2026年4月11日土曜日

バウンダリー論 推敲の推考 13

 実に不思議なことだが、あれほど迷走したバウンダリー論だが、ようやく収束してきたのである。締め切りまで3週間を切っているので本来はこの頃にはもう眼鼻はついているはずだが、これも結局そうなった。しかしかなり不本意で、まとまりのないエッセイという自覚はある。むしろ書かない方が紙の無駄とならずに済んだかもしれない‥‥。


バウンダリーの本質 ― 臨床の立場から


1.はじめに-バウンダリーの起源を問う


 最初は「バウンダリーの歴史」というテーマでの執筆をお引き受けしたが、改めて考えるとバウンダリーとはとてつもなく広い概念であり、その歴史にまでさかのぼって論じることは自分には全く力不足だと判断した。そこで精神科医であり精神分析を専門とする立場からこのテーマに関する臨床的な考察を書かせていただくことにした。
 最初にバウンダリーの問題一般についてであるが、その起源は私たちの身体性に根差しているのは間違いないであろう。身体を有する私たちは、比較的自由に動ける「身のおき所」を常に必要とする。もしすぐ隣に同じような他者がいるなら、たちまち両者の境目、バウンダリーの問題が生じる。それは身体を持ち動き回る生命体であれば、進化のどのレベルにおいても関わってくるテーマだ。

 たとえばコブダイは自分のテリトリーである岩礁の周りを常に泳ぎ回り、そこに侵入してくる魚を厳しくチェックする。コブダイにとっては自分の岩礁はパーソナルスペースの一部だろう。サバンナで自分の尿を草木にかけてテリトリーを守る哺乳類も同様だ。そしてもちろん私たち人間も同じ問題を抱えて生きている。新幹線や飛行機(グリーン車やビジネスクラスは除く)で隣の乗客とを隔てる細い肘掛けの奪い合いは、多くの方が体験しているであろう。

 バウンダリーはまた社会生活を営む上での利便性も提供してくれる。一日の時間を区分したり一年をいくつかに分けるバウンダリーは、共同生活を営む上では必然となろう。ただし絶海の孤島で一人で自給自足の生活を営み、好きな時に寝て空腹を感じた時に食物を採集する生活には、これらのバウンダリーはほとんど意味をなさないはずである。
 こうしてバウンダリーは生物として、そして社会の中に生きる私たちの生活のあらゆる場面に浸透している。それは国境や土地の境界線としていたるところに存在するし、法律や条例、あるいは校則や社則や服務規定として、さらには道徳律や宗教における教義として存在する。それはあまりにも遍在し当たり前すぎて、改めてそのようなバウンダリーの存在意義について考えなくなっているほどなのだ。


以下略