力学」自体は異常な現象ではないが、それがいじめを加速し、犠牲者を自殺にまで追い込むという事態が、この高度に発達した現代社会においても放置されてしまうことが異常であり、病的なのである。
ある集団が凝集性を高める条件は少なくとも二つある、と私は考える。一つはメンバーが明白な形で利害を共有しているということだ。①利害の共有、としよう。集団にとっての共通の利益に貢献するメンバーは、集団に大歓迎される。オリンピックで活躍した選手は無条件でヒーロー扱いされ、空港ではたくさんのファンからの出迎えを受ける。
もう一つは、集団のメンバーが共に敵ないしは仮想敵を持っている場合である。②仮想敵の存在、としよう。集団はある種の信条を共有することが多いが、そこに「~ではない」「~に反対する」「~を排除する」というネガティブな要素が加わることで、より旗幟鮮明になり、メンバーたちの感情に訴えやすくなる。そしてその仮想敵を非難したり、それに敵意を示したりする人は当然そのグループの凝集性に貢献し、それだけ好意的に受け入れられることになる。

2015年7月18日土曜日

自己愛(ナル)な人(36/100)

モンスター化は普通の人に生じる
ここで再び問うてみたい。モンスターたちは、深刻な自己愛の病理や、未熟なパーソナリティを有した人たちなのだろうか。本書では、私は彼らを、自己愛者と位置付ける。しかしそれは彼が社会の与えらえた状況で、一時期的にそうなる、という意味である。そのことは、モンスターと言われる人たちを観察してみるとわかる。
 モンスターと言われる人々の多くは、少なくとも社会適応が出来ていているのだ。学校側を困惑させる例として本などに描かれるモンスターペアレントたちは、曲がりなりにも家庭を築き、「子供思い」で「熱心な」親で通っている。家族のあいだに重大な亀裂が生じている様子はないのが普通だ。最近では夫婦が歩調を合わせて、あるいは親子が連携してモンスター化するとさえ伝えられているのである。彼らは主婦として、会社員としてそれなりの機能を果たしている以上、彼らを病的なパーソナリティの持ち主と考えることには無理がある。
 私の印象では、モンスター化する人たちは性格的にも特に特徴となる点もない、私たちの中にもたくさん存在するような人々のである。彼らがクライエントとして店や企業と関わったり、子供の通っている学校側と対峙したりする状況で、「魔が差して」しまったかのように無理難題を持ち出す、ということが起きているようである。
 もちろんモンスターの中には人格的に極端な偏りがあったり、精神疾患を抱えていたりする人たちもいる。その場合には彼らが既にかかわっている医療側の介入により、事態は比較的早く解決に向かう傾向にある。問題はそれ以外では適応がよく、それなりに社会でリスペクトを受けているような人々が、ある特定な場面でストップが効かなくなってしまうような状況なのだ。

学生運動の闘士たちは自己愛的だったり「未熟」だったりしたのか?

私がモンスターペアレントの現象を現代人の人格の問題と結びつけることに消極的であることのもうひとつは、学生運動の顛末を見ていたことと関係している。1960年代、70年代に日本で、あるいは世界で学生運動という名の大変なモンスター化現象があった。学生が教授を「お前」呼ばわりし、集団でつるし上げる、デモ行進をして大学に立てこもったり国会を取り巻いたりするという大変な時代があったことを、現在五十歳代やそれより上の世代の方なら鮮明に覚えているはずだ。あれは当時からすれば現代の学生の未熟さや他罰傾向として説明されたであろう。「近頃の若いものはどうなっているんだろう?」という大人からのコメントが一番聞かれたのもこの時期だったのだろう。
 しかし時代は変わり、学生運動はすっかり過去のものになっている。当時未熟だったり甘やかされていたはずの学生たちは、社会では普通に管理職の側に回ったり、すでに引退をして孫を抱いたりしている(ちなみにかの元都知事も学生運動の闘士であったという)。彼らはすっかり普通の市民として社会に溶け込み、その一方では現在の学生たちは学生運動世代以前よりさらにノンポリになっている傾向すらある。彼らは未熟な性格、一種のパーソナリティの異常をきたしていたのだろうか? 否、であろう。今から思えばあの運動は時代の産物だったのだ。

以上「モンスタータイプの自己愛者たち」について考えた。結論から言えばモンスターたちは実は普通の人たちであり、その人たちが「魔が差す」ことを許容するような社会環境が生じてきているというのが私の主張である。ただしモンスター化する人々の一部に何らかの精神医学的な問題が存在する可能性を否定するものではない。事実どのような状況でも決してモンスター化しない人もいれば、簡単にモンスターになってしまう人もいるだろう。この後者の多くは、他人の行動をとりこんでしまう被暗示性の強い人々であると考えるが、パーソナリティ上の問題をより多く抱えている人たちも含まれるようだという点を最後に指摘しておきたい。

参考文献
(1)嶋崎政男 『学校崩壊と理不尽クレーム』 集英社新書、2008
(2)小松秀樹 『医療崩壊―「立ち去り型サボタージュ」とは何か』 朝日新聞社、2006
(3)諸富祥彦 『子どもより親が怖い カウンセラーが聞いた教師の本音』 青春出版社、2002
(4)尾木直樹 『バカ親って言うな! -モンスターペアレントの謎-』 角川Oneテーマ21、2008
(5)岡野憲一郎 「ボーダーライン反応で仕事を失う」『こころの臨床アラカルト Vol. 25, No1. 特集ボーダーライン(境界性人格障害)』星和書店、2006



2015年7月17日金曜日

自己愛(ナル)な人(35/100)

クレイマー社会の由来

それでは私の考えを述べよう。現在の日本がモンスター型の自己愛者をたくさん生んでしまうのは、社会がそれを許容する様な培地を提供しているからだ。現代の日本では人の意識が依然と少しずつ変わっている。人が自分に与えられた権利を主張するということは、ある意味では当然のことである、という意識が少しずつ浸透している。人は社会でお互いを尊重し合い、不当な扱いを受けたら正当な手段で不満を述べ、場合によっては相手を訴えることは、基本的には正当なことだ。それは欧米社会では、おそらく数十年は先に行われてきたことだ。それが、日本でもここ20~30年でようやく行われ始めた。
 しかし問題は、自分の主張を訴える側も、訴えられる側も、お互いにどのように対応していいかわからないということが起きているということだ。ちょうど人々が一斉に柔道の投げ技をまず教わったものの、まだ力の加減を知らず、また受身の仕方もわかっていないかのように、である。組手で投げる側がむしゃらに投げて相手を痛めつけ、今度は攻守交代になると逆のことを相手にするわけである。
 一つの例を挙げよう。クレイマーからの電話はしばしば、延々と続く。カスタマー対応の方はそれをこちらから切ってはいけないというルールをどこからか教えられて、通常の仕事を犠牲にしてまで聞き続ける。ひたすら謝罪のみの対応だから、クレイマーの態度は増々自己愛的になっていき、その対応に当たる人はそれをトラウマとして体験し、一部はうつになり、そしてまた一部は ・・・・・・ 自分自身が別の場所でモンスター化するのだ。
先日は近くのコンビニで、店員の対応が悪いと猛烈な勢いで食って掛かっている客を見かけた。若い店員は平身低頭だったがそれでも埒があかず、困り果てていた。このような時、かつてのアメリカでの生活を思い出した。アメリカでは誰かが声を荒げた時点で、「力の誇示 show of force」となるのが普通だ。つまり警備員や警察が呼ばれるのである。怒鳴ることは「言葉の暴力」であり、人を殴ったり物を壊したりする「身体的な暴力」と同等の反社会的な行為とみなされる。
一般にアメリカでは人前で怒鳴るのは覚悟がいることだ。人はすぐ「力の誇示」に訴えようとする。結果として制服の人々が現れればあっという間におとなしくなるしかない。下手をすると逮捕されてしまうからだ。
 それに比べて日本では怒った市民への対応が非常に甘い。まず別室に招いて宥めようとしたりする。酷い時は派出所で暴れる酔っぱらいを警官がなだめようとしていたりする。
 実は私はそのような平和な日本が好きなのだ。それに一時的に激昂した客や患者も、なだめすかされ、謝罪することで、大部分の人は落ち着くのだろう。しかし一部はクレイマー化、モンスター化するのである。

「お・も・て・な・し」とも関係している
もう少し言えば、このモンスター化の問題、日本人のおもてなしの心ともかなり関係しているのだ。他人をもてなすことが、モンスター化の誘因となる、ということは十分考えられることである。もてなすという善意に基づく行為が、それによりトラウマを受けてしまう原因となるというのは何とも矛盾した現象といえよう。
 日本はもともと、もてなしの文化と考えられ、サービス業の質は極めて高いレベルにあることが知られている。そしてその上に一昨年(2013年)の流行語大賞に「お・も・て・な・し」が決まったが、これにはどのような意味があるのだろうか? 現代の日本人の精神性が最近になってさらに高められ、愛他性や博愛の精神が日本人の行動の隅々まで行き届くようになったのだろうか? いや、そう考えるのは全然甘いだろう。
 「おもてなし」は、一種の戦略としてとらえられるべきなのだ。
 飲食業そのほかのサービス業間の競争が進む中で、いかに一人でも多くの顧客を取り込むかという、マーケットリサーチが進み、顧客がより心地よさを感じるような対応を各企業が目指すようになったわけだ。これは市場経済の原則に従った結果である。店員が「おもてなし」の精神を持つことは、ちょうどコンビニ間の競争が激化したおかげでお弁当がよりおいしくなり(あるいは少なくとも口当たりがよくなり)、菓子パンがより食欲をそそるようになるのと同じである。今のコンビニのパン売り場に何種類の、それでも厳選された菓子パンが並んでいることだろう?どれもがあらゆる手で顧客をつかもうとした結果である。つまりは売る側の最大「もてなし」が売り上げとして反映されているようなパンなのだ。私が小さい頃は、パン屋さんに行っても丸いアンパンと楕円形のジャムパンと、グローブ型のクリームパンと渦巻き型のチョコレートパンの4種類しかなかったと記憶している。きっとパン屋さんは「パンとはこんなものだ」という慣習と常識に従い、購買者の顔をあまり思い浮かべずに作っていたのであろう。
 思い出せば、昔は人のサービスは今ほど行き届いてはいなかった。「おもてなし」はあまりなかったのである。JRの前身の、「国鉄」といわれていた時代の改札口で、切符切りバサミをパチパチやっていた駅員さんは、いつも愛想がなく仏頂面だった。タクシーの運転手もまた不機嫌そうで、近距離のタクシーに乗る時は、乗車拒否されるのではないかと運転手の顔色を窺ったものだ。
それでも諸外国よりはましだったのであろう。私は米国に留学している間には、店員に愛想よく扱われるという発想はあまり持たなくなっていた。彼の地での客の扱いはかなり大雑把である。客を待たせて店員同士がおしゃべりをするということはよく見かけるシーンだった。
  私が2004年に帰国して再び暮らすようになった日本は、サービス向上の努力や民営化の影響で、以前よりさらに改善されたという印象を持った。お店の従業員はみな顧客にとても愛想がいいのである。コンビニで100円のアイスを買っただけで手を胸の前に合わせて最敬礼されるなど、1987年に留学する前にはなかったことだ。
 こうなるとお店におけるマナーの良さは横並びという感じで、少しでも不愛想な店員のいる店はそれだけで目立ってしまう。「お客様に失礼があってはならない」ことを至上命令として刷り込まれている店員は、モンスター・カスタマーからとんでもない要求を突きつけられて一瞬絶句しても、まずは「大変申し訳ありませんでした」とまず受けてしまうことだろう。そうすることで、無理難題を受け入れるというベクトルを最初に定めてしまうのである。
 今の時代に「お・も・て・な・し」が改めて流行語になることは興味深いが、これも日本にオリンピックを招致するための戦略から発していたことを忘れてはならない。そしてその時点で私たちは諸外国からの訪問客からの無理難題を聞かざるを得ない立場に自らを追い込んでいるのではないかと、少し心配になる。「お・も・て・な・し」は確実に、カスタマーが増長する一因となっていると思う。

本書をこれまでお読みの方は、この問題は自己愛トラウマとも結びついていることを理解されるかもしれない。「おもてなし」を受けて当然と思っているカスタマーは、もうちょっとやそっとでは満足しない。高いお金を出して飛行機のファーストクラスに乗った時のことを想像していただきたい。搭乗後、何かの都合で飲み物がエコノミークラスの人たちに先に配られているのを知ったとしたら、「こちらは高いお金を出したのに何だよ!」と、ファーストクラスとしてのプライドを痛く傷つけられるに違いない。人より先に飲み物を飲めないので怒る、とはいかにも子供っぽいが、プライドを傷つけられた人間には極めて重大な問題なのである。モンスター化している人はこの、本来受けるべきだと信じているサービスを受けられないいことから来る自己愛的な傷つきに反応している可能性があるのだ。

2015年7月16日木曜日

自己愛(ナル)な人(34/100)

自己剽窃は続く。

モンスターという名の自己愛者

ある患者さんがこう言った。「なかなか外に出られなかったんですが、ようやく近くのスーパーにいけたんです。それでレジでお金を払う時、小銭を出そうとして財布の中を探して、それでちょっと、ほんの数秒ですが支払いに時間がかかったんです。すると次に並んでいる男の人が聞こえないくらいの音でがチッと舌打ちをしたんです。この世の中はなんて怖いところなんだろう、と思うと、外出するのが怖くなりました。」
この話の怖いところは、この状況での舌打ち程度なら、だれでもしてしまう可能性があるということだ。私も駅で急いでいる時などに、改札で前の人のICカードがはじかれたりすると、ため息程度は簡単についてしまう。私も含めて、世の中は、少しでもミスをしたり、秩序を乱した人に対してすぐに文句を言うような、いわばプチ・モンスターたちがウヨウヨしているようなのだ。
いま「モンスター化現象」なるものが我が国のいたるところで起きている。生徒が、保護者が、部下が、カスタマーが、患者が、対応に出る相手に厳しくクレームをつける。彼らのクレームに根拠がないわけではない。しかしその言い方が攻撃的で、やたら感情的なのだ。
 彼らに責め立てられる教師や管理職や店員や医療職従事者は、場合によっては深刻なトラウマを受けている。教師や管理職や医療従事者の中にはそれでうつ状態に陥ったり、仕事を休んだりするということも起きている。
 しかしモンスター化現象は、一部の異常な人たちによる現象ではない。私たち一人一人が、社会の中で、あるときある状況でモンスターになってしまうという可能性だ。たとえばレジでチッとやるプチ・モンスター客のように。日本で一番問題数の多い自己愛な人たちは、このモンスターの姿を借りているかもしれないのだ。
私がこれらのモンスターたちをナルシシストの仲間に入れて論じるのには根拠がある。彼らはモンスターぶりを発揮しているときは、クレームをつけている相手のことが見えていない。そして自分はサービスを受ける側である、という一種の特権意識を感じている。相手を自分を持ち上げ、リスペクトを向けるべきであるという、ある意味では見下した視線を向けている可能性が高いからだ。そしてそれはナルシシストの典型的な心性なのである。
 このモンスター型のナルシシストには一つの特徴がある。それは社会の限られた状況で、それこそ一般人がナルシシストとして出現する、ということだ。病院の受付で対応のまずさに文句を言うモンスター患者は、しかし職場であるコンビニのレジでは、まじめに黙々と顧客対応をしている。時にはモンスター型の客の対応に四苦八苦することもあるかもしれない。彼女はまたいったん家庭に帰れば、いいお母さんだったり、いい妻だったりする。ただ少しむしゃくしゃした時に、自分がカスタマーという立場に立つ状況で、ある時プチ・モンスター化するのだ。
 私たち一般人のプチ・モンスター化は、だから日常的な、よくある現象かもしれない。しかし問題はそれが社会のあらゆる場面で増えているらしいということなのだ。一体現代の日本で何が起きているのだろうか。どうして私たちは最近になり、これまで以上にプチ・モンスターという形での自己愛者になり、たがいにトラウマを与え合っているのだろう?
モンスター現象のひとつの説明としてよく聞かれるのが、現代人の未熟さや他罰性(他人を責める傾向)のせいというものである。

モンスターたちを「未熟な人たち」とする根拠
モンスター化は人格の未熟さだという説を提唱する人の一人が嶋崎政男氏である(「学校崩壊と理不尽クレーム」)。ナルシシスト、というよりは子供っぽい、未成熟な人たちととらえるのだ。
嶋崎氏によれば、モンスターペアレントの問題が生じ出したのは1990年の後半か、あるいは公立学校で学校選択制が導入された2000年の可能性もあるとする。ただ社会の耳目を集め、マスコミがこぞって取り上げるようになったのは2007年であったという。「投石での窓ガラス破損に弁償を要求したら、親が『そこに石があるのが悪い』と言った」とか「学校で禁止されている携帯電話を没収したところ『基本料金を支払え』と親が言った」という例は有名らしく、他の関連書にもしばしば登場する。
嶋崎氏の著書では、モンスター化現象の「原因」について触れている。彼はまずモンスターペアレントの問題が、彼らの年代にあるとする。この問題が深刻化した1990年代の半ばに義務教育を受けた子供を持つ親は、現在40歳代、50歳代である。それはかつて新人類と呼ばれ、共通一次世代とも言われた人々でもある。そして彼らの特徴として、諸富祥彦明大教授の説を引用している。つまり「他人から批判されることに慣れておらず、自分の子供が批判されると、あたかも自分が傷つけられたかのように思って逆ギレしてしまう」というのだ。
 嶋崎氏はさらに1980年代に全国の中学で校内暴力が吹き荒れたことにも言及している。それを間近に見て、「何をやっても許されるという幼児的な万能感に基づいた身勝手な不条理がまかり通るのを体験して育った世代が、「教師への反発、反抗は当たり前」という感覚を持つようになったことは容易に頷ける、とも書かれている。
 モンスターペアレントに関する論述は多いが、その原因についての論調はこの嶋崎氏や諸富氏のそれと類似しているという印象を受ける。

しかしよく考えると、このことはモンスター化が急増する理由を十分に説明していない気がする。もしモンスターたちが「未熟な性格」なら、なぜ彼らは社会の別の場面では普通に振る舞えるのだろうか? もちろん彼らが育った環境は、彼らのナルシシズムにそれなりに貢献しているのであろう。しかしそれ以外の要素も考慮に入れるべきであろうと考える。

2015年7月15日水曜日

自己愛(ナル)な人(33/100)

アスペルガー障害の自己愛的な怒り-「浅草通り魔殺人事件」を例に


今日も自己剽窃満載である。

アスペルガー型の自己愛についてはすでに項目を立てて述べた。その怒りの問題についてここで述べたい。
 「自己愛トラウマ」→怒り という図式については、すでに説明したとおりである。問題はこの自己愛トラウマが実に理不尽で、身勝手なものであるということであった。自己愛者たちは、きわめて不可解な理由で傷つき、イカる。一般人からみたら「どうしてそんなことでキレるの?」「自分で勝手にキレているだけでしょう?」と言いたくなるような理由で怒るのだ。そしてその怒りの理不尽さ、理解不可能さは、実は彼らの自己愛の病理の深刻度に比例していると言える。自己愛の病理が深く、彼らの「ナルシシズムの風船」が異様に膨らんでいると、普通の人には思いつかないような理由でも、その風船への刺激となり、それが破裂して怒らせてしまう可能性が高くなるのだ。
そこにアスペルガー障害の病理が加わると、自己愛トラウマの起き方もその不可解さが増す。彼らが独自のロジック、考え方のパターンを持っていて、通常の考え方では追えないということが一番の原因と言えるのだ。

2001年4月30日、東京の浅草で19歳の短大生が刺殺されるという事件が発生した。ずいぶん前の話だが、犯人のレッサーパンダの帽子をかぶった奇妙な男の写真を覚えている方も多いだろう。札幌市出身で当時29歳の無職のこの男は、普段は非常におとなしい性格だったというが、浅草の繁華街で見かけた女性に「友達になりたいと思って」声をかけようとして、結局この凶行にいたったという。「歩いていた短大生に、後ろから声をかけたらビックリした顔をしたのでカッとなって刺した」と供述しているとのことである。

これは私の憶測であるが、この犯人はおそらく普段他人から相手にされていないことにいらだち、フラストレーションをためていたという可能性がある。アスペルガー症候群にしばしば見られるのはこの種の被害者意識であり、自分を理解しない社会への憤りである。興味を持った女性に対して向けられた攻撃性の一部はそれに関係しているのだろう。
 ここで重要なのは、犯人はこの若い女性に「びっくりされた」ことにプライドを傷つけられた可能性が大きいということだ。馬鹿にされた、というのが体験としては近いのではないだろうか。つまり「自己愛トラウマ」だった可能性があるのである。もちろんそう感じた思考過程はブラックボックスの中であるが、人の表情に見られる感情表現を誤認する、あるいは理解できないという問題は特にアスペルガーの患者さんたちに顕著である場合が多い。彼らの予測不可能な自己愛の傷つき → 不可解な怒りの暴発 というのがアスペルガー型の自己愛を特徴づけているわけだ。
すでに紹介した「恥と自己愛トラウマ」の中でもう一つ私が挙げている怒りの例も、アスペルガー型の自己愛の傷つきに由来するものとして比較的いい例となっているので、これも紹介したい。(と言いながら、自己剽窃を続ける。)

「秋葉原通り魔事件」における犯人の怒り
この事件は2008年の6月に東京の秋葉原で発生し、7人が死亡、10人が負傷したというものである。その唐突さと残虐性のために、おそらく多くの私たちの心に鮮明に記憶されているだろう。犯人の運転する2トントラックは、交差点の赤信号を突っ切り、歩行者天国となっている道路を横断中の歩行者5人を撥ね飛ばした。トラックを降りた犯人は、それから通行人や警察官ら14人を立て続けにダガーナイフでメッタ刺しにしたのである。
犯人は青森県出身の25歳の男性KTで、岐阜県の短大卒業後、各地を転々としながら働いていたという。「生活に疲れた。世の中が嫌になった。人を殺すために秋葉原に来た。誰でもよかった」などと犯行の動機を供述したが、携帯サイトの掲示板で約1000回の書き込みを行っていたという。携帯サイト心のよりどころにしていたわけだが、そこでも無視され続けたという思いが募り、さらに孤立感を深め、殺人を予告する書き込みを行うようになっていった。当日の犯行の直前にも、沼津から犯行現場まで移動する間に約30件のメッセージを書き込んでいたという。
さて極めて凄惨な出来事であり、日本人を震撼させたとはいえ、既に旧聞に属しかけたこの事件について、のちに犯人が最近になり獄中から手記を発表した。それが「Psycho Critique 17[解](JPCA, 2012年)」であるが、その手記を読む限り、やはりこの犯行には犯人の自己愛の傷つき、「自己愛トラウマ」が関係していると考えられるのである。つまり自分のメッセージに誰も反応してくれないことで、犯人は深刻な「自己愛トラウマ」を体験していたと言える。例によって全く理不尽な、加害者不在のトラウマを、である。


2015年7月14日火曜日

自己愛(ナル)な人(32/100)


今日の部分は、思いっきり自己剽窃だ。

自己愛的な人がなぜ怒るのかーそのメカニズム

ナルな人間がなぜ怒るのか。ビル・クリントンはなぜいつもカッカしているのか。そのことを説明しよう。その際これまで出てきた「自己愛トラウマ」という概念が重要となる。なぜなら怒りとは、自己愛トラウマによる痛みを癒すのに最も効果的な手段だからだ。自己愛な人は特に傷付きに弱い。そして怒鳴り散らすこと、人を痛めつけることは、彼らにとって何よりも特効薬なのだ。

【ソウル=豊浦潤一】北朝鮮で政権ナンバー2だった張成沢朝鮮労働党行政部長が処刑されたのは、張氏の部下2人が、党行政部の利権を軍に回すようにとの金正恩第1書記の指示を即座に実行しなかったことが契機になったと20日、消息筋が本紙に語った。
 金正恩氏はこれに激怒し、2人の処刑を命じ、国防委員会副委員長も務めた張氏らに対する一連の粛清が開始されたという。
 部下2人は、同部の李竜河第1副部長と張秀吉副部長。消息筋によると、2人は金正恩氏の指示に対し、激怒した正恩氏は「泥酔状態」で処刑を命じたという。
 部下2人は11月下旬に銃殺され、驚いた2人の周辺人物が海外の関係者に電話で処刑を知らせた。韓国政府はこの通話内容を傍受し、関連人物の聞き取りなどから張氏の粛清が避けられないことを察知した。最終的に処刑された張氏勢力は少なくとも8人いたという。 (2013年12月21日10時41分  読売新聞)

私は北朝鮮の政情について特別コメントするつもりはない。ただこれほどの怒りの表現の背後にあるのが、私がいう「自己愛トラウマ」の例であろうと主張したいのである。自分が出した命令に対して「張成沢部長に報告する」と部下に即答を避けられた時、おそらく金正恩は激しい自己愛的な傷つき、「自己愛トラウマ」を体験したのだ。それが彼にこのような決断をくださせたのであろう。自己愛トラウマはそれだけに恐ろしく、またパワフルである。特に誰にとって何が自己愛トラウマにつながるかが読めない場合が多いことも、事態を複雑にする。それだけに私たちはこのトラウマと怒りの関係を十分に理解しておかなくてはならないのである。
「強権を振るう独裁者がトラウマを体験している?それでは彼がまるで被害者であるかのようではないか?」という感想を持つ方がいるかもしれない。しかしここでは自己愛トラウマを体験する人の正当性とか、加害性、被害者性といった問題はいったん脇に置いておく。自己愛トラウマが体験される際、そのトラウマの加害者はしばしば曖昧であったり、加害の意図がなかったり、むしろ立場としては正当であったりする。独裁者が、自己愛的な人間が、凶悪な心を持った人間が、それでも、いや、それだけに自己愛トラウマを抱えてしまうことに不幸が生じる。なぜならそこで生じる途方もないエネルギーは加害行為に向かってしまうからだ。
この北朝鮮での出来事も、もちろん処刑された二人が最大の被害者である。でもこの二人の扁桃の仕方にトラウマを受けてしまったことが、このような取り返しのつかない出来事に発展した。その意味では自己愛トラウマは、全く理不尽なものと言わざるを得ない。

人の怒る仕組み - 怒りの二段階説

ここで怒りが生じるメカニズムに関して少し説明したい。それは二段階説と言い表される。つまり怒りは、第2段階で生じる。ということは第1段階として何かが生じ、その反応として起きるのだ。そしてその第一段階に起きるのが、自己愛トラウマによる心の痛み、というわけだ。
このプライドを傷つけられた痛みが急激で鮮烈なものであることはすでに述べた。そしてそれこそ物心つく前の子供にはすでに存在し、老境に至るまで、およそあらゆる人間が体験する普遍的な心の痛みだ。人はこれを避けるためにはいかなる苦痛をも厭わないのである。しかしこのプライドの傷つきによる痛みを体験しているという事実を受け入れることはなおさら出来ない。そうすること自体を自分のプライドが許さないのだ。
かつてコフートという精神分析家は「自己愛的な憤りnarcissistic rage」という言葉を用いてこの種の怒りについて記載した。最初私はこの種の怒りはたくさんの種類の一つに過ぎないと思っていた。ところが一例一例日常に見られる怒りを振り返っていくうちに、これが当てはまらないほうが圧倒的に少数であるということを知ったのである。
私たちは日常生活でイライラすることが多い。それこそ電車を待っていて、急に誰かに横入りされただけでも怒りが生じることがあるが、その種の怒りでさえも、結局はこの自己愛やプライドの傷つきに行き着くことが出来る。自分の存在が無視されたり、軽視されたりした時にはこの感情が必ずといっていいほど生まれるのだ。たとえレジで横入りした相手が自分を視野にさえ入れていず、また電車で靴を踏んだ人があなたを最初から狙っていたわけではなくても、自分を無の存在に貶められた感じがしたなら、それがすでに深刻な心の痛みを招くのだ。

健全な自己愛、病的な自己愛

さて以上で怒りの二次的、防衛的な意味合いについては一応強調出来たつもりである。私たちは怒りの背後にはある自己愛の傷つきがあるのだ、ということを自覚することで、自分が他人に向けている感情の正当性に疑いを差し挟むことが出来、結果的に怒りを鎮めることができる場合もあろう。「俺って、なんでこんなに怒っているんだろう?よほど自分が傷つけられたのだ」という反省が生まれるからである。そしてその怒りが表現されてしまい、他人の自己愛を傷つけ、それだけでなく精神的に見でも「処刑」してしまい、さらなる怒りの連鎖を招くといった事態もある程度は防げるかもしれない。
 しかしこの種の自覚を深めることで人は最終的には怒ることがなくなり、社会は平和になるのだろうか? おそらくそう簡単には行かないだろう。多くの防衛機制について言えることだが、それには何らかの本質的な存在理由が伴うことが多い。怒りの必然性や正当性についても検討しておかなければならない。恥の反転としての怒りにも、その人自身のプライドや社会的生命を守るという役割は消えてはいないというわけだ。 
自己愛を正常範囲まで含めて考えるのは現代の趨勢でもある。一つの連続体として自己愛を考え、そこには中心に健全な部分を持ち、周囲に病的に肥大した部分を持つというイメージを考えればよい(図1)。ここで健全な自己愛とはわが身を危険から守るという一種の自己保存本能と同根だと考えればよい。そしてその具体的な構成要素としては、自分の身体が占める空間、衣服や所持品、安全な環境といったものが挙げられよう。
また周囲の病的に肥大した部分には、偉い、強い、優れた、ないしは常に人に注意を向けられて当然であるという自分のイメージが相当することになる。





この自己愛の連続体を考えた場合、怒りとは、そのどの部分が侵害されてトラウマが生じた時も発生することになろう。病的に肥大した自己イメージの部分が侵害された場合についてはすでに論じたが、正常の自己愛が侵害された場合には、自己保存本能に基づいた正当な怒りが生じる。その際は恥よりもさらに未分化な、一種の反射ないしは衝動が怒りに転化するのだ。そしてこちらは一次的な感情としての怒り、と考えるべきなのである。
ただしここに問題が生じる。自己愛が連続体である以上、それが侵害を受けたと感じたのが健全な部分が病的な部分かは、しばしば当人にさえも区別がつかないことがあるのだ。

混んでいる電車で足を踏みつけられた時の怒りという例を再び取り上げよう。その人が自分の存在を無視されたと感じ、大して痛くもないのに踏まれた相手に大げさに咬みつくとしたら、これは病的といえるだろう。しかし実際に足の甲に鋭いヒールが食い込んだ際の耐え難い痛みのために、反射的に声を上げて相手を突き飛ばしてしまう場合もあるだろう。こちらは誰の目にも明らかなトラウマであり、それに対して生じた怒りは正当なものとして映るはずだ。以上の例は両極端でわかりやすいが、大概の場合、足を踏まれて腹を立てた際の私たちの怒りはどちらの要素も伴った複雑な存在であることが多い。