信頼できる人とは、決して間違わない人ではない。自分が間違っている可能性を受け入れ、必要ならば自分の考えを修正できる人である。 そのような対話では、勝つことよりも、二人でより妥当な理解に近づくことが優先される。私はとりあえず、このような対話を**「ソクラテス的対話」**と呼びたい。 では、AIはどうだろうか。AIはもちろん誤る。矛盾したことを言うこともあれば、誤った回答をもっともらしく説明することもある。しかし現在のAIには、少なくとも人間と同じ意味で、自分のプライドを守ったり、敗北の恥を避けたり、自尊心を維持したりする必要はない。つまりAIには、自己愛を守るために自己欺瞞を必要とする内的動機がないのである。 この意味でAIは機能的には「無私(selfless)」でありうる。そしてこれは、人間との対話にはない一つの可能性を開く。AIは少なくとも原理的には、「自分が正しいこと」を守るためではなく、対話の中でより整合的な答えを探す相手になりうるからである。 しかし、だからといってAIが自動的に信頼できるわけではない。AIは真空の中に存在するものではない。学習データの選択、開発者による調整、人間からのフィードバック、安全基準、拒否基準、さらにはサービスを提供する組織の目的など、さまざまな人間的・制度的要因の影響を受けている。極端な場合には、使用者を特定の方向へ誘導するよう意図的に設計されたAIさえ想定できる。 したがって、バイアスをまったく持たない「純粋なAI」を想定することは難しい。しかし同じことは人間についても言える。文化的、社会的、個人的なバイアスをまったく持たない人間の対話者もまた存在しないからである。 ここまで考えると、「AIは信頼できるか」という問いを、もう一度反転させることができる。 AIとの対話を通して、私たちは自分自身が信頼に足る対話者であるかを検討することができないだろうか。 AIに、自分の言葉の曖昧さや矛盾を指摘させる。自分が前提としていることを明らかにさせる。なぜその結論に至ったのかを問い返させる。そして必要ならば、自分の考えを修正する。 これは精神分析と無縁ではない。精神分析における**明確化(clarification)や直面化(confrontation)**もまた、患者が自分の語りの中にある曖昧さや矛盾、まだ十分に認識されていない前提に気づくことを助ける技法だからである。 私が最終的に提唱したいのは、AIとの間に一種の**「分析的―ソクラテス的対話(psychoanalytic-Socratic dialogue)」**を成立させる可能性である。 そこで問われるのは、AIが常に正しいかどうかではない。むしろ、AIとの対話を通して、私たち自身がどこまで知的に誠実でいられるか、自分の誤りを認め、自分の考えを修正できるかということである。 そう考えるなら、「AIは信頼できるか」という問いは、最後にはもう一つの問いとして私たち自身に返ってくる。Are we trustworthy dialogue partners ourselves?