(18)の補足 オキシトシン VS 男性ホルモンか?
★ 2011年9月13日のニュースだから少し経っているが、興味深いニュースを見つけた。(http://jp.reuters.com/article/oddlyEnoughNews/idJPJAPAN-23165820110913)
「[シカゴ 12日 ロイター] 男性は父親になると男性ホルモンが低下し、生物学的に子育てに適応するようになることが、米ノースウエスタン大学が米国科学アカデミー紀要に発表した研究結果で明らかとなった。同大学の研究チームは、フィリピン出身の男性600人以上を対象に5年にわたり調査。調査当初に父親の人はいなかったが、その後に父親になると、少なくとも短期的には男性ホルモンであるテストステロンの減少がみられたという。研究を行ったリー・ゲトラー氏は、テストステロンの数値が高かった男性ほど父親になる確率が高かったが、いったん父親になると、その数値は大幅に減少したと指摘。「父親になり、新生児を迎えることは、多くの精神的・身体的な調整を必要とする。われわれの研究は、男性が生物学的に、そういった必要性に対応しようと実質的に変化しうることを証明した」と語った。シェフィールド大学のアラン・パーシー博士は、通常テストステロンの量はあまり変化しないとし、「年齢の経過などとともに徐々に減少することはあるが、家庭生活に応じて劇的に変化するとは興味深い」と語った。」
長い引用になったが、いくつかの示唆がここにある。以下が私自身の仮説。一つはテストステロンの低下が攻撃性の低下につながり(これ自体は実証済み)、それが子育てに有利に働くという可能性。もう一つはテストステロン=男性性が、男性から優しさや母性性を低下させる働きがあり、いわばオキシトシンと反対の役割を果たすことになり、その低下が結局はオキシトシンの上昇と似たような効果を与えているのではないかということである。それにしても実に人間の体は上手く作られているものである。
2012年7月11日水曜日
続・脳科学と心の臨床(45)
信頼のおけるメイヨクリニックのサイトに行ってみよう。(http://mayoresearch.mayo.edu/adler_lab/project2.cfm)それによるとイップスは、たとえば書痙や音楽家の持つ障害(名前は知らないが、たとえば熟練のバイオリニストやピアニストがはやいフレーズを弾けなくなってしまう、という話を聞いた事がある。)と同じであるという。その正体は、「課題遂行時の局所的なジストニア」。と言われても何のことだかわからないという人は多いかもしれない。ジストニアとは、筋肉が一時的に興奮し、硬直することである。イップス病に悩まされるこるファーの手の筋電図を取ったところ、パターでクラブがボールに当たる200ミリ秒前に、前腕を屈曲させる筋肉と伸ばす筋肉が同時にジストニアを起こしているという。そしてこれはたとえば書痙と同じだと言うわけだ。書痙でも、書こうとすると手の筋肉が硬直してスムーズな動きを阻害する。
さて、ではなぜジストニアが起きるのか?ここら辺の説明はまだぜんぜん出来ていないという。ということは手の振るえ → その中でも深刻なものはイップス(あるいはそれに類似の状態) → それは局所的に生じる筋肉の一時的な硬直(ジストニア)ということ以外にはよくわかっていないことになる。ただし治療のひとつとしてはボトックスの注射が有効である可能性があるとかかれている。ボトックスとはボツリヌス菌の毒素を希釈したものであり、それにより一時的に筋肉を麻痺させるわけだ。皮膚の皺をとるために、顔面表情筋に打ったりする、アレだ。
おや、これについて調べていくうちに、音楽家の間での局所的ジストニア(もうFDと表記することにしよう)についての治療法も進んでいるらしい。たとえばファリアス博士(Joaquín Farias, Ph.D.)という人の治療法は高く評価されているらしい。http://www.focaldystonia.net/farias.html
彼自身のサイトには日本語で次のように書かれている。
「ファリアス博士の方法は深部感覚のトレーニングに基づいています。動き自体の深部感覚を発達させることで痙縮は軽減し、望まない緊張や震え、痙攣は抑制され、調整の改善が可能になります。
このトレーニングは進歩的かつ柔軟な方法で動きを解放し、精神運動(サイコモトリシティ)の新しい統合を可能にします。このシステムは試験的ではありますが、すでに局所性ジストニアに苦しむ音楽家や運動選手の他、頸部ジストニア、局所性ジストニア、全身性ジストニア、書痙の患者にも適用され、回復に高い効果が得られることがわかっています。中には完全に回復した例も見られます。」
やはり一種の行動療法的なテクニックが開発されつつあると言うことであろう。
さて、ではなぜジストニアが起きるのか?ここら辺の説明はまだぜんぜん出来ていないという。ということは手の振るえ → その中でも深刻なものはイップス(あるいはそれに類似の状態) → それは局所的に生じる筋肉の一時的な硬直(ジストニア)ということ以外にはよくわかっていないことになる。ただし治療のひとつとしてはボトックスの注射が有効である可能性があるとかかれている。ボトックスとはボツリヌス菌の毒素を希釈したものであり、それにより一時的に筋肉を麻痺させるわけだ。皮膚の皺をとるために、顔面表情筋に打ったりする、アレだ。
おや、これについて調べていくうちに、音楽家の間での局所的ジストニア(もうFDと表記することにしよう)についての治療法も進んでいるらしい。たとえばファリアス博士(Joaquín Farias, Ph.D.)という人の治療法は高く評価されているらしい。http://www.focaldystonia.net/farias.html
彼自身のサイトには日本語で次のように書かれている。
「ファリアス博士の方法は深部感覚のトレーニングに基づいています。動き自体の深部感覚を発達させることで痙縮は軽減し、望まない緊張や震え、痙攣は抑制され、調整の改善が可能になります。
このトレーニングは進歩的かつ柔軟な方法で動きを解放し、精神運動(サイコモトリシティ)の新しい統合を可能にします。このシステムは試験的ではありますが、すでに局所性ジストニアに苦しむ音楽家や運動選手の他、頸部ジストニア、局所性ジストニア、全身性ジストニア、書痙の患者にも適用され、回復に高い効果が得られることがわかっています。中には完全に回復した例も見られます。」
やはり一種の行動療法的なテクニックが開発されつつあると言うことであろう。
2012年7月9日月曜日
続・脳科学と心の臨床(44)
脳の配線異常(?)としてのイップス病
世の中には「気のせい」と片づけられる状態はたくさんある。「人前で緊張すると、胸がドキドキするんです。」と言ってもだれも真剣には取り合ってくれないだろう。「そういう時は皆緊張するものですよ。あなただけじゃありません。」「緊張すると声が震えるんですけれど・・・・」「聞いていて全然そんなことないですよ。と、大体はこんなものである。
しかし中には、明らかに病気として認定してもらえるものもある。人はそれを見て気の毒がり、「単なる気のせい、緊張のし過ぎ、と言うだけではありませんね。明らかに何かの異常が起きているのでしょう。」と言ってもらえる。これがイップス病である。
イップス病については辞典によれば「ゴルフ競技で、簡単なパットの失敗の原因となる神経質な状態」と言われる(オックスフォード英語辞典)。ほんのわずかな距離のパットで、失敗する方がおかしいという状況で、手が大きく震えてパットが打てない。周囲もそれを見て気の毒がるくらい、手のコントロールが効かなくなってしまう。その結果として初心者でも入るはずのパターを大きく外してしまう。
その様な状態をイップスと呼んだのは、トミー・アーマーといわれる。1960年代の事だ。
以下はネットの記事を引用(http://www.cgu.ac.jp/kyouin/tyagi/yips1.html)。ABS’s of GOLF(1967)の中で、トミー・アーマーは次のように記している。
「イップスを経験しない間は、ゴルフの世界をすべて体験したことにはならない。イップスは、ショートゲームを台無しにする脳の痙攣である。私はこの恐ろしい病気にイップスという言葉を最初に使用したという栄誉を担っている。私自身も、イップス、痙攣、震え、異常な緊張、そして麻痺など、これまで秘密扱いされたり苦痛で矮小化されてきた恐ろしい体験を味わいたくなかったのに……。私がこの障害に今や一般に使用されるようになったイップスという名前を付けたのである。」(ABS’s of GOLF(1967))
(ちなみにイップス病については、イップスの科学 田辺 規充 (星和書店、 2001年)という本が参考になるだろうが、アマゾンで注文をして待っている間にこれを書き始めている。)
この間テレビを見ていたら、書道の段位を持つ芸人やキャスターが多数の観客を入れたスタジオでその腕を競うという番組をやっていた。すると実に興味深いことだが、最初に筆を紙に下ろす直前に粗大な震えを体験する人が何人もいたのだ。これも同類の問題と言える。
このイップス病、慣れ、不慣れということとは無縁のようである。トミー・アーマーも、イップス病に悩まされる多くのゴルフプレーヤーもプロとしてこれまで長年やってきた人たちである。それがイップス病に取りつかれてしまう。アメリカでピッチャーに返球が出来ずにグラウンドにボールを投げつけてしまうというキャッチャーがいたが(名前は忘れた)、もちろんプロの選手であった。(彼はその代わり盗塁の際は二塁に矢のようなボールを送れるそうである。) スポーツについてはプロ中のプロのはずのあの江川卓も、アイアンもウッドもイップスになってしまいゴルフをやめてしまったと言われる。
私がこれを取りあげるのは、これもまた脳の問題だからだ。
世の中には「気のせい」と片づけられる状態はたくさんある。「人前で緊張すると、胸がドキドキするんです。」と言ってもだれも真剣には取り合ってくれないだろう。「そういう時は皆緊張するものですよ。あなただけじゃありません。」「緊張すると声が震えるんですけれど・・・・」「聞いていて全然そんなことないですよ。と、大体はこんなものである。
しかし中には、明らかに病気として認定してもらえるものもある。人はそれを見て気の毒がり、「単なる気のせい、緊張のし過ぎ、と言うだけではありませんね。明らかに何かの異常が起きているのでしょう。」と言ってもらえる。これがイップス病である。
イップス病については辞典によれば「ゴルフ競技で、簡単なパットの失敗の原因となる神経質な状態」と言われる(オックスフォード英語辞典)。ほんのわずかな距離のパットで、失敗する方がおかしいという状況で、手が大きく震えてパットが打てない。周囲もそれを見て気の毒がるくらい、手のコントロールが効かなくなってしまう。その結果として初心者でも入るはずのパターを大きく外してしまう。
その様な状態をイップスと呼んだのは、トミー・アーマーといわれる。1960年代の事だ。
以下はネットの記事を引用(http://www.cgu.ac.jp/kyouin/tyagi/yips1.html)。ABS’s of GOLF(1967)の中で、トミー・アーマーは次のように記している。
「イップスを経験しない間は、ゴルフの世界をすべて体験したことにはならない。イップスは、ショートゲームを台無しにする脳の痙攣である。私はこの恐ろしい病気にイップスという言葉を最初に使用したという栄誉を担っている。私自身も、イップス、痙攣、震え、異常な緊張、そして麻痺など、これまで秘密扱いされたり苦痛で矮小化されてきた恐ろしい体験を味わいたくなかったのに……。私がこの障害に今や一般に使用されるようになったイップスという名前を付けたのである。」(ABS’s of GOLF(1967))
(ちなみにイップス病については、イップスの科学 田辺 規充 (星和書店、 2001年)という本が参考になるだろうが、アマゾンで注文をして待っている間にこれを書き始めている。)
この間テレビを見ていたら、書道の段位を持つ芸人やキャスターが多数の観客を入れたスタジオでその腕を競うという番組をやっていた。すると実に興味深いことだが、最初に筆を紙に下ろす直前に粗大な震えを体験する人が何人もいたのだ。これも同類の問題と言える。
このイップス病、慣れ、不慣れということとは無縁のようである。トミー・アーマーも、イップス病に悩まされる多くのゴルフプレーヤーもプロとしてこれまで長年やってきた人たちである。それがイップス病に取りつかれてしまう。アメリカでピッチャーに返球が出来ずにグラウンドにボールを投げつけてしまうというキャッチャーがいたが(名前は忘れた)、もちろんプロの選手であった。(彼はその代わり盗塁の際は二塁に矢のようなボールを送れるそうである。) スポーツについてはプロ中のプロのはずのあの江川卓も、アイアンもウッドもイップスになってしまいゴルフをやめてしまったと言われる。
最近の研究では、ゴルフを長く続けている人の方がなりやすく、調査したご不ファーの28パーセントが体験していると言うから恐ろしい。(McDaniel KD, Cummings JL, Shain S. The "yips": a focal dystonia of golfers. Neurology. 1989 Feb;39(2 Pt 1):192-5.)
私がこれを取りあげるのは、これもまた脳の問題だからだ。
続・脳科学と心の臨床(43)
心理士への教訓 ②
夢については、うーん・・・微妙
脳科学的に夢の在り方を考えた場合、少なくともその意味を探ることが来談者の心を深堀りしていく、という単純なものではないということがわかる。夢は脳の自律的な活動の結果であり、その成立にはあまりにわからないことが多い。もしかしたらフロイトが考えたように、抑圧された無意識内容が形を変えたものかもしれない。しかしそれにしてはその無意識内容の解釈の方法はあまりにも多く、おそらく治療者の数ほどの解釈が成り立ってしまう。そしてホブソンらの説が正しいのであれば、少なくとも夢の素材そのものはかなり蓋然性があり、偶発的なものらしい。すると素材そのものよりは、それをもとにして出来上がった内容にこそ無意識=脳の神秘がある。そしてその仕組みはほとんどわかっていない。
だから夢の解釈を試みることは、例えば曲から、作品からその人の無意識を探ろうという試みに似ている。人はそれに関心があるだろうか?むしろ曲を、絵画をそのものとしてとらえ、その価値を見出すだろう。曲にしろ絵画にしろ、作者を離れて皆のものになるというところがある。作品は未知の力がその作者の脳を借りて生まれたというニュアンスがある。それのもとになった作者の無意識を探るということには人はあまり関心を示さないだろう。
私は来談者の語る夢に意味を見出すべきではないと言っているわけではない。ただし夢はそこに隠された意味を追求するにはあまり適していないと考える。夢は脳が描いた一種の作品であり、むしろそれをどう感じるか、そこから何を連想するかなのである。その意味で夢の扱い方はロールシャッハ的と言えるだろうか?
ある来談者が、すでに何年か前に亡くなった母親が夢に出てきたと報告する。その夢の中で彼女は母親を罵倒していたという。穏やかな関係にあった母親を罵倒している自分を夢で見て、その来談者は心配していた。「私の中に母親への怒りや憎しみがどこかにあったということでしょうか?」
そのような夢に対する対応は、次のようにあるべきだろう。「お母さんを罵倒している夢をたまたま見てしまったんですね。その夢がどこから来たかは、あまり気にする必要はないと思いますが、そのような夢を見たあなたの反応はいかがですか?」
それに対して彼女はこう答えるだろう。「いや、実際に私は母をそんなに責めたことなどなかったし、そうしようと思ったことも思い出せません。」 「それじゃびっくりなさったでしょうね。現実とかけ離れた夢も人は見るものです。でも夢の中であってもお母さんを罵倒したことがそこまで後ろめたいとしたら、それはどういうことでしょうね。だって親子の間の言い合いって、普通にありませんか?」
読者はあまりに当り前で表面的なこの対応に失望するかもしれないが、夢の生成過程がほとんどわかっていない以上このくらいの対応しかできないだろう。
2012年7月8日日曜日
続・脳科学と心の臨床(42)
良識ある精神科医の言い分はこうである。
「私は彼女がDIDであるかにはこだわりません。彼女が診察室内に持ち込んでくるものを扱うだけです。彼女がBさんとして登場しても、その言い分を淡々と聞くまでです。ただ私は彼女がその日はAさんではなくてBさんと名乗っているということには特に注意を払いません。Aさんと接するときと同様に接します。」
まずこの言い分にはそれなりの治療的な意味合いがあることを認めたい。というのもこのような時、Bさんと同時にAさんも治療者の話を聞いている、という事態が生じている場合も少なくないからである。DIDに関する臨床が教えてくれるのは、複数の人格が同時に「覚醒」している可能性である。何日か前に述べたDIDの例は、BさんがAさんの言動を背後で聞いていた、というものであった。一人の人格に対応している姿を、別の人格が見ているということは確かにあるのである。とすればBさんが現れても依然としてAさんとはなす、という方針にもそれなりの意味がある。
ただし今挙げた例のように、いつものAさんにかわってBさんが出ている場合には、Aさんが主人格ということになるが、主人格はその名とは裏腹に隠れてしまい、話を聞いていない場合のほうが多いのだ。パターンとしては「副人格」Bさんのほうが、Aさんの後ろでいざとなれば出てこれるように常に控えているということの方が多いのである。だから「Bさんが出てきても、Aさんのときと同じように話します」という方針は、肝心のAさんが不在であるために空振りに終わることが多い。するとやはりその場合、Bさんに対する語りかけは「Bさん、ですか。これまでAさんを見ていた方ですね。どうなさってましたか。」なのである。
もし治療者が「Bさんが出てきても、Aさんのときと同じように話します」という方針を貫いた場合はどうなるか?それはAさんがこれまで周囲の人々と同じかかわりを持つということに過ぎない。つまり治療的なかかわりとしての特色をなんら持つことができないことになる。
ただし今挙げた例のように、いつものAさんにかわってBさんが出ている場合には、Aさんが主人格ということになるが、主人格はその名とは裏腹に隠れてしまい、話を聞いていない場合のほうが多いのだ。パターンとしては「副人格」Bさんのほうが、Aさんの後ろでいざとなれば出てこれるように常に控えているということの方が多いのである。だから「Bさんが出てきても、Aさんのときと同じように話します」という方針は、肝心のAさんが不在であるために空振りに終わることが多い。するとやはりその場合、Bさんに対する語りかけは「Bさん、ですか。これまでAさんを見ていた方ですね。どうなさってましたか。」なのである。
もし治療者が「Bさんが出てきても、Aさんのときと同じように話します」という方針を貫いた場合はどうなるか?それはAさんがこれまで周囲の人々と同じかかわりを持つということに過ぎない。つまり治療的なかかわりとしての特色をなんら持つことができないことになる。
ところで良識ある精神科医の態度は何に由来するのであろうか?それはおそらく「治療者として患者の操作には乗らない」というメンタリティーではないか?「患者が演技をしているのではないか?」というのがこれらの精神科医の考え方ということになるが、そこには「患者に決してだまされない」という信条がある。しかし臨床家としてむしろ大事なのは、患者のストーリーに乗っかってみるという余裕なのである。
2012年7月7日土曜日
続・脳科学と心の臨床(41)
「解離現象が教えてくれる脳の機能」の心理士への教訓①
解離性障害、特にDID(解離性同一性障害)の治療に当たる心理士や精神科医は、しばしば逆風に晒されていることを実感する。「あちらの世界に行ってしまったんだな」という視線。そこにはしばしば憐憫さえ感じられることがある。日本の精神分析関係の人々の間では解離を扱わないという不文律があるようであるが、良識ある精神科医の間にも「私は解離性障害には懐疑的です」と公言する人は少なくない。
解離性障害の患者を治療する際は、治療者はその姿をどのように見られているかをどこかで意識せざるを得ないという事情があるわけであるが、その原因は何と言っても人格の交代現象が、あまりに私たちの常識の外にあるからである。ある人格Aが人格Bに乗っ取られるという現象は、やはり起きるはずのないことであり、オカルト的であり、まともに取り合ってはならないもの、という気を起こさせる。それは私にとっても同じであり、どこかで「そんな馬鹿な」という気持ちはいつも持っている。ただ目の前に現れる患者は、DIDに対する懐疑的な視線により傷つき、誤解を受けてきている。それこそが決定的に重要なことなのである。
"La théorie c'est bon mais ça n'empêche pas d'exister"
(J-M Charcot)
2012年7月6日金曜日
続・脳科学と心の臨床(40)
そこでこのような単純化した図式を考えて欲しい。脳の配線マップに極めて簡略化したネットワークA(赤で示す)を載せてみる。そして人格Aの心身の活動は、このネットワークを基盤に起きていると考えよう。つまりAが感じ、思い、行動する際、だいたいこのネットワークAを含んだ神経線維が興奮するのだ。そして次にB(黄緑で示す)を考える。こちらは交代人格Bの際によく用いられるネットワークであるとする。図でこのAとBを微妙にずらして描いているのは、両者が共通した配線を持っていないということを表現したいのだ。すなわち同じ音楽を聴き、同じ動作を行うにしても、AとBは異なった神経回路を用いることになる。DIDでは非常に多くの場合、AとBという二つの交代人格は、まったく異なる感情表現をし、まったく異なる話し方をし、まったく異なる筆跡を示す。人間として生活するうえでまったく異なる二つのセットのネットワークを有しているかのようだ。
この図式を例えば一つの人格Aしか持たない人と比較する。その人の体験は大体ネットワークAを基盤とし、それ以外の体験は持たないことになる。だから体験は常に一つのセットでしかない。
なぜAとBという異なる配線のセットが成立したかは難しい問題であるが、ある特殊な状況で、Aが一つの体験を持つことができなくなった際に、Bが成立し(あるいは何らかの形ですでに成立していて)、そちらの方にスイッチが切り替わるという事態が起きた、としか表現できないであろう。もちろんその詳しい機序は明らかではない。
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