2024年3月5日火曜日

脳科学と臨床心理学 第5章 解離1 追加分

 一世紀以上前のS・フロイトやP・ジャネは,私達の心が時々起こす体外離脱のような不思議な現象のことを「意識のスプリッティング(分割)」と捉えた。つまり彼らは「ああ,このようにして心は,意識は二つに割れることもあるんだね」と考えたわけである。

 この意識のスプリッティングというのは,実に悩ましい概念だ。というのも古今東西人間は人の心は一人に一つであることにあまり疑問を抱かずに過ごしてきたからだ。誰だって「自分はもう一つの自分を持っている」というようなことは想像したくないだろう。もう一つの自分が目の前に座っていたら、この私はどうなってしまうのだろうと恐怖を覚えてもおかしくない現象である。ただこのように考えないと説明がつかないような様々な現象にこころの専門家たちは気が付き始めたのである。

上の体外離脱の例を用いて,実際に脳の中でどのようなことが起きているのかを想像してみよう。まず最初からあった意識をAとしよう。それは殴られるという危機に瀕して、自分の身体から遠ざかった(離脱した)という体験を持つ。そして自分を外側から眺めるという,恐らく人生で初めての体験を持つことになる。
 さて問題は,叩かれている側の自分の意識(Bとしよう)も存在するらしいということだ。なぜならAが後ろから見ている方の自分は、通常は気を失うことなく、殴られるに任せるからだ。あるいはピアニストが見下ろしている自分自身は、一心にピアノを弾き続けているのである。つまりBの側にも心や意識があるようなのだ。一体このA,Bの二つの心は脳のどこに存在しているのだろうか? それこそが問題なのだが、精神医学的にも脳科学的にも謎に包まれたままなのだ。ただいくつかのヒントはある。

解離に関する研究で有名な,柴山雅俊先生の『解離性障害』(ちくま新書,2007年)という著書がある。そのサブタイトルは「『後ろに誰かがいる』の精神病理」というものである。先生は解離性障害の患者さんの多くが「誰かが後ろにいるような気がする」という体験を持つことを論じた。そしてこのことは上で論じた体外離脱と実にうまく重なる現象なのである。つまり後ろにいる誰かとは「もう一人の自分」というわけだ。柴山先生はその様な現象を「存在者としての私」と「まなざしとしての私」の分離という言い方もしている。