2024年3月10日日曜日

「トラウマ本」 トラウマと記憶 加筆修正後 3

   米国では1992年にイノセンスプロジェクトという非営利団体が作られ、DNA鑑定などをもとに冤罪の濡れ衣を着せられた人たちについて調査をしている。そしてこれまで337人ほどを釈放させたという。それらの例の少なくとも69パーセントで、「目撃者」たちによる過誤記憶に基づく証言が有罪の根拠とされていた。ただしこの数字は米国においてDNA鑑定が出来るようになって以降の事件に限ったものであり、それ以前に存在した可能性のある冤罪は計り知れないという(Innocence Project の英文ホームページより)。そして同様のプロジェクトは他の諸外国にも広がっているという。

 これらの冤罪の例は過誤記憶がいかに深刻な被害を及ぼすかの極めて具体的な例と言える。しかもそれはあからさまな過誤記憶、つまり無から創り出されたような、ある意味で「純粋」な過誤記憶のみが関与しているとは限らない。それまで曖昧であった記憶の確からしさの感覚が増強されることによる、いわば「自己欺瞞的」な過誤記憶(後述)もそこには関与している。
  私たちの心は「Aさんだったような気がする」という記憶を「Aさんだったことは確かである」に知らず知らずに変えてしまう傾向を多かれ少なかれ有している。より多くの冤罪の被害者を救うためにも、この「蘇った」過誤記憶の問題を明らかにして行くことは急務なのである。

 記憶の脳科学と再固定化の問題

蘇った記憶や過誤記憶について理解するにあたり、記憶が脳でどのように形成されるかについて知っておく必要がある。その際有用なのがいわゆるニューラルネットワークモデルに基づく理解である。このモデルでは人間の脳が一千億ともいわれる膨大な数のニューロン(神経細胞)による網目状の構造をなしていると考える。そこでの情報処理過程が心の活動という事になる。そして過去の出来事を想起することとは脳に分散されて存在する数多くのニューロンが結び付けられてネットワークを形成し、同時に興奮する現象という事になる。

私達がある出来事を経験すると、特に強く感情が動いた際には海馬や扁桃体にその記憶の核となるネットワークが形成される。それが記憶の形成の始まりだが、それは既に存在していたニューロンの間の結び目(シナプス)がより太いつながりを持つことで可能となる。具体的にはそのシナプスを形成する材料となるタンパク合成が行われるのだ。
 土木工事を思い浮かべよう。ある川の幅を広げるためには、ブロックなどの建材を積み上げる作業が必要であるが、記憶の際のシナプス形成も同様である。このことは、動物実験においてある学習をさせる際にアニソマイシンなどのタンパク質合成阻害薬を投与することでそれが阻害されるという研究結果から明らかになった。そして土木工事でブロックを積み重ねるのと同様、タンパク合成にはある程度の時間を要するために、記憶は一瞬にして成立することはない。またあらゆるインフラストラクチャーに経年劣化が見られるのと同様、想起されないことでシナプス結合は徐々に劣化し、失われていくという性質を持つのである。

 このモデルに従って、ある事柄を想起するとはどういうことかを考えよう。例えば高校の卒業式のことを私たちが「覚えている」と感じるとする。私自身にもかすかに記憶がある。するとその時体験した様々な事柄、「仰げば尊し~♬」のメロディー、クラスメートとの別れの握手や先生方の笑顔などが次々と浮かんでくるだろう。それは視覚的情報、聴覚情報、触覚情報などあらゆる感覚様式によるものを含むが、それらは脳の視覚野や聴覚野、体制感覚野など様々な部位でバラバラに蓄えられている。そしてある事柄を想起するとは、それらが一挙に一つに結びつけられている状態と見なすことが出来るのだ。

ここで物事の想起される過程を説明するのが「活性化拡散モデル spreading activation model」(Collins & Loftus, 1975) と呼ばれるものである。これは想起とはある一つの事柄からの連想という形で波紋が広がるようにニューロンが活性化されていくという現象であることを示す。上の卒業式の例では、思い浮かべた友達の一人に意識を向けると、今度はその友達に関する様々な思い出がよみがえるというわけである。これはある事柄の記憶内容に一定の限界を想定しにくいという事も意味する。一つの記憶の想起により派生した連想も、その想起内容に含み込まれていくというプロセスを想像するとわかる通り、そのネットワークのすそ野は知らぬ間に広がっていく可能性があるのだ。

この想起と記憶の改変に関して最近明らかになったのが、いわゆる「記憶の再固定化」という現象である。これについては東大の喜田聡先生のグループの研究が有名である。喜田グループ(Fukushima, et al, 2021)はPTSDで生じるようなフラッシュバックと記憶との関係について長年にわたって研究してきた。フラッシュバックとはトラウマ的な体験を持った際にその出来事を思い出そうとしなくても突然何かのきっかけで生々しく想起されるという現象である。
 そしてそこでこの「記憶の再固定化」という現象を見出した。記憶はそれを思い出すという事で一時的に「不安定」になる。つまり可塑的になり、それがその後さらに増強される(より強く記憶される)か、消去される(忘れていく)かの岐路に立たされるというのである。
 ジグソーパズルの比喩を用いるならば、それまでパズルの一つのピースとして収まっていた記憶が、それを思い出すことでいったん外されると考える。するとその縁の部分が柔らかく可塑的になるのだ。そしてそれがその後元のパズルによりガッチリはめ込まれたり、逆に少しゆるゆるになったり形を変えたりしてはまりにくくなったりする。場合によっては小さくなって抜け落ちてしまうかもしれない。こうして記憶は想起されることで、その後新たな形で脳内に再び治まる(再固定される)のだ。
 喜田グループによれば、記憶が更に強く再固定されるか否かを決定する上で重要な役割を果たすのが、そのピースが外されている(想起されている)間の時間であるという。彼らはマウスを明、暗の二つの檻に入れて嫌悪刺激(電気ショックなど)を与えるという実験を行なった。そしてその嫌悪刺激を思い出させる時間が3分以内などの短時間であれば、それはかえって増強されるのに対し、それが適度に長いと(例えば10分以上)マウスはその記憶を失う傾向にあることを発見したのだ。
 この動物実験により示された記憶の再固定化という概念は記憶と想起に関する重要な示唆を与えてくれる。一つには私達の記憶は、それを想起するごとに徐々に形を変えていくという可能性を示していることになる。いわば伝言ゲームで最初の言葉が変形していくように、記憶も思い出されるたびに一部が誇張され、一部が薄れていくという形で、当初の体験とは多少なりとも変形されていくという可能性を示しているのだ。
 これはとりもなおさず、過去の記憶が「誤って想起される」という可能性を如実に示していることになる。しかもそこに他者からの暗示や新しい情報の追加ということも特になく、ただ何度か思い返すということをしているうちに徐々にその内容が歪曲されていくという形で生じるとすれば、本人にもその自覚がなく、常に同じ記憶を思い出しているに過ぎないという感覚しかないであろう。
 さらにマウスに嫌悪刺激を与える実験は、臨床的にとても大きな意味を持つことになる。ある種のトラウマ記憶を短時間思い出しただけではそれは消える方向にはいかない。むしろ再固定化、つまり増強されてしまうのだ。そこでどうせ思い出すなら、安全な環境で一定以上の時間思い出す必要がある。するとそのトラウマの記憶が今現在の安全な環境においては起きていないという事を脳が学習し、それによりそのトラウマは弱まっていく(消去される)ものと考えられる。そしてこの考え方が持続的暴露療法の基本になっている。 


2024年3月9日土曜日

「トラウマ本」 トラウマと記憶 加筆修正後 2

 私は米国においてPTSD(心的外傷後ストレス障害)や解離性障害についての関心が高まるさなかの1980年代の半ばより米国で精神科の臨床に携わっていたが、その頃米国で生じていた記憶をめぐる論争の過程をよく思い出す。1980年代には多くの女性や子供が、それまで一般的に考えられていたよりはるかに高い頻度で性的、身体的なトラウマの被害者となっていたことが明らかにされた。その結果としてベトナム戦争等で戦闘体験を有した人や性被害の犠牲者となった人々が示すPTSDや解離性障害が数多く報告されるようになった。そして社会が、医療従事者達が従来はそれらのトラウマ関連障害の存在を軽視したり無視したりしたことへの反省があった。

 それから米国社会では幼少時のトラウマの事実やその記憶を治療により明らかにすべきであるという主張が多く聞かれるようになった。そして幼児期の性的虐待の記憶を呼び覚ますことを試みる精神科医や心理士やソーシャルワーカーが沢山現れた。その結果として数多くの人々が性的虐待の加害者であったと告発されることとなったのである。
 その様な動きに一役買ったのが1988年に出版されたエレン・バスとローラ・デービスによる「生きる勇気と癒す力」(Bass & Davies, 1988)という著書である。この書は幼児期に性的虐待を受けて、その記憶を抑圧しているために忘れている可能性が高い人々が該当するようなチェックリストを示した。
 1992年にはハーバード大学のジュディス・ハーマン(Herman, 1992)が「心的トラウマと回復」を著しベストセラーとなった。その書でハーマンは、幼少期のトラウマによって自責や自殺願望に苦しめられている女性たちを救うためには、「抑圧された記憶」を回復させることが必要だと説いた。ハーマンの著書はわが国でも阪神淡路大震災の翌年の1996年に翻訳されて出版され、大きな反響を呼んだ。
 ところがそれからワンテンポ遅れる形で出てきたのが、いわゆるFMS (false memory syndrome 偽りの記憶症候群) をめぐる動きであった。そして治療により蘇ったとされる記憶の中には、客観的な根拠のない、あるいは事実と異なる過誤記憶が多く含まれるという問題に対する注意を喚起した。その関連で誤って加害者として糾弾された犠牲者たちによる利益者団体がFMSF(偽りの記憶症候群財団)も生まれた。

欧米においてはこの種の問題は極めて政治的、ないし感情的な対立を生む傾向にある。そしてその対立や論争の中で、記憶に関するより科学的で実証性のあるデータが得られるようになったことは否めない。少なくともこのFMSFをめぐる論争を通して、私たちはこれまで記憶に関して漠然と信じられてきたことがらについての再考の機会を与えられたのである。 
 この過誤記憶の問題について決まって引き合いに出させる学者がElizabeth Loftusである。Loftus は過誤記憶がいかに形成されるかについての基礎的な研究を精力的に行い、それが臨床においても司法においても極めて甚大な被害を及ぼすことを積極的に説いた。ロLoftusの主張をKetchamとの著書「The Myth of Repressed Memory : False Memories and Allegations of Sexual Abuse. (邦訳:抑圧された記憶の神話」(1994年)」から要約すると以下のようになる。

「私は記憶の変更可能性についての権威だとみなされている。私は色々な裁判で証言してきたが、裁判に携わる人にこう警告してきた。記憶は自在に変化し、重ね書きが可能で無限に書いたり消したりできる黒板のようなものであると考えられてきた。比喩的に言うならば、コンピュータ・ディスクや、書類キャビネットに大切に保管されたファイルのような形で記憶が脳のどこかで保持されていると誤解されてきたのである。ところが最近では、記憶は事実と空想の入り混じった創造的産物だと考えるようになった。これが記憶の再構成的モデルと言われるものである。」

Loftusの批判は、抑圧された幼少時の性的外傷が治療により想起されるべきであるという立場を取った臨床家、特に「トラウマと回復」のハーマンなどに向けられた。このHermanとLoftusの論争は、トラウマ記憶の回復をめぐる論争や対立を象徴していたと言えよう。そしてLoftus自身も2003年に、Nicole Tausをケーススタディとして扱った2002年の出版物に対し、Taus自身に訴えられたという。
 この出来事はTaus が幼少時に性的虐待を受けたという記憶を取り戻したという1997年のケース報告に関するものであった。このケース報告(Jane Doe case)は幼児虐待と抑圧された記憶の研究において大きな影響力を持っていたが、Loftus はそれが過誤記憶であるという研究を2002年に発表したという経緯がある。その訴訟についてはLoftusに対する21の訴状のうち20は退けられたという。しかしそれ以後もLoftusの過誤記憶についての理論は児童虐待を糾弾すべしという運動の社会的な広がりを軽視したり否定したりする立場として批判された。そして「幼児と女性に対する犯罪を擁護する学者」とされて脅迫も相次ぎ、一時期は殺人予告もうけ、講演の際はボディガードを付けていたと言われる(Jenkins, 2017)。

2024年3月8日金曜日

「トラウマ本」 トラウマと記憶 加筆修正後 1

  問題のありか

本章のテーマに入る前に、先ずは一つの問いについて考えていただきたい。

あるクライエントAさん(30歳代の女性)がこう話す。「昨日夢を見ました。何か幼い頃の光景が出てきたように思いますが、漠然としていてそれ以上は覚えていません。でも目が醒めてから小さい頃の母親とのエピソードが心に浮かんでいました。私は母親に何かの理由で怒られて家を追い出され、裸足のまま『開けてよ!お願い!』とドアをたたき続けたんです。これまで忘れていましたが、あの時の怖さや不安が急に蘇ってきました。」

心理面接で聞く話としてはさほど珍しくないであろう。しかしこれを聞いた治療者はこの「蘇った記憶」をどのように扱うだろうか?それが問いである。

おそらく治療者によって実に様々な答えが返ってくるはずだ。「Aさんがそれをはっきりと思い出したというのであれば、実際の出来事だったのだろう。」「一種のトラウマ記憶(心的トラウマを受けた出来事の記憶)であり、フラッシュバックの形でその出来事が再現されたのだ」など、この「記憶」の信憑性を重んじる立場もあるだろう。
 しかし他方では、「このAさんの記憶はおそらく夢に影響されたものであり、実際にこのような出来事があったという保証はない。」「いわゆる偽りの記憶である可能性があり、治療者の問いかけ方に影響されて創り出されたのかもしれない。」など疑いの念を抱く治療者もいるだろう。
 この様なごくシンプルな事例を取っても、その扱い方には様々な可能性があるのであり、そのエピソードをどのように受け入れて扱うかは、実際にこの治療に関わった臨床家ごとに異なるというのが現実なのだ。
 ところがここには「ケースバイケース」では済まされない問題が潜む。もし母親の虐待的な養育があった場合に、それを偽りの記憶として片づけられたら、それはAさんにとってそれこそトラウマになりかねない。しかし逆に十分な養育を行っていた母親が虐待していたと疑われ、糾弾されてしまう可能性もある。
 上にあげた例は蘇った記憶といわゆる「偽りの記憶」とをめぐる議論の複雑さを垣間見せてくれる。そして臨床場面でこのような問題に遭遇した時に、そこに一つの正解は得られないとしても、治療者はこの問題を恣意的に扱うわけにはいかない。常にそこには高度な臨床的判断が必要とされるのだ。本章での考察も、治療者が状況に応じてよりよい判断を下すための材料として用いていただきたい。

失われた記憶は蘇るのか?

「トラウマと記憶」と題した本章の中心的なテーマは以下のものである。
「忘れていたはずの記憶が後になって蘇ることはあるのか? そのプロセスで偽りの記憶はいかに形成されるのか?」
 精神分析的なオリエンテーションを持つ治療者であれば、抑圧されていた記憶やファンタジーなどが治療により蘇る、という現象の存在は、ある意味では常識ではないだろうか。少なくともフロイトはそう考えていた。そして精神分析の世界ではその様な考え方は真正面から異議を唱えられることなく継承されてきた。
 他方では最近になって聞かれるようになったいわゆる「偽りの記憶」については、それをめぐる論争の歴史はまだ浅く、人々にもその問題の深刻さは十分には理解されていないであろう。「抑圧された記憶が蘇る中で、時々事実と異なる記憶が生まれることもあるであろうが、それはあくまでも例外的なものである」というのが一般の臨床家の感覚ではないかと思われる。

ここからは「偽りの記憶」、ではなく「過誤記憶」という言葉を用いて論じたい。英語にすればともに false memory となるが、「偽りの」という言い方には記憶の意図的な捏造というニュアンスが伴いかねない。それに比べて「過誤記憶」には、現実に起きたこととは異なる内容が記憶されてしまうという、より客観的な意味が含まれる。


2024年3月7日木曜日

脳科学と臨床心理学 第4章 加筆、追加分

 原則1.脳の基本的なあり方は揺らぎである


脳の構成要素を細部まで突き詰めると,一つひとつの神経細胞の電気活動になるということは述べた。物理学の世界では突き詰めて言えば最小単位は素粒子ということになるだろうが,まあタンパク質の分子くらいを考えておこう。すると脳の機能の場合は神経細胞がそれに相当する。しかしその活動は決して単純ではない。それは決して静止することがないのである。
 静止しない、と言っても場所の問題ではない。成熟した神経細胞は周囲を神経膠細胞(グリア)にがっちり固められているので,もはや簡単に動き回ったりすることはできない。ところがそこでの電気的活動は止まることは決してないのだ。そして個々の神経細胞はほかの神経細胞から切り離しても,デフォルトの状態で僅かな電気信号を常に発しているのである(ちなみにこの「安静時脳活動」については、たとえばノルトフ(2016)の著作を参考にしていただきたい)。

一つ一つの神経細胞が独自の発する電気信号には、明確な規則性はない。それは「揺らいでいる」といってもいいし,自発的に勝手に活動している,といってもいい。また神経細胞どうしは勝手に手を繋ごうとする性質があり,その後あまり繋いでいる意味がなくなった場合にはそのつながりが薄くなり、また意味が出てきたら強化される、というかなり自由でアナログ的な揺らぎを見せる。(ただし発達の途上でもう必要ないと判断されたシナプスは「刈り込み pruning」により切断されることになる。)
 この揺らぎを脳の性質の第1番目に持ってきたのはなぜかと,読者の方々は疑問に思うかもしれない。しかし実は揺らぎは物質の世界に普遍的に存在するのである。分子は,原子は,そして素粒子も(特殊な形で)揺らいでいる。そのためにそれらは決して規則に従った予定調和的な動きをしない。そのことはこの「複雑系」と呼ばれる世界の持つ根本的な性質なのだ。この揺らぎはともするとノイズと呼ばれたりしてしまうのだが,実はこの世界において本質的な意味を持っていることを示すために揺らぎ,と表現すべきなのだ。そしてここで重要なのは、私たち生命体もその神経細胞のレベルですでに揺らいでいるという事だ。そしてこれは恐らくAI(そしてそれが形成する【心】)には見られない性質だということである。

神経細胞が揺らいでいる様子を身近に体験していただく方法がある。目をつぶって,まったく揺らぎのない,均一な何か,たとえば漆黒の闇をイメージしていただきたい。それを試した方は気が付くであろうが,その暗闇のイメージの細部に注意すれば,それが次々と形を変えているのがわかるであろう。それはオーロラや炎のように常に揺らいでいるのだ。普段は私たちはそのことを気にとめないだけである。

あるいは完璧な防音室に入ってみるといい。学校の放送室などのドアを閉めた後の不思議な感覚を思い出す方もいるだろう。はじめはただ「シーン」としているだけだと感じるだろうが,よくよく注意すると,それは決して何も聞こえないのではなく,何か聞こえているようで聞こえていないような,不思議な体験を持つだろう。これも揺らぎの表れだ。

この体験の比喩として,私はブラウン管の砂嵐を思い浮かべる。もう「ブラウン管」という言葉が死語になりつつあるが,テレビがまだ背中が出っ張った分厚い形をした姿をしていた頃の話だ。放送をしていないチャンネルに合わせると,そのブラウン管に砂嵐のような映像が見えた。それはアンテナなどの回路の電子の揺らぎにより発生するノイズだということである。同様に私たちの聴覚皮質や視覚皮質も,入力がなくてもノイズ,いや,揺らぎを発しているのである。それが現実のあり方なのだ。


2024年3月6日水曜日

脳科学と臨床心理学 第8章 左右脳 追加分

 右脳という「私」

さて以上を予備知識としたうえで,本章での私の主張を多少誇張した形で申し上げよう。

右脳の考えや感じ方こそが私たちの本音であり,真の自己(true self)である。

つまり人は右脳の考えに基づいて行動を開始し,左脳はあとからそれを理屈付け,正当化しようとする。その意味で左脳は右脳の真の意図を押し隠す機能を有するとさえ言えるのである。

ちなみに私はいつもは「真の」とか「偽りの」という表現をなるべく避けるようにしている。というのも,「何が真で何が偽りか」という考え方は究極の二分法であって,現実世界はこのようにすっぱりと二つに分けることができないものばかりだからだ。というか、白黒をつける事が思考の始まりである、とすら言えるのだ。だから人間の思考がこちらに走ってしまうのはやむを得ないことなのである。

その意味でこの右脳の思考や感じ方が真の自己という表現は決して言い過ぎではないと思う。なぜなら右脳は私達の体験の最初期の相を反映しているからだ。ただしこの主張を理解していただくためには,左右それぞれの脳についてもう少し詳しくお話ししなくてはならない。


右脳が先に働きだす──愛着と発達の関連


右脳に関して一番興味深いことは次のことである。右脳はおそらく人間の心の基礎部分を担っている。というのも赤ん坊が最初に心を持ち始める生後1年間,脳はもっぱら右側しか機能していないのである。最初の外界との接触,そして母親とのやり取りなどは,ほとんどこの右脳が行なうことになる。だから心の基本部分は右脳に備わると言えるのだ。

右脳の主たる機能は,この世に生を受けたばかりの赤ん坊がまさに必要としているものである。右脳は外部からの情報の全体を捉え,空間的な大枠を理解し,母親の感情を読み取り,非言語的な情緒的な交流を行うことができる。つまり世界全体を大づかみに捉えるのだ。そしてそれはまさに赤ん坊が生まれ落ちてからさっそく必要としていることである。

他方では赤ん坊は母親の言葉の意味を理解できないのは当然であるが、そうする必要もまだない。物事の詳細を理論的に理解するのは左脳の役割だが,その活動が本格的に開始するのは生後二年目からだし、それまで待てるのである。さらには左右脳をつなぐケーブルである脳梁自体が最初の1年は十分に機能していないため,左右脳の情報交換も十分できない。ということで赤ん坊は右脳のみの片肺飛行で生きているようなものだ(ただし身体を動かし,感じるという機能は左脳でも生下時にすでに開始している)。


2024年3月5日火曜日

脳科学と臨床心理学 第5章 解離1 追加分

 一世紀以上前のS・フロイトやP・ジャネは,私達の心が時々起こす体外離脱のような不思議な現象のことを「意識のスプリッティング(分割)」と捉えた。つまり彼らは「ああ,このようにして心は,意識は二つに割れることもあるんだね」と考えたわけである。

 この意識のスプリッティングというのは,実に悩ましい概念だ。というのも古今東西人間は人の心は一人に一つであることにあまり疑問を抱かずに過ごしてきたからだ。誰だって「自分はもう一つの自分を持っている」というようなことは想像したくないだろう。もう一つの自分が目の前に座っていたら、この私はどうなってしまうのだろうと恐怖を覚えてもおかしくない現象である。ただこのように考えないと説明がつかないような様々な現象にこころの専門家たちは気が付き始めたのである。

上の体外離脱の例を用いて,実際に脳の中でどのようなことが起きているのかを想像してみよう。まず最初からあった意識をAとしよう。それは殴られるという危機に瀕して、自分の身体から遠ざかった(離脱した)という体験を持つ。そして自分を外側から眺めるという,恐らく人生で初めての体験を持つことになる。
 さて問題は,叩かれている側の自分の意識(Bとしよう)も存在するらしいということだ。なぜならAが後ろから見ている方の自分は、通常は気を失うことなく、殴られるに任せるからだ。あるいはピアニストが見下ろしている自分自身は、一心にピアノを弾き続けているのである。つまりBの側にも心や意識があるようなのだ。一体このA,Bの二つの心は脳のどこに存在しているのだろうか? それこそが問題なのだが、精神医学的にも脳科学的にも謎に包まれたままなのだ。ただいくつかのヒントはある。

解離に関する研究で有名な,柴山雅俊先生の『解離性障害』(ちくま新書,2007年)という著書がある。そのサブタイトルは「『後ろに誰かがいる』の精神病理」というものである。先生は解離性障害の患者さんの多くが「誰かが後ろにいるような気がする」という体験を持つことを論じた。そしてこのことは上で論じた体外離脱と実にうまく重なる現象なのである。つまり後ろにいる誰かとは「もう一人の自分」というわけだ。柴山先生はその様な現象を「存在者としての私」と「まなざしとしての私」の分離という言い方もしている。


2024年3月4日月曜日

脳科学と臨床心理学 第1章 脳科学のうさん臭さ 加筆部分(2)

 心のソフトウェアは存在するか?

フロイトの話から私自身の体験に戻る。フロイトはハードウェアとしての脳から、心というソフトウェアに軸足を移したわけであるが、私はその逆から出発したことになることは述べた。何しろフロイトが提示してくれたソフトウェアとしての心のモデルはとても魅力的だったからである。しかしそれから私がハードウェアとしての脳に興味を移すことにはある種の気付きが伴っていた。それを端的に言えば,心のソフトウェアはおそらく存在しないという事であった。ある種の妄言めいているが、心というものはいわば幻想であり、それはおそらく誰にもデザインされていないのだ。「心というソフロウェアを作った作者は神のみぞ知る」と先ほど言ったが、実は「神」も心の産物であり、結局は誰も作者はいなかったのだ。

それは恐らく私が自分自身の心や患者さんの心を観察し続けて得た感覚なのである。人の心にいくら法則を措定しても、必ず例外が見られる。例えばフロイトが言った「夢は願望充足である」「人間は想起する代わりに反復する」などの言葉は、人の心の動きの特徴を大雑把に捉えているという点では見事であるが、それに当てはまらない例があまりに多く見られるという点では法則と呼べるものには程遠いのだ。私がいま漠然と考えているのは人が快を求め、不快を回避して生きていることという原則以外には、様々な個別の事情により突き動かされて生きているという事実しかないという事だ。しかしまた人は生きていることに、自分の行動に、そして他者の行動に、また自然現象に様々な意味や理由を見出さずにはいられないという事である。それ以外には様々な生理学的なシステムに操られながら生存しているのだ。

ただしこの心のソフトウェアはおそらく存在しないには代案を用意してある。それは脳においてはソフトウェアとハードウェアとは分かれていず、おそらく両者は同一であるというものだ。そして心を知る一つの具体的な手法は脳の活動を知ることなのだ。そして両者が同一であるということは,デカルト的な二元論から現代的な心身一元論に回帰するということになる。

私の上記の一種の妄言については賛否両論があるだろうが、心を知る一つの具体的な手法は脳の活動を知ることであるという見解には、多くの脳科学者が同意するだろうと思う。私がそう考える理由は2つが挙げられる。

1つには脳の画像技術の発展が目覚ましいからだ。例えばfMRIにより見ることのできる脳の興奮の経時的なパターンは,その時心が刻々と体験している内容にかなりよく対応している。ノセボ効果による痛みと医学的な根拠のある痛みが脳の特定部位における同様の興奮のパターンを示すことなどはその一例だ。

そしてもう1つは,いわゆるニューラルネットワークモデルの発展であり,それを飛躍的に精緻なものにしたディープラーニングの技術である。きわめて膨大なスケールの人工的な神経ネットワークというハードウェアに繰り返し自己学習を行わせることで,人間的な知性と見まごう能力が獲得される。それは2016年に韓国の囲碁のチャンピオンに圧勝したグーグル社のアルファ‐碁や,同じくグーグルの対話ソフトであるLaMDA,そして最近世間をにぎわしているオープンAIのチャットGPTの例が私たちの頭に浮かぶだろう。もちろん「主観性やクオリアを備えた心とAIを混同するな!」というお叱りの声はすぐにでも聞こえてきそうだが。

ということでこの第一章は多少なりとも波乱含みの内容になった。これからの10章の構成は特に計画をしてはいず、完全に筆任せであるが,あくまでも私の体験に基づいて書いていきたいので,どうかお付き合い願いたい。