2012年7月9日月曜日

続・脳科学と心の臨床(43)


心理士への教訓 ②

夢については、うーん・・・微妙

脳科学的に夢の在り方を考えた場合、少なくともその意味を探ることが来談者の心を深堀りしていく、という単純なものではないということがわかる。夢は脳の自律的な活動の結果であり、その成立にはあまりにわからないことが多い。もしかしたらフロイトが考えたように、抑圧された無意識内容が形を変えたものかもしれない。しかしそれにしてはその無意識内容の解釈の方法はあまりにも多く、おそらく治療者の数ほどの解釈が成り立ってしまう。そしてホブソンらの説が正しいのであれば、少なくとも夢の素材そのものはかなり蓋然性があり、偶発的なものらしい。すると素材そのものよりは、それをもとにして出来上がった内容にこそ無意識=脳の神秘がある。そしてその仕組みはほとんどわかっていない。

だから夢の解釈を試みることは、例えば曲から、作品からその人の無意識を探ろうという試みに似ている。人はそれに関心があるだろうか?むしろ曲を、絵画をそのものとしてとらえ、その価値を見出すだろう。曲にしろ絵画にしろ、作者を離れて皆のものになるというところがある。作品は未知の力がその作者の脳を借りて生まれたというニュアンスがある。それのもとになった作者の無意識を探るということには人はあまり関心を示さないだろう。

私は来談者の語る夢に意味を見出すべきではないと言っているわけではない。ただし夢はそこに隠された意味を追求するにはあまり適していないと考える。夢は脳が描いた一種の作品であり、むしろそれをどう感じるか、そこから何を連想するかなのである。その意味で夢の扱い方はロールシャッハ的と言えるだろうか?
 ある来談者が、すでに何年か前に亡くなった母親が夢に出てきたと報告する。その夢の中で彼女は母親を罵倒していたという。穏やかな関係にあった母親を罵倒している自分を夢で見て、その来談者は心配していた。「私の中に母親への怒りや憎しみがどこかにあったということでしょうか?」
そのような夢に対する対応は、次のようにあるべきだろう。「お母さんを罵倒している夢をたまたま見てしまったんですね。その夢がどこから来たかは、あまり気にする必要はないと思いますが、そのような夢を見たあなたの反応はいかがですか?」
それに対して彼女はこう答えるだろう。「いや、実際に私は母をそんなに責めたことなどなかったし、そうしようと思ったことも思い出せません。」 「それじゃびっくりなさったでしょうね。現実とかけ離れた夢も人は見るものです。でも夢の中であってもお母さんを罵倒したことがそこまで後ろめたいとしたら、それはどういうことでしょうね。だって親子の間の言い合いって、普通にありませんか?」
読者はあまりに当り前で表面的なこの対応に失望するかもしれないが、夢の生成過程がほとんどわかっていない以上このくらいの対応しかできないだろう。