2015年7月20日月曜日

自己愛(ナル)な人(38/100)

昨今は日本の政治家の発言に対して中国や韓国が反発して声明を発表するということが頻繁に起きているが、反日であるということはそれらの国民の間の凝集性を高める上でさぞかし大きな意味を持っていることと思う。そして集団がまとまる、凝集力を発揮するという力学は、その中の一部の人々を排除するという方向にも働くということが問題なのだ。そしてメンバーはその集団から外に出て行くことが出来ない。上に述べた二つの条件(①利害の共有、②仮想敵の存在、③グループの閉鎖性)はそのまま、仲間はずれや村八分、いじめの対象を生む素地を提供しているのである。なぜなら集団の共通の利益に反した行動を取ったり、集団の仮想敵とみなせるような集団に与したり、それと敵対することを躊躇しているとみなされたメンバーが排除されることによっても、集団の凝集性が高まるという条件が成立するからだ。そしてここが肝心なのだが、そのようなメンバーが存在しないならば、それは人為的に作られることすらある。これがいじめによるトラウマを負わされるのきっかけとなることも多いのだ。
ここで私たちは次のような疑問を持っても不思議ではない。
人は「どうして仲間外れを作らなくてはならないのか? そうしなくても集団の凝集性を高めることができるのではないか?」
 確かにそうかもしれない。互いを励ましあい、助け合うことで和気あいあいとした平和的な集団となることもあるだろう。しかしそこでリーダーの性格が集団の雰囲気に大きな影響を与えることに注意したい。リーダーが温厚で面倒見のいい性格であれば、いじめも起きにくいだろう。しかしリーダーが若干でもサディスティックな性格を持っている場合は、攻撃の対象をすぐに見つけ出し、そこで上記の二番目の条件(仮想敵の存在)が働くことで強い「排除の力学」が働き、いじめの構造は簡単に作り出されてしまう。
そしてそのような時、仲間外れをされそうになっている人に関して、別のメンバーが「どうして彼を除外するのか。彼も仲間ではないか? みんな仲良くやろう!」と訴えるのは極めてリスキーなことである。なぜならグループを排除されかけている人を援護することは、その人もまた排除されるべき存在とみなされてしまうからだ。「みんなが仲良くやろう」というメッセージは事態を抑制するどころか逆方向に加速させる可能性がある。こうしてグループから一人が排除され始めるという現象は、それ自体がポジティブフィードバック・ループを形成することになり、事態は一気に展開してしまう可能性があるのだ。
この「排除の力学」は実際には排除が行われていない時も、常に作動し続けることになる。メンバーはその集団内で不都合なことや理不尽なことを体験しても、それらを指摘することで自分が排除の対象になるのではないかという危惧から、口をつぐむことになる。私がこの集団における「排除の力学」についてまず論じたのは、結局このような事態が日本社会のあらゆる層に生じることで、いじめによるトラウマを生み出していると思えるからである。
 日本の社会におけるいじめの問題を考える時、その構成メンバーの均一性は非常に大きなファクターとなる。一般に集団においては、お互いが似たもの同士であるほど、少しでも異なった人は異物のように扱われ、「排除の力学」の対象とされかねない。日本は実質上単一民族国家に非常に近いといってよく、メンバーは皆歩調を合わせて行動し、何よりも「ほかの人と違っていないか」に配慮をする傾向にある。
ほかの人と違ってはいけない、という発想は、すでに学校生活が始まる時点で生じている。私が小学校に上がった年、学校に制服はなかったものの、みな判で押したように、男子は黒のランドセル、女性は赤のランドセルだった。その中で一人だけ黄色のランドセルだったU子ちゃんのことは、いまでも鮮明に覚えている。それだけ目立っていたのだ。幸いU子ちゃんはいじめの対象にはならなかったが。なぜU子ちゃんのランドセルのことを私はそれほど鮮明に覚えているのだろう。おそらく6歳の私の中には、既に「みんな同じでなくてはならない」があったのだ。だから黄色のランドセルを背負っているU子ちゃんに対して強烈な違和感を持ったのだろう。「よくみんなと違う色のランドセルで平気なんだな。」
6歳ないしはそれ以前から日本人の心の中にある「皆と同じでないと・・・」という気持ち。このような現象はもともと生物学的、民俗学的に「似た者同士」の集団においてより生じやすいはずではないか? アメリカなどでは、所属する集団の構成員のどこにも目立った共通点が見出せないということは普通に起きる。彼らの皮膚の色も人種も体型も最初から全く異なっているのである。そして小学生達は色も形もまちまちのカバンを背負い、あるいはぶら下げているのである。