治療者と患者が「対等」でない場合、患者は公然と治療者に甘え、頼り、自分の問題を解決してもらうことを声高に要求するかもしれない。その場合自分の問題の複雑さや深刻さを敢えて自覚することなく、受け身的に助けを与えてもらおうとする。そしてしばしば相手がある種の超人的な力を持つと考える一方では、自分からその問題を解決するという発想はその分だけ乏しくなる。あるいはその問題は他者によりもたらされたので、自分はその解決に関与していないと考えている。 例を挙げるならば、ある時自分の家が火事で燃えてしまったとしよう。しかし幸いに火災保険に入っていた。するとたとえそれが自分の火の不始末のせいで起きたとしても、深刻に反省したり落ち込むことはなく、むしろ一刻も早く保険料が支払われ、家が建て替えられることを望むであろう。つまりその問題は他人事になってしまい、少しでも保険会社の対応が遅れるとしたら文句を言いたくなるかもしれない。何か嫌な正確な人間の様に捉えられるであろうが、これがしばしば起きるのが人間社会だ。 何か本題から脱線している気もするが、大事な問題のような気もするので続ける。人間同士の交流では貸し、借りは常に生じ、そこに優越感や負い目等の感情的な問題が微妙に入り、時には深刻な対立を生む原因になる。そこで商取引きが生まれ、契約や金銭の授受が生まれ、感情の対立が生じることを防ぐのだ。そしてサービスをする側とカスタマーとは対等なはずだ。深刻な感情的な対立が生まれる素地はないことになる。 ところが一方が過剰な要求をしたり、感情的になったり、マウントを取ったりするということが頻繁に起こる。いわゆる「カスハラ」などもその例であろう。そしてなぜカスハラが成立するかと言えば、どちらか(この場合はカスタマー側)がこの対等の関係を理解しないからであろう。 カスタマーが腹を立てる場合、それは当人が契約上当然得られるべきものが得られていないと感じるからであろうが、だからと言って相手に対して怒りをあらわにし、自分が望むものを声高に要求するべきではない。自分が得るべきだと考えているものと、相手が与えるべきだと思っている事との間に齟齬が生じているという単純な事実に立ち戻り、両者の間で冷静に話し合い、契約を結び直したり、解約を検討すべき問題なのだ。それが大人の世界での契約であり、一方が激することはある意味では契約違反であるとさえいえるだろう。 以上のことがどうして本題と結びつくかと言えば、それは治療関係にも言えることであるからだ。「白状」にはこの契約を結んだ段階にまで立ち返るニュアンスがある。