2024年2月7日水曜日

トラウマと心身問題 3

 Yips (局所性ジストニア)

 次はイップスである。おそらくこの病名を聞いたことがないという方もおられるかもしれない。というよりはイップスはそもそも医学用語とは言えない。イップスは「今まで問題なくできていた動作が突然もしくは徐々にできなくなるもの」であると定義されるものである。私はこれをMUSの例に含めるべきかかなり迷ったが、結局ここで論じることにした。このイップスもまた様々な分野で別々なものとして扱われるものの典型と言えるのである。
 イップスについては、ゴルフ、野球などのスポーツに関するもの(スポーツイップス)、弦楽器、管楽器などの演奏に関するもの(音楽イップス)が知られている。それまで半ば無意識的に、あるいは自動化されて行なっていた動作が出来なくなってしまうという症状を呈する。音楽でもスポーツでも、熟練したプロに発症することで知られているが、初心者にこの症状が起きないという保証はない。そして一旦これに取り付かれると職業生命を失いかねないほどの重大な影響を及ぼすため、これらの世界では非常に関心を寄せられている。音楽の世界でもスポーツでも、キャリアの絶頂で突然基本動作が出来なくなり、結局はその世界から去っていった同僚や先輩について耳にした人々は多いはずだ。
 このイップスは現在では様々な神経学的研究がなされ、focal dystonia として神経内科で扱われるようになってきているが、このイップスもまた心因性のものと「誤解」されてきたという歴史がある。そしてそれは現在進行形で起きていると言ってもいい。例えば「日本イップス協会」という組織のホームページから次の文章を引用してみる。

「イップス(イップス症状)は心の葛藤(意識、無意識)により、筋肉や神経細胞、脳細胞にまで影響を及ぼす心理的症状です。スポーツ(野球、ゴルフ、卓球、テニス、サッカー、ダーツ、楽器等)の集中すべき場面で、プレッシャーにより極度に緊張を生じ、無意識に筋肉の硬化を起こし、思い通りのパフォーマンスを発揮できない症状をいいます。」(日本イップス協会HPより。)

この心理的症状という表現が実は非常に誤解を呼ぶのである。またこの文章に出てくる「無意識」という表現もその誤解に拍車をかける可能性がある。つまりこのような表現がいかに「心の病」かということを強調しているのだ。
 ところが平孝臣先生はその著書(平孝臣(2021)「そのふるえ・イップス 心因性ではありません.法研 2021年」)の中で、イップスは心因性ではない、と以下のように明確に述べている。
 「イップスやふるえは長年「心の問題」とされてきましたが、現在では脳内の運動機能をつかさどる神経回路の機能的異常から起きるもので、脳の手術で劇的に改善することがわかってきました。」
私はイップスの専門家(一人はイップス協会の会長、もう一人は医学者)の意見がここまで違うことに非常に興味を覚えるのは私だけではないだろう。そしてやはりイップスはMUSのお仲間入りにすべきだと考える。というのもその振る舞いはまさに、MS/CFSやGMと一緒だからだ。




いわゆる転換性障害 CD

次はいよいよ転換性障害についてである。とはいえこの「転換性」という表現はもう過去のものとなりつつある。DSM-5(2013)とICD-11(2022)で名称変更が行われ、それぞれ DSM-5: 機能性神経学的症状症functional neurological symptom disorder, DSM-5)、解離性神経学的症状症 Dissociative neurological symptom disorder (ICD-11)と呼ばれるようになった。しかしこれらは随分長たらしいし、親しみを覚えないので、いまだに広く浸透していて聞きなれている転換性障害という言葉をここではあえて用いておこう。
 転換性障害の歴史はとても古い。この障害の特徴は、「運動、感覚、認知機能の正常な統合が不随意的に断絶することに伴う症状により特徴づけられる。臨床所見は、既知の神経系の疾患または他の医学的状態と合致しない。」とされる(🔴出典)。分かりやすく言えば、随意運動か五感および皮膚症状などの感覚の異常を示し、そこには不随意筋による運動や内臓感覚等は含まない。後者は自律神経の支配となり、これを含めだすと他の身体疾患が関わる可能性が生じてくるので、神経系に属する症状を示すものに限定してこの転換性障害と呼ばれるのだ。そうなると明らかな異常運動ないしは明白な感覚異常を示すが、その原因が明らかではないものとなり、これがかつてのヒステリーと呼ばれていたもののかなりの部分を占めることになるのだ。
  転換性障害を分類すると、網羅的になり、見るだけでも退屈なものになる。つまり視覚症状を伴うもの、聴覚症状を伴うもの、眩暈を伴うもの、その他の特定の感覚障害を伴うもの、非癲癇性痙攣を伴うもの、発話症状を伴うもの、麻痺または筋力低下を伴うもの、歩行障害の症状を伴うもの、運動障害の症状を伴うもの、認知症状を伴うもの、その他の特異的な症状を伴うもの、特定できない症状を伴うもの、などに分類される。定義からしてこうならざるを得ない。

 さてこの転換性障害についての理解の仕方が最近大幅に修正されつつある。それが先ほど述べた最新のDSMやICDの分類に反映されている。そしてそこで一番重要なのが、転換性障害の原因として、ストレスやいわゆる「心因(心理的要因)」を問わず、また疾病利得の有無も問題としないという事である。そしてその結果ここに分類される疾患を「転換性障害」と呼ぶことそのものが問題視されるようになった。なぜなら「転換性」という表現自体が「心因」というニュアンスを含んでいるからだ。それはどういう意味かを説明しよう。(以下  Stone (2010)の論文を参考にする。

Jon Stone (2010)Issues for DSM-5:Conversion Disorder  Am J Psychiatry 167:626-627.

ストーンは以下の様に述べる。
  まずフロイトの唱えたドイツ語の「転換 Konversion」(英語のconversion) は、心的葛藤が身体症状に転換されるという意味で用いられたが、それは仮説の一つに過ぎない(*)。フロイトは鬱積したリビドーが身体の方に移されることで身体症状が生まれるという意味で、この転換という言葉を使った。しかし実はそれ自体が証明されてるわけではなく、転換性障害に心理的な要因 psychological factors は存在しない場合もあるのだ。そして2013年 DSM-5では「転換性障害(機能性神経症状症)」となり、2022年 ICD-11では「解離性神経学的症状症」となった。さらに追加するならば、最近(2022年)に発表されたDSM-5のテキスト改訂版(DSM-TR)では「機能性神経症状症(転換性障害)」となった。つまり「機能性神経症状症がかっこから出て、「転換性の方が( )付きという立場に追いやられたのである。この様子ではDSM-6(?)では転換性障害の名が消え去るのはほぼ間違いないであろう。

* フロイトが実際に用いたのは以下の表現である。
「患者は、相容れない強力な表象を弱体化し、消し去るため、そこに「付着している(5) 興奮量全体すなわち情動をそこから奪い取る」(GW1: 63)。そしてその表象から切り離された興 奮量は別の利用へと回されるが、そこで興奮量の身体的なものへの「転換(Konversion)」が生 じると、ヒステリー症状が生まれるのである。
「ヒステリーが、和解しない表象を無害なものにすることは、興奮全量を身体的なものに置き換えた結果としてできる(防衛―神経精神病、1894)」


2024年2月6日火曜日

男性性のトラウマ性 1

  本章では男性性が持つトラウマ性について論じたい。私は男性だが、社会において男性がいかに他者に対してトラウマを与えているかということについて、同じ男性目線から何が言えるのかについて自分自身の考えを掘り下げてみたいのだ。

 まず問題意識としては、過去および現在の独裁者や小児性愛者や凶悪犯罪者およびサイコパスのほとんどが男性であるのはなぜか、という疑問がある。これほど明確な性差が見られる社会現象が他にあるだろうか。そしてそれについて男性自身による釈明は十分に行われているだろうか。これは大いに疑問だろう。
  実はこの問題について、私は一つの臨床上の問題を体験している。私は男性による性被害にあった女性の患者に対して、そこで何が起きていたかについて一緒に考えることがある。その際、男性の性のあり方についてどのように説明したらいいかについて常に悩むのである。説明の仕方によっては患者の心の傷を深めることさえあるのではないかと考える。
  ある20代の大学生の女性は、

     (中略)

「男性はそうやって豹変することがありますよ」という説明をしたところ「それを男性は一種の免罪符のように用いるのですね!」と言われて返す言葉がなかった。 私としては男性の有する性衝動の強さが性加害性に大きな影響を及ぼすというごく自然に思える発想が、それほど容易には社会に受け入れられないという事情があり、改めてこの問題の深刻さを知ったのである。

男性がなぜ男性の加害性について語らないのか?

  さてまずは男性の性愛性についてあまり男性が語らないのはなぜかについて、幾つかの可能性を考えたい。(ここで男性の持つ性愛性、という言い方をするが、本当は「男性の性性 male sexuality」とでも表現すべき問題である。しかし分かりにくくヤヤこしいので、ここではあまり呼び方にはこだわらないことにしよう。)それは男性自身が持つ恥や罪悪感のせいだろうか? そうかもしれない。そもそも男性の性愛性は恥に満ちていると感じる。それはどういうことか。
  男性は特に罪を犯さなくても、自らの性愛性を暴露されることで社会的信用を失うケースがきわめて多い。最近とある県の知事が女性との不倫の実態を、露骨なラインの文章と共に暴露されたという出来事があった。またある芸人は多目的トイレを用いて女性と性交渉をしたことが報じられて、芸人としての人生を中断したままになっている。この問題について男性が正面から扱うという事には様々な難しさが考えられる。
  いわゆるパラフィリア(小児性愛、窃視症、露出症、フェティシズムなど)が極端に男性に偏るという事実も関連している可能性があろう。パラフィリアはかつては昔倒錯 perversion と言われていたものだが、その差別的なニュアンスの為にパラフィリアという表現が1980年のDSM-Ⅲから用いられている。英語で「He is a pervert!」というと、「あいつは変質者だ!」というかなり否定的で差別的な意味合いが込められるのだ。
 このパラフィリアの問題が深刻だと私が思うのは、最近あれほど叫ばれている性の多様性に、このパラフィリアはカウントされないからである。もちろんパラフィリアの中にはそれを行動に移すことが明らかに加害性を持つものがある。例えばそれは窃視症であり露出症である。それが性的な多様性に含まれないことは十分に理解が出来る。しかし例えばフェティシズムの中でも無生命のものに恋する人たち(いわゆる対物性愛 object sexuality, objectophilia)が差別的な扱いを受けるとしたら、それに十分な根拠はないのではないか。


2024年2月5日月曜日

トラウマと心身問題 2

  MUSの概念はどのように再構成されていくか?

  MUSに分類される疾患の一部は、その医学的な所見が新たに見いだされたことで外されていったという歴史がある。その例としてはME/CFS, FM, イップスなどが挙げられよう。またそれとは逆に、それまで身体疾患と思われていたものがMUSに再分類されることもある。その例としていわゆるPNES などが挙げられよう。それらのいくつかについて以下に個別に簡単に論じる。


 MUSとして分類されるべきもの

  • ME/CFS (筋痛性脳脊髄炎)

  • FM(線維筋痛症)

  • Yips または局所性ジストニア

  • PNES(心因性非癲癇性痙攣) これは昔偽性癲癇などと呼ばれていたものです。

  • FND (機能性神経学的症状症), CD (転換性障害)


 筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群
(ME/CFS, Myalgic encephalomyelitis /chronic fatigue syndrome) 

この疾患は休息しても回復しない疲労や倦怠感を主たる特徴とする。以前は心因性の疾患や詐病を疑われたが、1990年以降、様々な医学的所見が指摘されるようになった。(ちなみに筋痛性脳脊髄炎 (ME)という呼び方は欧州とカナダで、慢性疲労症候群(CFS)はアメリカとオーストラリアで用いられることが多いようである。)
  最近ではこの疾患に関する生物学的なマーカーがいろいろ発表されているようである。PET,MRI,などの脳画像研究により、白質、灰白質の異常が見出され、心因では説明できない認知機能の異常が指摘されるようになったのである。またエネルギー代謝系やミトコンドリア機能の障害を示すエビデンスが見出されるようになってきている。これはちょっと何かにエネルギーを使うと疲労困憊してしまう、というこの病気の特徴をうまく説明しているであろう。また「自律神経受容体に対する自己抗体に関連した脳内構造ネットワーク異常」(NCNP、2020年の研究)が報告されてもいる。

 

線維筋痛症 fibromyalgia, FM

こちらは広範囲にわたる筋骨格系の痛みを主たる特徴とする疾患である。以前は線維筋痛症と上述のCFSとは一緒に論じられていた感があったが、現在は独立して論じられる傾向にある。しかしFMとME/CFSとの異同があまり明確でなく、両者は結局は中枢神経系の過敏性ということで共通しているらしいという印象をどうしても受けてしまう。
 両者は痛みや疲労以外にも光、臭い、味、触覚、音、薬物への敏感さも含み、また片頭痛、IBSなどの関連も指摘されている。ただしFMは、リューマチ・膠原病科により扱われるのに比べて、 ME/CFSの方は神経内科などが扱う傾向にある。その意味でFMとME/CFSは「異なる科で別物として扱われる例」の一つと言えるのかも知れない。


 心因性非癲癇性痙攣 (PNES psychogenic non-epileptic seizure)

  癲癇はを伴わないけいれん発作は、長年十分注意を払われずにいましたが、実はそのケースの多くが真正癲癇と誤診されてきたことが最近になり改めて認識されるようになったとのことである。しかしそれが最近PNESという新たな呼称と共に神経内科の分野で注目されるようになってきている。癲癇の発作が何回も連続して生じる、いわゆる癲癇重積発作という状態があるが、その様な診断で専門家に送られてきたケースの25%は実はPNESであったというデータもある(要出典)。従来癲癇は、必ずしも脳波検査をせずに、臨床所見だけでそのように診断が下されることが少なくなかったことが誤診が多い理由の一つであるといわれる。PNESの診断には、長時間ビデオ撮影ができる環境でのEEGのモニタ―測定が欠かせないが、その為のEEG-Video という機器を備えていない医療機関が圧倒的に多いという現状がある。また脳波についての専門的な知識の少ない医師が脳波を見ると、ちょっとした異常も転換に診断してしまうという問題もあったと言われる。
 ただこのPNESに関して気になるのは、神経内科でいったんPNESとして診断されると、神経内科での役割は終わったものとされて精神科にリファーされる傾向である。後に述べるように、PNESはやはり精神科と神経内科の両方の科で引き続き扱うべき疾患ではないかと報告者は思う。
  また興味深いことに、神経内科ではPNESと解離との関連はほとんど論じられないという事実がある。PNESに関する最近の論文を読んでも、PNESが結局は解離性障害(ICDの精神科の基準によれば)に該当するという言及が見られないのが現状である。つまり神経内科におけるPNESと解離性障害の一つである「けいれんを伴う解離性神経症状症」は同じものであるにもかかわらず、「異なる科で別物として扱われる例」と言えるであろう。
 さらにはこのPNESという呼称は1990年代後半から用いられるようになったらしいが、一見モダンな呼称のように見えて、そこに「心因性」という概念が組み込まれていることが問題とも言える。なぜなら心因という概念自体がいまは消えかけた概念だからである。


2024年2月4日日曜日

トラウマと心身問題 1

新たな章として書き始める

 本章では心身問題というテーマでトラウマの立場から論じる。私は仕事柄、トラウマを負った方々や解離症状を持つ方々と臨床の場で出会うことが多い。そこで改めて気付くのは、彼らの非常に多くが身体の症状をお持ちだという事である。有名なヴァン・デア・コークの表現を借りるならば、トラウマは身体に刻印されるのである。(van der Kolk, 2016)

Bessel van der Kolk (2014) The Body Keeps the Score: Brain, Mind, and Body in the Healing of Trauma Penguin Books.べッセル・ヴァン・デア・コーク (著), 柴田 裕之 (翻訳)(2016)身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法

MUSという概念

 まずは「MUS」という概念の話から始めよう。これは「medically unexplained disorder 医学的に説明できない障害」の頭文字である。このMUSという疾患群は非常に悩ましい存在である。MUSはかねてから医学における大きなテーマであった。現在でもそれらは概ね「心因性の不可解な症状」とされる傾向にある。
 こう述べただけではMUSの意味するところがピンとこないかも知れないが、昔のヒステリーと考えていただきたい。すぐに「ハハー。あれか!」とピンとくる方が多いであろう。そしてこれとトラウマとの関係についても何となくお分かりかと思う。
 では改めてヒステリーとは何だろうか? それは古代エジプト時代から存在し、20世紀の後半までは概念として生きていた疾患であり、患者さんが自作自演で症状を生み出したもの、というニュアンスを有していた。つまりその症状はといえば本人の心によって作られたようなところがあって、そこには疾病利得が存在するという考え方である。つまり差別や偏見に満ちた概念がこのヒステリーであったのだ。幸いDSM-Ⅲ(1980)以降は解離性障害という疾患概念に救い上げられ、差別という名の手垢がある程度は拭い去られる結果になったのである。

 しかしヒステリーというカテゴリーには解離性障害だけが含まれていたわけではない。様々な身体症状を持った多くの患者が含まれていた。そしてそれらの患者は医学的な診察や検査ではうまく説明がつかないという特徴を持っていた。もちろん医学は時代とともに進歩し、検査の記述も発展を遂げてきた。しかしまだ医学が未発達な時代にも、その症状の現れ方が一定でなかったり、その訴えが実際の医学所見より誇張されていると感じられるとこのレッテルが張られる傾向があった。癲癇のように当時それが脳波の異常による神経疾患であることが分からなかった場合も、その表れがドラマティックでコントロールが不能な場合は、このヒステリーに分類されていたのである。

 結果的にヒステリーにカテゴライズされていた患者たちは、解離性障害や癲癇やそのほかの身体疾患として分類されていった後も、かなりの部分が残った形になる。そして彼らが構成するのが、このMUSという事になる。そしてそのヒステリーに対して向けられていた偏見は、実はMUSにも当てはまるのである。

このようにMUSをヒステリーの現代バージョンとしてとらえると、それがどの様な扱いを受ける傾向にあるかも自ずとわかるだろう。つまり症状に関する患者さんの証言そのものをまともに扱って貰えないという可能性があるのだ。要するにその訴えは「気のせい」であって、その医学的根拠は多少なりともあるものの、概ねその訴えは大げさで注意を惹くために誇張されているものと考えられる傾向にある。
 しかし私はこのMUSの扱われ方について、それが私たちの持っている差別や偏見の産物だとは必ずしも言えないと思う。それは人間が基本的に「心気的な存在」であるために常に存在する宿命なのだ。つまり私たちは自分が病気ではないかと心配し、そうすればそれだけ症状が自覚されるような気がする、という性質を持っている。ICDという国際診断基準は、その第10版から “worried well” というカテゴリーを設けている。これは「病気の心配をする健常人」 あるいは「病気心配性」とでも訳すべきものだが、このような私たちの性質をうまくとらえている。
 例えばあの今日お昼食べたものにばい菌が入っていて、食中毒になったかも知れない、一緒に食事をした人は何か食中毒になってるとなると、何か気持ち悪い気がして吐き気がするような気がするということは普通におきる。そうするとそれを思っているうちにどんどんそういうような吐き気の症状が明らかになってくるということは多かれ少なかれ生じるのだ。痛みもその様な性質を持つ。人間はある症状が自分に起きているのではないかと思ってそれを心配するといつの間にかその症状が現実にあるかに思われて来るような存在であり、それを少し大げさに、「人間は心気的な存在である」という言い方をここでしているのだ。
 さてもう一つ、MUSに属するものの一部は、「異なる科で別物として扱われる」傾向にあるということが言える。MUSに分類される疾患は将来医学的な所見が見出される可能性もあり、身体疾患と精神疾患の両者を併せ持つものとして扱われるべきであると報告者は考える。すなわち精神科のみに属するものではなく、そのためには「心因性」という概念の見直しが必要であるということだ。

 ともかくもMUSの概念は多分に曖昧さを含み、それをいかに整備するかは、現代的なテーマでもあるということが言えよう。

 ところでこのMUSという概念が万全なもので問題を含まないとは私は思ってはいない。ある状態がMUSに属するべきかが場合によっては政治的な議論に直結するものもある。その一つの例として、子宮頸がんワクチンの後遺症の問題をあげたい。



 以前国が接種を呼びかけた子宮頸癌ワクチンの後遺症が大きな問題となったことは記憶に新しい。厚生労働省は2009年にこのワクチンを承認し、翌年に公費助成を開始し、2013年4月には小学6年~高校1年の女子を定期接種対象とし、個別に案内を送って接種を促した。だが全身の痛みやしびれなどの健康被害の訴えが相次ぎ、同年6月に推奨を中止した。しかしその後2022年4月、勧奨を再開したのである。
 被害者による訴訟は2016年7月に東京、名古屋、大阪、福岡の各地裁に一斉提訴され、福岡など6県に住む22~29歳の女性26人が国と製薬企業2社に1人当たり1500万円の損害賠償を求めている。製薬会社側は「安全性は医学的、科学的に確立している」と請求棄却を求めている状態である。
 ここで私が示したいのは、この子宮頸癌ワクチン接種後の健康被害と言われるものがMUSとして分類することの是非ではない。一見したところ、製薬会社はその症状自体が本来存在しないものとし、原告側はそれをワクチンによる現実の障害とする立場という構図と見なすことができる。しかしこれをMUSと分類することそのものに関する立場の違いと見なすことも出来る。製薬会社はそもそも症状自体が存在しない(気のせい?)としたいであろうし、原告側の立場からはMUSというよりはれっきとしたワクチンに由来する疾患と見なすという立場であろう。双方がこれをMUSにいれることに別々の立場から反対しているといえなくもないのだ。これはMUSという概念自体も実は議論を招く、政治的な色彩を負いかねない概念であるという事を意味するかもしれない。

2024年2月3日土曜日

連載エッセイ 12の8

   実際には●●療法を行う場合にも、それらの治療的な関りの背景として、様々な情動的なものが患者と治療者の間に動いている。患者は治療者に対して「この人は信用できるのだろうか?」「このセッションは時間をかけて通い、高いお金を払って受ける価値はあるのだろうか?」等の様々な気持ちを抱く。次のセッションのアポイントメントを取りながらも、「もうそろそろやめたいと思うが、どうやって切り出したらいいだろうか?」と考えているかもしれない。あるいは「●●療法は結局効果がなかったが、最初からあまり過剰な期待をするべきではない」という一種の社会勉強の機会にはなるかもしれない。しかし逆に「●●療法は実質的に意味ある形では行われなかったけれど、担当の先生の誠実な人柄に触れて、また先生に認められたような気がして自信が付いた」という体験かも知れない。そしてそれらのすべての体験を本来は治療的に把握し、扱うべきなのである。

  治療関係が相互のディープラーニングであるという事を突き詰めて考えるならば、どのような関係も実は裸の人間同士の認知的、情緒的なふれあいであるという事だ。治療構造や治療契約、治療上のお作法は仮に身にまとっている服のようなものであり、それはお互いを守るものであってもお互いの情緒的なふれあいをいたずらに制限するものではないという事だ。


脳科学が示す非決定論的な心の世界


 最後に脳科学的に理解された心の最も基本的な性質、すなわち非決定論的な性質が臨床家に指し示すことについて述べておこう。精神療法の流派は様々であるが、基本的に決定論的な心の理論をベースにしていると考えて差し支えない。つまり私たちの言動や振る舞いにはなんらかの原因がある、あるいは因果関係があるという考えである。これは決定論的な理解、因果論的な考えといえるが、私たちが想像する以上に私たちの心を支配している。

 例えばあなたが朝起きて体全体のけだるさを感じるとしよう。「何かの病気かな?」とちょっと不安になるが、「ああ、昨日の夜飲みすぎたための、二日酔いなんだ」とわかると少し落ち着く。不明な出来事に理由が見つかると私たちは安心するのだ。それと同じように人の心に何か説明のつかない出来事を発見すると、とりあえずはいったんは「多分~のせいだろう」と考えて心を落ち着かせるのである。

 しかし心の世界での因果論的な説明を強く推し進めたのは、フロイトの無意識の概念にもとずく精神分析療法である。無意識が症状を、ジョークを、自由連想を、夢を、転移状況を構成する。という事は例えば症状には意味があるというわけである。しかし第5回目で見た脳科学的な心の在り方の原則を思い出していただきたい。それは意識はあくまでも「随伴現象」であるということだ。つまり脳が先で、意識はそれによって引き起こされるのだ。私達の主体性や自由意志の感覚でさえも。

連載第5回からの以下の引用の内容を思い出していただきたい。

 「随伴現象説 epiphenomenalism」とは、心は脳の随伴現象であるという立場をさす。つまり脳における現象の結果として心が生じると考えるのだ。 (中略) しかしこのように言うと次のような質問を受けるかもしれない。

「心が自由意志を用いて『こうしよう!』と思ったら、脳がそれについてくる、という順番は考えられないのですか?つまり脳が心に随伴するという可能性です。」 

たしかにこのような発想も成り立つかも知れない。これは上記の意味での随伴現象説と全く逆の現象の可能性を考える立場だ。そして一昔前なら私たちはその可能性を否定する根拠を持っていなかった。しかし現代の私たちは、この心→脳という方向性の因果関係は成立しないということを知ってしまっている。それがベンジャミン・リベットによって提起された「自由意志と0.5秒問題」なのである。そしてこの発見により、結局は「心は常に脳の変化の後についてくる」という事実を私たちは受け入れざるを得なくなったのだ。つまり私たちが自由意思に従って何かを行ったとしても、その少なくとも0.5秒前に脳がその準備をしているということが明らかになっているのである。


2024年2月2日金曜日

連載エッセイ 12の7

  最近の研究では幻視を呈する様々な精神疾患(精神科的、神経内科的な疾患に関わらず)で、ある共通した現象が見られるという。そもそも何かを視覚でとらえる際には、大脳皮質と視床の間で活発なやり取りが行われる。大脳皮質は目から入った視覚的な信号が直接入力される部位であり、それを情報として統合するのが視床だから当然である。ところ幻視においても、直接の視覚情報は目から入らないにもかかわらず、皮質-視床の間の交信の高まりが見られるというのだ。つまり幻視の際も実際の視覚体験も脳のレベルでは同じことが生じるのであり、だから主観的には両者を区別できないことになる。だから幻覚により誰もいない部屋で人の姿を「見た」という体験は、とても「気のせい」のレベルの体験ではない。

 私がそもそもトレーニングの土台としたのは精神分析理論だが、そこにある基本的な考え方は「患者の直接の訴えの背後に目を向ける」というものである。確かに患者の訴えは心の奥底でうごめいているものに対する様々な加工が加えられて表に現れる。患者の言葉を額面通りにそのまま受け止めるだけでは臨床家として失格であろう。しかしだからこそ時には患者の言葉をそのまま受け止めることも大切なのだ。そのことをフロイトも、こう言ったという。

「時には葉巻はただの葉巻でしかない。Sometimes, a cigar is just a cigar,” 」

つまり葉巻のように細長いものが常にペニスの象徴ではない、という意味だ。

 この連載ではいくつかの精神疾患についても脳科学の文脈で論じた。それらは解離性障害、薬物嗜癖、行動嗜癖、トラウマ関連障害等であった。それらの脳科学の知見が教えてくれることは大抵は次のことだ。患者の訴えはその人の「意思の弱さ」や「甘え」や「気のせい」や「自己アピール」だけでは説明できないことばかりなのである(たとえそれらの要素が混じっているとしても、と言っておきたい。)では決まって次のことだ。つまり患者が描写する彼らの体験は一見意味をなさず、それは本人の意志が弱いのではないか、甘えているのではないか、という気持ちを起こさせるが、脳における機能の異常がどの様な形で関与しているかを知ることで、その訴えの深刻さをより理解できるようになるということである。

精神療法とは、治療者と患者の脳の「相互ディープラーニング」である

 

 脳を知ることは患者の訴えに信憑性を与えてくれること、と言うのが第一の論点であった。第二点は、脳科学的な知見が、私達の治療者としての心構えにどのようなインパクトを与えるのかについて述べたい。

 私がこの連載の第2~4回で脳科学の話とニューラルネットワークの話を同時並行で始めたのは、私たちの脳科学的な知見がコンピューターサイエンス、特にいわゆる「生成AI」との間に類似関係があるという点を強調したかったからである。

 そもそも1950年代にはじまるニューラルネットワークモデルの原型は、神経細胞と神経線維の連結を模して造られたものだ。それは入力層と隠れ層、出力層の三層構造をなし、それぞれに10個程度の神経細胞を模した素子を配置するといった構造を持っていた。そして隠れ層や素子の数を増やしてその性能を上げていくことが行われた。それはコンピューターの性能の向上とともに加速度的に複雑になり、隠れ層も1000層にもなり、素子も数千を越えるようになった。しかしそれでもニューラルネットワークが脳に比肩するような性能を得るようになることを想像する人は少なかった。なぜならほんの十数年前のコンピューターはとても人との自然な会話など成り立たず、だからアルファ碁が2015年に人間の名人を軽く打ち負かし、ChatGTPが人と変わらぬ文章を構成するようになったことは、多くの人にとって驚きだった。

 しかしそのような進歩を遂げたことで見えてきたのは、ディープラーニングが人間の活動に模した学習方法をとったことがうまくいったという事である。(と少なくとも私は考える。)

 ディープラーニングが高度の知能を獲得したのは、間断のない自己学習をさせ、それこそアルファー碁なら自分自身で高速で毎日何万、何十万(あるいはもっと多いかもしれない)と行った結果、驚異的な進化を遂げたのである。

 ここでディープラーニングの行った自己学習がなぜ人間の活動を模しているかと言えば、人間の中枢神経そのものが巨大なニューラルネットワークであり、出生直後から、あるいは胎児のころから強化学習 reinforcement learning を一人で行っているようなものだからだ。知覚を通して伝えられる様々な刺激のインプットに対して体の動きや言語表現というアウトプットを行い、恐らくはそれが快や不快というインセンティブを媒介して自己学習を行うシステムだからだ。

 このように考えれば、人の活動は環境とのかかわり(そしておそらく精神内界とのかかわりも含め)はことごとく自己学習であることがわかる。そしてもちろん対人交流は相互ディープラーニングという事になる。

このように考えると、精神療法で○○療法、××療法等の形式に従って行う治療が、相互のディープラーニングの本の一つの側面を抽出しているに過ぎないという事が分かるだろう。


2024年2月1日木曜日

脳科学から見た子供の心の臨床 (2)

 愛着形成が損なわれた時に起きる事

 ところでこの愛着の問題を考える上で一つ触れておきたいことがある。それは私たちはともすれば「乳児は放っておいても育つ」と思いがちであるということである。ただし全くそうではないことは過去に行われた以下のような「実験」からもわかる。

 およそ800年前のローマ皇帝フリードリヒ2世は「言葉を一切教わらなかった赤ちゃんは、どんな言葉を話すようになるのか?」という疑問を持ち、実験を行ったという。部下に50人の生まれたばかりの乳児を集めさせ、部屋に隔離し、乳児の目を見たり、笑いかけたり、話しかけたりせず、それ以外の養育(ミルクを与える、風呂に入れる、排泄の処理をする)のみを認めたという。

 フリードリヒ2世は、人間は生まれた時から何かしらの「言葉」を持っていると信じていて、その言葉を確かめたかったのだが、実験の結果は、とても恐ろしいものであったという。50人の子どもたち全員が、1歳の誕生日を迎えることなく死んでしまったというのである。この実験から分かったことは、言葉の獲得うんぬんの前に、乳児には、物質的な栄養だけではなく、スキンシップという名の精神的な栄養も欠かせないということだったのだ。

(以上は、「小林司(1983) 出会いについて―精神科医のノートから. NHKブックス」から。さらに詳しくは以下の論文が参考になる。

Campbell, RN and Grieve, R (1981) Royal Investigations of the Origin of Language. Historiographia Linguistica 9(1-2):43-74

 これとの関連で、アメリカの心理学者ルネ・スピッツらはGrief: A Peril in Infancy (ルネ・スピッツの乳児観察映像集成(全9巻) 5. アタッチメント欠如の事例観察)

という記録映画の中で遺児病院 foundling hospital と保育園 nursery で育った乳児を比較している。両者とも乳児たちは十分な食事とケアを与えられたが、後者では母親が育児を行った。すると12か月後には、前者では知覚、身体機能、社会的な交流、記憶、模倣などの機能が後者より45%も劣っていたという。

Eva-MariaSimms, E-M Intimacy and the face of the other :A philosophical study of infant institutionalization and deprivation Emotion,SpaceandSocietyxxx(2013)1-7

アランショアの業績


 いよいよアラン・ショアの話に入るが、その前置きとして、現代の精神医学の大きな潮流について一言触れたい。それは現在のネット社会では様々な情報がそれこそ瞬時に行きわたり、またそれらの情報の間の結びつきやそれらの融合も加速度的に行われているという事である。そして乳幼児精神医学は脳科学やトラウマ理論、愛着理論、解離理論等が融合される傾向にあるのだ。そしてその立役者の一人がショアである。

 ショアはUCLAの精神科で活躍する心理学博士(80歳)である。精神分析、愛着理論、脳科学を統合する学術研究をこれまでに広く発表し、特に「愛着トラウマ」の概念が知られている。欧米には関連領域について縦横無尽に研究をし、論文を発表する怪物のような人がいるが、ショアもその様な人と言えるだろう。

以下がわが国で邦訳された二冊の本と原書である。

Schore,A. (2019) Right Brain Psychotherapoy Norton Professional Books. 2019.(小林隆児訳(2022)右脳精神療法. 岩崎学術出版社.)

Schore,A. (2019) The Development of the Unconscious Mind. Norton Professional Books.2019.(筒井亮太、細澤仁訳(2023) 無意識の発達.日本評論社.

 これらで展開されるショアの右脳理論についてそのエッセンスを示すと以下のようになるだろう。

  • 乳児期は右脳の機能(愛着、間主観性、社会性)が優位で、愛着を通して母親と子供の右脳の同調が生じる。

  • 母親は眼差しや声のトーンや身体接触を通して乳幼児と様々な情報を交換している。

  • 母親との愛着は乳児の情動や自律神経の調節に寄与する。


 ここでショアが右脳を強調していることが、彼の理論のユニークな点なのである。彼は近年脳の側性 laterality の研究が進み、右脳の発達が左脳に先行するという事実が明らかになったとする。そして右脳の急成長は妊娠の第7~9ヶ月で開始され、左脳の急成長の開始の時期(生後二年目の中期~後期)に終わりを迎える。以下はそれをさらに詳細に示したものである。

生後2∼3ヶ月  右扁桃体基底外側部(間主観的機能)が発達の臨界期を迎える。

生後3∼9ヶ月  右前帯状皮質(社会的合図への反応性に関与する)が稼働する。

生後10∼12ヶ月 右眼窩前頭皮質(愛着実行制御システム)が成長する。


 これらの点を考えあわせると、いわゆる愛着の時期において乳児の脳において生じていることを、もう少し具体的に理解することが出来る。それはあくまでも右脳を中心とした出来事であり、そのことを知っておくことは子供のケアの際にある種のアドバンテージを与えることになる。少なくとも母親は乳児と関わっていて、それが乳児の脳のレベルにどのような影響を与えているかを知ることが出来るのだ。