これについての私の考え方は、一緒に何かを喜び(悲しみ)、その時に自分が孤独ではなく、他者とつながっていると体験されることだと考える。その時相手に気持ちを「わかってもらえた」と感じること、そしてその時相手の気持ちを「わかった」と感じること、それがその瞬間に起きているはずだ。 ここに掲げてあるのは、2026年10月20日にH3ロケット10号機の打ち上げが成功し、火星衛星探索機MMXが地球上の軌道に乗った時のスタッフたちの反応の写真である。ここに移っている人たちは顔を見合わせて笑顔を浮かべ、喜びに浸っている。おそらくここにいる誰もが障害この瞬間のことを忘れないであろうし、そこに一緒に移っていた仲間と出会えば、この時の体験に花が咲くはずである。将来別々の人生を歩んでも、その時の仲間を見ると不思議な連帯感を生むであろうし、心が通じ合っている相手として認識するであろう。 この例を取り上げたのは、彼らに生じた「心の出会い」はかなり確かなものとして定着するであろうし、それはなぜならば彼らが「H3ロケット10号機の打ち上げ成功」という、そこにいた誰もが共有していたそして歴史上の出来事として記録されている瞬間を体験したからである。その意味では彼らは「あの時、何が嬉しかったの?」等と確かめる必要はない。 またこのことは複数の人間がある悲しい出来事、例えば震災や火災の犠牲者としてそこにいる場合にも言えることである。そこにいる人たちは同じような気持ちを持ち、そのために抱き合ったり慰め合ったりしてその感情を共有するであろうし、そのプロセスを通じてお互いの気持ちをわかり合い、心を通じさせたという気持ちを持つであろう。 これは例えば二人の人間が感情的に衝突したり、気まずくなったりしたという体験とは対照的である。後者の場合恐らくは両者は一つの出来事について、互いに全く違う感じ方をしており、そしておそらくはそれを言語的に共有することで少なくとも両者の相違について共有するようなチャンスを持つ機会は非常に少ないからである。